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都知事選
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2019年1月12日(土) 私にとっての「広河隆一」 広河隆一氏と初めて会ったのは、1981年3月だったように記憶している。もう40年ほども前だ。当時、広島大学に提出した卒業論文「パレスチナ人の基本的人権に関する一考察」を読んでもらうために上京し、喫茶店で広河氏にあった。 広河氏のウィキペディアには、「土井が広島大学においてパレスチナ問題に関する卒業論文を執筆した際に、当時の広大にはパレスチナを研究している教員がいなかったため広河は事実上の指導教官として土井の卒論を指導し」と書かれているが、それは事実ではない。 大学時代、私は1年半休学して世界を放浪した。その旅の途上で、半年近くイスラエルのキブツ(集団農場)に滞在した。その期間中にキブツのボランティア仲間に誘われてガザ地区を訪ね、初めて「パレスチナ難民」に出会う。それが私にとって“パレスチナ”との出会いであり、あの時の衝撃が、その後の道を
2018年9月29日 住民を国境デモに押し出す要因 〈写真・ガザ国境デモ(2018年8月3日)〉 サイード・シャラシュ(33)はガザ地区の国境での「帰還のための大行進」が始まった今年3月30日(土地の日)以来、毎週金曜日、国境のデモに通っている。「帰還のための大行進」とは、パレスチナ人がイスラエルから故郷を奪われた1948年の「ナクバ(大惨事)」から70年を迎えた今年、ハマス政権らの呼びかけで始まった「故郷への帰還を求める平和的なデモ」である。 しかしサイードがデモへ通う真の理由は、“貧困”だった。2人の幼い娘を抱えながら、失業のために収入もなく、以前の借家を追われた。今は以前の半分ほどの家賃200シェケル(6200円)の1部屋の借家住まいだが、その家賃も払えず、いつ追い出されるかわからない。3ヵ月に一度、自治政府から支給される750シェケル(約2万3000円)の生活保護費から家賃を差し引
ツイート 2018年1月10日(水) (写真:「朝日新聞」「東京新聞」1月10日朝刊の一面) 「2年前に両政府で『もうこの問題は蒸し返さない』と合意したじゃないか。それを今さら、『あの合意では、慰安婦問題を解決できない』なんて何ごとだ!だから韓国という国は信用できないんだ!」 最近の「慰安婦」問題に関するメディア報道に、多くの日本人はそう思ったに違いない。一般国民だけではない。政府は「合意を変更しようとするなら日韓関係は管理不能になる」(河野太郎外相)と反発し、メディアもそれに同調する論調のように見える。『朝日新聞』社説(1月10日版)も「理解に苦しむ表明である」「これでは合意が意味を失ってしまう恐れが強い」と書いている。 しかし、今この問題で議論すべきことは、「韓国政府は国家間の合意を反故にしようとしている」ことを糾弾することではなく、なぜあの合意を「問題の解決にならない」と韓国の政府も
ツイート 2015年12月29日(火) 「慰安婦問題 日韓合意」「国交50年 歴史的決断」。12月29日の朝刊に、そんな大文字が踊った。1990年代初頭から20数年、日韓関係の最大の懸案の1つとなっていた「慰安婦」問題を決着させることで両国外相が合意したというのだ。合意内容は、 この問題に旧日本軍の関与を認め、日本政府が責任を痛感。 安倍晋三首相は元慰安婦の女性に心からのお詫びと反省を表明。 日本は元慰安婦を支援する財団に10億円を拠出し、協力して事業を行う。 両国は問題の最終的かつ不可逆的に解決されることを確認。 韓国は日本大使館前の少女像について適切に解決されるように努力。両国とも、国際社会で互いに非難・批判を控える。 という5点である。 これでほんとうに「慰安婦」問題は解決するのだろうか。 私は21年前の1994年12月、韓国「ナヌム(分かち合い)の家」で撮影した3人の元慰安婦ハルモ
2021年8月15日、敗戦76年目の記念日に、『“記憶”と生きる』を、Vimeoで公開しました。 →動画配信:Vimeo:『“記憶”と生きる』 DVD発売中です。 →土井敏邦オンライン・ショップ 自主上映会を開催してくださる方を募集しています。 →上映会について 2015年7月8日 様々なところで紹介していただきました。 Facebook: 土井敏邦監督作品 深く刻まれた傷を抱え、壮絶な戦後の半生を送ったハルモニたちのありのままの声と日常 元「慰安婦」たちが肩を寄せ合って暮らす韓国の「ナヌム(分かち合い)の家」。1994年12月から2年にわたって日本人ジャーナリストがハルモニ(おばあさん)たちの生活と声をカメラで記録した。元「慰安婦」という共通の体験以外、その境遇や歩んできた道はまったく異なるハルモニたち。支えあい、時には激しくぶつかり合う。そんな生活の中で彼女たちは消せない過去の記憶と、
作品紹介 1991年、ビルマ(ミャンマー)軍事政権の弾圧を逃れ、妻を祖国に残し日本に渡ったビルマ人青年チョウチョウソー(チョウ)。生きるためにレストランで働きながら、祖国で封じられた民主化運動を続ける日々。その後、妻ヌエヌエチョウとの再会がやっと叶い、ビルマ料理店を経営しながら、日本での2人の亡命生活が始まる。第三国でやっと実現した14年ぶりの老父との再会。しかしその父の死の報にもチョウは帰国できなかった。日本滞在はすでに20年以上になり、暮らしも安定した。しかしそこはチョウにとって将来の保障もなく、祖国に貢献する役割も担えない“異国”であり、“自分の居場所”ではない。「家族に会いたい」「祖国で暮らしたい」という願いと、“祖国の民主化運動”のためにその望郷の想いを捨てなければならないという思い。その狭間で揺れ、迷ってきたチョウは、今の祖国の「民主化」をどう捉え、その中でどう生きようとするの
2012年6月29日(金) 写真展開催2日目、新宿のニコンサロンで、『重重─中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』と題された写真展を観た。韓国人写真家・安世鴻(アン・セホン)さんが2001年から数回、中国に通って撮り続けた写真である。 ニコンサロン側はこの写真展開催を当初決定しながら、ネットや電話による右翼勢力の抗議に屈して中止を決定したが、安さんは、東京地裁に開催を求める仮処分申請を申請した。そして6月22日、東京地裁はニコン側にこの写真展のために会場を使用させるように命じる仮処分決定を出しため、やっと実現した写真展だ。 右翼勢力は以前にも映画『靖国』や『ザ・コーヴ』に対して上映中止を求めて抗議・妨害行動を起した。彼らが「歴史の捏造だ」とする「従軍慰安婦」(元日本軍慰安婦)の写真展に対して抗議行動を起こすことは容易に予想がついた。しかし、意外だったのはニコン側の反応だった。
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