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買ってよかったもの
knoapmkgd.hatenablog.com
批評やめようと思った話 ここから書くことは、記憶を頼りに書いている。記憶違いや、狭い視野での話になっているかもしれない。その点については断っておきたい。 去年の7月に激怒する案件があって、批評をやめようと思った。 何があったのかというと、カオス*ラウンジの実質的な運営母体となっている合同会社カオスラにおいて、ハラスメントがあったという件だ。この件は確かカオス*ラウンジと共同企画を行うゲンロンの代表東浩紀がtwitterでなんだか匂わせたつぶやきをはじめ、あれよあれよとカオス*ラウンジとの提携を打ち切り、ハラスメントがあったと明るみに出た。 黒瀬陽平の謝罪があり(黒瀬からはブロックされているが)、その後プレスが出るも(美術手帖もやたらと記事をつぶやきまくっていた)、「被害者のプライバシーが云々」と、詳細はうやむやにされたままだったかと思う。 直前には、三越の新しいコンテンポラリーギャラリーで
中央本線画廊での杉本憲相展で感じた、杉本の真面目さと凡庸さは「キャラ・アート」とでも言うべきものが既にジャンル化したことの証左に思えた。 杉本が既存のキャラを扱う時に、2017年にらき☆すたを選択することの、絶妙な古臭さ。カオス*ラウンジが2010年にらき☆すたを選ぶことには、当時の環境としての必然があるが、それに対して今更ゼロ年代的感性であることの凡庸さ(キッチュですらない)。 画学生がキャラ絵を描きたがるのは別に悪いことではなく、絵を描き始める人間の少なくない数が、最初に自覚的に描き始めた絵はキャラ絵なのだから、キャラ絵そのものに原初的な契機が内在しているというのは正しいと思う。しかし芸術としてキャラを扱うとき、何を持って芸術の問題とするのかという手続きはどうしたって必要になる。 たとえば、キャラの芸術全般の立ち位置で見た時のキッチュさを扱う、というのならば、それはポップアートの方法論
9月22日に、上野駅発の特急に乗り、いわき駅で9月19日(土)から10月4日(日)まで開催されている、カオス*ラウンジ新芸術祭2015 市街劇「怒りの日」を見た。率直に言って、行って損は無い展覧会になっている。会場はいわき駅周辺の3会場を使用しており、それぞれに充実した展覧会となっている*1。第1会場は「もりたか屋」。1階には山内祥太のおなじみの手法である3Dスキャンを用いた映像作品があり、暗い部屋と鍾乳洞、そして3D空間という、会場と映像の構造が共鳴した鑑賞体験を作っている。2階には、村井祐希、藤城嘘、梅沢和木、乙うたろうなど、絵画彫刻を中心としている。3階にはISISに捉えられているジャーナリストをモチーフとした今井新の新作があった*2。第2会場である平廿三夜尊御札受所には、キャラクラッシュ!展でも参加していた柳本悠花の、幼少時の記憶のような手触りの、フェルト作品がある。第3会場はやや
震災は人々の生を断片化し瓦礫に変えた。被災者にとってかけがえのない思い出の品が、そこではあらゆる意味を剥奪され、物質へ還元され、「ゴミ」に変えられてしまった。それは耐えがたい経験だが、しかし不可避の現実でもある。オタクたちが愛するキャラクターを断片化し、アーカイブ化し制作の素材とする梅沢の方法論は、この点で震災の暴力を先取りしていたと言うことができる。他人の愛するものを「ゴミ」に変えてしまう暴力。だれがいかに愛するものであったとしても、あらゆるものが「ゴミ」に変えられてしまう瞬間があるという残酷な事実。それこそが梅沢の作品の本質である。 2013-12-26 意味が剥奪され物質に還元されてしまうのは、エントロピーの話、すべてのものが死に向かうという話であって、それを梅ラボ作品に適用しても、あまり適当ではない。梅沢作品にあるのは、そのような耐えがたい、不可避の現実を知らしめる効果ではなく、情
創造性の話。 ・「ネットの画像コラしてアートとかwww」という話に対して 創造性、新規性、独創性、批評性があるのがアート。梅沢和木は以前から、キャラの画像をコラージュする作品を作っていた。がそれはアートになり得る(創造性、新規性、独創性、批評性を獲得しうる)と思っている。また、これまでの梅沢作品にはそういった芸術性があると思っている。(解像度がそろっていないのは、それは画像が画像であることをあからさまにするためのものでもあるし、切断面を見せるためでもある。)画像がデータである以上、魅力的であれば「ウィルスが拡散するように」画像も拡散していく。キメこな画像もtumblrで流れてきたものを見たのが最初で、そこではもう「コミュニティでどのように扱われているか」という要素は取りこぼされてしまっている(ファイルが無いよ状態)。 ・「じゃあふたばってアートだったんや!」という話について これは「創造性
雑感。まとまらず。 1.日本画の問題 日本画についておさらい。 日本画という区分は「学問的妥当性」、「国策的意義」、「市場的価値」それぞれで判断されるべきであろうが、それぞれ意味を失ってきているのだろう。「日本画」というのは、「日本で描かれている絵画」の意味ではない。明治期のお雇い外国人であるフェノロサが、官僚に向けた講演の際に発した「Japanese picture」ないし「Japanese painting」という言葉の訳であり、その後内国絵画共進会によって推奨されていく絵画形式を指している。 フェノロサの講演をうけ、内国絵画共進会や東京美術学校では、日本の伝統的な、掛け軸、巻物などの形態を排し、模写を禁止し、正統的な「絵画」を墨、膠系に限定し、それ以外の焼絵、染絵、織絵、縫絵、蒔絵を「工芸」として、正統絵画の位置づけから排除した。フェノロサに講演を依頼した竜池会は官僚と画商からなる団
10月23日18:00- 秋葉原にある3331にて、都築潤と中ザワヒデキによる対談がありました。 (この記事はカンノによるメモです。覚え違い、主観による記事はご了承ください。敬称略。) 都築「Illustratorでは、いい線が引けたなー、とか、よくないなーというのが問題にならないことに驚いた。そこで、Photoshopを使用したところ、確かに画材感は出るが、拡大すると四角に埋め尽くされている。それにショックを受けた。そこで、また、解像度を上げろとか、アンチエイリアスをかけろと言われたが、拡大するとまだ残ってる。解像度に支配されていることにぞっとした。これは非常いまずい事態だと思った。 ペイントツールとドローツールはそれぞれ、木炭デッサンとクロッキーに対応していて、いままでは、紙と鉛筆で両方できたことが二つに分かれてしまった。融合させなきゃいけない。 Illustratorで、絵の「ありが
(後輩学部生向けに、学内wikiにアップロードしたものです。初心者向き。 こんな記事http://blog.livedoor.jp/mcmaster/archives/51488723.html?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitterを見つけて思い出したのでblogにもはっつけておきます。) ・1「まずはまわってみる。」 一度は順路通りに。それぞれの作品を、いきなり穴があく程見つめる必要は無い。(疲れてしまいます。)まずは、全体の感覚をつかむ。中にはピンと来る作品もあれば、全く来ない展示もあるでしょう。 いきなりキャプションを読み始めるのも禁物です。自分の感性に引っかかる作品が良い作品なのです。 ・2「もう一度始めに戻って気に入った作品を見る。」 展覧会では、「これぞ」という主役の作品があったりします。 東京国立博物館(東博)のような、最近とって
これ。 お絵描きパラメータ 「きれいに描ける」「魅力あるフォルムを描ける」「三次元的描写力」「色彩的能力」「質感描写力」「構図的能力」「シーン描写力」「ヴィジュアルリソースへのアクセス能力」とあと「鑑賞の能力」は当然必要なんだけど、「視覚的分析力」「視覚的判断力」かなぁ。 gnck:ジーエヌシーケイ on Twitter: "お絵描きパラメータ 「きれいに描ける」「魅力あるフォルムを描ける」「三次元的描写力」「色彩的能力」「質感描写力」「構図的能力」「シーン描写力」「ヴィジュアルリソースへのアクセス能力」とあと「鑑賞の能力」は当然必要なんだけど、「視覚的分析力」「視覚的判断力」かなぁ。" お絵描きチェックポイントかもしれない。 必須の条件という訳ではなく、一定のクオリティにするために必要な項目。 1 きれいに描ける 線を何回もひいたりせずに、きれいに描ける力 とか。 2 魅力あるフォルムを
デジタルオイルペインティング展は、油絵描画シミュレータ(OPS)の研究成果の発表展。藤幡正樹をプロジェクトリーダーに東京芸大藤幡研、佐藤研、東大池内研、東工大中島、斉藤研、近畿大岡崎研の共同プロジェクトで、人間の描画行為の基礎的な理論の抽出を目的とした四つの研究のうちの一つ。 詳しくは http://www.mxa21.jp/j/ http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2009/crest/crest_ja.htm のサイトを参照してください。 1月17日のシンポジウムのメモです。 以下の内容は個人メモであり、主観、聞き間違えなどはご了承ください。 第一部:藤幡正樹 佐藤一郎 斎藤豪 藤幡 今回の研究では、美術の問題だけではなく、コラボレーションをいかに行うのかという問題もある。美術と工学のコラボレーションでは、テクノロジーの成果をアートがデモンスト
価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習 大学院の教授がクソだと言われる一つの理由 最近私は、指導要領の改定を受け、美術での鑑賞教育が更に強化されることを受けての、授業開発のお手伝いをしています。その中で、私が特に本質であると考え、心がけていることが、「自分自身の感性を発見する」ということです。*1 芸術作品、特に絵画や彫刻といった所謂ファインアートのジャンルにおいて、その作品の解釈に正解はありません。*2作品を見て、どう感じたのか?何に注目したのか?それを生徒に問いかけ、何かしらの解答を提示させることで、自分と他の生徒では注目の仕方や、好みの作品が異なり、その理由も様々であるということを発見していく。更には、自分が何故そのように感じるのかを言語化し、他者にも共有可能なものにしていく。 作品から感じられるものは、多種多様です。その作品が持つパワーや、味わい。歴史的
藤田明の作品を長年近い位置で見てきている。高校ではデザイン科を卒業し、大学では東京藝術大学の先端芸術表現科に進学。ドイツ・ワイマールのバウハウス大学に1年間の交換留学を経てから制作した卒業制作は、飴を舐めて尖らせるというパフォーマンスであった。 デザイナーとして、文具のデザインに関わったが、その後の初個展では絵画を発表。第2回目の個展「アダージオの香り」では、絵画を中心に構成したインスタレーションを発表した。 絵画といっても、近作では特に支持体がキャンバスから離れ、ペーパーハニカムボード・・・要は分厚い段ボールの板を切ったような支持体に、ステンシル技法でアクリル絵具をのせ、その上に加筆をしてみたり、あるいは紙面上にやはりステンシル技法とオイルパステル、マスキングとペインティングを組み合わせたりと、混合技法を随分と使っている。とはいえ、それがイラストレーションや絵本の原画といった、複製を前提
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