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アメリカ大統領選
note.com/utekido2019
その数学の先生は、日本人が嫌いなようだった。はっきりとはそう言わなかったが、たかだか14歳のわたしでも、歓迎されていないことは感じていた。 彼はいい歳だったが振る舞いは幼く、「日本人は九九がインストールされているんだから電卓要らないだろ」と言ってわたしから取り上げてみたり、わたしが答えを間違えると、「トヨダが数学間違えることなんてあるんだな。いや、君はホンダだったっけ?」と戯けてみたりしていた。わたしは辟易していたが、クラスのほとんどの子は「くだらなーい」と大げさに嘆く素振りをしつつも、彼の冗談に好意的だった。わたしの成績は、段々落ちていった。 考えて導き出した答えが正しければ「日本人だからできて当たり前」と評され、間違っていればここぞとばかりに先生が悪ふざけをする。そして「英語が下手だから」という理由で、100点を取ったところで成績はいつもBマイナス。数学の時間、わたしは授業に参加するの
産後ずっと在宅ワークをしていたから、保育園の順位は低かった。子どもが幼稚園に入るまでの、ふたりきりの時代は長かった。特に2歳から3歳半にかけては終始育児の泥沼に半身浸かっているようで、わたしは幼稚園の始まる日をまさに切望し、「今日も心中しないで済んだ」と夜な夜な体を震わせていた。 2歳児の脳はまだ未成熟だし、意思疎通もできているようでできていないから、わたしは子どもの狂人がごとき一挙手一投足に対する苛立ちを日増しに募らせ、ある日、床を殴りつけてしまった。レゴブロックをわたしの顔めがけて投げつけていた幼子は、本人からしたら脈絡のない大きな音に驚いて泣き出した。 これは危険だ、とわたしはハッとした。叩いたこともなければ怒鳴ったことももちろんない。わたしはわたしが親にされて怖かったことを覚えているから、それだけはしないようにという信念に基づき育児していた。この瞬間まではそうだった。わたしはわたし
高校3年、夏。日本に「帰国」し、東京の高校に通い始めて数か月。うわべではそこそこ環境に適応していたけれど、ほかの帰国子女のみんなほど語学力もなければ大人でもなかったわたしは、なんのために通学するのかわからなくなりつつあった。欧州生活で忘れていた、日本の熱風と湿気に毎日驚いていた。 英語で赤点を取っては「さすがキコク」と先生に笑われた。部活に入らないことで、知らない生徒からは「ずるいのはダメだよ」と忠告された。学校が終われば急いで電車を乗り継ぎ、姉の入院先で愚痴を聞いた。終電で誰もいない家に帰る道々、台湾の歌手のカセットテープを聴くのだけが安らぎだった。 先生たちもわたしの扱いに匙を投げていたと思うし、わたしも根こそぎ自分を捨てたかった。いつからか、始業のチャイムが鳴っても教室に入れなくなっていた。校舎内に薄暗い自販機コーナーを見つけた時は安堵した。そこに日中入り浸って堅い椅子を占領し、同じ
中学3年。当時在籍していた学校に日本語話者はおらず、日本語を使うことなく毎日が過ぎていた。日本人である意識やアイデンティティに大きな揺らぎが生じていたのもこの時期だ。黄色人種のほとんどいない学校生活では、母国がまだ同じ地球上にあるかどうかさえ疑わしくなる時があった。 ある日、狭い校庭で体育の授業を受けていた。授業といっても、個別に走ったりストレッチをしたりするくらいで、ボールを使いたい子がいれば使ってもいい、雑誌を読みたい子がいれば座ってそうしていればいいというようなものだった。 わたしはその”いい加減”な感じが自分の中の日本人と相容れない気持ち悪さからいたたまれず、校庭の端っこの、担任と体育の先生が地面に座って雑談している横で、金網に寄りかかるでもなく、ただ硬直して立っていた。担任の先生が難しい顔で見上げてきて、「力抜いたら」と言った。 多分わたしは真面目が過ぎた。それは自分でもなんとな
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