サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
画力アップ
d.hatena.ne.jp/mellowmymind
まだうまくいえないんだけど、語り部としてのナルシシズム、とか、ナルシシズムと責任、とか、ナルシシズムが引き受けるもの、とか、なんかそんな感じのことをぼんやり考えています。ナルシシズムって通常忌み嫌われていて、実際、そのたいていは逃避やら怠惰やら欺瞞やらとセットになっていて、たとえば、ただ希望を口にする勇気がないだけの者が、そのひそやかな希望をいやらしく絶望に偽装するときなんかに窺い知れるそれなどは、たしかに見るにたえないものだったりしますが、でも、ここぞというときに必要なナルシシズムというのもあるんじゃねーの? という、気が、する。ナルシシズム的なものをひたすら慎重に回避してみせようとしたものが魅力的であるかといえば、そんなこともなくて、ただ臆病なものにしか見えなかったりするからナー。やっぱり、他人との関係や自意識の中には「酔わせたーい」「酔わされたーい」という欲望は確実にあると思うんす。
うーんうーんと考えて続けていることは、まあだいたい2年もたてばそれなりの答えが見つかるようだ。自分の時計を止めていなければ。他人に一番迷惑をかけない方法は、他人とかかわらないことじゃなくて、正しく他人を必要とすることでした。自意識過剰ってのは他人の目線を勝手にリハーサルしているわけで、けっきょくは自分の思ったとおりに他人をコントロールしようとしている傲慢な態度のことをいうんだな。だから「今」を見ることができなくて、相手のランゲージを読み取れないし、時間の流れを無視しているから、一度の失敗ですべてがダメになったと思い込むし、他人に対する評価も断定的で、持ち上げるかけなすかすんごい極端なのな。自分も、人も、タイミング次第でいいときもあれば悪いときもある、ただそれだけの話で、そういう時間とかタイミングに対する想像力をちょこっと働かせるだけでずいぶん違うんだけどナー。こないだDOROMIちゃんと話
ハーイみんな、はてなスターでブログがいっそう楽しくなりましたかー? わたしはしばらく使ってみたけど、あんまりなりませんでした。ので、デザイン変えたついでにはてなスターを非表示にしました。いまさらではありますが。といっても今までこの日記の☆をポチッとしてくれたかたには、ありがとうといいたい。ほんとうにありがとう。うれしかったです。ラブ。はてなスターについて思ったことを書こうとして、スタニフラフスキーまで持ち出してインターネットにおけるコミュニケーションの問題点とかいう話にまでなりかけてたけど、途中で読み返したら表まで挿入してえらい分量になっていて、ただでさえ最近自分の文章が長くてくどい気がするのでやめました。わはは。簡単に言うと、はてなスターはそのイージーさとノイズの多さゆえに、"はてなスターでなら伝えた気になれる"ことはあっても、"はてなスターでなら確実に伝えられる""はてなスターでしか伝
だいぶ前に読んだのですが、読みながら書いたメモが出てきたので転記(俺メモなので正確さを求める人は原典にあたってください)。読んでてかなり面白かった記憶。「下流社会 新たな階層集団の出現」(読んでねーけど)批判にもなっているようです。貧困が犯罪をひきおこすのではない。競争、という美名のもと、実は選ばれた者だけによる競争で格差が生じた社会に犯罪がおきるのである。(P.84)勝ち組の「透明なあげ底」、負け組の「見えない天井」コミュニケーション不全から引き起こされる格差拡大の可能性と、その中で幸せに生きる方法について。こんな時「みんながマザー・テレサのようになれる訳じゃない、あの人は特殊な人である」と思うのを、ヨナ・コンプレックスという。(P.142)感情に関して、抑圧か、さらけ出すかという二者択一的反応は危険である。感情こそ、上手に伝える、表現する、という姿勢が大切なのである。(P.161)エイ
いまは亡きオリーブで、佐藤雅彦さんの「プチ哲学」という連載がありました。見開きの2ページに、ちょっとだけ考えさせられるテーマと、そのテーマにあわせたかわいらしいイラストやマンガと解説の文章が載っていて、毎回とてもわかりやすくものの見方を教えてくれていました。のちに単行本化して、文庫化もしたので、けっこう有名だと思います。その中にいまでもたびたび思い出すマンガがあります。杖を持った神様と、神様にお願いをしているカエルがいる。カエル「あこがれのケロ子ちゃんと一生を添い遂げたいのです。」神様 「よし、叶えてやろう。」 トン(杖をつく)カエル モクモク(煙に包まれる)年老いて腰の曲がったカエルとケロ子ちゃんの姿。カエル「そうじゃなくって…」杖を持った神様と、神様にお願いをしている子ざるがいる。子ざる「一度でいいからバナナをおなかいっぱい食べてみたいのです。」神様 「よし叶えてやる。」
久々にクロスステッチしましたよ。クリスマスマリオ!刺繍したのはもちろん……パンツ。ダイソーの100円均一ボクサータイプのすっぽりショーツです。おしりもおなかも冷えなくて安心! 聖なる夜の勝負下着はこれでキマリ! パンツの下に隠れているのはキノコ? クリボー? ノコノコ? それともパックンフラワー? (下品)ってこれ2年前のクリスマスに作りかけてたやつなんですけど。てへへ。( http://d.hatena.ne.jp/mellowmymind/20051225/p1 )完成まで2年かかったわけではなく、2年前作りかけてたけどクリスマスに間に合わなくてほったらかしにしていて、去年も作るヒマなくて、ようやく2007年の今年に日の目をみた次第。本当はサンタマリオだけを中央に刺繍するつもりだったのですが、なぜか目を数え間違えて右寄りに刺繍してしまい、左側にスペースが空いてしまったので、スターをつけ
■[mind]もっとタフになりたいあなたとわたしのために 自分は心がよわいと思い込んでいる人から見て、心がつよそうな気がする人というのがいると思いますが、そういう人かてけっして傷ついてないわけじゃないんよね。ただ、傷ついてもちゃんとリカバリーできる。で、そのことを自分でもわかってる。だから傷つくことを無駄におそれたりせずに、しなやかでいられる。それだけの話でさ。 そもそも心につよいもよわいもなくね? 正直か欺瞞か。それしかなくね? Permalink | コメント(0) | トラックバック(0) | 10:57
'85年の対談。欲望とは、恐怖からの逃避なのか、あるいは意識の彼方から突然訪れる〈非知〉なのか―。気鋭の文芸評論家にして西洋哲学に通暁する竹田青嗣が、精神分析 学において独自の体系を完成させた、岸田秀に挑む。異質なる知性との邂逅によって浮かび上がる、岸田流「唯幻論」の全く新しい相貌。岸田秀は唯幻論については一貫して同じことを言い続けているようだし、ここでも大半が竹田青嗣の提示した疑問に対して岸田秀が答えるような形になっていて、二者間は非対称的で、対談することによって論がいっそう深まるとか新しい何かが見出されるという感じではないのですが、岸田秀の説明が語り口調のために比較的キャッチーでわかりやすいので、そういう意味では読みやすかったです。以下ちょっと個人的にメモ的な抜粋。(あくまでも自分用のメモで、本来は前後の文脈があるものなので、何か思うところがある場合は原典や他の著作にあたることを推奨し
たとえば「自分には覚悟がある」とかいって潔さを気取ったり、「覚悟が足りない」と人を断じたり、やたらと「覚悟」って言葉を使って何か言おうとしたがるタイプの人ほど、追いつめられると平気で前言撤回したり逃げたりするよの法則。本当に覚悟するっていうのがどういうことかわかっていたら、軽々しく言葉で説明したって意味ない、態度で示すしかないって気づくはずだものね。そのぐらいの鈍感さの持ち主に期待することなんか何もない。言葉を透かして見られない人は、他人を言葉でごまかせると思っているし、自分自身も他人の言葉にやすやすとだまされるんだよね! 気持ちいい言葉に酔っぱらうだけで、あとには何も残らない。そしてそういう人ばかりが周りに寄ってくる。くわばらくわばら。コミュニケーションとしての言葉で必要なことは、額面通りの意味じゃなくて、その言葉が放たれた動機を受け取ることよ。それは言葉の意味を深読みするんじゃなくて、
誰かにとって代替不可能の存在になりたい、というのはわりとポピュラーな欲求だと思うのですが、その動機とやら、往々にしてその誰かを縛りつけておきたいだけだったりするので気をつけなきゃいかんなあと思うことしきり。代わりなんかいないと無理矢理思い込ませるやり方とかしちゃダメ。ゼッタイ。いくら代わりが見つけられたとしても、やはりこの人がいい、という結果としての代替不可能こそが本当であってさ。いかなるときも脅迫と愛の見分けぐらいはつけられるようにしておきたいものです。そのへん本当に間違えやすい。そしてかつて実際に間違えていたこともあった。ゲボー。「そうさのう、わしはなアン、1ダースの男の子よりおまえにいてもらうほうがいいよ。いいかい、1ダースの男の子よりもだよ」(赤毛のアン)(号泣)
昨日のKBG夜部(ボンクラどもがバーで酒飲みながらゲームする部活動)でJ・草場さんに教えてもらった、ロシアに伝わるトランプゲームでーす。簡単なルールだけどやってみると妙な面白さがあるので、もし手元にトランプがあったらそこらの人つかまえてやってみるといいネ。トランプ52枚(ジョーカーなどは使いません)から1枚だけ抜き取って誰も見ないようにしてかくしておきます。残りの51枚をよくシャッフルして、全員に配りきって、それぞれの手札にします。人数でちょうど割り切れない場合は枚数に差が出ますが気にしなくていいです。もしこの時点でだれかの手札に同じ数字のカードが4枚そろっていたら(めったにないけど)、そのカードはいきなり公開しちゃって4枚とも捨て札にします。その人は手札が減ってラッキー!ってことで。まあ、最初なんで、配り直しにしてもいいけどネ。最初の番の人は手札の中から好きなカードを1〜3枚選んで、その
何か気に入らないことをする他人を見かけたときに、そこですぐに「○○は××だから〜〜するべき」みたいな"べき論"を生成したがるのは、実はあんまり幸福なことではないような気がしてならないのであった。単に自分が直接「それは気に入らないからやめてくれ」いえばいいところを、他者と向き合うのを避けるために理論武装してるだけなんじゃないの、という。それで事態が改善するならよいのですが。直接当事者として対話をすればすむところを、当の本人を置き去りにして、周りでああだこうだいうのって、自分を安心させるため以外の効能が何かあるんじゃろか。自分の感情を正当化するためにそんな大掛かりなことせんでも、と思う。わたしは"べき論"生成後の弊害の方が大きいなーと実感することが多いです。"〜するべき"という基準ができてしまうと、他人を裁く視線ができてしまうよね。"〜してない人"を見るといちいちストレスが発生する。そして、"
うつくしいものは「祈り」のかたちをしているなあとふと思い。ためしに自分がいままでわーっとなったものをふりかえってみたらどれもこれも「祈り」のかたちをしているように見えたので、ますますわーっとなった。いっとくけど「祈り」と「神頼み」は全然別モノよ。「祈り」には信頼と未来と畏敬があるよ。あの感じ! 地味にエキサイティングな発見をした。「そいつは祈りのかたちをしているか?」しばらくはそういう問いの中にいようと思いマース。キラキラ。
■[雑記]通勤電車の中から 「いらだち」を描くのは比較的簡単だけど、「怒り」をきちんと描くのは難しい気がします。「いらだち」は内側に向かう感情で、自己完結してしまえるけど、「怒り」は外側に向かう感情で、他者への働きかけを前提にしているからじゃないかと思います。他者がきちんと描けてないと「怒り」は成立しないと思うのです。 他者と向き合う気もないくせに、単なる「いらだち」を、さも「怒り」のように表しているものを見ると体の中がねじれるような気持ちになります。 って朝っぱらから書くことでもねえですか。 Permalink | コメント(0) | トラックバック(0) | 09:54
くだらないことに憧れたり、どうでもいいことをうらやましがったり、必要以上に劣等感に苛まされたり、無駄に謙遜してみたり、誰かが何かを言ってくれるのを待ったり、そういうのとはさっさとおさらばしたい。つまり、弱いフリをするのはもうやめにしたい、ということです。
「このさびしさをどしたらいいの」ということを延々考えて、人生単位で見てもそれはそれは長い時間を浪費しました。その中でまず気付いたことは「人はさびしいとおかしくなる」ということでした。ひっくり返すと、人がおかしなことやってるときは、だいたいさびしいんだよな。さびしさを動機にして人や自分を裁いても、よけいさびしくなるばかり。なにかを裁くということはなにかを切り捨てることだ。一度切り捨てられたものは時間が止まってしまう。もうそこからは何もうまれないのでした。さびしいのに、いろんなものをどんどん切り捨てて、自分さえも許せなくなって、狭く、小さく、よけいさびしさを募らせるばかり。おかしなことだ。さびしさとは無縁に見える、幸福そうなあの人と、わたしは何が違うんだろう。考えればなにもかも違うように見えたし、でも本当のところはどこがどう違うのかよくわからない。ただ、自分がさびしさにふりまわされていることだ
2dawnちゃんのmixi日記で紹介されててレバーにきたコピー。あわててコンビニにチェキりに行きました。生まれつきエビちゃんじゃなくたって私たちは努力と一緒に生きていくんだ小悪魔 ageha (アゲハ) 2007年 10月号 [雑誌]出版社/メーカー: インフォレスト発売日: 2007/09/01メディア: 雑誌なんかこれすごくないすか……! この一見能天気なコピーがどれだけの光と闇を内包しているのか計りしれんよ。自分は自分以外の誰かにはなれないという現実に傷つきながらも、前向きに踏み出そうとする決意表明。その泥臭さと鮮やかさ! わたしにはこのコピーがとてつもなく滑稽で切実で健気でタフで感動的に見える。震えた! わたしも生まれつきエビちゃんじゃないけどがんばって生きる!あんまりすげーコピーだと思ったので他に言及してる人はいないかなと思いましたら、【みんなの25時 - 努力と一緒に。】htt
朝の山手線はゲロが出そうなくらい混んでるよ。くらくらしますナー。最近思うのは「自分と合わない人」って意外とおらんなーということです。合わないと思ってた人は単に「合わせるのに時間がかかる人」なだけで。お互いが心を閉ざしておると合うものもなかなか合いませんが、でもそれも属性じゃなくて状態とかタイミングの問題だから、気長に構えていればなんとかなることが多いです。ばっさり切り捨てれば自分を変えなくてすむけど、もうそこから先はなくなってしまうので、そうやって閉ざされてしまうのがもったいないし、こわいし、いやだ。実際、いくら他人を裁いてみてもだね、あとで自分の狭量さにガックシくることの方がはるかに多いのなー。だからそのへんはゆるゆると余裕をもっていきたいなと。ようやく思えるようになってきました。もっと早く気付いてたらなーと多少もったいない気持ちもありつつ。とかいってたら昼休み。オープンカフェでパンを食
■[雑記]おはようございます 関係性がうまく見えなくなったときは親子関係に置き換えるとけっこうクリアになりますね。子育てでタブーなことは他人にもタブーです。でもここでポイントなのは大人どうしの付き合いはどちらかを親と固定せず、必ず親子を反転させた場合と両方あてはめて考えてみること。だと思います。 Permalink | コメント(0) | トラックバック(0) | 11:04
「人はさびしいとおかしくなるネ」「人は自己欺瞞をかかえているとおかしくなるネ」「てゆか人がおかしくなる状況ってほとんどこの2つの複合技だよネ」なんてことを30年以上ぼんやり生きてきてなんとなく理解するに至りまして、さてそれでは自分のおかしいところをどうやってほどいていったらいいんだべ、とか思ったりしてるわけですが、たまたま手に取ったこの本の一番最後に載っていた文章を読んでたいへんな衝撃をうけました。日本語ということば (Little Selectionsあなたのための小さな物語)作者: 赤木かん子出版社/メーカー: ポプラ社発売日: 2002/05メディア: 単行本このシリーズは、赤木かん子さんがテーマに合わせて、古今東西の名文家によって描かれたいろいろな短編を選んでまとめたものです*1。わたしが最も衝撃を受けたのは、「『あまえる』ということについて」という、筆者が幼い頃の思い出を重ねて宮
Richard D. James Album出版社/メーカー: Elektra発売日: 1997/01/27メディア: CD「デ・ジ・キャラットにょ」キャラクターシングルコレクション(1)”デ・ジ・キャラット”アーティスト: デ・ジ・キャラット(真田アサミ), くまのきよみ, 増田俊郎出版社/メーカー: ブロッコリー発売日: 2003/05/23メディア: CD
あまりにひどいゲームなのでたたんでおきます。おっぱい好きの貴兄はこっそりご覧になるがよろしかろう。【おっぱい神経衰弱】先日のゲームマーケット2007で田村くん(偽名)がゲットしてきた超絶くだらないブツ。いろんなおっぱい写真が右と左で別れて2枚1組になっているので、うまくペアになるおっぱいを見つけましょう! という……アホだアホだ。ゲームマーケット打ち上げ後のすごろくやにて、とりあえずペア探しにいそしんでみました。(手前がパッケージ、手を伸ばしているのがハギっ子、奥にいるのが店長)同じ絵柄を探すのではなく対になる左右を探すので、これが意外と難しかったりします。色や形、画像のテクスチャーなんかを参考にして組み合わせていくのですが、なんか妙に外側を向いてたりとか、想定外の位置にニップルがある写真が多いんだよね……。カードの形も正方形なので、対になるのはわかっても、どういう向きで組み合わせたらいい
先日ふとパール兄弟の「メカニックにいちゃん」という曲がものすごく聴きたくなって、手元に音源がなかったのですが、とある親切な方のおかげで聴くことができて(インターネットって便利ネー)、ちょう懐かしくて震えました。とくに「♪メーカニック」ってとこがすごく聴きたかったのでとても満足いたしました。そしたらmixiミュージックにパール兄弟つながりで I am Robot and Proud がオヌヌメよ!と出ていたので、試しに聴いてみました。http://www.myspace.com/iamrobotandproudキャ! かなりジャストにストライク! こうゆうかわいいエレクトロニカ大好物! ピコり具合がちょうどいいワー。ドラムが激しすぎなくていいワー。メロディが胸キュンだワー。俄然気になりだした!ビデオクリップもかーわいい! ライブだとこんな感じ。うっとり系……。The Electricity
■[旗][mind]世界を再解釈するガイドライン 自分がちょうど1年前に書いた文章がありまして、一部引用。 そして「優しさ」に話を戻す。「優しいものに人は吸い寄せられる」、これはまあ、考えてみりゃ当たり前のことのように思えます。みんな厳しいものより優しいものが好きにきまっていよう。しかしだね、タナカカツキは、赤塚不二夫やハードロックの人という、およそ一般的な「優しい」イメージとは結びつかないようなものから「優しさ」を見いだした。つまり、これは、こういうことなのですね。 「人が吸い寄せられるものは、優しい」 順序を入れかえて言いなおしただけのように見えますが、これはなかなかすごいことだ。一見、はたからみて「優しさ」とはあんまり関係なさそうなものでも、人が吸い寄せられ、ひきつけられているならば、そこには必ず「優しさ」があるのだと考えてみよ。主体の行為や意志そのものにかかわらず、もうそこにすでに
■[本][メモ]おとな随想 しょの2 どうでもいい話ですが、わたし今年で34歳になるんだなあと気づいて、ゲボーとなりました。うーん、33まではギリギリ、30代もまだ初心者だもんね、って顔してられたけど、さすがに34となると、どこからどう見ても30代ど真ん中。いいわけできないお年頃。しかしなー、こんなに浮わついた、どーにもならない30代になるとは思わなかったなー。わはは。 自分が10代20代の頃って、30代も半ばとなればもはや立派な中年、というイメージだったのですが、今って、自分自身の実感のなさを別にしても、世間的にも、30代ってまだ若者顔している人が多い気がします。まだまだこれからっすヨー、みたいな。 マンガとかドラマとか小説とかで20年ぐらい前の作品を見ると、そこに出てくる30代の人ってびっくりするほど大人な感じに描かれてるんだよね! それが、ここ15年ぐらいかなあ……急速にそのへんの世
いっこ前の『NANA』についてのエントリは実は西村しのぶのマンガと、ぼくたちのバイブル『ブラスト公論―誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない』も絡めて書こうと思ってたわけですが、途中で気が変わってやめました。つうか無理! や、なんつーかね、『NANA』の登場人物たちが西村しのぶ的世界観で生きてたら、もっと楽にルーズにほがらかに生きられるんじゃネーノ?なんて思ったらちょっと面白くなっちゃった、ていう。西村しのぶ的世界観はキャラがよく笑ってることが重要で、それについてはだいぶ前にちょこっと書いた( http://d.hatena.ne.jp/mellowmymind/20050728/p4 )。で、『ブラスト公論』のまとめを思い出したわけです。宇多丸 あとは公論で言ったことを最後に3つぐらいにまとめておけばいいんじゃないですかね……読み切れない人のために。古川 まずは……「本当の自分なんかない
相変わらず『NANA』をねっとり読んでたりするわけですが、あのマンガに出てくる子たちはほんとに関係性の奴隷よのう、と思います。トラウマ負ってる登場人物も多いわけですが、でもあのマンガの主人公にして一番やらかしちゃっているハチ(奈々)は普通の家庭で普通に育てられた子なんだよね。というところに、現代のしんどさが出てるなあと思ってタメ息出ちゃう。最近文字画が流行ってるって知ったときも思ったんだけど……あれに書かれている恋や友情の誓いみたいなのってすごい違和感がある。なんていうか、いろんな分類が雑で、すごい思い詰めやすくなってる感じがします、最近の傾向って。関係性を、ただ信じることだけで乗り切ろうとしてる気がする。強く思えば報われる、みたいな。でもそれって視野狭窄になってよけい傷が深くなるだけなのになー。ていうか、その信じる、っていうのも、「自分で心に決めて信じたのだから、何があっても後悔はしない
エヌエーエヌエーとてもおもしろかったので、まだ持ってなかった単行本最新刊とファンブックを本屋で買い、A.YAZAWAの特集をしているクイック・ジャパンを注文してしまいました。おで、またA.YAZAWAファンに返り咲くことにしたヨ。実家に『ご近所物語』全巻とA.YAZAWAのイラスト集2冊あったのになー。実家消失とともにどっかいっちゃったんだよなー。じつに惜しまれる。MOTTAINAI!! A.YAZAWAせんせいはインタビューが面白いですよ。全部わかってて描いてるのがわかるから。A.YAZAWAせんせいのマンガはとても公共性高い。それは今も変わってなかったのだね。たまたま最近『ワンピース』もまとめ読みしたんだけど、『NANA』とくらべると、男子がどんどん観念的になってクソボンヤリしてる間に、女子はどんどん身体的かつ現実的になってるのネーなんてしみじみしちゃうわ。昔はそれ、逆だった気がするん
ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)作者: 竹内敏晴出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 1988/01メディア: 文庫 柳田国男が『涕泣史談』で書いている。よく、泣いてばかりいてはわからないから、ちゃんと話しなさい、と言うのを聞くが、ことばにならぬから泣いているのだ、近頃の人はすべてのことがらをことばにできると思いこみすぎているのではないか、と。「ことばは行動である」というスタニスラフスキーの考えを、私は、発展させた形で受けとめなおし始めたと思う。 一方で私は「ことば(分節言語)」化された音が、自分のからだにとってどんな根源的な意味、あるいはイメージを持っているのか気にし始めた。そのころの手探りをまとめてみると──ことばが意味伝達のための道具であるとする考え方は、言語表現より思考が先行しており、それが本質であるという判断が前提となっている。だが人間は考えたことをことばに移すのでは
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『Mellow My Mind』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く