サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
mikanpro.hatenablog.com
曇りガラスのようなものを通して見える青空。幼い兄弟が見ているのは、羊たち、おじいちゃん、そしてお父さんがバイクに乗ってやって来る。曇りガラスのようなものは風船だ。だけどただの風船ではない。枕の下にある風船。だからお父さんにこっぴどく叱られ、ぱあんと割られてしまう。 広大なチベットの草原に暮らす羊飼いの家族。逞しい種羊を仕入れてきた夫に、妻のドルカルは、 あなたみたいね と笑う。 だがそれは微妙な笑い。悩みは妊娠するかもという不安だ。チベットでは中国の指導を受けて、4人目を産むと罰金が科せられるという。幼い兄弟のほか、町で高校に通う男の子がいる。罰金だけではない。日々の子育て、家事、牧場の仕事、すべてが今めいっぱいのドルカルは余裕がない。 村の診療所で避妊手術を相談するかと思えば、かつて恋愛問題で傷つき尼僧になった妹に、自分も俗世の煩わしさを避け、尼僧院に行きたいと呟く。 そんなある日、おじ
桜の花びらが舞う並木の通りを少し入ると、そこに小さなどら焼き屋がある。客はそれほどありそうもない。花びらが入っていたと、なじみの中学生たちになじられる様な、頼りない中年男が店主だ。ある時76歳だという老婆が、バイト募集の張り紙を見てやってくる。一度は断るものの、老婆が持参した「あん」を食べて驚く。店主がこれまで食べたこともないような味だったのだ。 老婆の徳江が作る「あん」は評判を呼び、やがて行列ができるほどの人気になる。徳江のあんづくりは独特のこだわりがある。まず小豆を炊く工程の一つ一つにとても丁寧に時間をかける。そして小豆に声をかけるのだ。「頑張んなさいよ」と。のちに徳江は店主の千太郎にあてた手紙にこう書く。 「あんを炊いているときのわたしはいつも、小豆の言葉に、耳をすましていました。それは、小豆が見てきた雨の日や晴れの日を、想像することです。どんな風に吹かれて小豆がここまでやってきたの
湖の畔の小さな町。ある夜、雑居ビルで火災が起こった。サイレンが鳴り響き、燃え上がる炎とそれを消化しようとする消防士。マンションのベランダでそれを見物する母親と子どもがいる。シングルマザーの早織(安藤サクラ)と小学校5年の湊(黒川想矢)だ。 「豚の脳を移植した人間は人間?豚?」 湊は母親に聞く。 この言葉が呪文のようにこの映画で何度も反芻されることになる。数日して早織は、湊の様子がおかしいのに気づき、学校でいじめがあるのではないかと疑う。問い詰められた湊は、担任の先生が自分のことを「豚の脳」と言い、暴力を振るっていると打ち明けた。 怒りを抱えて学校に乗り込んだ早織だったが、学校側の対応が何とものらりくらりで、埒が明かない。担任の保利(永山瑛太)は、「(こんな風に乗り込んでくるのは)母子家庭あるある」という言葉まで放つ始末。おまけに「湊君は同級生の星川君をイジメてますよ」と。早織は星川君の家を
南米チリ。北部に広がる荒涼としたアタカマ砂漠。ここに「過去」を求めて人々が集まる。「過去」の痕跡を探す考古学者、宇宙の光をとらえる天文学者、この地で肉親を亡くした女性たち…。人々はそれぞれのやり方で「過去」に向き合う。遠い「時間」のかなたに失ってしまった何かを求めて。これはその営みの根源を探るドキュメンタリーである。 監督はチリのドキュメンタリー映画を代表する、パトリシオ・グスマン。2010年の作品だが、今年制作された「真珠のボタン」とあわせ、2部作として連続上映されている。 天文学者が観測しているのは「過去」からやってくる光だ。光は光速で地球にやってくる。それは遠ければ遠いほど遥かな過去の光だ。もしかすると、それによって「私たちはどこから来たのか」「私たちはなぜここにいるのか」が明らかになるかもしれない。若き天文学者ガスパール・ガラスは言う。 「天文学者は過去を見つめ、そこから多くを学び
監督・脚本:グザヴィエ・ドラン 主演:アンヌ・ドルヴァル、アントワン=オリヴィエ・ピロン カナダ/138分 原題「MOMMY」2014 養護施設に預けられていた息子が食堂に火を放ち、友達にやけどを負わせた。呼び出された母親のダイアンは3年前に夫を亡くしたシングルマザー。息子を引き取り、2人で生きていこうと決心する、それが物語の始まりだ。 15歳の息子スティーヴはADHD(注意欠陥多動性障害)を抱えている。つまり普通ではない。感情の抑制が効かず、気に入らないことがあるとすぐに暴れだしてしまうのだ。穏やかな時は気のいい若者なのだが、我慢が効く閾値がとても低い。 2人で暮らし始めて間もなく、スティーヴがスーパーで万引きをし、それを咎めたことで“爆発”した。激しく雄たけびを上げ続けるスティーヴ。必死でなだめようとするダイアンだが、「ママのためにやったのに」とスティーブの怒りは収まらない(盗んだのは
フィンランドの港町。岸壁に打ち付けるたぷたぷという音が、潮のにおいを感じさせる。運ばれてくるのは石炭。真っ黒な石炭の中からひょいと、大きな目をした男が顔を出す。男は町でシャワーを浴び、警察署に出向く。難民申請するためだ。 この男カーリドはシリアからやってきた。空爆で家と家族を失い、生き残った妹とは逃亡中にハンガリーの国境ではぐれた。 映画はもう一人の男を登場させる。身じまいを但し、出ていく老年の男。服のセールスマンだ。どういう関係か、座って酒を飲む老婆にカギと指輪を置いてゆく。そのまますべての服を売ってしまうと、賭博場に出向き、そのお金をすべて賭けてしまう。 どちらも過去を捨て新たな道をあるく男だ。この二人は出会わなければならない。そのことで映画の提示する現実が少し変わらなければならない。ライブハウスでは男が歌っている。 ♪音楽か死か 音楽がすべて 理由などない ♪運がよけりゃうまくいく
愛知県春日井市。高蔵寺ニュータウンの一隅に、とても小さな雑木林がある。モミ、カエデ、ナラ、シイ、ケヤキ…。林の中を覗いてみると、その奥にはキッチンガーデンが広がる。野菜70種、果物50種。そしてぽつんと平屋建ての家屋。ここに住んでいるのは津端修一さん、英子さん夫婦。二人合わせて177歳。この映画は二人の2年間を記録したドキュメンタリーである。 津端修一さん(90歳)は建築家。平屋はなんと32畳のワンルームで吹き抜け。敬愛する建築家アントニン・レーニン氏の自邸を模して建てたという。自給自足で、多くを手仕事でまかなう生活。大変なことも多いだろうが、日々が充実していることは二人の表情を見ていると伝わってくる。映画では詳しく紹介されなかったが、出来得れば、野菜の種を植え、芽が出て、その成長を見守る日々の姿も追ってほしかったと思う。英子さんはある本でこんなことを語っている。 「毎日見回って、出てきた
ブーケを買おうとしている老人。二束買うと割引なのだが、一束しか必要が無い。店員に一束なら割引額の半額にすべきだと言い募っている。あきれ顔の店員。次に訪れるのは墓地。墓石のそばにたたずむ老人の手にはブーケが二束。結局店員の言うことを聞いたんだなと思わず笑ってしまう。 老人は妻に死なれたばかりのやもめ暮らし。何もかも面白くない。ある日長年勤めた鉄道会社もクビに。首を吊って死のうとするが、窓から見えるのは自分の家に今にもぶつかりそうな引っ越しの車。新しい隣人がやってきたのだ。我慢できず飛び出し、運転の下手さを罵る老人。やれやれ自殺もままならない。 映画は、ひねくれ老人オーヴェのこれまでの半生をはさみながら、引っ越してきた隣人との交流を描く。嫌われ者の老人がどう変わってゆくのか。時に笑いを交えながら、ハラハラドキドキ描いてゆく。 原作の「幸せなひとりぼっち」はスウェーデンの作家フレドリック・パック
韓国、釜山。高卒だが苦学し裁判官になったソン・ウソクは、弁護士に転じて不動産登記の仕事に乗り出す。1978年、折からの不動産ブームで仕事は順調に拡大、やがて税金問題を専門とする弁護士に転じ、釜山一金を稼ぐと言われる弁護士になってゆく。 金儲けが正義だったソン・ウソクには、政治への関心は皆無だった。デモをする学生を「勉強がイヤだからやっているだけだ」と馬鹿にして、高校時代の旧友にあきれられる始末。そんな彼に転機が訪れる。馴染みのクッパ屋の息子(大学生)が、無実の罪で警察に逮捕され、拷問を受けていたのだ―。 2003年から5年間、韓国の大統領だった廬武鉉の若いころの実話をベースに描いたものだという。軸となるのはいわゆる「釜林事件」である。軍事政権下で民主勢力を抹殺するため、社会科学書籍を勉強していた学生など19人を不法に逮捕・監禁して拷問。国家保安法違反などの罪をねつ造した事件だ。おととし公開
アイルランドの田舎町。古い建物が並ぶ町並みの中に一軒の食材店がある。ケリーおばさんの店だ。ケリーおばさんは口うるさく、あからさまに上客だけを贔屓する意地悪な人。この店で売り子として働くエイリシュは、近く町を出ていこうと考えている。行く先はニューヨークのブルックリンである。 1950年代、不況下でアイルランドからアメリカへの移住が殺到したという。エイリシュもその一人、新天地で自分の生き方を試したいと考えたのだろう。エイリシュ役のシアーシャ・ローナンは、その強いまなざしがとても印象に残る。彼女は何を見つめているのか。私たちもその瞳の先を見つめ続けることになる。 ブルックリンではホームシックにかかり泣き暮らす日々を送るエイリシュだったが、やがて夜間の大学に通い、恋人(イタリア系移民)もでき、未来への夢が広がり始める。そんなあるときアイルランドから知らせが届き、帰郷を余儀なくされる。恋人は不安にか
「あの時と同じ… 最初はみな笑っていたわ」 あのヒトラーが2014年のドイツにタイムスリップした。ちょび髭で軍服姿、おかしな言動は物まね芸人と間違われ、すぐにテレビ出演することに。人の心を鷲づかみにする話術はお手の物のヒトラーは、一躍人気者になってゆく。やがて一緒に活動を続けていたディレクターは、残された映像から彼が本物のヒトラーだと気づくのだが…。 この映画の独特なところは、物語の中に新たに撮影したドキュメント映像を織り込んでいるところだ。劇中のヒトラーはテレビディレクターに連れられ、ドイツ中を回って人々の話を聞いて歩く。が、これがドキュメントなのである。人々はヒトラーの扮装をした役者(オリヴァー・マスッチ)を受け入れ、本音をぶつけてくる。外国人(移民)が嫌いな中年女性、自分を引っ張ってくれる強い指導者を求める若者…。 監督のデヴィッド・ヴェンド氏は、 「あれほど多くの人々が公然と外国人
車のフロントガラス越しに一軒家が見える。しばらくすると女性が出てくる。車に乗り込んで出発した後を追いかける。カメラが運転手の横顔にパンする。やがて正面に向き直ったとき相手の車のすぐ後ろまで来ている。そこで暗転。次に映し出されるのは扉の向こうの浴室。先ほどの運転手が今度は、動けないらしい老女の体を丹念に洗っている。やせ細った体が痛々しく見える。男は介護の仕事をしているようだ。しかし誰を追いかけていたのか、謎のまま男の日常が進む。 エイズを患っていた女性はやがて死ぬ。次は脳こうそくで体が思うように動かない老人の男性。そしてがんが転移した年老いた女性。幾通りもの肉体の衰弱、そして死。誰もが迎えなければならない人生の最期。しかしそれは決して美しいものではないばかりか、汚物にまみれてのたうち回るような峻烈な世界だ。男はその傍らに寄り添うようにして介護を続ける。ある時、がんが転移した患者に、楽に死なせ
駅の階段を降りた先にある立ち食いそば屋。良太は春菊天そばを注文する。美味そうである。西武線清瀬駅。旭が丘団地まではここからバスに乗る。年老いた母親が一人で暮らしているのだ。この日は亡くなった父親の遺品に金目の物を探しに来た。「確か掛け軸が雪舟だったよね…。」と母親につめよるが、母親は父親の物は捨ててしまったと、にべもない。良太、ちょっといじましい。 良太を演じるのは阿部寛。一度新人賞をとったきりパッとしない小説家志望の中年男だ。小説のリサーチと言い訳して興信所で働いているが、無類のギャンブル好きがたたって、いつも金に困っている。しかも、愛想をつかされ離婚した元妻(真木よう子)と一人息子に未練たらたら。ストーカーまがいの尾行までしてしまう。 監督・脚本は「海街diary」の是枝裕和。自分が生まれ育った実在の団地で撮影した。脚本の冒頭に「みんながなりたかった大人になれるわけじゃない」と書いたと
わたしの両親はいわゆる「不倫」だった―。原作漫画のモノローグで語られるこの言葉が、主人公浅野すずの心に澱のようにたまっている。 浅野すず、14歳。仙台で生まれる。母親を急な病気で亡くし、父親はその後再婚して山形の小さな温泉街に。しかし父親も間もなくガンで亡くなってしまう。 父親の葬儀の時、3人の異母姉妹と初めて出会う。父親は小さかったこの3姉妹とその母親を捨て、すずの母親と一緒になったのだ。 映画はその3姉妹とすずが、鎌倉の古い民家でともに暮らす1年間を綴る。しっかり者の長女、幸。大酒のみの次女、佳乃。天然キャラの三女、千佳。父親が出て行ったあと、母親も別の男性と出て行ってしまい、3姉妹は祖母に育てられた。その祖母ももういないが、祖母が毎年のように庭木の梅で作った梅酒づくりは今も受け継いでいる。 山形での葬儀の日、3姉妹を温泉街を見下ろす高台を案内して、すずは泣く。抱え込んでいた多くの思い
「到るところに屍体があった。生々しい血と臓腑が、雨あがりの陽光を受けて光った。ちぎれた腕や足が、人形の部分のように、草の中にころがっていた。生きて動くものは蠅だけであった。」(大岡昇平「野火」) たとえば渋谷の雑踏ですれ違う無数の人々に、ひとりひとり固有の人生を想像してみる。長い時間積み重ねたその巨大な記憶の量に圧倒されてしまう。だからすぐに想像をやめる。想像をやめるとただ無数の人となる。それは数に還元されるような無機質なものだ。人はしかし数ではない。当たり前のことだけれど。 太平洋戦争の末期、フィリピン・レイテ島。田村一等兵は肺病のため隊から追いやられるが、追いやられた先の野戦病院は爆撃されて、島の原野をひとり彷徨うことになる。やがて日本兵はみなパロンポンに集合すべしという軍令を聞く。道々は倒れた多くの兵士たちが、動けないまま蛆に食われている地獄絵図が広がっていた…。 監督は塚本晋也。原
監督・脚本:クシシュトフ・クラウゼ / ヨアンナ・コス=クラウゼ 主演:ヨヴィダ・ブドニク ポーランド/131分 原題「PAPUSZA」2013 ポーランドの美しい大地。その地を幌馬車で這うように移動する人々。ぬかるみに足を取られながら、いくつもの起伏を越えてゆく。何のために移動するのか。自分たちがジプシーであるから、という以外に答えようがない。そのような人々の物語。 「羽根のように軽く大地を歩けるように」 生まれたばかりの赤ん坊に祈祷師が何度も祈りをささげる。20世紀の初めのこと。ジプシーの一族に生まれ、パプーシャ(人形)と呼ばれた女の子がいた。長じて文字を習得し、言葉を紙に書き連ねるようになる。ジプシーの世界では珍しいことだった。 私は火が大好き、自分の心と同じくらいに。 大きな風と小さな風が ジプシーの少女を育てあげ 遠く世界へ駆り立てた。 雨は私の涙を洗い、 太陽が、ジプシーの
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『映画のあとにも人生はつづく』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く