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アメリカ大統領選
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精神分析を可能にした条件とは、近代精神医学が依拠した人間の狂気(非理性)とのあいだの関係を、言語と、言語の限界としての「表象不可能なもの」の裂け目というパラダイムによって捉え直すことであった。1950〜60年代のラカンの仕事は、フロイトが発見した無意識の二重構造を、超越論的システムとして次のように体系化することにあった。つまり、一方では、言語使用のメカニズムを支配する象徴界があり、それは〈父の名〉という特権的シニフィアンによって統御されることで初めて正常に作動する。他方では、象徴化に抗する「表象不可能なもの」としての現実界があり、そこで一瞬だけ垣間見られる真理を、「対象α」、あるいは「テュケー(偶然)」と呼んだ。 このシステムは神経症と精神病を区分けすることを可能とする。無意識に支配される神経症者は「正常者」から地続きのものとされ、無意識に支配されない=〈父の名〉によって統御されない精神病
昨夜のQAB開局15周年報道特番『どうなる普天間移設? ~朝まで徹底生激論~』は誇張ではなく感動的な試みであった。その感動的なポイントを以下列記する。 では本家への批判としてなにが浮き彫りになったか?それは本家の進行役田原総一朗のそれこそ「偏向した」進行ぶりによってこれまで持ち上げられてきた論客たちが、いかに持ち上げられる価値以下の存在であるかが暴露されたこと。同じく田原により貶められカットされてきた「声」が正等に取り上げられることにより、本来のポジションを得られたこと。 それにはまず、進行を務めたQAB三上キャスターの腹のすわった采配ぶりを挙げなければならない。それにより親米保守(かつての)大物政治家である山崎拓、親米保守軍事論客森本敏のブザマなばかりの精彩の無さ、これまでの家父長的傲慢な態度は鳴りを潜めざるを得なかった。 なんといってもその圧巻は、両者を迎え撃った佐藤学沖国大教授との闘
第454回沖縄大学教養講座「沖縄論」を論ずるに参加した。1週間前に東京で行われた「普天間―いま日本の選択を考える」の沖縄版といったところか。以下、簡単な備忘録を記す。 一方、今回は壇上もフロアも沖縄メインということで、肩肘張ったところもなく、「自然」だった(ことの「気楽さ」が前者をみるにつけ感じられる)。もちろん「気楽さ」と表現したのはとても肯定的な意味である。自分もその一部であるというささやかな喜びも含めて。 シンポ全体をユニークなものにしたのが、ただ一人、アカデミズムでないところの、いわば異物としての宮城康博氏に問題提起というポジションを委ねた点であろう。氏がそれぞれのパネリストに問題提起を仕向けるという批判的議論の交換は功を奏した。司会の川瀬氏をはじめ、パネリストたちもその意義を了解し、時間配分も考えず自説を延々述べるというようなトンデモな振る舞いもなかった。もっともこんなやり取りを
嫌韓反中などのいわゆるヘイト本が本屋で平積みされているのを目にし、著者は不快を感じる。在日コリアンの人びとをはじめ、それらを目にした誰かが深く傷つくことへの想像力があまりにも欠けていはしないかと。 前半では、書店、出版取次、出版社、編集者、そしてライターへのインタビューを通しその疑問を明らかにすようとする。その結果、著者は「出版界はアイヒマンだらけ」という率直な感想をもらす。彼らの多くは、売れるから売っているだけであり、ヘイト本は他人事に過ぎないのだと。アイヒマンとは、ナチスドイツのユダヤ人虐殺実行犯トップの男である。彼のあまりにもどこにでもいそうな、与えられた仕事を淡々とこなす態度に、裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレントが驚きをもって「悪の凡庸さ」と名づけた。 このインタビューに肉付けされるのが、長年出版業界に携わってきた著者ならではの後半の論考である。著者によれば「アイヒマンだらけ」
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