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せっかく働くのだから、自分らしい働きがいを持つことで素晴らしい人生になるはずだと。(2004/09/05更新)
自分で生きなければと 真剣に職業を考えた 私は、片方の目がよく見えなかったこともあって、小さい時から、自分は人よりも生きていくのが大変なんだろうと分かっていました。親がいても姉がいても、見えない私の代わりを誰もできるわけではないし、身体的な危険はいつもある。でも、もう片方の目は見えているから、ある程度友達とも遊んだりしなくてはなりません。自転車に乗ったり、屋根の上を移動してみたり。今思えば、私なりの挑戦だったかも知れない。 私の考えは常にサバイバルモードで、将来誰かに食べさせてもらおうとは思いませんでした。なので、職業については小学校に入る前から考え、この仕事はできない、これはダメだろうと消去法で、結果的に「これしかできない」と文章に行き着いたのですね。 書き始めたのは5歳頃からでしたが、それをはっきり覚えているのは、自分で決めたからです。年の離れた姉は漫画家になると宣言していたし、両親に
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「君、頼むよ」と言われ 仕事は始まっていく 自分の適性に合った仕事に就くべきだと当たり前のように言われていますが、適職などというものがほんとうにあるのでしょうか。僕は懐疑的です。それは就職情報企業が作り出した概念だと僕は思います。「キャリア教育」の名のもとに、大学2年生から就活指導が始まり、その最初に適性検査を受けさせられます。これがいったい何の役に立つのか、僕には全く分かりません。 大学で教えている頃に、ゼミの学生が「適性検査の結果が出たのですが」と困惑してやってきたことがありました。「あなたの適職は1位キャビンアテンダント、2位犬のトリマーと出たんですけど、私は一体何になればいいのでしょう」と(笑)。就職情報産業は学生たちを、自分には「これしかない」という唯一無二の適職があるのだが、情報が足りないせいで、それに出会えずにいるという不安のうちに置きます。それに乗じられる学生たちが僕は気の
あんどう・みふゆ ●慶応義塾大学卒業後、(株)集英社を経て2011年に独立、(株)spree代表。ソーシャルメディアでの発信とセルフブランディングを駆使し、複数の肩書で複数の仕事をする独自のノマドワークスタイルを実践。野村不動産(株)、(株)リクルート、東京ガス(株)などが参画する「ポスト団塊ジュニア(PDJ-lab)プロジェクト」アドバイザー。「自分をつくる学校」学長。3月31日(土)放送のNHK「ニッポンのジレンマ」では、1970年生まれ以降の論客として出演予定。ブログ http://ameblo.jp/andomifuyu 職業名が、フリーランス、である。スマートフォンを片手にツイッターなどのソーシャルメディアを駆使して、自分の発想やアイデアを発信し、複数の肩書で複数の仕事を形作っていくのだという。そして実際に、安藤さんの仕事相手には大手企業の名が並んでいる。この働き方を若い人の一過
いきなり咲く 花はないよ 次々と新しい仕事に挑んでいると、よく、他分野の演劇人や演出家とたちまち話がまとまったのかと誤解されます。相手の良い仕事を見てコラボレーションを企画したのか、とかね。 でもそれは違う。「野田版 研辰(とぎたつ)の討たれ」を書いてくれた野田秀樹さんも、先日の中村座ニューヨーク公演を共にした串田和美さんだって、もう20年、30年の付き合いです。若い頃に出会い、飲みながら演劇の夢を語り、いつかいつかと熱を込めながら育てて花開いた舞台なのです。その間に互いの仕事をきちんと見てきたし、何を考えているのか、どんな舞台を目指しているのか、腹の底まで知り尽くしてきた。そのくらいの友人でないと本音で新しいことに体当たりすることはできない。 今は働いている土俵が違っても、あいつがあそこでがんばってるなと思うから、自分もいい加減なことはできないぞというの、あるでしょ。仕事への熱さが同じ人
古い運営体質を 格好悪く感じた 長野県軽井沢町で実家が旅館を創業したのは1914年です。物心つく頃から、祖父に跡取りだと言われて育ち、周囲もそう見ていましたから、ごく自然に旅館を継ごうと思っていました。ですから就職活動もせず、大学生活はアイスホッケーに明け暮れていた。 米国の大学院へホテルの経営学を学びに行きましたが、これは私が日本の旅館に対していいイメージを持っていなかったからです。実家は建物も古いし、運営自体もとても古臭い。東京で一流ホテルを体験すると、やはり西洋型のホテルがいかにも洗練されていて格好良く見え、日本旅館で働いている人たちにはプロフェッショナルがいないとさえ思っていました。あの古い旅館の体質に将来性があるとはとても考えられなかった。 大学院で学んでからもう25年も経っていますから、今となっては役に立たない知識ばかりと思えますが、ただ一つ、「世界から見た日本の見られ方」が非
人の仕事には 敬意を払おう 音楽だけではなく、映画や小説、絵画、スポーツなどの分野も同じだと思いますが、商品として売っていく中で「世の中を変える世紀の傑作」とか、「数百万人を感動させた」と誇大宣伝を打つケースが少なくない。さらに、多くの媒体や評論家と呼ばれるような存在も巻き込んで、過大評価を流布する例もたくさんあります。そのこと自体はビジネスなので仕方がない。 それは内容とは別の問題なのに、宣伝ほどじゃないとか、過大評価が気に入らないと思う人々が、今度は批判を浴びせます。そういう過大な称賛と不必要な批判が錯綜(さくそう)し対立するたびに、文化は傷つき、人の気持ちもすさむように思えます。 僕は58歳になり、この年齢になってどうにか、的外れな批判を気にせずに生きられるようになりました。できることなら、今の若い人にはそういう周囲の雑音に負けないで仕事をして欲しいと思っていますが、残念なことに、今
魂の叫びだけで 100曲は書けない 音楽の世界では、大きく二つの働き方があります。作品を自ら作り表現する側、作り手を助けることでビジネスをする側。作り手を目指すといっても、ロックンロールの場合、ギターコードを三つ知っていれば曲が作れてしまう。でもその程度では100曲は書けません。自分の魂の叫びがいくら強くても、すぐに限界が来るのは冷徹な事実です。音楽表現を長く続けていくためには、継続的な訓練と学習が必要なのです。 この世界は見切りが早く、3年くらいやって芽が出ないと簡単に切り捨てられてしまう。レコード会社の責任もありますが、プロとしてお金を稼ぐというのはどういうことか、趣味でやるのと何が違うのか、若い時から考えなくてはいけないと思う。「俺はいい曲を書ける天才だ」といくら言ってみても、それにお金を払ってくれる人がなければ自称にすぎない。逆に500円でも千円でもギャラをもらえば、金額に関係なく
曲作りは苦しいが 妥協だけはしない 何のために音楽をやるのか、表現者としてどんな音楽活動をしていくのか。僕はそうした自分に対する問いかけを常にしてきました。功名のためとか、金もうけの手段として音楽を選んだわけではないがゆえに、自分の表現の必然性を自分なりに考えて生きてきたのです。 新人バンドなどがよく説得される言葉が「今だけ、ちょっと妥協しろよ」「売れたら好きなことができるから」。でもそれはうそです。自分の信じることを貫いてブレークスルーしなかったら、そこから先も絶対にやりたいことはできない。やりたくないことをやらされて売れたって意味がない。そういった音楽的信念、矜持(きょうじ)を保つ強さがないとプロミュージシャンは長くやっていけないのです。 自分の表現手段である音楽活動以外は、あれもやらない、これもやらないと、やらない尽くしのネガティブプロモーションが、結果的に僕には一番合っていたのだと
伸びない人間には 共通の原因がある 人が自分の言うことを素直に聞いてくれない。提案が通らないなどという時には、周囲があなたの能力を認めていないと考えるべきでしょう。仕事には、一人でやり遂げられるものがほとんどありません。だから、この人とだったら組んでいい仕事ができる、一緒にやりたい、という他人の評価がなければ前へ進めないのです。 しかし、若い人で自信がある人はみな驚くほど自己評価が高い。とんでもなく勘違いしているなと思います(笑い)。本当に仕事ができる人は、自分に対する評価が非常に低いのです。あれもできない、これもできていないと自己に厳しい。それは到達する目標が見えていて、届かない距離が分かるからです。 成長しない人は、自分で自分を高く評価している。周囲がなぜそんな自分を認めないのだろうと不満を抱いたりする。「自分の評価は、他人にしかできない」という事実に早く気付かなくてはならないでしょう
僕たちの時代に 音楽の波が押し寄せる ポピュラーミュージックが一番というか、音楽が文化の中心だった時代がありました。1950年代から60年代、70年代とそれが続くのですが、特に60年代は、ステレオやLPレコードの出現によって音質が革命的に進化したのです。そしてビートルズに代表されるロックンロールが流れ込んできた。 その時代に僕は小・中・高と一番多感な時代を過ごしたので、音楽が最も大事なものでしたね。レコードを聴くためには家に帰ってその場にいないとダメだから、音楽と対峙(たいじ)し集中する。するとそこに「ミクロコスモス」が出現するわけです(笑)。一人でそれと向き合っていると宇宙の果てまで連れて行ってもらえるような深い感動がありました。僕は浴びるように音楽を聴いていた子どもです。 中・高と6年間ブラスバンドにいて、ドラムとパーカッションだけは先生に習いましたが、それだけです。友人たちとバンドを
初めに覚悟をする 日本はかつて素晴らしい美術を生み出してきた国ですが、創作の力は次第に衰え、バブルの頃には経済力にものを言わせて美術館を乱立させ、名画を驚くほどの高値で買い取っては貴重なお金を消費しました。現在は一転して日本中の美術館が資金難にあえいでいると聞いています。 少しずつ変化も見えますが、多くの日本人は「美術は遊びに過ぎない、ぜいたくなもの」と考えているように思えます。しかし美術や芸術に触れることは、ことさら意識しなくとも人間の生きる力になっていくのです。香川県・直島には、私の大きな黄色い「南瓜」や「赤かぼちゃ」が常設展示されていますが、作品に出会った人たちはその衝撃を魂のどこかに取り込んでいくでしょう。子どもも世界の思想家も同じように、私の作品を好きだと言ってくれる。人間はつながっているのです。 芸術の根源は、作品を通してコミュニケーションしながら一人ひとりの異なった人間性を本
幻想や幻覚と一人で 闘った少女時代 実家は大きな種苗業と採種業を営む旧家で、広大な土地や、その頃では珍しい六つもある温室では、毎日大勢の雇い人がスミレや百日草などさまざまな種を採り、日本全国に売っていました。また地元の画家のパトロンになるなど、美術には一定の理解がある家庭でした。 ただ、父の放蕩(ほうとう)のために母はすぐに激し、家の中は不安定で、私はいつも追い詰められるような気持ちで暮らしていたのです。幼い頃から、私は採種場へスケッチブックを持ってよく遊びに行きましたが、ある日スミレ畑で物思いにふけっていると、突然、スミレの一つひとつがまるで人間のようにいっせいに話しかけてくるという体験をします。私にはスミレの花が人間に見え、恐怖で家に逃げ帰りますが、別の日にはまた山並みの稜線(りょうせん)に、輝く光やさまざまなものが見えたりする。 どうしていいか分からない私は、家に飛んで帰って、今見た
多くの職業現場を 体験した20代 小説家とかお坊さんにとっては、どんな体験も肥やしになると考えて、私はさまざまな仕事に就きました。たぶん全体を知った上で仕事を選択した、というスタンスをとりたかったのでしょうね。ナイトクラブで水商売もしてみたし、土木作業もやりました。この機会にやらなければ一生しないだろうと思ったのがセールスマン。当時ワンセット二十数万円した英語教材を売るのですが、営業成績は悪くないのに売れるたびになぜかすまないような思いにとらわれる(笑)。 忘れられないのは、その英語教材を売ったある予備校生のことです。受験用には向かない教材だと感じていたので、とても申し訳なくて、私が受験の時に吹き込んで勉強した英語テープを、もう一度吹き込み直して送ったりしていました。また、広告のコピーライターもしましたが、けっこう気が塞ぎましたね。小説とは違う世界なので、骨を穿(うが)つような言葉が吐けな
Finding the bond that is supposed to be part of a relationship between parents and their kids is more like finding the…
若者はぬるま湯から 抜け出せ 近頃耳にした笑えない話ですが、外出先で具合の悪くなっているおじいさんが若い人に助けを求めた。おなかが痛い、心臓が苦しいと言ったら、「ああ、そうですか。頑張ってください」とだけ言ってその場から立ち去ってしまったそうです。そんなバカなと思いましたが、それだけ今の若者は他者に対して無関心で、普段から余計なことには関わらないようにしながら生きているということでしょう。だから人の命にかかわるようなことが目の前で起こっていてもその場から遠ざかることしかできない。 それというのも団塊世代にあたる、今の若者の親たちが、子どもには失敗のない人生を送って欲しいという思いから過保護に育ててきたことが原因ではないかと思います。親世代の頭の中からは、一流企業にさえ入れば生涯安泰だという刷り込みが消えない。そのため、いまだに小さな頃から塾通いをさせるなど、子どもから自らの判断で行動する自
人は誰でも仕事を 手放してはいけない 人生には思いがけないことが起きます。世の中にはつぶれない会社はないし、病気にならない人間もいない。だから家庭の稼ぎ手は、大黒柱一本ではなく、夫も妻も収入を得られる二本の柱のほうがいいと思います。夫が長患いをしたら、家のローンと子どもの学費、食費をどうするのか。それを考えると、夫婦はリスクヘッジを頭に置いておきたい。そして若い女性も仕事は生涯続けるものだと覚悟して欲しいのです。 私は同年代の40代、50代世代の女性が、人生の後半になって、納得のいく仕事にカムバックした例が少ないと聞いています。働く場所がないのは残念なことです。そして家庭が壊れていくのもたくさん見てきました。今この世代の人に向けてのアドバイスが見つかりません。酷な言い方をすれば、遅かったということ。でも、親として次の世代は変えていきましょう。女の子には徹底した自立を、そして男の子には「家庭
予備校時代から 売り込みに走り回った 「絵が好き」「ものがたりが好き」という自分の気持ちだけを頼りに、私は美術学校へ行くと決めたのですが、高校を3年で中退していたので、まず予備校に行ってその間に大検を受け、美大を受験することにしました。で、予備校に入ってみたらそこでの評価が最下位だった。そしてお金はない、美大に受かるかどうかも怪しい。そこからどうするかです。 トップに向けて努力するなんて絶対に間に合わない。それならハリウッド女優になるんじゃなくて、地方の小劇団の意地悪なおばさん役なら負けないというような、自分の居場所探しをしようと切り替えをして考えたんです。私に才能があったんだとしたら、夢見てる場合じゃないと自分を客観視できたことだったかもしれません。 とにかく稼がなくてはならないと、私は自分のイラストを持って50を超える出版社に売り込みに行きました。ダメならダメで次の手を考えなきゃならな
あきらめることが 当たり前になっていく 祖父母の住む高知県の小さな漁師町に生まれ6歳までそこで育ちました。母が離婚して戻った実家です。食べるものが何とかあるから、町の誰もが貧乏でしたけど自分が世間でいう貧乏だなんてことにも気が付かない(笑)。のどかで平和な町で、広い海を目の前にして自然を相手に飽きずに遊び、満ち足りた一日が終わっていく暮らしでした。 本当に貧乏がつらいと知ったのは、母が再婚して、工業団地の町へ移ってからです。重油のにおいがする殺伐とした町で、母親たちは暗い顔をし、いつもイライラして子どもを怒鳴り散らしている。ギリギリの生活を強いられていても、何もできないからだったんですね。明るくて笑顔の絶えなかったうちの母も、その中に巻き込まれていって、そりゃあ怖いお母さんになっていきました。まあ、父親がバクチばかりやっていたせいもあるんですけど(笑)。 貧乏は、人間から優しさや思いやりや
「学校秀才」は 役立っているか 受験勉強の勝者が要職に就いていく、会社でいいポジションにつくことが、今も日本の慣習です。しかし本当に仕事に役立つ力が備わっているかどうか、私には疑問です。いい大学を卒業し就職戦線に勝ち抜いて社会人になった人は、おごってはなりません。なぜならいくら偏差値が高い学校でも、そこで学ぶのは答えが用意されている勉強で、実際の仕事に臨めば絶対的な正解などはないからです。エリートといわれる人がカルト宗教に入信するような社会現象も、実は絶対的な正解を求めてのことだと思います。 そしてもちろん、学歴に敗者はありません。いい仕事人になるために、今からでも四つの学びを大切にしてください。 (1)「人生を戦うための武器としての勉強」で天井があるもの。これは記憶する勉強で資格試験や英語のTOEICなど。 (2)「人生を戦うための武器としての勉強」で天井がないもの。これは仕事のために学
生活の何が変わるのか 私が大学を卒業して社会に出た頃、もちろん国際化の中にいる自分を意識していました。でもそれは外国語をものにして世界の動きを知り、もっと学んで仕事に役立てたいという思いだった。それは目標とすべきことだったのですね。しかし、今私たちが迎えているグローバル化というのは、まったくそんなことを意識しない、ごく普通の生活を根本から変えていくものです。 東西冷戦構造の時代には、地球上で市場経済人口は27億人くらいでしたが、現在は、ほとんどの国がみな市場経済に入ってきてその人口は約60億人を超えています。そのため、マーケットが2倍余り広がった、可能性が大きくなったと世界中が必死でチャレンジを始めています。しかし裏を返せば、資本主義経済のライバルが2倍以上になったということでもあり、競争があっという間に激化した。これがグローバル化の重要な一点です。 そしてもう一つの大変重要な変化がデジタ
アジアのルールを翻訳する 日本が生み出した 新しいアート群 アートの世界では今まで西洋がルールの基盤でした。戦前と戦後すぐはパリ、その後から今日まではニューヨーク。私たち日本のアート関係者はずっと、その天下りのルールをどう解析すればいいのかという点に集中してきたのです。公募展も現代美術も、お手本に忠実であれ、が基本でした。しかし本場のアートの最重要項目は「オリジナリティー」であり、手本の模倣ではなかったのです。 日本ではアートとは別にマンガやアニメが大量に描かれ、多くの支持を得ていました。しかし長きにわたってマンガ、アニメは芸術の分野では認められていませんでした。でも今やマンガ家が美術館で展覧会をし、アニメの会社の美術館が出来てしまう時代となり、その会場は満員に。作家たちの収入も社会的なステイタスも非常に高く、芸術家としての地位を確立しています。日本では子供から大人までのすべてを巻き込む芸
9年間のタコツボ生活 昆虫少年だった私は、ファーブルや今西錦司先生にあこがれて京都大学に入ったのですが、新しい虫を発見してそれに名前を付けて図鑑に載せる、いわゆる博物学のような学問は、すでに研究者として絶滅危惧(きぐ)種になっていました(笑)。 遅ればせながらそのことに気付き、文化人類学とか、『伊勢物語』や『今昔物語』を研究する有名な先生たちが文系にいらしたこともあって講義が楽しく、そっちのほうが面白いかなと視野が広がった時期がありましたね。 ちょうどその1980年前後、アメリカから、生物学の世界に新しい怒濤(どとう)のような波が押し寄せてきます。それが分子生物学。もう生物を個体としてではなくミクロなレベルで見て、細胞、あるいは細胞の中のタンパク質、あるいは遺伝子のレベルで研究することが、生命の共通の原理を調べる最も重要なアプローチだと。それは昔から分かっていたのですが、この頃、実際に遺伝
文学も科学も追い求める テーマは、生命 人類はずっと、生命とは何か、生きるとはどういうことかの答えを求めてきました。宗教、哲学、文学、芸術、そして科学など、それぞれ異なった分野がこの課題に挑んできたわけですが、ただ交わることはほとんどありませんでした。 けれど現代は、理科系、文科系と分かれて歩んでいては解決できない生命の問題が、生活の中に出てきています。例えば脳死問題のように、「脳が機能していない体を死体とみなしてよいか」といった問題や、遺伝子組み換え技術の応用が安全性の観点だけから議論されてよいのか、あるいは「脳始問題」などです。 ヒトはいつヒトたりうるのか。脳死の対称点として、脳が始まった時がヒトの出発点なら、それ以前の胚(はい)は単なる細胞の塊とみなされ操作の対象となりえます。このように、文系と理系が協同して扱うべき課題が次々と現れ、両者が歩み寄る必要が高まってきました。 大学に入っ
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