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新・黄金の6年間 ~vol.1 ■ trf「GOING 2 DANCE」 作詞:T.KOMURO, YŪKI 作曲:T.KOMURO 発売:1993年2月25日 あらゆる場面で世の中が混とんとしていた1989年 1989年9月、『ザ・ベストテン』(TBS系)が終わった。 ―― いや、終わったのはベストテンだけじゃない。その年、昭和天皇が崩御され、64年続いた昭和も終わった。昭和のスター、手塚治虫と美空ひばりと松下幸之助も後を追うように亡くなった。奇しくも日本経済も同年、日経平均株価が史上最高値を付けるも、翌90年からバブル崩壊。右肩上がりの昭和のビジネスモデルも終わりを告げた。 世界に目を向けると、1989年―― 東西冷戦の象徴、ベルリンの壁が崩壊した。更にその2年後、東の横綱・ソ連も崩壊。東西冷戦が終わった。 そうそう、ベストテンが終わった翌90年、長年のライバル『歌のトップテン』(日本
YMOとは高橋幸宏サンのことである。 ―― なんて書くと、「他の2人はどうした!」と叩かれそうだけど、かの秋元康サンだって、かつて「AKB48とは高橋みなみのことである」なんて言ったくらいだし、それに対して、「いや、もっと何十人もいる」とか「柏木由紀だろ」なんて野暮なツッコミをする人はいない。 僕が言いたいのも、そういうことである。僕なりにYMO的なものを突き詰めていくと―― 高橋幸宏サンに行き着いたということ。 もちろん、YMO―― イエロー・マジック・オーケストラが細野晴臣・坂本龍一・高橋幸宏という稀代の3人のミュージシャンの才能が結集し、1978年から “散開” する83年までの6年間で素晴らしい作品を残してくれたことは言うまでもない。 まさに必然、YMOの活動した6年間は “黄金の6年間” 拙著『黄金の6年間 1978-1983〜素晴らしきエンタメ青春時代〜』(日経BP)は~、19
リマインダーが掲げる「懐かしむより超えていけ」スピリット満載の企画『2023年に聴きたい! 80年代ロック名盤ベスト10』。これは、単純に私の好きな80年代洋楽ロックのアルバムをカウントダウンするという主旨だけではなく、“2023年の今こそ聴きたい / 聴くべき”作品、即ち現行のロック / ポップとの関連性や影響力を強く感じさせるアーティスト、作品を優先して選盤させて頂いた。 また、取り上げた80年代作品と関連性が感じられる現行のロック / ポップ作品も併せて紹介させて頂いたので、温故知新なリスニング体験の一助になれば幸いだ。 第10位:TOTO IV ~聖なる剣 / TOTO TOTOの代表作といって差し支えないだろう。80年代に数多あるAOR作品の中でもロック、もっと端的に言うと米西海岸ロックを感じさせる作品。 抜けの良い音像と抜群の演奏力でポップなナンバーからバラードまでバラエティ豊
デビューから中森明菜が誕生するまで 1982年のデビューから40周年を迎え、ますます盛り上がりを見せる中森明菜さんの人気。その明菜さんのデビューから「ミ・アモーレ」までの期間を手掛けた音楽ディレクター・島田雄三さんと明菜さんのファン3人との座談会の様子を、全3回にわたってお送りいたします。当時の心境や楽曲制作の裏側を、じっくり聞かせていただきました。 ■ 座談会出演者 島田雄三 音楽プロデューサー。1948年、東京都出身。ワーナー・パイオニアに1期生として入社し、ディレクターとして中森明菜など多くの人気アーティストを担当。1983年と1985年には日本レコードセールス大賞のディレクター部門で1位を獲得する。1994年にワーナーを退社してからは、ポリドールで田村直美、ソニー・ミュージックエンタテインメントでACOをブレイクさせ、現在も音楽プロデューサーとして活動している。2022年1月、著書
デートムービーって、どんな映画? 100%のデートムービーがある。 いわゆる “吊り橋効果”(恐怖や不安のドキドキを、恋愛のドキドキと誤変換するアレ)が期待できるパニックやアクションの要素があり、適度な恋愛描写もあり、ハッピーエンドで読後感のいい映画をそう呼ぶ。 これがホラーになると、女子の中には2時間、スクリーンから目をそむけたままのコもいるし、恋愛描写がこじれて二股や三股のストーリーだと、見ている2人が気まずくなる。バッドエンドだと、映画のあとのお茶がお通夜になる。 かつてユーミンが作って、バンバンが歌った「『いちご白書』をもう一度」は、学生時代に授業を抜け出して恋人と2人で行った映画の思い出を綴った名曲だが、実際の『いちご白書』は当時流行りのアメリカン・ニューシネマのバッドエンド・ムービー。デートムービーとしては最悪である。 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は “伏線・回収好き”
五月革命、ベトナム戦争が映画に与えた影響とは 映画は、時代を映す鏡と言われる。 1968年のパリ五月革命に端を発する世界的なカウンターカルチャーのムーブメントは、間もなく映画界へも波及。1960年代後半から70年代前半にかけて、ハリウッドはアメリカンニューシネマ一色になった。 『俺たちに明日はない』『イージーライダー』『いちご白書』etc…… それらは、メッセージ性の強い、アン・ハッピーエンドな映画たち。批評家ウケはいいが、大衆には刺さらず、この時期、ハリウッドは観客動員を大きく落とす。 風向きが変わったのは、1975年4月のサイゴン陥落である。ベトナム戦争が終わり、アメリカに戻った元兵士の若者たちは、西海岸でアウトドアスポーツのブームを開花させた。 それと呼応するように、ハリウッドも往年の大衆娯楽路線を取り戻す。75年はパニックムービーの『ジョーズ』、76年はヒーローものの『ロッキー』、
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衝撃的だったフリートウッド・マック『噂』のジャケット 1977年というと洋楽は “パンクの年” になることが多い。当時私は中学生。パンクに夢中になったが、同年に取り憑かれたように聴いたのがフリートウッド・マックの通算12枚目のアルバム『噂』だ。 当時新宿の帝都無線に母親と買い物ついでに立ち寄り、店に飾られていた彼らの『噂』のアルバムジャケットに衝撃を受けた。 それまで知らなかったバンドだが、ジャケットの長身の男の股下にカチカチ玉(アメリカンクラッカー?)みたいな2つの玉がぶら下がってる。その2つの玉に視線を落とす魔女のような女性も気になる。 食い入るようにずっとアルバムジャケットを見つめていたら、母親に「これ欲しいの?」と聞かれ思わず頷き『噂』は私の物になった。 それからアルバムを聴きながら、当時の私は何故この長身の男はカチカチ玉をぶら下げた意味深なジャケットにしたのか? 絶対に何か意図が
80年代後半の音楽界に示した斉藤由貴の存在感 1980年代後半に活躍した女性アイドルのうち、中山美穂、工藤静香、南野陽子、浅香唯の4人は「アイドル四天王」と呼ばれ、昭和末期の歌謡界で絶大な人気を誇った。そんな彼女たちのブレイクより一足早く人気を集め、トップアイドルの一角に君臨したのが斉藤由貴である。彼女の活動主体は女優だが、兼業でアイドル歌手もこなし、歌手の印象も強かった。 今でもよく耳にするデビューシングル「卒業」をはじめ、斉藤由貴の楽曲は80年代後半の音楽界に大きな存在感を示したように思う。特に、自ら手掛けた歌詞、演技を交えた独特の歌唱には魔力のような中毒性があり、虜になった人も(私を含め)多かったのではないか。 今回、そんな彼女の表現の魔力が際立つ “胸キュンソング” のベストテンを選んでみた。順位は私の思い入れの強さであり、個人的趣味を反映したチョイスであることをご了解いただきたい
『川原伸司インタビュー ① 激動の80年代!アミューズやジャニーズにまつわる制作秘話』からのつづき フリーの音楽プロデューサー、作曲家として活躍を続ける川原伸司へのロングインタビュー。第2回は約半世紀に及ぶキャリアで培った仕事術と音楽観についてお届けする。 バンドのことはよく分からないけど、川原に任せておけば安心だ ― 1974年、ビクターにアルバイトで採用された川原さんは2010年の定年までにビクターとソニーを2回往復(1986年、ソニーに移籍→ 1989年、ビクターに再入社→ 1994年、ソニーに再入社)。その後はフリーとして活動されていますが、およそ半世紀に及ぶキャリアで、大滝詠一と井上陽水、松田聖子と中森明菜など、ある種、競合関係とも言えるプロジェクトに関わるなど幅広い仕事をされてきました。 川原:もともと一神教が苦手なタチでね(笑)。1つのことを経験したら、その対極にあるものを見
井上陽水「氷の世界」に入り込んだプログレ人脈 2022年8月30日をもって74歳になる井上陽水に関して、ほとんどのことが語られ尽した感もある。とはいえサイゾーWEBに「井上陽水とアンビエント」という野心的な記事が掲載されているのを見つけて、まだまだ斬新な切り口はあるのだなと感心した。そこで今回のコラムでは変わった角度から、すなわち「初期の井上陽水はプログレ」(!)という一部プログレッシャーの間でまことしやかに囁かれてきた噂を検証してみたいと思う。 この俗説が浮上した要因は、日本初のミリオンセラーを達成した陽水の三枚目のアルバム『氷の世界』(1973年)にあると思しい。本作はポリドール・レコードの多賀英典の判断で半分ほどの楽曲がロンドン・レコーディングされたのだが、セッションミュージシャンとして雇われたのがほとんど当地のプログレ人脈なのだ。 クォーターマスという、アルバム一枚を残してすぐ解散
やっと「ジャーニーが好き」と言ってもOKな時代がきた ジャーニーが好き ―― 僕ら50代の音楽好きにも、やっと公言できる時代がやってきました。 “産業ロック” と名付けられ、大衆受けを狙った売上至上主義、大袈裟な割に内容のない音楽… と不名誉な扱いを受けていたカテゴリー。 常にチャートの上位を賑わしていたにも関わらず、音楽マニアから蔑まれていたが故に、友達には言えなかった好きなアーティストの数々、ボストン、カンサス、フォリナー、エイジア、TOTO、REOスピードワゴン、スティックス…。 どんなにトム・ショルツ(ボストン)は天才だと思ってギターの音色をコピーしても、あのボストンのフニャフニャな女の尻しか追っかけてないような歌詞のお陰で、パンクやグランジがのしていた時代には隠れキリシタンのように息を潜めてました。 もうこの産業ロックが好きだという「遥かなる想い」は墓場まで持ってゆくしかないと思
音楽マーケット拡大に重要な役割を果たしたFM局とFM雑誌 私が1973年にCBSソニーに入社し、社内異動で希望の洋楽部門へ移ったのが1978年。最初の仕事はメディアを受け持つ宣伝でした。1981年にディレクターになるまでの数年間、新聞、TV、FMなどを担当しました。それぞれ面白い経験でしたが、何といってもヒット曲はラジオから生まれていた時代です。FM局では音楽が主役ですし、AMとは違ってアーティストやアルバムも紹介できる電波メディアでした。 この頃のFM事情ですが、FM局の数も80年代に入って、民放では、それまでの FM東京、愛知、大阪、福岡に加えて、第二弾として北海道、仙台、広島、愛媛、長崎、など続々開局しています(後に断続的に1県1局目指して開局が続きます)。地方主要都市に音楽、特に洋楽が流れる機会が圧倒的に増えてきました。開局間もない頃は、どこの FM局も高音質をウリにしていたことも
80年代に登場した女性アイドルグループ、スターボー 1980年代は日本女性アイドルの大全盛期であったことは、誰もが認めるところだろう。1990年代アイドル冬の時代を経て、モーニング娘。やAKB48らが大ブレイクした1999年から2010年代はグループアイドル群雄割拠の時代だったが、その時代をしのぐ勢いというか、老若男女日本国民全員が大なり小なり誰かを推しているような、1980年代はそんな時代だった。 隆盛を極めた1980年代の女性アイドルシーン、その最大の特徴は次から次へと出現したピン(ソロ)女性シンガーによってその隆盛が形成されていたということだ。80年代の10年間を俯瞰してみれば、一般的に知られたグループアイドルといえば、おニャン子クラブとWinkの2グループのみ。あとは強いていえば、プロモーションに莫大な金額が投下されたと言われた少女隊とセイントフォーあたりか。 80年代女性アイドル
『佐野元春インタビュー ③「SOMEDAY」完全再現ライブの主人公は僕じゃないよ』からのつづき ポップミュージックは常に若い世代の側にいる ― かつてのレコードはCDになって、今は配信が主流になっています。佐野さんは公式サイトを立ち上げたのも早かったと思いますし、配信も2005年という極めて早い時期からやられていると思います。このような変化の中で、音楽の価値が変わってきているように感じますか? 佐野:僕の中では音楽の価値は変わっていない。いい音楽は生まれ続けているし、そこに触発される自分も変わらずにいる。 ― リリースの形態を変えながら時代に対応してゆくというのは、ミュージシャンのスタンスとして、プライオリティが高い部分でしょうか? 佐野:リスナーに楽しく聴いてもらえればリリースの形態にはこだわらない。 ― 今は音楽を探す楽しみが失われた時代になったような気がします。例えば、ジェームス・ブ
『佐野元春インタビュー ① アンチ・シティポップ「SOMEDAY」は僕の反抗だった』からのつづき ロックンロールのマジックを今でも信じている ― 佐野さんがロックンロールの初期衝動にコネクトした瞬間はいつだったのですか? 佐野:テレビで観た弘田三枝子かな。すごくパンチのあるシンガーで、僕の周りにはいないタイプの女の子だった。歌は上手いし、両親が聴いていたロネッツの「Be My Baby」をカバーしていた。「これだ!」と思った。聴いてビビッときた。居ても立っても居られない感じ。ロックンロールのマジックだと思う。今でも信じているよ。 ― ロックンロール自体が持つパワーはご自身がデビューされた1980年と現在と比べて弱ってきていると思いますか? 佐野:聴きようによると思う。古い人たちは古い音楽を物差しにして今の音楽を聴く。新しい人たちは今楽しんでいる音楽が彼らの物差しだ。どちらが長くて短いと言う
1980年のデビューから40年以上、常に新しいフォーマットの音楽に挑み、ソリッドかつ豊潤な音楽をクリエイトし続けた佐野元春。過去を振り返らない印象の強い元春が、2013年にはアルバム『SOMEDAY』の再現ライブを敢行し、今年5月にはこのライブを完全収録したBlu-ray名盤ライブ「SOMEDAY」をリリース。そして、これを記念したロングインタビューがリマインダーで実現。Early Days の元春、アルバム『SOMEDAY』について、当時を振り返った貴重なコメントの数々、アーティスト・佐野元春の今についても語ってくれました。4回にわたってお届けします。 「SOMEDAY」はシャレた曲じゃない。街で育ったすれっからしの少年の唄だ ― 佐野さんには常に革新的に前へ進んでいるイメージがあるので、過去を振り返ることもあまりないような気がするのですが。 佐野元春(以下、佐野):過去を振り返ってもし
松原正樹のシティポップにおけるギタープレイをセレクト 2016年2月に帰天された、松原正樹さんのお誕生日ということで、80年代シティポップ10選を、という話を突然いただいた。スタジオミュージシャンとして1万曲のレコーディングに参加したと言われているが、必ずしもクレジットが残っているわけでもないので、今回はある程度クレジットとして残っているものから印象的なギタープレイを紹介することにする。どこまでをシティポップとするかは微妙だが、印象に残る作品、編曲家としての松原正樹さんがクレジットされている作品等を中心に選んでみた。 歌謡曲においては一聴して印象的なギタープレイが多くみられるが、シティポップとカテゴライズされる曲では必ずしもそうではなく、サウンドを彩るリズム楽器、ハーモニーのひとつとしての側面も強い。そのあたりが、「一億人を振り向かせる」(©スージー鈴木)歌謡曲と、「わかるやつだけわかれば
1981年結成、86年デビュー。デビュー以降9年間の活動期間には、あらゆるジャンルのロックを飲み込み、唯一無二の存在感を放つ。90年代以降の日本のロックバンドの礎を築いたその音楽性は、今も孤高の輝きを放つ。解散から四半世紀という時を経て2022年4月27日には全シングル18枚、38曲を完全収録した『BEAT-UP ~UP-BEAT Complete Singles~』がリリースされる。デジタルリマスターで蘇る名曲の数々。 今回のリリースを記念して、UP-BEATのフロントマンであり、数多くの楽曲を手掛けた広石武彦に、結成前から現在に至るまでの音楽遍歴とUP-BEATの全貌について話をうかがった。全3回のロングインタビューです。 第1回 北九州の音楽事情とUP-BEATデビューまでの道のり 北九州の豊潤な音楽的土壌 ― UP-BEATは結成40周年を迎えるということですね。 広石武彦(以下、
中森明菜とそのシングルは、国民の共有財産!? 1989年の冬、わたしは誕生日プレゼントでCDステレオを買ってもらった。これでCDが聴ける。わたしは貯めていたお小遣いを財布に忍ばせて、学校の帰り道、ひとりで秋葉原に向かった。なぜ秋葉原まで出向いたのか。地元の川越か、あるいは通学で寄る池袋で買えばよかったのに、テンションが上っていたんだろうね。 秋葉原に降りると、あちらこちらで、中森明菜の映像が流れていた。当時、秋葉原の駅前に多数存在した家電量販店の入り口の大型ディスプレイ、それらの多くが当時リリースされたばかりの中森明菜のライブ映像『AKINA EAST LIVE』だったのだ。 中森明菜の所属レコード会社ワーナー・パイオニアの親会社であるパイオニアは、当時LDプレイヤーの普及・販売促進に最も力を注いでいた。その兼ね合いもあったのだろう。もしかしたら、新型LDプレイヤーのディスプレイ用ソフトと
リ・リ・リリッスン・エイティーズ~ 80年代を聴き返す~ Vol.25 矢野顕子 / ごはんができたよ 1980年の坂本龍一の仕事量にア然 1980年10月に発売された、矢野顕子4thアルバム『ごはんができたよ』。坂本龍一と本人の共同プロデュースです。これもサカモト教授だった!と私は思わずため息をもらしてしまいます。 というのは、「大貫妙子『ROMANTIQUE』いい音楽は必ず売れる、少しずつでも売れ続ける」の章でも書きましたが、この前後の坂本氏の仕事量はとんでもないのです。 この1980年だけでも、“YMO” のアルバムが、ライブものと企画ものとはいえ、『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』(2月)と『増殖』(6月)。自身のソロアルバム『B-2ユニット』(9月)。プロデュースものが、高橋幸宏のアルバム『音楽殺人』(6月)、大貫妙子のアルバム『romantique』(7月)のうち6曲、そし
いよいよ最終回まで来ました。今回はまず、90年代初頭の「がんばろう系カノン」の百花繚乱状態を検証していきます。 「みんながんばろうよ」という感じの、根拠不明なポジティブさが埋め込まれた歌詞を持つ「カノン進行」の曲が、当時やたらと出てきました。今回もキーをCに移調したコード進行を添えて、それらを見ていきます。 ■KAN 『愛は勝つ』(1990年9月1日)201.2万枚 「♪ 心配ないからね~」 【C】→【G/B】→【Am7】→【Em7】→【F】→【C/E】→【Dm7】→【G】 ■槇原敬之『どんなときも。』(1991年6月10日)167.0万枚 「♪ 僕の背中は自分が~」 【C】→【Em/B】→【Am7】→【Am7】→【F】→【C/E】→【Dm7】→【G7】 ■大事MANブラザーズバンド『それが大事』(1991年8月25日)160.3万枚 「♪ 負けない事・投げ出さない事~」 【C】→【G/B
OSAKA TEENAGE BLUE 1980~vol.2 ■ YMO『CUE』 作詞:高橋幸宏、細野晴臣、ピーター・バラカン 作曲:高橋幸宏、細野晴臣 編曲:YMO 発売:1981年3月21日(アルバム『BGM』) テクノカットにしてみたい、YMOの大ブームがやってきた 兄貴との相部屋に置かれている、ベニアで出来た洋服ダンスの扉の裏側には、小さな鏡が付いている。 1981年の春、高校受験を来年に控えた僕は、その鏡を見ることが多くなっていた。左右の手で左右のもみ上げを押さえて。 「テクノカットにしたいなぁ」と心でつぶやきながら。 そう、もみ上げを切り落とした「テクノカット」にしたいと思っていたのだ。もちろんイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の影響だ。 大阪の街外れに、YMOの大ブームが吹き荒れたのは、1年前、1980年のこと。僕は中2。テレビや、心斎橋にあるソニータワーの大画面で見
小室哲哉も興奮したミリオンアーティスト、REBECCA誕生 80年代後半のバンドブームにおいてメジャーの扉を一番最初に開いたのは、間違いなくREBECCAだろう。 1985年11月1日発売の4枚目のアルバム『REBECCA IV〜Maybe Tomorrow~』は、オリコン週間1位を7週獲得し、売上枚数はほぼミリオンの95.6万枚。これは80年代に発売したバンド系アーティストのアルバムとしては第2位という驚異的な売上枚数だ(第1位は、90年代といってもいい1989年11月発売のプリンセスプリンセス『LOVERS』の127.3万枚)。 当時、小室哲哉は自分たちの近くにいたバンドが突如ミリオンアーティストに変貌したことに、驚きと興奮をおぼえたという。しかし当時小学生であった私には、REBECCAのブレイクポイントというのが、実はよくわからない。ある日、なんの前触れもなく現れて、気がついたら “
鳴り響くチューニングのA、大滝詠一「君は天然色」 ピアノの「A」の音が鳴り響く。なんだこれは… イントロ? ―― いや、違う。これはチューニングだ。 『A LONG VACATION』 「A」で僕の80年代は一気に色づいた。 そのアルバムを僕が初めて聴いたのは1983年だった。2年前、1981年3月21日に発売された『A LONG VACATION』は100万枚以上を売上げ、すでに社会現象だった。「BREEZEが心の中を通り抜ける」… アルバムのキャッチコピーも、永井博の手になるジャケットも、あまりにも有名になっていた。 だが、僕はそのレコードをビニール盤で求めることはせず、CDで聴いたのだ。2年後にSONYの世界初のCDプレーヤーを手に入れた僕は、大滝詠一『A LONG VACATION』、佐野元春・杉真理・大滝詠一『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』、そして佐野元春『SOM
神がかったシングルはジグソーパズルの最後のピース?「AL-MAUJ」 80年代、中森明菜のシングルは神がかっていた。 季節ごとに発売されるシングルは、常に聴くものに強烈な衝撃を放ちながらも、一方で「なぜこの曲が今までなかったのだろう」と不思議に思えるほど、あるいは昔から彼女が親しんでいた曲のごとく、リリースされた瞬間から彼女にしっとりとなじんでいた。 常に新しく、常に今まで聴いたことがなく、それでいて、ジグソーパズルの最後の空白の1ピースのような、周りの誰もが気づかなかった大切なひとかけら―― それが当時の中森明菜のシングル群であった。1988年1月発売、20枚目の中森明菜のシングル「AL-MAUJ」もまた、そのような1曲である。 「AL-MAUJ」は、作曲者の佐藤隆が1987年7月6日にリリースしたアルバム『水の中の太陽』収録の「デラシネ」の歌詞を変更したものである。しかし、これは正確に
東京港区六本木、いつまでも拭えないアウェイ感? 2020年の年が明け、東京都内周辺では、これまで今年を目指してきた鉄道や道路、宿泊や商業施設が次々とオープンし、海外からのゲストを “お・も・て・な・し” する準備が着々と進んでいる。我が街、六本木も例外ではなく、今月に入り、ビジネスマンや観光客にも使いやすい中堅どころのホテルが、オフィスの間近に開業したばかりだ。もっともこのエリアに限れば、この四半世紀というもの全く落ち着いたことなどなかったのではないだろうか。 今やランドマークとなった六本木ヒルズが2003年に開業して以来、東京ミッドタウンや新国立美術館、交差点に近く、長い警棒を持った警官がにらみを利かせていた麻布警察署も赤坂寄りの新しい場所に昨年移転したばかりだ。当然その跡地も再開発されるだろうし、かつて一世を風靡したヴェルファーレの付近には据え置かれたように広大な駐車場が残されており、
竹宮恵子原作の人気SF漫画「地球へ…」、その世界観とは? 「初恋の人は?」と聞かれたら、迷うことなく、しかも食い気味に「ソルジャー・ブルー!!」と即答するだろう40代の女… そう、それが私。 ソルジャー・ブルーとは、1977年~1980年にわたり『月刊マンガ少年』で連載された竹宮恵子原作の名作SF漫画『地球へ…』のキャラクターだ。1980年には東映アニメとして映画化されて一気に人気をさらった。2007年にはテレビアニメ化もされて、今なお愛される作品だ。 環境汚染や自然破壊で滅びかけている地球を危惧した者たちによって、人類は地球を離れスーパーコンピューターの管理の下、別の惑星で暮らしている。 子供たちは、教育の惑星で無作為に選ばれた精子と卵子を受精させて誕生。育て役の親が14歳まで養育し、“目覚めの日” といわれる “成人検査” をクリアした者だけが次の惑星へと送られて、エリートと、そうでな
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