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円安とは
jyn1.hatenablog.com
封切り三日目。 席数240の【SCREEN7】の入りは二割ほど。 直近で公開された〔やがて海へと届く〕に近似のテイスト。 それは 仄かに香る「百合」であり 止めようもない喪失感であり {ロードムービー}らしい、移動と出会いを経た再生。 とは言え本作、内包しているテーマは更にずっしりと重く、 タイトルの「ブロークン」がダブルミーニングなのと同様、 鑑賞者の胃の腑をずしっと抉るボディブローに満ち満ち。 小学校の頃からの親友と思っていた『マリコ(奈緒)』の 突然の訃報に接し、『シイノトモヨ(永野芽郁)』には やるせない思いと、やり場のない怒りが湧き上がって来る。 その状況から、おそらくは自殺と思われる友の死は、 なんで自分に一言無かったのか、との切なさと、 幼い頃から実の父親に暴力や性被害を、長じてからは 交際相手のDVに苦しむ『マリコ』を救えなかったとの自責の念。 それらが相俟った溢れ出す感情
本日初日。 席数172の【シアター4】の入りは八割ほど。 監督の『三木孝浩』は原作ありモノ、 とりわけ少女漫画を底本にした映画化については そつなくこなす、所謂「職人」の印象。 直近ではやや異種な、《夏への扉 -キミのいる未来へ-》のように SFの名作を元にした一本もあり。 とは言え、カテゴリーとしては{恋愛映画}がほぼほぼで 本作のように少し捻った関係性を描くのは《くちびるに歌を(2015年)》以来と 久方ではなからろうか。 あ、次作の《アキラとあきら》も、男女の恋愛ものじゃあなかったか(笑)。 しかし総覧すれば、各作の出来は玉石混交、 良作と駄作の振れ幅が激しい側面もこれあり。 で、まぁ今回、やや不作に振れているかな、との概観。 原作の『Deborah Install』による《A Robot in the Garden》は イギリスが舞台と聞いている。 それを、日本に移植したらしいが、
封切り三日目。 席数349の【シアター6】の入りは七割ほど。 鑑賞中からもやもやとした思いが消えなかった。 どう転んでもこの流れでは、今作中に大団円を迎えることはなさそう。 当然、次作(或いは次々作)の想定も、 主演の『山﨑賢人』も既に27歳、青年は兎も角 少年の成長譚を綴るには外見的にも難しかろうと。 案の定、本編終了後、〔Ⅲ〕が2023年公開との予告が流され、 なるほどね、と納得をしつつも、 今回の〔Ⅱ〕が思いの外不出来であったのは、 そのあたりにも理由がありそうと思い至る。 あの〔バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985年)〕でも 〔PART2(1989年)』〕の出来は残念なものだった。 シリーズ全体としての「序破急」や「起承転結」を考えた時に、 かなり重要なポジションを占めるにもかかわらず、 逆に中だるみになってしまうケースが多々。 極々の例外は「I AM YOUR FATHER」
封切り三日目。 席数224の【シャンテ-1】の入りは八割ほど。 普段は女性客や男女のカップルが多い劇場だが、 今日に限っては男性の二人連れを殊の外見かける、 しかも老いも若きも。 作品が客層を呼ぶ典型例だろう。 スーパーノヴァ=超新星とは随分と雄々しいタイトル。 星が消え去る前に放つ、最後の最高の輝きを意図し、 オープニングでもそれは示される。 本作の一方の主人公である『タスカー(スタンリー・トゥッチ)』の境遇を仮託しており、 彼は(おそらく)若年性痴呆症と診断され 薬効もなく、早晩記憶を失い、赤子のようになってしまう。 著名な作家であるとの造形は、 その知性が崩れ去ることの恐怖を より大きく表現するための仕掛けの一つか。 彼の長年のパートナー『サム(コリン・ファース)』はピアニストとの設定。 しかし、ここ暫く公演会すら開いていないのは、 『タスカー』の症状に献身的に向き合って来たからだろ
封切り三日目。 席数112の【SCREEN5】は一席空けての案内なので実質56席。 それが八割ほどの入りになっている。 正式なタイトルは〔A Quiet Place: Part II〕。 全体的な流れを見た時に、 邦題よりも、こちらほ方がよほどしっくり来るのは毎度のこと。 加えて〔Part Ⅲ〕すら製作しちゃうんじゃない?!との勢いだから。 ストーリーの構成的には「起承転結」の「承」に当たる部分と認識。 ここでダレてしまう凡百の作品は多い中、 きりっと締まった緊張感のある展開をラストシーンまで持続させる見事な力業。 前作で、宇宙からの飛来者の弱点を見い出し、 眼前の危機を見事に打ち砕いた家族の後日譚。 嘗て住んでいた家の上層は火に包まれ、下層は水浸しとなり、 とても暮らせる状態ではなく、また 自身等が得た知見を広めることで、 再び地球を人類の手に取り戻すことができると考えた一家は、 今いる
封切り三日目。 席数290の【CINE4】の入りは三割ほど。 「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」とは良く言われることだけど この男の場合はまるっきり真逆、歳を重ねるに連れその技巧は際立ち、 本人をして 「己六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足ものなし 七十三才にして稍 禽獣虫魚の骨格 草木の出生を悟し得たり 故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶其奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならん与欠 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん」 と書かせるほど。 日本を代表する絵師であり 奇行のエピソードも多く 映像化には向いていると思うのに 映画作品は意外に少なくて 『新藤兼人』による〔北斎漫画〕くらいしか思い出せず。 取り上げるべきことが多すぎて、脚本化が却って大変なのかなと思いつつ、 想像の翼を十二分い広げら
封切り二日目。 席数158の【SCREEN3】の入りは七割ほど。 もう何年か前に、VRを使って 統合失調症の幻覚を疑似体験したことがある。 電車からホームへの段差は、 普通なら何のことはないのに 崖っぷちに立っているように見えたり、 部屋の隅に見知らぬ人間が突然に立っていたりと、 ホンマかいな?と思いつつ、 実際にこう見えていれば、そりゃ~戸惑いもするだろうと思ったのも事実。 そして本作。 認知症の兆候が見られようになった『アンソニー(アンソニー・ホプキンス)』が経験する 混乱に満ちた世界を、観客の我々も共有する。 娘と思った者が赤の他人であったり、 新しい家政婦として紹介されたのに次の日には見知らぬ女性が来たり。 娘の話はくるくると変わり、あまつさえ その夫の話であれば猶更のこと。 大事にしていた時計は、何時盗まれたやら見当たらず、 自身が所有する居心地の良いフラットなのに、 なぜかしら
封切り三日目。 席数224の【シャンテ-1】の入りは三割ほど。 なんとも珍しい宇宙に行かない{宇宙映画}。 しかしそこまでの過程は、過去のどんな類似作よりも 仔細に描かれる。 例えば〔ライトスタッフ(1983年)〕でも パイロット達の訓練の模様は目の当たりにできるも、 本作では関連機関の全面協力のもと、 それらがより丁寧に描写される。 同作では謎の場所に近い表現であった 旧ソ連の「スターシティ」ですら、 あっけらかんとカメラが入り 我々はそこの様子を手に取るように理解する。 そしまた、〔ドリーム(2016年)〕でも取り上げられた 女性であるが故の困難さも同様に(主人公は黒人ではないけれど)。 自身が幼い頃から憧れた宇宙飛行士になる夢を叶えるには 己の努力もさることながら、周囲の協力は不可欠。 が、幼い娘を独りで育てる『サラ(エヴァ・グリーン)』の場合は 母親は既に亡く、頼れるのは離婚した夫
封切り九日目。 席数201の【シャンテ-2】の入りは四割ほど。 「R15+」指定。 あの『シアーシャ・ローナン』も 齢26してついに!!と わくわくして出かければ なんのことはない 濡れ場はあるものの、肝心な部分はチラ見えさえせず。 に、引き換え『ケイト・ウィンスレット』は 四十半ばにして全てをさらけ出しているんだから、 ここはもうちょっと頑張って欲しかった。 さはさておき、日本であれば北海道がそうだと聞き及ぶ。 貴重種も含め、アンモナイトの化石の一大産地として 世界にも名をはせる場所。 英国ではライムの海岸がそれにあたるよう。 当地で観光客の土産用に化石を掘り出し 店に並べて糊塗をしのぐ『メアリー・アニング』は実在の人物。 今であれば古生物学者として評価されようも 1800年代前半の女性の地位の低さは 本作の冒頭のシークエンスが示している通り。 彼女のもとをおとなったのは鬱病の静養のため
封切り二日目。 席数118の【シアター3】の入りは七割ほど。 随分と強気な価格設定。 シニア割りや高校生割りも適用しない 1,900円の均一料金。 なので急ぎムビチケを1,500円で購入、 本編に向かう。 入場時にはノベルティの配布はありも、 果たして作品自体に、それだけの価値はあったかどうか。 白毫のやや上辺りか。 或いは、気づきや透視に関連するとされる 第六のチャクラの付近と言えばよいか。 『手塚治虫』による〔三つ目がとおる〕の第三の目の場所もそうだが、 当該所の頭骨に穴を開けることで 一定確率で特殊な能力が備わるとのトレパネーション。 古代インカ帝国の頭部穿孔や 分娩時の産道を通るための工夫の一つ 児頭の広形機能(骨重積)も挙げられたりはするけれど、正直 笑って済ます程度の意味づけ。 それが『名越(綾野剛)』の場合、 左目だけで見ることで、相手の人物がそのトラウマを表出した モンスタ
封切り二日目。 席数98の【SCREEN6】の入りは六割ほど。 大まかには{ミュージカル}にカテゴライズされようか。 それにしてはダンスシーンはタップが少々だけと やや寂しい気もするのだが。 とは言え、監督の『真壁幸紀』始め制作サイドは それらしいこだわりを随所に詰め込む。 一つは上映時間92分の尺。 これは 〔雨に唄えば(1952年)〕103分 〔イースター・パレード(1948年)〕107分 〔バンド・ワゴン(1953年)〕112分 などの昔の名作の短尺に倣ったものだろう。 サイレント時代を描いた 〔アーティスト(2011年)〕も100分だったし。 一方で 〔ラ・ラ・ランド(2016年)〕128分 〔ウエスト・サイド・ストーリー(1961年)〕152分 だったりするのよね。 もう一つはインターミッション。 舞台の{ミュージカル}はほぼほぼ二部建てで 中途、幕間が挟まれるお約束。 それをき
本日初日。 席数142の【SCREEN1】の入りは三割ほど。 『佐木隆三』と言えば既に物故者ではあるものの ノンフィクション小説の泰斗。 ルポルタージュを基に人物像を膨らませ スリリングな展開も堂に入ったもので 自分も何冊かを読んでいる。 本編はその中の〔身分帳〕を原作にしていると聞くが 刊行は1990年。 暴対法や各地の条例は以降のことながら、 作中ではそれらに関連する表現も見られ、 監督・脚本の『西川美和』がお話を創り込む過程で適宜取り入れたのだろうかと。 主人公の言動を変える要素として上手く機能もしており、 何れにしても〔ディア・ドクター〕しかり〔夢売るふたり〕しかり、 社会から外れた人物をモチーフにさせると 絶品の冴えを見せるのは間違いのないところ。 殺人罪による十三年の刑期を終え出所した『三上(役所広司)』が 今度こそは真っ当に生きようと荒波に揉まれながらも 自立に向け奮闘する姿
封切り二日目。 席数172の【SCREEN1】の入りは七割ほど。 1999年-2005年-2019年の三つの時代を通して、 義理と人情を重んじる任侠団体一家の盛衰が、 その構成員である一人の男を軸に語られる。 恫喝や得物を使った暴力シーンはありはするものの、 例えば〔アウトレイジ〕などと比べれば遙かに過少。 抑えた描写をメインに人間の関係性の機微を情緒たっぷりに味あわせることが 本作の主線。 なのできったはったの大立ち回りや外連味を期待すると 肩透かしを喰った気になるかも。 「暴対法」の施行と地方自治体の条例により 所謂「暴力団員」の生活は、憲法が保障する基本的人権とのせめぎ合い。 公共サービスですら、約款に「反社会的勢力の排除」はうたわれており、 言ってみれば、組事務所には電気さえ供給されぬ建て前。 「最低限の生活も送れないの?」との疑問には 「だったら(組織を)抜ければいいじゃん」が法
本日初日。 席数246の【シアター1】の入りは二割弱ほど。 客層は若年~中年の女性が多く、 W主演の男優目当てだろうか。 推理小説を読んでも、真犯人や動機、トリックについては ほぼほぼが終幕迄判らない凡悩な自分。 それでも本作では、 かなり早いタイミングでそれらが透けて見えてしまう。 とは言え、不正義を正す為に (失礼な言い様だが)そこまでするか?との常識的な疑念がふつふつと湧き 自身の予想も半信半疑に思える側面もあり。 ただそれこそが、制作サイド仕掛けた 最大の罠なのかもしれぬが。 エンディングに向けてカードを少しづつオープンして行き 最後にあっと思わせるのは常套手段。 現在の中に過去のエピソードを絡めながら お話の発端からを描き出す。 鑑賞者をミスリードさせる表現も適宜まぶし、 幾つかの伏線も織り込みつつ展開。 各々のパーツは巧く造り込まれてはいるが、 語り口はあまりスムースとは言えず
封切り二日目。 席数158の【SCREEN3】の入りは三割ほど。 原作未読も複数回映画化されていることは認識。 作者の前半生が反映されているとされる物語りは それほど蠱惑的なのだろう。 しかし、本作、観始めて早々に感じる違和感。 1800年代の英国が舞台であるハズなのに 主人公をインド人が演じていたり、 黒人が上流階級の貴婦人として登場したり、 その息子が生粋の白人であったり。 どうやら肌の色や髪の色は、全く指標にはならず。 外見はとっぱずして見てくれ、とのことらしい。 かなりの長編を二時間弱に纏めているので 物語りはとんとんとテンポ良く進み、 さながら抄訳を味わうよう。 脚本は勿論のこと、編集にも工夫が凝らされ、 殊に外連味のある表現は評価。 多様な登場人物もキャラが立っており、 アップダウンの激しい半生は観ていて全く飽きない。 キャッチーな性格付けではあるものの 一方で個々人の掘り下げ
封切り三日目。 席数244の【CINE6】の入りは三割ほど。 バス用品の売り子が、何の縁か 大企業の御曹司と結婚。 俗に言う玉の輿で、以降の生活の安寧は担保されたようなもの。 しかし本作の主人公『ハンター(ヘイリー・ベネット)』は 憬れのハイソな暮らしに馴染めず、 次第に疎外感や窮屈さを感じるように。 そんな折、彼女の妊娠が判明。 跡取りが出来たと、夫を始めその家族の喜びは一様ではない一方、 マタニティブルーとでもいおうか 『ハンター』の神経は不安定に。 ところがふと目に着いた異物を口に入れた途端、 心が安らぎ、あまつさえ感じる高揚感。 彼女はその行為を止められなくなってしまう。 原題の「swallow」には「飲み込む」の意の他に 「耐える」「無条件で受け入れる」等の意味もあるらしい。 まさに主人公の境遇を言い得て妙。 周囲の人々は須らく夫の家族の息が掛かっており、 生活は優雅に見えても、
封切り二日目。 席数456の【SCREEN1】はほぼほぼ満席。 自分にとっての〔三国志〕の原体験は、 『吉川英治』によるそれ。 〔三国志演義〕を底本に、日本人の琴線にふれるような アレンジが施されている、と。 〔三国志演義〕にしたって『陳寿』の〔三国志〕を基に 正悪を明瞭に分けた時代の要望を反映した歴史小説なのだから、 時々に於いて風潮に合った形が捻り出されるのは不思議ではない。 本作の予告編を初めて見た時には、 アイディアだなぁと感心した。 主人公の『劉備』だって一人の人間。 書物で描写されるような聖人君子では、間違いなくなかったろう。 我々同様、普通に悩み、恐れ、迷っていたはず。 ましてや原作にも優柔不断な性格に取れる面もややありだし。 なのでそれらを現代風にカリカチュアライズして表現するのだろうと思っていたら、 どっこい本編は遥か上を行く内容。 『福田雄一』の面目躍如、もう激しくぶっ
封切り二日目。 席数284の【CINE5】の入りは二割ほど。 シノプシスをざっと読んだだけでスクリーンに向かい 冒頭のシークエンスから戸惑ってしまう。 婚約者に対して肖像画を贈るなんて、 『ベラスケス』の『マルガリータ』を思い出す。 でも『ヴィヴァルディ』の〔四季〕も劇中で演奏されているから 1700年代後半の設定か。 写真はまだ無い時代。 そしてフランスでの女性画家の地位もまだ高くはない時代。 本土から離れた島の屋敷に住む母と娘『エロイーズ(アデル・エネル)』。 母はミラノ在住の婚約者へ娘の肖像画を贈るため、 女性画家『マリアンヌ(ノエミ・メルラン)』を呼び寄せる。 実際は嫁ぐのは姉だったのだが、結婚を嫌い自殺、 身替わりとして妹が修道院から呼び戻された事の次第。 しかし妹の方も結婚に乗り気ではなく、 先に呼ばれた男性の画家には顔を見せずに絵は完成せず終い。 そこで母親は一計を案じ『マリ
封切り四日目。 席数89の【シアター9】の入りは二割ほど。 父親『修次(いとうせいこう)』のギャンブル癖やら投資の失敗のため 祖父母が残した都内の壮大な屋敷を手放すことになってしまった『笹谷』家。 その家で過ごす最後の日、娘の『あかね(小川未祐)』は半ば自棄になり 「パーティを開きます。誰でも来て下さい」とツイートする。 と、それを真に受けた有象無象の人達が集まり出し、 邸内は人で溢れ返り、カオスな状態に。 そこで起こることは支離滅裂とでも表現すればよいか。 つい最近に起きた事件を取り込んだり、 日本古来の祭りからミュージカルに展開させたり、 或いは『フランク・オズ』監督作品のSFホラー映画をパロったり、と も~やりたい放題。 大まかな筋立てに沿って伏線をバラ撒き、 それを回収しながら収斂させて行く。 しかし、あまりにも風呂敷が広がり過ぎ、 脈絡の無いエピソードを牽強付会的に繋げて行くので
封切り三日目。 席数118の【シアター5】の入りは三割ほど。 なんて怖い風習なんだろう、「なまはげ」。 2~3歳頃にこんな恐ろしい目に遭えば 絶対にトラウマになるし、知恵が付く迄は 親の言いつけに背こうとは思わないのは間違いなし。 それでも直近では、少子化や担い手の減少、 正月の過ごし方の多様化で廃れる方向性にあるらしい。 本作での、主人公の所業に対する地域住民の反応は 傍目からはかなり過剰に見えるけど、 そういったことが背景にあるのなら、 神経質になるのも判らんでもない。 にしても主人公の妻の『ことね(吉岡里帆)』は どうしてこうもイラついているのだろう。 娘が生まれたばかりで、夜泣きや授乳で疲れ切っているのか。 それとも病気の父親の加減が悪い、または 家業のスポーツ用品店の経営も思わしくない? 決定的なのは入り婿である『たすく(仲野太賀)』が 何時までも子供っぽく、おまけに酒乱の気があ
封切り三日目。 席数150の【SCREEN4】の入りは八割ほど。 ストーリーの流れを追い、画面を注視しながらも、 原作アリものを映像化することの意味についてあらためて考える。 メッセージ性を強く表現したいとか、 よりスペクタクル感を出したいとかあるだろうけれど 本作の意図は那辺に在ったか。 安楽死の是非を扱いつつ、 犯人を追い詰める刑事の活躍が主線と思われるも その何れもが中途半端にしか描けていない残念さ。 安楽死云々のハナシでは、嘗て『手塚治虫』が〔ブラック・ジャック〕に 『ドクター・キリコ』を登場させ世に問うたのが、かなり早い時点と認識。 また本作中にも触れられているモデルとなった実在の医師もおり、 それはアメリカの『ジャック・ケヴォーキアン』だとされ、 彼は実際に130人を安楽死させている、と。 主人公の娘が腎臓に疾患を抱えている設定で、 エピソードを補強しようと試みるのだが それが
封切り二日目。 席数154の【SCREEN1】の入りは八割ほど。 タイトルの「さくら」は何かと思ったら、 舞台となる家で飼われている犬(牝)の名前。 このペットが鎹となり、 一緒にいる意味を喪失した家族が 再生するまでを描く。 物語りは静かに進行。 両親の馴れ初めや、何処にでもある家庭なりの儀式の成り立ち、 または『さくら』が貰われて来た経緯を挟み 『長谷川』家の状況が描かれる。 尺も半分を過ぎる迄は、何処にドラマが生み出されるのかさっぱり分からず、 おいおいこの先どうなるんだいとかなり気を揉んでしまう。 とりわけ、夫婦の昔も含め兄弟妹が幼い頃は、何処にでもありがちな一家の様子。 が、長ずるに連れ、思春期らしい恋愛が絡みだすと そこはかとない不協和が露呈。 中でも極度なブラコンの妹『美貴』の 長男『一』への態度はかなり強烈な描写。 何となくの居心地の悪さを覚えながら注視していると、そこで事
封切り二日目。 席数118の【シアター3】は一席置きの案内だと実質59。 その八割りは埋まっている。 自分の故郷を人に紹介する時に、 何とも複雑な思いにとらわれる。 愛憎半ばとの表現は言い過ぎか。 「いいところだよ。でもね」と 口をついてしまうのが常。 一方、礼賛の言葉しか出てこない人々も確かに存在。 それは札幌や横浜の出身者に多い印象。 あくまでも自分の狭い交際範囲内での話だけど。 シリコンバレーにIT企業が集中したことで サンフランシスコ一帯は居住者が激増、 交通渋滞は茶飯事で住宅価格は高騰、 ホームレスの増加といった問題が広がっている。 黒人に対する差別は変わらず。 理由もなく銃撃され命を落とす者も後を絶たない。 それでも『ジミー・フェイルズ』がこの街を愛するのは 三代に渡って住み続けている上に、 祖父が建てたビクトリア様式の豪邸が今でも残っているから。 父の失敗により手放してしまっ
封切り九日目。 席数542の【SCREEN5】は一席置きの案内だと実質271。 客の入りは、その二割りまではない感じ。 末期の肺癌の為、余命幾ばくもないと診断された中国に住む老母に 日本とアメリカに住む兄弟は相談し告知をしないことを決める。 しかし長男の息子が中国で結婚式を挙げるのを口実に 親族が集まる思い出を作れる場の設定を目論む。 一方、ニューヨークに住む孫の『ビリー』は 感情が顔に出易いからとの理由で留守を言いつかる。 が、人一倍祖母に対して思い入れの強い彼女は 言いつけを破り、長春へと向かう。 案の定、顔を合わせた途端に挙動が不審になる『ビリー』。 周囲の機転で事なきを得たものの、結婚式を終え帰国するまで 秘密を守り通せることができるのか、が一つのサスペンス。 長年暮らしたアメリカであれば、 間違いなく告知するであろうし、逆にしないと罪になるくらい。 西洋式の考え方が沁みついている
封切り二日目。 席数172の【シアター4】は一席置きの案内だと実質86。 その七割りは埋まっている。 車のトランクから男子高校生の変死体が発見される。 殴打の跡や刺し傷も生々しいそれは、息子の友人と判明。 車を捨てて逃走したのは二人。他にも あと一人が事件に関わっていたとされ、 計三名の行方は杳として知れない。 警察は行方不明の息子を事件の関係者として追っているが、 その軽重を語ることはない。 彼は果たして加害者なのか被害者か。 家庭の中に疑心暗鬼が広がる。 加害者であれば主犯か従犯か。 被害者ならやはり殺害されているか それともどこかに軟禁、或いは隠れているのか。 それぞのポジショニングにより、帰結には大きな振れ幅が。 家族の思いは千々に乱れる。 ましてや残された者は選択をすることはできない。 ただもたらされる結果を受け止めるだけだ。 生きていて欲しいのは当然も、それはイコール殺害に関わ
封切り三日目。 席数335の【SCREEN6】だが一席を空けての販売なので、 現状の席数は167程度で その八割は埋まっている印象。 〔若草物語(1868)〕は 〔赤毛のアン(1908)〕〔子鹿物語(1938)〕〔シートン動物記(1898)〕などと並び 自分達の世代には一種の通過儀礼の必読書。 直近だとそれに〔大草原の小さな家(1932)〕が加わるか。 それにしても、何れの小説も 繰り返し映像化されるのは何故だろう? 同じ「南北戦争(1861~65)」の頃を扱っていても 直近で公開された〔ハリエット〕と比べ 随分と異なる印象が残る。 とても同時代とは思えないほど。 四姉妹が自家の貧乏を嘆くシーンにそれは顕著。 あれだけ幾部屋もある屋敷に住み、調度品もそこそこ、 女中を雇う余裕も。 要は中流よりも上位の家庭であり、更に上流に憧れればキリはないとのこと。 もっとも本作の舞台は北軍側に与している
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