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パリ五輪
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明治時代に入り、殖産興業の発展などにより女性の労働力が必要とされたことから、江戸時代に比べると女性の社会進出が進んだ。そして、進取の気性に富む女性たちは、自らの活躍の場を積極的に社会に求めた。そうした背景を受け、明治後期には女性の地位向上や封建的慣習からの脱却を目指す女性解放運動がはじまる。その中心にあったのが平塚らいてうであり、彼女が創刊した『青鞜』という女性文芸誌であった。 原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。 今、女性は月である。 他に依って生き、他の光によって輝く、 病人のやうな蒼白い顔の月である。 上記は、らいてうが執筆した『青鞜』創刊の辞の一節であり、その後の女性解放運動のシンボルともなった一文である。『青鞜』が創刊したのは、1911(明治44)年のこと。その名称は、当時ヨーロッパにおける知的意欲の高い女性たちの間で、青いストッキングを履くことが流行したことによると
「キリンビール」の一手販売を手がける明治屋は、斬新な広告・宣伝を次々に展開することで有名だった。そして、数々のユニークな広告や宣伝の中でも特に大きな評判を読んだのが、1909(明治42)年につくられた「ナンバーワン自動車」である。 これは、明治屋が「キリンビール」の配達・宣伝用に英国から輸入した車で、警視庁登録番号が「第1号」だったことから、ナンバーワンの愛称で呼ばれた。ビールびんの形をしたボディーをつけ、そこには大きなラベルのデザインが施されていた。自動車そのものがまだ珍しかった時代に、この奇抜な車は道行く人の視線を集め、抜群の宣伝効果を上げることになったのである。 のちに、このナンバーワン自動車は、車体を幌のものに変えて、東北地方への「宣伝旅行」にも出発。物珍しさで大きな評判を呼んだという。ただし、乗る社員のほうにとっては決して快適なものではなかったらしく、実際に乗車した経験を持つ社員
キリングループが100年以上に渡って生み出してきた様々な商品の歴史を、ブランドごとにご紹介します。
「歴史人物伝」では、日本のビール、ワイン産業のパイオニアたちのエピソードと麦酒を愛した近代日本の人々の物語をご紹介します。
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