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パリ五輪
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(敬称略)前回より続く 宮台論文の余白に書かれた断片的な同時代分析が面白かったこと,「おたく」という概念がわれわれのサークルに入った詳細が前回の話である。 今回は、当時の宮台論文の面白さについて。同時代分析以外にもうひとつ印象に残ったことを思い出した。 宮台の論文のどこに惹かれたのか。 多くの人は彼の著作に横溢する圧倒的な情報量だという。しかし私の場合は逆だった。彼が<多くのことを知らない>ことに魅力を感じたのだと今になって思う。 宮台の論文には柄谷行人の痕跡が全くなかった。 石原の柄谷体験についてまず述べる。 石原は1982年から数年間早稲田大学に在籍し、前回書いた「文学研究会」という文系サークル(笑)に在籍していた(あとから知ったことだが芥川賞作家の堀江敏幸が後輩)。このサークルで石原は、講演などで毎年呼んでいた柄谷行人と何度も出会うことになり、大いに影響を受けた(その後東大に移ったの
「小説家や詩人になりたかったがとうとう書けずに哲学者や社会学者になった人は結構いる。また数学者になりたかったのに能力がなく哲学や社会科学を選ばざるを得なかった研究者も多い。そしてこの本は、この両方の失敗を犯した私の本である」 Jon Elster『ユリシーズとセイレーン』 いろいろな方から、『サブカルチャー神話解体』の製作過程について書いてくれといわれている。増補版が出たのでまた興味を持つ読者がいるらしい。共著者とりわけ宮台真司氏、そしてちくま書房には足を向けて眠れない。 学問的ではない思い出から未発表原稿までいろいろあるのだが、他のお二人の了承を得る必要のないものだけ時々書き連ねてゆこうと思う(敬称略)。都合のいいような記憶の書き換えがあるかもしれないがご容赦を。開き直るならば、<書き手の思い出話など信じてはいけません>。 1989年3月×日 宮台は晦渋なソシオロゴス論文で一部に知られて
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