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映画『八甲田山』の完成記念の打ち上げパ-ティが森谷司郎監督、脚本の橋本忍先生、主演の高倉健さん、北大路欣也さんなどの豪華俳優人が出席して六本木の某レストランで開かれ、私も末席に加えていただきました。 司会は東野英心さんで、森谷監督や橋本先生を始め、名だたる出演者の方々にマイクを向けてスピ-チをお願いしたんですが、英心さんはパ-ティを盛り上げるために端役の私にまで「原田さん、一言お願いします」とマイクを向けてきたんで、えらく恐縮してしまいました。 パ-ティに参加された皆さんに、ふんどし男が狂い死ぬシ-ンを褒めていただいてとても嬉しかったです。 特に橋本先生には「僕の書いた場面が、君の必死の演技のおかげで何倍にも魅力的になった」と言っていただき、後日、先生が映人社から出版された「映画『八甲田山』の世界」という署名本を頂戴しました。 25歳で芸能界に入ってから18年間。 数多くの作品に出演させて
とてつもなく寒いのに服を脱いで裸になるなんて不思議な気がしますが、調べてみるとこの異常行動は「矛盾脱衣」という現象で、実際に寒冷地で遭難して凍死した死体の中に裸で見つかる例があるそうです。 体温低下を阻止しようと体内の温度を上げようとする人間の身体に備わった機能によって、体内の温度と外気の体感温度との間に温度差が生じてしまい、まるで暑い場所にいるかのような錯覚に捉われて服を脱いでしまうらしいです。 私の撮影の日が近づくにつれて、撮影隊の中で極寒で裸になるシ-ンを撮ることが話題になっていたんですが、事故防止のために撮影隊に同行していた地元の山岳会の人だと思うのですが、この話を聞いたらしく、私の処へ来て「どちらの出身ですか?」と訊ねます。 「神戸です」 「こんな寒さ、神戸では経験したことないでしょう」 「そうですね」 「止めた方がいいんじゃないですか?命の保障はできませんよ」 「本人がいいと言
日露戦争を前にした1902年(明治35年)に起こった日本陸軍青森歩兵第五連隊の八甲田山雪中行軍遭難事件を題材にした映画で、足掛け3年の制作期間をかけて完成した大作です。 映画『八甲田山』の企画は、1974年に公開された松竹と橋本プロの提携作品である映画『砂の器』と同時期に始動していました。 『人間革命』『砂の器』『続・人間革命』と連続で橋本脚本の作品に主演していた縁で、丹波さんと橋本忍さんはつき合いがあり、三国連太郎さんが演じた青森第五連隊の山田少佐の役を当初は打診されていました。 冬の青森県八甲田山周辺をロケ-ション・ハンティングされていた橋本さんから情報を得ていた丹波さんは、その苛酷なまでに厳しい冬の寒さのことを耳にして「雪中行軍に参加する役はやりたくないな」と思ったんでしょう。 山田少佐の役を適当な理由をつけて断って、代わりに弘前三十一連隊長の児島大佐を演じることになりました。 丹波
さあ、2カット目です。 毛布のまま雪上車を降りて、撮影現場で助監督さんに毛布を手渡すと巨大扇風機に直撃されて、いきなり体感温度は零下30度にも感じます。もう寒いというようなレベルではありません。 一瞬にして肌は赤黒くなり、ヒリヒリと痛いのです。 凍死した隊員役として私の周囲の雪の中で横になっている奴らも大変ですが、今の私にはそんなことを気にしている余裕などありません。 森谷監督の「ヨ-イ、スタ-ト!」の声でテストが始まります。 軍服のズボンとパッチ(股引き)を一気に膝下まで下ろして、ふんどし一丁になると、あとは叫びながら発狂した演技です。 泳いでいると云うか宙をもがくように腕を動かしながら、その場を廻るように歩きまわって、雪溜まりの中へ頭から突っ込んでいく流れです。 3人くらいの助監督さんに助け起こされてすぐに毛布で包まれました。 テストの動きを見ていた森谷監督からは「雪に埋もれたあと、も
映画『八甲田山』(橋本プロ・東宝映画・シナノ企画)を観たことがありますか? 明治に起きた日本陸軍の八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした高倉健さん主演の映画で1977年公開の邦画興行成績第一位。 厳冬期の八甲田の雪中行軍で、生還の可能性を見出せずに絶望して「天は・・・天は我々を見放した!」と叫ぶ北大路欣也さんのセリフが印象に残ります。 当時の映画館の観客に、そのシ-ンに負けないくらい強烈な印象を残した場面が、実はもうひとつ他にもあったのですが・・・覚えておられますか? (橋本忍先生の脚本より) 兵隊のひとりが外套や軍服を脱いで裸になり、乱暴に暴れだして雪の中を転げ廻り、その中へ頭を突っ込んで動かなくなってしまう。 1977年2月12日 毎日新聞夕刊 土曜レポ-トのコ-ナ- 【腰まで埋まる雪の中、錯乱のすえふんどし一つで凍死。 【文字どおり死を覚悟しての演技だった】 1977年3月6日 公明新聞
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