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TGS2024
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日本ではブラジル音楽の人気が高い。僕のリスニング・ライフでもブラジル音楽はかなりの比率を占めている。いつからブラジル音楽が好きになったのだろう、と振り返ってみると、時は1966年、小学生の時である。「Mas Que Nada(マシュ・ケ・ナダ)」が最初の1曲。オリジナルはジョルジュ・ベンだが、日本のラジオでかかりまくっていたのは、セルジオ・メンデス&ブラジル’66の「Mas Que Nada」だった。 セルジオ・メンデスは1941年にリオデジャネイロで生まれたピアニスト/バンドマスターだが、1964年にアメリカに移住。1966年にブラジル’66を結成し、「Mas Que Nada」をヒットさせて、世界的な人気者になった。ビートルズやバート・バカラックの曲をラテン・ジャズ風味のポップ・チューンに仕上げて大ヒットを連発。アントニオ・カルロス・ジョビン、エドゥ・ロボ、ドリ・カイミといったブラジル
ボブ・マーリーの伝記映画『One Love』を観てきた。 最初のうちはボブがイケメン過ぎて、カリスマ性や神秘性がが薄いなあと思いながら観ていたのだが、そこを含めて、リタ・マーリー・プロデュースの映画なのだと納得して映画館を出ることになった。エピソードの選び方も、ディテールの描き込みも、妻の視線を含んでいるからこその説得力が。 ボブも弱さを抱えた一人の男だった。主演のキングズリー・ベン=アデルがそこを上手く演じている。 回想シーンも切なくて良かった。幼さの残るボブとリタの恋。短髪のボブをリタがラスタの教えに導く。コクソンのオーディション・シーンも最高だった。トレンチタウンのユース・ミュージックがきらきら輝いていた時代の空気が感じられる。 ボブは少年っぽいが、長身のピーター・トッシュはもうラスタ・カラーの帽子をかぶり、ヤバそうな雰囲気を出している。実際、こんな感じだったんだろう。 メインとなる
渋谷ユーロスペースでブラジル映画祭。『エリス&トム』を観てきた。天才二人がオフで好きな歌を歌ってるシーンとか、気絶しそうなくらい良かった。ブラジル音楽の好きな人は必見だ。 ただ、字幕は酷かった。エンジニアのフンベルト・ガティカが今の音楽はコンプレッションが強くて、と眼前に手をかざして説明してるのに、「今の音楽は要約されている」とか。果ては「三月の雨」というのが二回も出てきた。ブラジル大使館も絡んだ日本語版の上映で、誰も気が付かなかったのだろうか。 ジョビンが1970年代になって書いた「三月の水〜Águas de Março」は、映画中でも最も重要な曲である。ただ、「三月の水」は冒頭からエンディングまで何度も流れるものの、レコーディング時の具体的なエピソードは一つも出てこなかった。 実は、とある原稿書くために、この曲に関して、最近、研究していたところだった。映画を観たら、ぶわ〜っと思うところ
陳 述 書 東京高等裁判所 御中 高橋健太郎 2023年5月29日 1 私が音楽評論家となった経過とレイシズムについて 私は1970年代の終わり頃から音楽評論の仕事を続けています。 私にとって、音楽評論が職業として確立される大きなきっかけになったのは1982年にジャマイカに取材旅行したことでした。私はジャマイカのレゲエ音楽に強い興味を持っていました。そして、現地取材で専門的な知見を高めることで、多くのメディアから執筆依頼を受けるようになりました。 ジャマイカのレゲエは強いメッセージ性を持つ音楽で、そこでは奴隷制や植民地支配の苦難がしばしば歌われます。そういうレゲエを聴くことから、私も「レイシズム」というテーマに向き合うことになりました。 2 レゲエとレイシズムについて ジャマイカからの移民が多く住むイギリスでもレゲエは高い人気を持ちます。移民やイギリス生まれの移民二世によるバンドが、ブリテ
上念司との「レイシスト・フレンド」裁判、一審判決の問題点 #2 レイシストは「人種差別主義者」なのか? 上念司との「レイシスト・フレンド」裁判の控訴審が始まりました。次回日程は5月15日とされています。詳しくはツイッターなどでお知らせしていきます。 前回、書いたように、東京地裁での一審判決は思いもかけないものでした。そもそも私は上念司に対して、「レイシスト」という言葉を向けていません。私と藤原大輔は、現在の社会状況の中で音楽家の取るべき態度について、友人同士の話をしていただけです。 それでも、世の中には「レイシスト・フレンド」とは上念司を指す言葉だと読む人もいるかもしれません。そして、裁判では「仮に…であったとしても」というロジックがしばしば使われます。 私にとっての真実は、「レイシスト・フレンド」という曲についての会話において、私達の友人でもない上念司という人物は念頭に置かれていない、と
上念司との「レイシスト・フレンド」裁判、一審判決の問題点〜小さなSLAP訴訟が言論の自由を揺るがし、反レイシズム運動を大きく後退させかねない裁判になった #1 経済評論家の上念司が私を訴えた名誉毀損訴訟で、2022年11月15日、東京地裁の藤澤裕介裁判長は私に対して、50万円の損害賠償を支払えとの判決を下しました。 この裁判は上念司が2020年1月に渋谷クラブクアトロで開催予定だった音楽祭が、出演予定のスガダイローのグループが出演キャンセルしたことから、中止となったことに関連して、それに関わるツイートをした高橋健太郎を訴えたものです。原告は150万円の損害賠償、当該ツイートの削除、謝罪広告の掲載などを求めました。 原告側の主張は以下のようなものになります。 1 被告がミュージシャン 藤原大輔を脅迫し、出演をキャンセルさせて、原告の楽祭を中止に追い込んだ 2 被告はスペシャルAKAの「Rai
2022年11月21日にギタリストの西脇一弘くんがブログに「sakana biography 番外編 1997〜2009」と題する文章を上げました。その内容は多くの点で事実と異なり、とりわけ、金銭や印税についての記述はほとんどデタラメとも言っていいレベルでした。さらに、私の発言が脚色されたり、メールの文面が改変されたりすることにより、私の名誉や信用を深く傷つける内容でした。 https://megalodon.jp/2022-1128-1518-17/kazuhiro-nishiwaki.blogspot.com/2022/11/19972009.html この事態からして、件のブログが事実と大きく異なることは、私自身の言葉で、ネット上に書いておく必要があると判断しました。 まず、ブログは西脇くんのあやふやな記憶に基づき書かれたものです。金額についての記述が多くありますが、ほとんどすべて間
2015年10月6日、ハース・マルチネスが死去した。あの名盤『ハース・フロム・アース』のハース…と書けば、一定数の人には話が通ずるはずである。1975年にロビー・ロバートソンのプロデュースで、ワーナーから発売されたそのアルバムは、こと日本では伝説的な名盤として語り伝えられきた。1992年にCDリイシューされた後は、いわゆる渋谷系のミュージシャンに少なからぬ影響を与えてもいる。その人気を受けて、1998年には日本のドリームズヴィル・レーベルでハースのカムバック・アルバムが制作され、以後、来日公演も二回行われた。 ただし、そうした再評価は日本のみの出来事で、本国アメリカでのハース・マルチネスの知名度はゼロにも等しい。ウィキペディアにも項目がないくらいだから、当然ながら、追悼記事がメディアに載ることもなかった。あるいは、日本でもハース・マルチネスとは何者だったのか?ということは、ほとんど知られぬ
6月16日 ブルーノート東京の楽屋で ——一昨日は楽器店でのトーク・ショーを聞きに行きました。貴方が最初に「シェナンドー」を弾くのを見ていたら、トップのメロディーをほとんどセカンド・ストリングだけで、演奏しているのに気づきました。そういうスタイルもオーケストラでの演奏経験と関係しているのかもしれませんね。 「そうだった? 自分では気づいていなかったけれど、「シェナンドー」のコードもそれに適していたんだろうね」 ——メロディーを同じ弦で弾くことによって、ベースやハーモニーをいつでも足すことができる。そういう可能性を残して、演奏しているのがよく分かりました。 「それはジム・ホールのスタイルと強く関連しているよね。彼からは多くのことを学んだ。弦を移動して、スケールを弾く方が自然なんだろうけれど、それも上手く演奏できるまでには物凄く時間を要する。何とかして自分なりの良い演奏法を見出さなきゃいけない
海外のミュージシャンのインタヴューを読んでいると、トラブルをそこまで赤裸々に語ってしまうのか!と思うことが少なくない。日本人ならば、公言するのを憚るような内部的なトラブルも、彼らは躊躇なく語る。バンド内の揉めごともアルバム制作が抱えた問題も。そして、時にそれは、リスナーを当惑させるものにもなる。 ニルヴァーナの『イン・ユーテロ』は、まさに、そんな当惑を伴ったアルバムだった。1993年9月に発表された三枚目のオリジナル・アルバムで、巨大なヒット作となった1991年の『ネヴァー・マインド』のフォローアップでありながら、まったく違う方向性のプロダクションに進んだ作品でもある。僕の場合は、『ネヴァー・マインド』に熱狂する友人達を醒めた目で見ていたのが、その『イン・ユーテロ』を聞いて、急激にニルヴァーナというバンドに興味を惹かれた。1993年11月にはリリースに合わせた全米ツアーを観た。その年のアル
アーチー・ベル&ザ・ドレルズの「タイトゥン・アップ」は、数多くの人々に愛されてきたR&Bのダンス・ナンバーだ。オリジナル・シングルの発売は1967年の12月。アメリカでは翌年になってから大ヒットして、ポップ・チャートとR&Bチャートの両方でナンバーワンを獲得。永遠のディスコ・クラシックと言える1曲となり、その後も数多くのアーティストにカヴァーされた。日本ではアーチー・ベルのオリジナルよりもYMOのカヴァー・ヴァージョン(1980年の『増殖』に収録)で知ったという人の方が多いかもしれない。 アーチー・ベル&ザ・ドレルズのアルバム『タイトゥン.アップ』は、その大ヒット・シングルをフィーチュアして、1968年の5月にリリースされた彼らのデビューLPになる。当時は日本では発売されることがなく、1996年にCDで初めて日本発売された。CDのライナーノーツは故桜井ユタカさんで、アーチー・ベル&ザ・ドレ
昨夜は都内のホテルに泊まった。この歳になって、ようやく分かったことの一つは、僕はホテルが嫌いだということだ。一人でホテルに泊まるのが好きな人など、そもそもいないのかもしれないが。 でも、しょっちゅう一人でホテルに泊まらねばならない仕事をしている友人は、それなりに多そうだ。僕もかつてはそうだった。人生の時間が限られているのが見えてきた今は、もう出来ない。出来る人は、これがそうは嫌いじゃないんだと思う。 ホテルの部屋でアップルミュージックで何か聞こうと思って、新譜をブラウズしたら、Pizzicato Oneが出てきたので、聞いてしまった。こんな日に「戦争は終わった」を聞いたら、どんな気持ちになるだろう?という、よこしまな思いがかすめたせいだった。 美しい意匠の凝らされた、悲しくて、寂しい音楽が次々に流れ出てきて、「戦争は終わった」に辿り着く前に、辛くて辛くて堪らなくなってしまった。今夜、僕がこ
話題の映画『セッション』と『バードマン』、両方、観てきました。この二つの映画、どちらも非常に評判が高い。日本公開が同時だったこともあって、比較批評の機会も多いようです。なので、僕もそこに加わってみることにしました。 ちなみに、『セッション』に対して憤怒の酷評を与えた菊地成孔さんは「総てのジャズドラマーの方は、ワタシが私費でチケットをご用意するので必ず観て下さい」とした後、「『バードマン』という映画のチケットを同封します」と付け加えています。『セッション』という音楽家を絶望させる世紀の愚作を観た後に、「おおいなる救済」を与えてくれる傑作として、『バードマン』を挙げている訳です。 『バードマン』がこのように扱われる理由は、それがジャズ・ドラムをサウンドトラックに使っているからでしょう。『セッション』はジャズ・ドラマー志望の学生の話ですから、当然、ジャズ・ドラムが全編に登場する訳ですが、『バード
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