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やる気の出し方
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新海誠「天気の子」愛でも破滅でもなく 主人公の帆高の選択に対する批判としてこれを社会性のないものであるとか、浅薄な功利主義(最大多数の最大幸福)批判であるとか、公共的なものへの反発からくる徹底した利己主義、リバタリアニズム(自由至上主義=個人の自由と権利を絶対視する思想)であるとかいう批判が一部にある。 一方で帆高の選択に対する賞賛として非常にラディカルでアナーキーなものであると賞賛する人たち(おもに革新幻想にとらわれた中年男性)がいる。むしろ批判よりもこっちのほうが多いかもしれない。 だがこの批判するもの、賞賛するもの両者ともに映画に描かれているものと向き合わず、新海誠の意図するものを無視し、頭の中にある「公式」に映画を当てはめているにすぎない。 この批判と賞賛の両者が見逃しているものとは新海誠その人であるといってもいい。 はたして新海誠は徹底した利己主義、自由至上主義の観点から帆高の決
映画「海獣の子供」いまごろニューエイジ思想かよ 映画「海獣の子供」すさまじいアニメ表現と色っぽい人物、特に少年青年老人の男勢がみんな色っぽい。アニメのキャラクターでここまで色っぽく描写できるのは驚異としかいいようがない。色っぽいというのは性的も含むけど、実在感、肉体感、身体性がすぐれているということ。アニメ演出、作画両面ですさまじく高水準な仕事をされていることがわかる。 多くの人が意味がわからないという思想的な面も「ひとつは全にして全はひとつなり」「自と他の区別なく、生と死の境もない」というような仏教思想を多少齧ったことがあるならなんとなく理解はできるだろう。 主人公ルカの家の前を虫が羽虫の死体を引きずっていく場面や、エンドクレジット後の場面ー母親が赤ちゃんのへその緒をルカに切ってくれと頼むとルカはへその緒を切りながら「命を断つ音がした」という場面はまさに「生と死はつながっているし境もない
庵野秀明は天才か二流か。庵野秀明論 「人間が天才でいられる時間は短い。しかしプロは生涯プロでいられる。才能を技術として体系化できるからだ。」佐藤大輔「虚栄の掟」 庵野秀明の評価はエヴァンゲリヲン、シン・ゴジラを経てもなお毀誉褒貶が激しいように見える。その評価には天才というものもあれば、オリジナリティのない映画作家というものもある。 いったい庵野秀明は天才なのかそうではないのか。 たとえば押井守はTVBros2016年9月10日号でこういうことを言っている。 (庵野は)全部コピーだよ。レイアウトからテーマにいたるまで、言ってみればすべてがコピー。初代「ゴジラ」と同じレイアウトがどんだけ出てくるか知ってるの?わざわざゴジラと電車を組み合わせたのも初代「ゴジラ」を意識したものだし。さっきも言った岡本喜八の「日本の一番長い日」とか、数えだしたらきりがない。 庵野の色は何かといえば、真っ白なんだよ。
庵野秀明は樋口真嗣から映画を奪った・シンゴジラ簒奪劇のすべて。ジ・アート・オブ・シン・ゴジラを読む ジ・アート・オブ・シン・ゴジラはただのアートブックでも、映画制作を資料を並べながら解説する本でもない。ここには庵野秀明という異物がいかに映画スタッフから憎まれ、嫌われながら、それでもなお映画の現場を蹂躙していったかの記録が残されている。 この本は庵野秀明がいかにして現場の主導権を傍若無人に奪い取ったかのあまりにも赤裸々な記録なのだ。 そもそもシン・ゴジラ撮影現場での大混乱は庵野秀明自身も樋口真嗣やそのスタッフも庵野本人が撮影現場に出張ってくるとは誰も考えていなかったことにある。 「(庵野は)脚本とプリヴィズと編集だけやるから、現場は任せた」という話だった。-樋口真嗣監督(p482) しかしなぜか庵野は撮影現場につきっきりとなる。このことに騒然とする樋口組スタッフ。当たり前である。現場スタッフ
この夏公開された二本の大ヒット作、新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」は奇妙な符合を見せている。 「失われたものを取り戻す」。それが偶然にも両者に共通するテーマとなっているのだ。 シン・ゴジラと君の名は。は両作品とも3.11=東日本大震災の悲惨な出来事が背景として存在している。そして両作品とも3.11で「失われたもの」を取り戻すというファンタジーであるということも共通している。 シン・ゴジラは3.11でうまく立ち回れず、被害を大きくしてしまったかもしれない当時の政府がもしうまく立ち回れていたら、という「願望」めいた「幻想」を描いていた。 君の名は。は3.11で失われてしまった生命と土地を再びこの世に取り戻すというファンタジーだ。 「失われたものを取り戻す」という幻想は、もはや変えることのできない「運命」への絶望的な挑戦でもあるがゆえに、映画のような創作にだけに許された特権的なもの
秀吉の経済政策はまっとうです「落日の豊臣政権」に書いていないこと 河内将芳著「落日の豊臣政権・秀吉の憂鬱 不穏な京都」の意図はタイトルにもあるように、秀吉の政策がいかにひどくて、人心の離反を招いたか、にあるわけだが、そこで指摘されている秀吉の失敗したとされる経済政策を見てみると・・・あれ?秀吉の経済政策全部まともじゃね?という感想が浮かび上がってくるのは私だけでしょうか。 ここで批判的に書かれる秀吉の経済政策は三つ。「公共事業」、「金くばり」、「ならかし」である。 「公共事業」についてはいうまでもないが、秀吉の「普請好き」は有名だ。京都に聚楽第を建設すると、当然その周りに大名や奉公人たちの屋敷や家々が建築され、彼らにともなって人と経済の大移動が始まり、京都は一大都市へと発展していく。 聚楽第建築以前の京都は人口8千人程度の小さな町にすぎなかったが、聚楽第以後はその10倍以上の大都市になって
至上の価値は少年ジャンプか小松菜奈か「バクマン。」 目標も夢も何もないごくフツーの高校生が、一転、漫画という夢と希望を発見したときの世界が一気に開ける感覚!その衝撃と感動は何物にも変えがたい光芒として私の網膜に焼きつけられる。本当にここは感動するよなぁ。たいていの人は一生を捧げるに値するものなんて何も見つけられずに亡羊と生きていくほかないってのに、この子たちは高校生のみそらでそれを見つけてしまうんだ。有頂天になるのもわかる。 夢に向かって、ただ夢だけを見て駆け上がっていくことの出来る人生というのはそれだけで貴重すぎるほどの宝物だ。 だがプロデューサーの川村元気氏がこの映画を「キッズリターン」(北野武作品)にしてくれと大根仁監督に注文した以上、夢だけを見て駆け上がっていく映画ではなくなるのは当然のことだった。 晴れてジャンプ作家となった二人(佐藤健、神木隆之介)を待ち構えていたのは、恐るべき
全ハロヲタに問う。アイドルは人間か・朝井リョウ「武道館」を読んで 朝井リョウの小説「武道館」は今売り出し中のアイドル「NEXT YOU」のメンバー愛子の心象を追いながらも、実際に作者が書きたいのは、アイドルとそのファンの関係性、アイドル現象もろもろ。つまり「アイドル論」である。 この作品内において描かれるアイドル論やアイドルの抱えている問題の数々は、今現在アイドルムーヴメントの中で語られていることのほとんどを網羅しているといっていい。 たとえばアイドルのダイエット問題であるならば、すぐに思い浮かぶのがモーニング娘。の鈴木香音の劇的なダイエットだろう。そうした現実のアイドル事情が作品にダイレクトに反映されている。作者はそうした現実にあるアイドルの問題をひとつひとつ物語の登場人物たちに語らせていくのである。 鈴木香音ダイエット前後 アイドルの体型、ダイエット問題に対しては作者(の声を借りた登場
きよちゃんへ。ザ・ノンフィクション中年純情物語~地下アイドルに恋して~を見て 2015年7月5日放送ザ・ノンフィクション中年純情物語~地下アイドルに恋して~を見た。 内容は秋葉原の地下アイドル「カタモミ女子」にはまる中年男性の姿とアイドルの女の子たちを描いたもの。カタモミ女子はアイドルといっても日ごろはお客さんの肩をもむというアルバイトをしながらアイドル活動をしているという特殊な形態のアイドルだ。番組は53歳独身のアイドルファン「きよちゃん」とカタモミ女子のメンバーりりあを巡って繰り広げられる。 きよちゃん53歳独身。この人がまたいい人なんだよ りりあちゃん。この娘さんがまたいい子なんだ。自分がお店にいると、きよちゃんに余計なお金を使わせてしまい心配だというのである。おっさんもファンになったわ! この番組を見てなぜこんなにもつらく悲しい気持ちになり、激しく心揺さぶられたまま今に至るのか。(
乗り越える物語としての映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」 「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」を観る。非常に恐ろしい映画でした。この映画を観る人のほとんどはひろし、それもロボとーちゃんであるロボひろしの立場に立って見ると思うのですが、この映画はロボひろしの地獄巡りの様相を呈しているので、見るものにとってはドキリとするような恐ろしい描写にあふれています。 まず最初にドキリとするのはロボットとなって家に帰ってきたひろしに対するみさえの態度です。体が、外見が違うというだけで心は100%ひろしにもかかわらずみさえはロボひろしを激しく拒絶するのです。外見が違うだけでもう「ひろし」は「ひろし」でなくなる、「わたし」は「わたし」でなくなるのです。つまり「わたし」という自己同一性を保障してくれるのはわたしの「心」や「精神」や「意識」などではなくて、他者の目からうつ
鈴木愛理生誕記念・鈴木愛理論 鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって 少し前のことになるが、2013年12月31日放送のラジオ、ダイノジのスクールナインで映画研究者の春日太一と漫才コンビ・ダイノジ、こんにちは計画の杉田が℃-uteのことをたっぷり語り合った。そこでの℃-ute評を書き出してみる。 矢島舞美・・・矢島を男としてみている。尊敬している。恋愛の対象ではない。そういうことを考えてはいけない存在。男にそう思わせてしまう孤独感。好きって言っちゃいけない。カテゴリー的には若山富三郎や勝新太郎のようなスターとして選ばれた存在。尊敬して追いかけたい気持ち。(春日太一) 中島早貴・・・中島はTHE女の子。女の子の嫌な部分も含めて表に出す。不安定な女の子。見ていて不安になる。MCも不安だし、歌も不安だし、キッズステーションというTV番組でもなっきぃはすごく不安定。たえず不安な子が自分
℃-ute武道館考・あるいはアイドル文化を支える「不安」という名の双方向性について 2013年9月9日、10日℃-ute武道館公演2daysから数日たった今でも私の生霊は武道館にいるんじゃないかというくらい魂の抜けた抜け殻のようなボーッとした気持ちで日々をすごしている。関東在住の方は毎週のようにアイドル関連のイベントがあるのでもうなれっこになっているのでしょうが、地方在住者にとってアイドルのイベントは非日常であり特別な祝祭です。特に「遠征」はそうした非日常感、祝祭感を際立たせる通過儀礼のようなもので私の℃-ute武道館考はそうした祝祭バイアスがかかっているかもしれない。しかしオーストリア出身の哲学者がいうように「世界は私の世界である」のでこのまま続けさせてもらいます。 私が武道館に着く前にすでにTeam℃-uteタオルやTシャツなどが売り切れていた。モーニング娘。の卒業公演でもグッズ売り切
2012年読んだ本9位はレオ・シュトラウス「スピノザの宗教批判・英語版序文」(スピノザーナ1号より)です。 リベラル・デモクラシー最大の欠陥は公的領域と私的領域の分断にある。ワイマール共和国時代を生きたユダヤ人哲学者レオ・シュトラウスはワイマール共和国というリベラル・デモクラシーに夢と希望を抱いていた。リベラル・デモクラシーこそが長きに渡るユダヤ人差別を解消してくれるのだと、シュトラウスだけでなく多くのユダヤ人が楽観的に考えていたのだ。たしかにワイマール共和国下ではユダヤ人にドイツ人と同等の市民権があたえられ、法的平等の下に置かれた。(ワイマール共和国憲法を書いたのはユダヤ人フーゴー・プロイスである。) だが、「リベラルな解決がもたらすのは法的平等であって社会的平等ではない」(スピノザの宗教批判) つまり公的領域ではユダヤ人差別は存在しなくても、私的領域では差別は依然としてなくならないどこ
映画「リンカーン」善と正義の対立 このタイトルの意味は「善」は奴隷制度廃止、「正義」は戦争回避を意味する。映画「リンカーン」では奴隷制度廃止を優先するか、南北戦争を早く終わらせるかの二択に揺れるアメリカ議会を描いている。 現代に生きる我々は当然、奴隷制度廃止が優先に決まってると思うだろう。奴隷制度はどう考えても絶対悪であり、すぐにでも廃止しなければならない制度であるのは明らかだからだ。 アメリカの有名な政治哲学者にサンデルという人がいる。彼の哲学の特徴を一言で言い表すと「正義に対する善の優越」ということになる。「善は正義に優越する」ってどゆこと?これは南北戦争を例に取れば簡単に説明できる。 リンカーンの若いときからの政敵にダグラスという人がいた。ダグラスは奴隷制度に関しては州ごとに考えが違う。だからこの問題は棚上げにして、南北の分裂を防ぐべきだと主張した。それに対しリンカーンは奴隷制度は「
「(タランティーノ)映画はすべてごっこ遊びでしかないのだ」ー柳下毅一郎(映画秘宝3月号ジャンゴ評より) タランティーノ映画を言い表すのにこれ以上の言葉はないだろう。タランティーノは自分の好きなジャンル映画をひたすら模倣し、コラージュする「映画ごっこ」遊びの達人である。そしてそんなタランティーノ映画を見て喜んでいる私たちはタランティーノが砂場で泥(映画)をこねるのを取り囲みながら夢中になって見ている子供みたいなものだ。つまりタランティーノマニアは映画の中の物語を楽しむのではなく、映画におけるタランティーノの手癖を見て楽しんでいるのだ。これはメタ的な映画の観方といえるだろう。 ウンベルト・エーコの文学理論で「モデル読者」と「モデル作者」という考え方がある(「エーコの文学講義」)。モデル読者とは物語の中に入り込み、その物語に疑いを向けない読者のこと。例えば物語に出てくるネズミやカエルが人語を話し
映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見た。面白くてびっくりした。Qとくらべたら序も破も凡作と言って差し支えないのではないか。オープニングからしていったい画面上で何が起きているのかさっぱりわからないにもかかわらず、こんなにワクワクドキドキする自分にびっくりする。いや、ちょっと待て自分。意味がわからないのに面白いって子供じゃないんだからと、一応解釈らしきものがぼんやりと浮かんできたので書いてみる。 エヴァQの主人公シンジはその選択という選択、行動という行動がすべて裏目にでる。よかれと思ってしたことが、ことごとく悲惨な状況を生み出してしまう。このような主人公は他の映画でも見たことあるな~と思い出したのがフランク・ダラボンの映画「ミスト」だ。 ミストを観た人はわかると思うが、ミストの主人公であるお父さんは子供を守るために行動するまさに正統派ヒーローだ。モンスターが闊歩する異常な世界にいながら果断
世界的な右翼ポピュリズムの伸張と拡大の原因をシャンタル・ムフの「政治的なものについて」から読み解く。 シャンタル・ムフは現代の危機的状況-右翼ポピュリズム、テロリズム、文明の衝突を招いているものの原因をその著作「政治的なものについて」で分析している。ムフは現代は政治的な対立を隠蔽し、すべてが道徳的対立に置きかえられてしまった時代だという。その置きかえを行う犯人は-「リベラリズム」である。 リベラリズムが掲げるのはこういう考え方だ-「党派性を超えて」、「対話型民主主義」、「コスモポリタン主義」、「グローバル市民社会」。こうしたリベラリズムの代表とでもいうべきハ-バーマスの考え方は以下のものである。 -「討議」によって唯一妥当な合意を作り出すこと。そうした合意にもとづいた民主主義の価値は普遍的なものであり、この普遍的な価値観の下、世界の差異や対立は解消され世界はひとつになる。- ムフはまさにこ
映画「アウトレイジ ビヨンド」を隅から隅まで考察しているので、当然ネタバレしています。 1カット目・単線と複線 人は映画を見るとき、ただ物語や登場人物の感情を追うだけではない。映像やセリフとして表現されたものだけではなく、表現されていないものまでそこに読み取ろうとする。一番わかりやすいたとえを出せば、私の大好きな映画監督にエルンスト・ルビッチがいます。 ルビッチの映画手法は表面的にかわされる会話やしぐさの裏に別の意味が隠されている。つまり映像で表現されていないものを観客に読み取らせるのだ。映画「メリーウィドウ」(1934)ではテーブル席に座る男女がよそよそしい会話をかわす。彼らはあくまで礼儀正しく、堅苦しい態度を崩さないのだが、女がある一言をもらす「靴をかえしてくださる?」 その瞬間そのシーンはひっくりかえる。よそよそしく堅苦しい男女の会話が続くなか実はテーブルの下ではエロティックな攻防が
現在のアジア情勢を見るに、その原動力となっているのは経済的、社会的、政治的理由だけではなく、非合理的な大衆の情念の役割が大きいのではないかと考え、そうした非合理的な情念が歴史を大きく動かした例として18世紀末のフランス革命と20世紀ナチスを導いたワイマール共和国時代を考察したい。この二つの時代をジョルジュ・ルフェーヴルの「革命的群衆」を軸に読み解いていく。 フランス革命とはリーダーにそそのかされた群衆が起こした事象ではないとルフェーヴルはいう。フランス革命は大衆の「集団心性」という情念の働きなしには考えられない。集団心性が醸成されるために重要なのは民衆の「語らい」である。村々でのミサの集まり、酒場での語らい、またアンシアン・レジーム下の農村では村人が集まって老人の昔話に耳を傾ける「夜の集い」なるものもあった。こうした口伝えによる伝承は「平準化」と「抽象化」という作用をもたらす。 「平準化」
冨樫義博「Hunter x Hunter」30巻を読んであまりにも深く、激しく動揺してしまう。それはそこに感情移入していた登場人物の死が描かれているからというわけではない。ここには「悲しい死」ではなく、もっと別のことが描かれている。そこに描かれているのは・・・ 「メルエムはイエスである」 ー このことである。 おかしなことを言い出す奴だなと思われるかも知れません。いったいメルエムのどこがイエスだというのか。私はイエスを「イエス」たらしめているのは三つの愛だと考えます。メルエムはそこに重なるのです。 「イエスの三つの愛」 その一。「贖罪の愛」いけにえ性としての愛 イエスはほとんどいいがかりのような罪をきせられ、無残にも十字架上で処刑された。一時はイエスをメシアと持ち上げた民衆からは足蹴にされ、イエスを慕った弟子たちもみなイエスを裏切った(裏切ったのはイスカリオテのユダだけではない)。十字架に
最初はこの映画「ヒミズ」にのれなかった。いや、最初どころか最後の直前までのれなかった。ここに描かれている苦悩が絵空事にしか思えなくて。もちろん親に虐待されている子供たちは世界中にごまんといるのだから、それ自体は絵空事ではないにしろ、少なくともこの映画に描かれていることは嘘だとしか感じられなかった。 そうした嘘くささは、人生は灰色一色に染められているという思い込みからくる傲慢からきていると思う。実際の人生は明るい色もあれば暗い色もあるようにまだらのように様々な色がグラデーションとなっている。人生は灰色一色に塗り込められていると考える人は、自分とその周りにしか世界がないと思いこんでいるモノローグ的生を送っている人だ。(モノローグ的生については「スピノザ・園子温論」を参照) モノローグ的生を生きる人にとって関心があるのは自分だけでしかない。だから震災や津波、原発被害も自分のモノローグ的苦悩を際立
スピノザと園子温「恋の罪」論・第1部「身体性」 まずはじめに、私が書かんとしていることは、ただ単に「恋の罪」評を書くより、スピノザと園子温がいかに近接しているかを書いた方が理解が得られやすいこと。そしてさらにはスピノザと園子温を包括的に批判するという大それた趣旨もあります。長くなると思いますがお付き合いください。 第1部「身体性」 人間の「身体」ほど哲学上でも神学上でも長い間不当におとしめられてきたものはないだろう。12世紀のユダヤ神学者マイモニデスはこう言っている。 ー人間の知性が肉体に縛られている限り、神の摂理と一致できない。 ー物理的なもの、動物的なものに執着する限り魂は肉体と共に滅びる。ー「スピノザの精神と生涯」 そして哲学上では17世紀デカルトにいたるまで 理性の宿る精神と、感覚や感情の領域である身体を明確に区別した。身体は精神に従属し、そして感情は理性の支配を受けなければならな
二代目林家三平と国分佐智子の結婚披露宴でのビートたけし祝辞全文。 ー三平さん佐智子さん。このたびはご結婚おめでとうございます。 わたくしも、今日のこのおめでたい席に出席するにあたり、数々のヤクザの営業、イベント、または黒い交際などをしっかりと断ってやってきた次第でございます。 あなたは海老名秦一郎、香葉子の次男として、姉・海老名美どり、泰葉、兄・泰孝、沢山の水子、これらの後に堕ろされもせず、よくぞこの世に生をうけました。 親が林家三平というだけで、その名跡を継ぐだけならまだしもこんな綺麗な嫁さんまでもらって本当にうらやましいかぎりです。 こんな不平等があっていいんでしょうか。わたくしは今日から共産党に入ります。 さぞお母さんも草葉の陰から喜んでいることでしょう。 よくお兄さんの正蔵さんとは親が違うと言いますが、私もそう思います。 ところで三平師匠の腹違いの兄弟達はみんな元気なのでしょうか?
映画「探偵はBARにいる」を見た。この映画を批判するのに、電話をかけてくる女が最初から(あるいは途中で)誰かわかってしまいミステリ的な興趣を削ぐという意見があり驚いている。例えばキネマ旬報2011年10月上旬号星取り評の野村正昭氏はこんなことを書いている。 冒頭の電話の依頼主は消去法を持ち出さずとも“彼女”しか考えられず、ここが小説と映画との決定的な違いであり、それを埋める配慮がもう少しあれば、ラストも鮮やかに決まっただろうと惜しまれる。ー野村正昭 原作は確かにミステリ的な側面が強いかもしれない。だがこの映画の狙いは最初から犯人当てゲームにないのは、火を見るよりも明らかだ。犯人当てゲームなら何人かあやしい女性の登場人物を増やしてミスリードを誘うようにするだろう。それをしていないということは、この作品の眼目はそこにはないということだ。 ではこの作品の眼目はどこにあるのか。この映画での悪役カト
映画監督アレクサンダー・マッケンドリック(代表作「マダムと泥棒」「成功の甘き香り」etc)の言葉に 映画というものは、見せられている映像とセリフの言葉の意味が相反していると、より面白く説得力のあるものになる。ー「マッケンドリックが教える映画の本当の作り方」 というのがある。 なぜセリフの意味と、場面の意味が相反していると、面白く説得力のあるものになるのか。それはセリフと場面の意味が相反していると、そこに登場人物の心が浮き上がってくるかのように見えるからだ。 誰もが自分の心の声というのは自分だけにしか聞こえないものだと思っている。自分が何を思っているのか、何を考えているのかは、他人にはわからないはずだと。自分が何を思っているのかを他人に理解させるには当然、声に出して喋らなければならない。だが、映画では心のありかを声に出さずとも表現することが可能なのだ。 映画「コクリコ坂から」の一場面。カルチ
今、最もノリにノっている映画監督と言えば園子温であることに異論はないだろう。日本映画史の中で特別な位置を占めるであろう特別な傑作「紀子の食卓」、園子温の才能と情熱が爆発した大傑作「愛のむきだし」、そして最新作の「冷たい熱帯魚」と10年に1本の作品とよべるような傑作を連打している。 ただ不満がないわけではない。園子温映画のキリスト教描写に関してである。「愛のむきだし」はキリスト教描写が映画の本質に関わっているし、なによりあの満島ひかりがコリント書第13章を唱えるシーン 「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても愛がないなら何の値打ちもない。最後に残るものは信仰と希望と愛。その中で最も優れているものは愛。」 このシーンはここ10年間のベストシーンと断言できる。 だが、しかし「冷たい熱帯魚」のキリスト教描写はどうだろう。あきらかに映画の本質と関係のないおざなりな描写でしかないのではなかろうか。私
「冷たい熱帯魚」を見て映画が過去100年以上にわたって描いてきたものの正体を見る。 日本映画最初の劇映画は1899年製作駒田好洋「ピストル強盗清水定吉」という日本初の拳銃強盗事件を題材にした実録映画であり、アメリカ映画最初の劇映画は1903年製作「大列車強盗」(The Great Train Robbery)であるのをみてもわかるとおり、映画はその起源から暴力を描いてきた。 しかし映画で描かれる暴力に対して嫌悪感を持つ人は多く、それだけで映画を受けつけないという人もいる。たしかに暴力は嫌悪すべきものです。しかし多くの人が映画の暴力描写への嫌悪を表明するだけにとどまり、嫌悪の先にあるものを見ようとしない。 なぜ人はそこまで暴力を嫌悪しながら、映画史の起源から今現在に至るまで暴力を題材にした映画を止むことなく作ってきたのか。そのことを考えることは映画の本質を、ひいては人間の本質を考えることにつ
映画「海炭市叙景」を見て救われた気持ちになった。 映画は海炭市に住む4つの家族に寄り添いながら淡々と進む。そこで描かれるのは今の私たちの似姿。断絶し、理解し合えない家族の姿であり、停滞し、窒息しそうな街の姿だ。不思議なのは、そんな暗くじめじめした映画にもかかわらず見ていてすごく救われたこと。 一体この自分の不可思議な気持ちはなんなんだろうと。自分と同じようなみじめな境遇の人々を見て溜飲が下がったとでもいうのか。そんな卑しい気持ちが自分にあったのか?いや、違う。映画を見ていて最も心が満たされ、救われたのはどこだったか、はっきりと思い出せる。 路面電車がすべるように動き出した瞬間に私の心はスクリーンの中に入っていき、映画の中で何の関わりもなかった人々が同じ路面電車に乗り合わせたり、すれちがったりするその時、何か突然、救われた気持ちになったんだ。 それは決して自分と同じようなみじめな人々の境遇に
SIGHT vol.46 「北野武2010年を語る」より ー9月に入って7日に「アウトレイジ2」の制作発表があって、年内でキャストと脚本を詰めて来年撮って、秋には公開っていう。これ制作発表してから、すごい売り込みがあったんじゃないですか? 北野武・あったあった。「俺はキャストは、最後の最後にしか決められないんだよ」って言ってるけど。 ーあれはほんとおいしい映画ですもんね。役者にとってね。 北野・あれはみんなセリフがあって、顔出したときにみんな怒鳴り合うじゃない?だから、「その他一同」っていう役が、あんまりないからね。ほら、中野(英雄)くんとか、ああいうのが急にバンバン前に出るシーンとかあるから「あれ?」と思ったんじゃないの?みんないい役者に見えちゃうんで。 ー特に、いわゆる善人イメージのある役者さんほど、出たいでしょうね。 北野・うん、なんかね、みんなうまいことキャラクター決まったんだよね
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