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問題意識の所在 ブルデューとマルクス主義との関係はどこかしら疎遠な関係にある。ブルデュー自身はマルクスについて何度も言及しているし、マルクス主義もブルデューの理論の位置づけをしばしば試みているにもかかわらず、両者の議論は互いに一方的で、実りあるものとはなっていない。 もちろんブルデューとマルクス主義との間には共通する関心がある。それは社会構造と個別的な諸制度とがいかなる関係を取り結ぶか、権力関係がいかに具体的な場面に表象されるか、という事に関る事柄である。 さてあとで見るように、ブルデューのマルクス批判は必ずしも妥当なものとは言いがたい。またマルクス主義の側のブルデュー批判もまた、ブルデューを一面的にしか捉えていない。しかし先の事態を説明するに際し、両者ともにある共通のキーワードを使っている。それは各構造間の「相対的自律性」という概念である。本稿ではこの概念に着目する。まずはここから、ブル
はじめに ミネルバの梟はせまりくる黄昏とともに飛び始める。 教育問題言説は、もとより、時代とともに変わっていく。報告者自身がテンポラリに経験した事象をたどるだけでも、80年代の「管理教育」とそれに対抗する「校内暴力」に始まり、90年代のいじめ問題から「援助交際」「少年犯罪」「学級崩壊」とさまざまな事象が問題化され、そして中心から外れていった。 そして何が今教育において問題とされているのか、が見えにくくなっている一方で、本来教育が関わりうるべき事象において教育が不在であることの問題も浮かび上がりつつある。その象徴的な事象として石原東京都知事の一連の発言とそれに対する反応(の弱さ)をあげておこう。「三国人」発言に始まり、「異質なるもの」およびそれに組するものに対しての排除やテロを煽る発言がある種の人間の心性に訴える部分があることそれ自体は悲喜劇として何度も繰り返されてきたことである。しかし一方
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