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暑さ対策
kotobasm.hatenablog.jp
アカデミー賞の授賞式に出席していた俳優のウィル・スミスが、プレゼンターを務めたコメディアンをビンタするというアクシデントがあった。もちろんこれには訳があるわけだが。 その訳とは、そのコメディアンが、脱毛症により丸刈りにしていたウィル・スミスの奥さんのことをジョークにしたからである。暴力がよくないのはわかっていても、人間なのだから手が出てしまうというのもわかる。 むしろなぜこのコメディアンは、そんなことを口に出してしまったのか。こっちの方がわからない。出してはいけないものを出してしまったという点では、どっちもどっちではないか。肉体的暴力ではないのだから許されるのかというと、そうではない気がする。 www.youtube.com 人称代名詞というのがあるけれども、一人称が自分、二人称が家族やそれと同様に親しい人、三人称が赤の他人という風に置き替えてみよう。自分よりも家族や親しい人を笑いものにさ
プロレスラーの《強さ》には、勝負に勝つための強さとはまた違う強さがあると思われる。 それは相手の強さを引き出すための、肉体の強さである。これがないレスラーが一流レスラーと戦っても、つまらない凡戦になってしまう。力では負けても、力のある相手の必殺技までも見事に受け切るレスラーは貴重だ。 www.youtube.com その点でいえばもうこの人なのである。大熊元司という男。みてほしい。この男の厚みのある体を。そして太い眉に、もみあげをのばした野武士のような風貌。絵になる。この男こそスタン・ハンセンの強さをアピールするに相応しい。 一流レスラーであるスタン・ハンセンの技を受け続け、それでも体全体で時には反撃し、最後はハンセンの必殺技ウエスタンラリアートを出させる。5分ほどの試合だが、観客を納得させるには十分である。 大熊元司が亡くなってから早い者で30年が経つ。自分も歳を取ったせいか大熊元司がバ
YouTubeのおすすめに懐かしい動画があった。 www.youtube.com 1972年だから、まだ当ブログ管理人は母のお腹にいるころ。なにが懐かしいってもうボウリング場そのものが懐かしい。今じゃ信じられないが、当時はボウリングが大流行していた。スコアも手書きである。だが今回のテーマはそこじゃない。 ちょっとだけ出てくるのだが、沖雅也さんなのである。この当時20歳でいまは2022年だから、ご存命であったなら70歳だ。50年って昔だよなってつくづく思われる。 僕より年上の方ならご記憶にあるであろう。沖さんは1983年に自らの命を新宿の京王プラザホテルから飛び降りることで絶った。当時10歳の当ブログ管理人は、沖さんの死について強い印象を植えつけられた。 当時31歳の若さであったこともしかり、ワイドショーに連日登場した養父の日景忠男さんしかり。あと遺書に書かれていたという《涅槃で待つ》という
Twitterのトレンドに《高木ブー》とあったので、まさか!何かあったのではないかと心配してしまったのだが、なんてことはない、今日3月8日はブーさんの誕生日であった。御年89歳まだまだお元気そうだ。 つい先日もバラエティ番組に出ていたのだが、きちんと体が名を表していた。髪の毛もあって若々しい。5人が3人になってしまったけれども、そのぶんほかの2人にだけ任せることはせず自己主張していた。 管理人が物心ついたころにはすでに、全員集合でただいるだけの存在になっていた。いるだけでもう《高木ブー》として絵になるのだが、ほんとうにただ絵になるだけ。なにか自分のギャグを言うわけでもなく、決められたセリフを言うだけ。 CSで当時の全員集合を観ていると、ブーさん、なんかつまんなさそうなのだ。いまの方がむしろ楽しそう。おそらくこれは、当時の忙しさに起因しているのだと思われる。 昭和40年代のドリフは音楽しまく
夜ヒット(夜のヒットスタジオ)は、1968年から1990年までフジテレビ系列で放送されていた音楽番組で、最近でもCSで再放送がやっていたりする。いまの若人がこの番組を観たら、なにを想うだろうか。 www.youtube.com 1978年11月6日か。5歳だわ。当時は夜10時からだから、すでに夢の中だ。寝ている間に現実世界ではジュリー(沢田研二)と(西城)秀樹が共演していたのか。自分的に豪華なコンビなのである。ジュリーと秀樹というのは。二大巨頭といえる。 こうやってみると、当時を知らない人はバンド演奏かと思うだろう。今では考えられないもの、こんな人数のバンド演奏。ギャラもけっこう行くのではないだろうか。それに人数がいるからこそ、それなりに広いスタジオでやらないといけない。 オープニングメドレーなんかを観ると、その広いスタジオを縦横に使うから立体的にみえる。そうすると奥行きを感じるのだな。生
職場でPCR検査を受けたのだが、結果が返ってきて陽性といわれた。昔から体温が37度以上めったに上がらない人間なので、ふつうにクラスターが発生した施設で働いていた。 検査を受けた日から10日間休まないといけない。部屋に閉じこもりっきり。なのでこうして久しぶりにブログを更新しているのであった。デザインまで変える始末。ほんと今後はマジメに更新しようかなと。休息がとれた今となっては思われる。 自覚症状といえば、倦怠感だろうか。いま思えば、道理で仕事終わりにぐったりと疲れるはずだと。検査の結果が出るまで精神的なものだと思っていた。熱が出ないというのは実に困る。 おかげさまで労災はもらえるので、そこのところは安心なのだが、職員が次々と感染していくなかでの職場はまさに修羅場だった。修羅というのは、輪廻転生する6つの世界のうちのひとつだ。仏教用語である。 天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道とあっ
「白黒アンジャッシュ」という千葉テレビでやっているローカル番組がある。その名の通りお笑いコンビ、アンジャッシュの冠番組である。今回例の騒動で自粛してからの1年8か月ぶりのコンビでの復帰である。 news.yahoo.co.jp 僕個人の見解としては、このような下世話な話どうでもいいのだが。復帰を批判しているニンゲンなんぞ、しょせん本気で怒っているわけではないだろう。ただイジメたいだけに違いないのだ。胸を張ってやっていいイジメなど、あるわけないのに胸を張っている。 これはまさに怒りではない。笑い、つまりは嘲笑である。しかし倫理違反を犯してしまったアンジャッシュ渡部は、芸能界で今後もメシを食っていくのなら、十字架としてこの嘲笑を背負い続けなくてはいけない。 芸人には二つの笑いの取り方がある。《笑わせる》と《笑われる》この二つである。《笑わせる》ために今回の失敗は使えないが、《笑われる》のはこの
気まぐれにまた述べてみる。述べたい気持ちはあったのだが、打たれ弱いハートを抱えてズルズルと生活していた。なぜ嫌われるのかとか、わからないというのは、歳を重ねた弊害なのであろうか。 もしかしたら自分が係わることのできない社会で、変な噂を立てられたからかもしれないし、実は理由すらないかもしれない。というのは自分勝手な物言いかもしれないけれど。 アラフィフのオヤジとして気をつけないといけないのは、嫌われることに対して、自分の沽券を気にして怒りをあらわにしないことだ。それが高じて暴力に発展する。そんなことするぐらいなら、《哲学的思索モード》に突入した方がいい。 そもそも哲学そのものがなんなのだという話だが。これはぜひ通信制の大学に入って自分の肌で感じてみてといいたいところなのだが。有名な哲学者の名言をかいつまんで意識を高く持つのが哲学ではないということは述べておく。 じゃあなにかと問われたなら、《
いつだったかあるバラエティ番組で、秋葉原通り魔事件の再現ドラマをやっていた。その前にも同じように再現ドラマを交えた特集をやっていたことがあったが、なぜだろう、この手の番組は解決案を提示しない。 犯人は孤独だった。そういう人もいるであろうがどうだろうか。孤独だったらむしろこんな事件を起こさないのではないか。というのもこの犯人は社会においてどうみられるかということに固執していると思われるからだ。 彼女を欲しがるということなんぞ、そのあらわれだろう。そういう人間は社会におけるステータスシンボルを欲しているのだ。孤独はまったく悪くないし、犯人は孤独ではない。現に女の人とコンタクトがあったわけだから。 それにインターネットの掲示板で匿名の相手とコミュニケーションをとっていたのだから、むしろ社会に飛び込んでいる。ただ社会というのは、一つの大きな枠組みではない。もっと複雑だ。 社会というものは、2人でも
ブログの表題であるどちて坊やは、そのむかしテレビ朝日で放送されていた「一休さん」の登場人物である。ことあるごとに「どちてですか?」と聞いては一休さんを困らせる。 どちて坊やは戦災孤児で、それが《どちて?》と関連しているのかもしれない。幼い身空で世の不条理に疑問を投げかけているのではないだろうか。なにか哲学的なものを感じる。 哲学というのは難しそうでいて実にシンプルなものである。それこそ《どちて?》で成り立っている。どちて人は存在するのか。どちて人は死ぬのか。死んだら人はどこに行くのか。それをなんで自信持って言えるの?どちて? 一休さんみたいな宗教関係者は、そういうところを曖昧にしようとする。天国や地獄の存在などまさにそうで、現世の人が確かめようもないものを存在すると言ってしまうこと自体が曖昧そのものなのだ。 どちて坊やはその曖昧な部分に切り込んでいくのであった。このブログも哲学を駆使してい
この文章は僕が現在通っている日本大学通信教育部文理学部哲学先攻の「哲学概論」という科目の提出レポートですが、僕のモノの考え方の基本みたいなものなので、掲載 しておきます。稚拙な文章で恐縮です。 アリストテレスはソクラテスやプラトンと は異なり、アテナイ生まれではなく、ギリシ ャ北西部のマケドニアのスタゲイロスという 街に侍医の子として紀元前384年に生まれた。 10代で両親と死別し、17歳でアテナイに来 てプラトンのもとで20年間学び、その後、諸 国遍歴し、アテナイにリュケイオン学園を創 設した。プラトン哲学を批判し、巨大な思想 体系を築き上げる。 アリストテレスは「存在者」と「存在その もの」とを分け、「存在者」を対象にする諸 学を自然学とする。そして「存在そのもの」 を考察することについて自然学より先立つ純 粋な学問と位置づけた。この学問を自然学(physica)の後(meta)に置か
この7月から8月にかけて、さまざまな人の訃報を目にした。作曲家の小林亜星さんもその1人で、また昭和の象徴のような人が1人というかんじである。亜星さんが亡くなってから、あるどこかで聞き覚えのあるCMソングを耳にした。 www.youtube.com もとは昭和42年のCMである。そうだタイヤメーカーのブリヂストンのCMだ。そして作詞作曲は亜星さんだった。50数年前の歌が現代に甦ったのだ。この人は数多くのCMソングを作ってきた。 www.youtube.com CMソングというのは、歌謡曲などとは違う普遍性のようなものが求められている。耳に残らなければいけない。それが売り言葉と合わさって、CMとして成り立つものなのだ。 そういう意味でこの「どこまでも行こう」というCMソングは優れている。売り言葉を邪魔しないでかつ、時間が経っても耳に残る。どんなに流行性があっても、人の耳に残らなければダメ。歌詞
そういえば前回の記事で引用したニュースの題名に、「義務教育ってムダじゃないですか?」という文言があった。この文言で思い出すのが、YouTuberで少年革命家のゆたぼんである。 彼は小学校で宿題をやらなかったことで先生から暴力を受けて、そこから学校に行かなくなったということだが、中学生になった現在も不登校を貫いている。小学校卒業時には卒業証書を破いてちょっとした話題になっている。 news.yahoo.co.jp 不登校に関して僕はとやかくいう筋合はないのだが、こうやって話題になるのを狙って挑発的な発言をするのに関してはモノ申したくなる。中学生の発言に大人がとやかく言うのも・・・っていうところを狙ってるだろみたいな感じで。 ゆたぼんのバックには父親の存在があるわけだが、子どもが学校に行かないでYouTubeをやるというだけで注目されるのに、こういう子どもを盾にして、挑発的で話題性の高い動画を
本格的に戻ってきた。このブログにである。また止まってしまうかもしれないが。でもまた忘れられたころに戻ってくる。現在はYouTubeもやっていて、要介護度5の母との暮らしの様子なんかを動画にしている。 www.youtube.com さて本題に移ろう。 bunshun.jp 出勤するサラリーマンの姿を見て、明るい人が1人もいないな、こういう風にはなりたくないな、と思ったんです。 これ生産性のない虚業で稼ぐ人間が言うセリフじゃないだろうか。サラリーマンがいるから社会がうまく回っていくというのに。みんな疲れを抱えながら頑張って働いているわけだ。 この嫌な感じに拍車をかけるのが、題名で”義務教育ってムダじゃないですか?”などとちょっとした炎上を狙っているところだ。いったいあの天下の文藝春秋社がどうしてしまったんだ。菊池寛が草葉の陰で泣くぞ。 というわけでこのブログもYouTubeも炎上を狙うことな
あるおばあちゃんが、通信制の大学に入学することになって、孫になんで今さら勉強なんてするのと聞かれてこう答えたそうだ。 何もしなくても歳はとるんだよ。 そうなのである。そして学ぶことに歳は関係ない。 むしろ学ぶことへの欲求というのは、歳を経ると増していくもので、さらにいうと哲学という学問もまた歳をとると、学びたくなってしまうものなのである。 とは言ってもだ。 漫画家の倉田真由美さんが「だめんずうぉ~か~」というマンガのなかで、西洋哲学は学問のなかで一番役に立たないと描いていたのも事実である。 でも学問というのは、役に立てる知恵がなければ、どんな学問も役に立たない。裏を返せば、役に立てる知恵があればどんな学問であっても、その人にとって役に立つ。そして哲学とは、よりよく生きるために役に立つ学問なのである。 ってなんてめんどくさい男だろうと思われるかもしれないが。 でも歳をとればとるほどなぜ哲学を
もうみなさんは打たれたのだろうか。私は高齢者施設で仕事をしているので、同年代の人に比べ早い時期にワクチンを接種することになった。働いている施設が提携している病院に依頼し職員も接種することになったのだ。 接種するにしろしないにしろ、職場の方に誓約書を書かなければならない。私個人は接種しなくてよければ、しないに越したことはないというのが正直なところだ。だが、しないと申告すると上司と面談しなくてはならなくて、なかなか面倒なことにもなる。 誓約書には接種すると書いた。接種したくないというのは、あくまで私個人の都合であり、もしものことがあって施設の高齢者になにかあったら困る。つまりは他の人の事を考えてのことである。 社会のなかで生きているのだから、やはり個人の都合よりも多くの人の身の安全の方が大事なのである。接種しないより接種した方が他の人の安全は守れる可能性は高いのだから。それは使命感のようなもの
www.youtube.com ご無沙汰をしております。いろいろありまして、こんなことになっております。 15年ぶりぐらいに千葉に戻ってきました。新しい生活にも慣れてきて、やっとこさインターネットも開通してこうしてブログを更新しております。まさか48歳で70歳の母を介護することになろうとは、思いもよらず。 そんな毎日の生活を切り取って、こうして動画にしてみました。試運転みたいな感じなので、素人丸出しですが素人なのでこれでいいのです。ただもうちょっと明るくしようかなと考えております。なにとぞよろしくお願いします。 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。
輪廻転生は”りんねてんしょう”と読ませる。生は”せい”ではない。仏教用語というのは、”建立(こんりゅう)など、呉音といって漢音伝来以前の読み方をさせる。いきなりなぜ僕はこのようなことを言い出すのか。 それは大学で習ったことの復習をしているからであった。もし殴るなら顔はやめて、ボディにしてほしい。僕が籍を置く日本大学通信教育部文理学部哲学専攻というところは、いわゆる西洋哲学だけをやるわけではない。 専門の必修科目には宗教学関係があって、西洋哲学と同じぐらい仏教(インド哲学)を僕は履修している。キリスト教やイスラム教、ユダヤ教などはもとをただせば、同じ天地創造の神を持つセム宗教といわれる。 それらセム宗教は、死んだら天国か地獄という道しかない。死後の世界が単純なのである。ユダヤ人であった哲学者スピノザは、人は死んだら宇宙と一体になるなんて言ったものだから、ユダヤ教界隈から追放されて、大変な人生
介護という仕事をしていると、さまざまな認知症の人と出会うことになる。認知症というものにもまた、いろいろな種類があるのだが、共通しているのは、脳が原因の症状であるということだ。 人間の思考は脳だけが司るものであろうか。いちおうはそういうことになっている。そうとしかいえないともいえる。この世においては。しかしヒトは肉体と魂とに分かれていて、肉体が死んでも魂は残るという考えるヒトもいた。 その代表格がソクラテスである。だからソクラテスは、肉体と魂をもって生きるこの世において、より善く生きることによって、魂を汚さないようにしようと言った。死ぬのは肉体だけで魂は生きつづけるのだから。 魂は思考する。脳は肉体の一部にすぎない。そう考えてみると、認知症のヒトというのは、実は魂の部分で考えていることが、脳の症状によって、肉体にうまく伝達ができないでいるということも考えられるのだ。 今日のところはこれまで。
前回の日記で、飛び降り自殺に巻き込まれた方の話を書いたが、なにが悲しいかというと、巻き込まれる直前まで日常生活を送っていたというのに、前触れもなくその日常が断ち切られてしまったということだ。 その点でいえば、まだ飛び降りた高校生は死ぬという覚悟をもって飛び降りたという経緯があるだけいい。そうなのである。だからもし自分は自殺するという人がいたら、絶対に他の人を道連れにしないやり方でやっていただきたい。 どうも厭世観で自殺する人というのは、他人の迷惑を顧みない傾向にあると思われる。死んだ人を悪く言うなといわれるかもしれないが、死後の人間の存在の在り方は、いろいろな可能性が考えられるので、あえていわせてもらった。 私はこれから死ぬという思考が持てる死に方と、そうではない死に方には大きな差があるのである。自分の人生をふり返れない死は悲惨である。ただもし肉体と魂は別物で、肉体が死にかけても、思考でき
先日、大阪で男子高校生がビルから飛び降り、女子大生が巻き添えをくらい亡くなったという事故があった。女子大生の方は当初重体ということだったので、事態の悲惨さもあって助かってほしいと願っていたが、残念な結果となった。 人間は死んだらどうなるのか。これはまさに形而上の分野である。形而上というのはすなわち、はっきりとした形はなく、感覚の働きによってはその存在を知ることが出来ないもののことである。 なかには自分は神またはその使いだとして、天国と地獄は存在するという人間もいる。しかしそれは100%嘘である。なぜかというと、死後の世界は死なないかぎり見ることができないからである。 死は脳をはじめとした肉体の機能の停止をもってしかありえない。つまりこの世において、思考をもって死後の世界をみたというのは全部嘘ということに他ならない。 ただそれは魂という存在を否定するということでもない。魂とは肉体の死から独立
やはりこっち側の人間だったのだと思われる。 こっち側というのは”ブログ”である。そしてあっち側はYouTubeである。いつも小生は言葉足らずであったと後悔する。そうして悪印象をいろいろな人に与えてしまうのだ。 そしてそれはいつも会話の中でやらかしてしまうのだった。こちらに悪意はないのだが、人を怒らせてしまう。頭の中に数余多、さもすると無限に存在するのではないかと錯覚してしまいそうな中からつい選んでしまった言葉。 言葉は記号として”性格”というものに変換される。相手が本当に考えている事なんてわかるわけがないのだから、かんたんに変換されて、こいつはこういう性格なのだと思われるのは致し方ない。 そういう言葉の行き違いが起きるのは、たいてい話し言葉の方なのだ。また口が軽いのかというと、でも頭の中で考えていた言葉を発しようとしてもうまく出てこない。頭の回転が悪いというヤツである。で出したら出したで出
あの”客室乗務員物語”のすごいところ3つを語る 自分のYouTubeチャンネルで、TBS系列ドラマ「スチュワーデス物語」をとりあげたので、いま一度以前CSで再放送されて録画したものを観返してみた。あらためて観てみると、魚屋のサブちゃんの扱いのあんまりさが、子どもの時分に観たときより際立ってわかるようになっていた。 動画でも紹介したが、魚屋のサブちゃんというのは主人公・千秋の幼なじみで、千秋に恋愛感情を持っているけど、千秋には友人としか思われていない。義父の政治や村沢教官の婚約者・真理子にそそのかされて、肉体関係を強要しようとしたり、結婚を申し込んで失敗したりしていた。 第17話での求婚の失敗で逆ギレしてしまい、終いには千秋の同期生から”帰れコール”の大合唱を浴びて退場し、そのまま最終回まで戻ってくることはなかった。 いやせめて最終回ぐらい、サブちゃんだって時には千秋を助けてあげたりもしてた
ラーマ奥様インタビュー【昭和CMで思い出に浸ろう】 いろいろな奥様が登場するけれども、みんなが共通して言うのは、うちではいつもラーマを使っていますということ。子どものころは、なにげなく観ていたけれども、大人になったいまとなっては、わざとらしさを感じてしまう。 電気カミソリのCMで「今朝剃ってきたんですけどね~」というのもあった。これも同類だ。しかし汚れた大人になってしまったなあ。これは子どものころ自分の家がいつもネオソフトだったのも要因としてあるのかもしれない。 もう一つ思われるのが、ゴールデンソフトでもネオソフトでも焼いてないパンに塗ってもあまりおいしくないだろうということ。動画に出てくるしゅんちゃんも同じような感想だったのではないだろうか。 この一般人を出してのわざとらしさと実演の手法は、脈々と現在の通販番組に受け継がれていると思われる。ただ、いまの通販番組に出ている人は、押坂忍さんの
うちの母が先月の20日に脳梗塞で倒れて、ずっと救急病院に入院していました。命に別状はなくなり、一般病棟に移り、おかげさまで8月13日にリハビリテーション病院に転院とあいなりました。 転院につき、付き添いが必要ということで、介護タクシーに同乗しました。幸いにも倒れる以前の記憶はしっかり残っていました。ただ言葉を発するのが難しいようです。頭の中で言語化することができても、それをアウトプットすることができない。 それでも少しは言葉が出るし”はい”と”いいえ”の意思表示はできるので、ある程度のコミュニケーションがとれます。なのでリハビリテーション病院に行くまでの間に話をしました。そこで哲学を学ぶ人間の血が騒ぎ、昏睡状態の間に意識があったのか聞いてみました。 するとすでにこの世にいない母方の祖父と祖母に会ったというのです。もしかしたら昏睡状態から脱する過程における夢なのかもしれません。ここらへんの境
こちらのブログでは更新しています。 kotobasm.blog.jp いまちょっと自分を見つめなおしている時期です。 またYouTubeの方はマメにやっているので、ぜひ観てやってください。 www.youtube.com なにとぞよろしくお願いします。 Tweets by K_Mizinkoheart
NHK教育テレビ「みんななかよし」についてちょっと語ってみた 動画の再生数が伸びない。”恐怖の5秒間”のあまりのくだらなさのせいだろうか。 「みんななかよし」の歴史は古く長い。1962年から1987年という25年の歴史を持っている。歌をソラで歌えるというヒトも多いのではないだろうか。僕もそのひとりである。内容はよくおぼえていないというのに。 ただ僕の場合、小学生のころと住んでいたのは、千葉市の埋め立て地の集合団地だったので、「空き地」というのはあまりなかった。1962年ならば空き地もたくさんあったかもしれないが、1980年代にもなると空き地などというのは、もはや幻の域であった。 ましてや知らない子もやってこなかった。いるのは顔見知りの団地の子だけ。いま思えばうちの団地は、一種のスラムだったのかもしれない。戦後にできた埋め立て地だったので、昔からの一軒家もなかった。 そう考えると、特殊なとこ
志村けんさんがお亡くなりになって1月が経とうとしている。まだ実感が沸かない。世の中は相変わらず、コロナウイルスのことで大変で、今日は行きつけのスーパースターが、店員さんにコロナウイルスに罹った人が出たということで、休業になってしまった。 大学の方も、ふつうの授業ができないので、通信授業とレポートでもっぱら勉強している。仕事の方は、通販サイトの業務なので、休業することもなく稼働している。しかしこれもどうなるかはわからない。 このような時にも、ふと思い出すのが志村さんの追悼番組で高木ブーさんが言っていた「志村は死なない…」というコトバだ。このことを言うまでにブーさんはずっと目をつむっていて、あれ?寝ているんじゃないの?という感じだった。 実はそうじゃなくて、ずっと考えていたから出たコトバなのだが。なにかこうシンプルなんだけど、哲学的な感じがする。ソクラテスのようだ。ソクラテスはよく急に瞑想をし
そういうことにしている。流行り病の話ばかりで、観たところで、なにかが変わるわけでもない。どんなに蔓延しようが、仕事をしなくてはいけないのだこちらは。職場は通販サイトの物流倉庫で食料品も扱っている。 なのである意味で最後の砦みたいなものだ。連日忙しい。夜勤なので夜中出歩くのだが、けっして不要不急というわけではない。マスクは通勤中も仕事中もしている。洗濯して使いまわしている。 とりえる対策はこんなものであろう。 ある休日の昼ごはん といいつつ人が多くいるところに外食に行ったりもするのだが。はたしてこれは、”不要不急”であろうか。ただやはり外食をしてお金をまわすというのも、ひとつの社会貢献だとは思われる。 休みの日は基本、家にいる。テレビはドラマかバラエティか教養のいずれか。”今の情報”をシャットアウトするようにしている。YouTubeも今回の流行り病と関係のないもの限定で。なにを観ているかはま
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