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ノーベル賞
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「那須川天心vsメイウェザー」は興行格闘技で意図的に発生させたバグだ。しかも大晦日のTVで見ているうえで、ほとんどの人間がバグだと気づかないように出来あがってしまった。いま(選手の競技能力の上では)厳密なシステムで運営されている格闘技にプロモーションがチート行為を行うことで、見た目にはおもしろいバグを生み出し、表向きは多くの人々が喜ぶ結果になったのである。 スポーツとはルールの上で、勝ち負けを競い合うことで成り立つものだ。しかし興行格闘技では簡単にいかない。ジャンルの性質上、たとえばポイント制のように完全なルールで決着できるものにすれば、勝ち負けの判定に不純物はほとんどなくなる。だけど、興行としての魅力はなくなってしまう。結局のところ、どちらが強いかという決闘の部分を見たいから成立している。 だけど選手ふたりを闘わせるなかでバグはどこかで紛れ込む。どちらが勝ちかを判定するなかで、どうにも観
廃墟から代理戦争を見ています。2003年くらいはテレビの格闘技がそのまま格闘技で進行してる現実の45%近くはフォーカスしていたんじゃないかと思う。 今から8年前、このブログをスタートしたあたりだったら「格闘技選手もプロとしてメジャーに上がるならアピールしろ。自分を出せ」みたいな話をしていても、ぎりぎりTV放映もあったしそれなりに持ってはいたんだだけど、もうさすがに今(当時もだが)それを言っても無意味だなと思うだけだ。 「MMAがスポーツになったからつまらなくなった」だからスポーツとはかけ離れた選手つれてくるべきみたいな意見、まだ見かけるがもはや懐かしい。ジャイアントシルバの重力から逃れられない。なんて書いている自分もテレビ放映のメジャー興行の持つ、わかりやすくフォーカスする重力に足を取られている一人ではある。その意味でいま格闘技の現実にまともに対応していこうとする放映局はAbemaなんだろ
廃墟では台風が近づいております。高田延彦vsヒクソン・グレイシーからなんと20周年ということで各所で再考が行われているけど、今から考えるとあの時代が素晴らしいなと心底思うのは各競技のボスが自分のテリトリーを守る強さであって、本当にバーリトゥードで勝負することではないことだ。空手は空手、プロレスはプロレスで出ていかないを貫いた方が偉い。弟子がバーリトゥードや立ち技に挑戦するのはOK。ボスはジャンルを守ることが仕事で弟子筋がジャンルを跨ぐを許すのほうがいいです。 これはつまんねえ考え方なんだけど、むしろ時間が経過したあとにボスが本当にバーリトゥードに出ていって残ったものはなんだったのか、というのが今になって答えが出ている感じがする。高田延彦はほんとうにバーリトゥードを東京ドームでやっちゃったけど、20年後の現在はMMAと呼称が決まったこのジャンルを愛し、理解しているとはどうにも思えない。それど
総合格闘技という現実が国内にもたらしたものは何が最強かを明らかにすることだけではなかった。そこにいきつくまでに培われたプロレスの虚像がかき消され、実像が明らかにされていくことでもあった。プロレスと格闘技の観点を決定的に変えたイベント・PRIDEがUFCに売却され、格闘技バブルも弾けていく2007年に出版された『1976年のアントニオ猪木』はあらためてなぜプロレスと格闘技は地続きになったのかを明らかにする中で、あの時代の実像がいったいなんだったのかを明らかにしようとした。 格闘技バブルがはじけようとも、プロレスと格闘技を観るリアリティラインが書き換わったことは変わらない。もうIGFのプロレスに闘いとやらを見出すことは難しい。プロレスが最強をうたって他の格闘技のチャンプを自分のリングに挙げて仕留めることに興行的な熱狂を見出すということもない。ジャンルの区分けが明らかになった現在のリアリティライ
いやタイトル画像でもでっかく”!?”ってやってるから何度もやるこたあないんだが、それにしても今何をしているやら休眠中であった方々が久しぶりに陽の目を見たと思いきや、まさかこんな形かよ!イベント名ひでえよ! K-1のエグゼクティブプロデューサーを辞任して以降何をしているやらと思っていた魔裟斗、そして谷川貞治。FEG倒産後、再びメディアの道に戻ったのかweb上で「タニーズラボ」をスタート。しかし1年もしない内にコンテンツはストップしてしまい、FEG時代の内部事情ネタなどをかみぷろ(これも関わる格闘技イベントが終わってメディアに舞い戻った山口日昇と柳沢忠之が立ち上げたサイト。しかし現在はニュースにツッコミ、ネット有名人に何故かインタビューサイトに・・・)などに寄稿してるなんて状況になっていた。 そうした路線になるかと思いきや今回の復活。その記者会見の写真は異様であり一瞬理解が及ばないのは元プロレ
なんかある記事読んだらおいふざけるなよと思ったついでの、最近のプロレスを取り扱った漫画や映画を通して見通せる、現在のプロレスを見る目線のある種の薄気味悪さに関して。 長らくプロレスというのは日本のサブカルチャーへの影響に関して漫画では梶原一騎から果てはももいろクローバーまで多岐に渡り、オレがブログを始めるまでにプロレスのことなど調べるようになったのもとあるゲームクリエイターがインスピレーション元に大きく置いていたのを調べたことがきっかけだった。だが、近年のプロレスの影響力というのはそうしたインスピレーションの爆発力や影響度に欠けるのも否定できない事実だ。 ではそんな近年のプロレスを、ほかの漫画や映画といったカルチャーはどう描いているのか?というのを時々目にするのだが、これがもうはっきり言って目も当てられないほどに揃って薄気味が悪いとしか言いようがない。 プロレス格闘技系で非常に長く運営して
<<エディ・アルバレスvs青木真也Ⅱ 紐解きの格闘観戦記録>> ジャパニーズMMAは遅れてることを証明しただの、日本格闘技ガラパゴス(昔から思ってるがこれは本当に嫌な言葉だ。この言葉で日本の現状を語る人間をオレはほぼ信用していない。批評はこうしたスラングがいかに生成されるのかまで遡らないと意味はなく、それをしない、言葉に疑問を持たない人間の言葉に何の力もないからだ。)だの、リアルな闘いの周りにやけに抽象的な言葉がいまだに目につき、少なくともオレがなるべく技術視点で見ることの利点は、そうした雑音にまみれた実体はどうなのかをある程度判断できることだ。 実は2008年の大みそかに行われたこの試合の第一戦は、オレの格闘技オールタイム・ベストに入る一戦で、旧DSEとFEGが連合したあの時点だと何かが変わるんじゃないか、という時代のうねりが体現された大会だと思うし、あまり好きではないとはいえ、青木がも
朝倉未来vs平本蓮は競技能力とは別の物語性を見立てて捉えている。 インフルエンサーと呼ばれるらしい所作はYoutubeなどSNSを経由して誰でもスタートできるが、拡大するなかで陰惨なものへ変貌する。だらだらとしたアテンションエコノミーによって肥大化し、無関係なはずの自分の視野に入るまでに増長することに対し、不快感を覚えないようにすることは難しい。 最近、さまざまな意味での敗北についてよく考えることが多い。主に活動しているビデオゲームではゲームでの敗北に関して哲学として研究するものなどが出ているが、今回考えたいのは敗北がもたらす苦痛についてだ。特に俗にインフルエンサー(本稿では定義を手軽なSNSやYoutubeなどを利用して商売をしている人、というあたりに留めている)と呼ばれる人間たちにおける敗北や失敗についてをよく考えている。膨大なフォロワーを抱える彼らは頑なに敗北や失敗を認めない態度を常
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