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既報のとおり、コミケ98が中止になってしまいました。 頒布予定で、90%書き終わっていて、最後の詰めに向かっていた『イース通史Ⅲ』をどうしようかと思ったんですが、冬まで持っておくのもなんだし、夏にイベントあるかもわからないし、5月の真ん中ぐらいをメドに書店様先行で頒布することにしました。 書店さんはBEEP様ととらのあな様の予定です。 また近くなったらお知らせします。 ページ数はまだ確定しないのですが、75-95ページの間だと思います。 内容は、海外版『イースⅠ・Ⅱ』こと『Ys Book Ⅰ&Ⅱ』の開発史、それからPC版のイースの開発からPCエンジン版の開発までのいろいろな補足と、PCエンジン版イースⅢの開発の話、とあと半分付録的な内容なのですが『イースⅢ』のタイトルビジュアルを全部描いた故・岡本敏郎さんの経歴と仕事についてです。 あとコミケ98で頒布予定だった『山根の章Ⅱ』は、夏になんか
『天外Ⅱ』の発売28周年というので、ちょっと記事を書いておこうと思った。 continueでちょっと喋って、下の記事でもちょっと書いた話だけど、詳しく書いたことはほとんどないなあという話。 どうして『天外Ⅱ』の仕事を受けることにしたのか? 大恩人の中本さんに頼まれたら、やっぱり断りにくい…というか、断るなんてありえないっしょ。 また、当時は超大作RPGを作るのに憧れてたし、広井さんに「岩崎じゃないとヤダ」と指名を受けたのはもちろん嬉しかったし、かつ桝田さんがスゴく仕事が出来る人だったので一緒に仕事してみたかった。 ここまでは、まあ普通の話だと思うのだけど、あと一つ、とても大きな理由があった。 それは「辻野さんのコンテをちゃんとコンテ通りに動かしたかった」のだ。 どういうわけか、僕はたまたまコンテを読む能力があった。 不思議だけど、あったのだ。 そして、当時、コンテを読めるヤツはハドソンには
せっかくPCエンジンminiが発売されたので、何か記念して記事を書いておこうと思ったので、continueでちょっとしゃべったけど、文章にしたことは一度もなかったような気がする『天外Ⅱ』の実現されなかったエンディングについて残しておこうと思った。 ツイッターの反応を見て気が付いたのだけど、これはエンディングについてのドネタバレを含んでいるので、知りたくない人は読まないほうがいいよ! 『天外Ⅱ』のエンディングは確か91年の6月ごろに決まったと記憶している。夏よりは前、春よりは後なのは間違いない。 どんちゃんの要望によって火の一族にも神様が出来て、それにマリという名前がついていたかどうかは怪しいぐらいのタイミングだったと覚えている。 当時、もちろんヨミがラスボスなのは決まっていて、こんな戦闘があってというあたりは決まっていたけれど、そのあとが決まっていなかった。 要はゲームをどのように閉じるの
PCエンジンminiのレビューが始まって『イースⅠ・Ⅱ』のレビューがあった。 【PCエンジン mini全タイトルレビュー!】「イースI・II」/「Ys book I&II」 ぶっちゃけた話として、30年前にパソコンユーザーに言われた文句とまるで同じ文句を書かれていて「こんなところまで復刻かよ」と笑ってしまった。 30年前にパソコンユーザーの特にPC-8801MkⅡSR以降版をプレイした人に良く言われた文句を順不同に並べると… イース1のエンディングがない (下と繋がるけど)THE MORNING GROWがない (これは綴り間違いではない。OSTでそうなっているのだ)ダームの塔でレベルが上がる、完璧なバランスを壊してるラストのリリアの扱いが気に入らないサウンドのアレンジ版が気にいらないⅠとⅡを別々にプレイできないイースⅡのボス曲”Protecters”が入ってない声がいらないダルク・ファク
もちろんこれ以外にもスタッフはいる。 特にアーティストはたくさんいて、面白いエピソードがいろいろあるので、そこらへんは後で書きたい。 また、スタッフに(?)マークが入っているのは、あとで書くけれど証言では、まだはっきりしていないところ。 長谷川君の話によると、年末発売予定で、長谷川君以外がメインをやるという話でスタートするのだけど、まあいろいろあることになる。 ■長谷川君の証言 イースI・IIのソースを利用して私以外のプログラマーが頭をとるということで始まった。年末発売予定だったと思う。 では、実際の開発はどのようにして行われたのかというと、最初のうちはプログラムは全部、九州は熊本のアルファシステムで、そしてグラフィックは全部北海道ハドソンで作るという、とんでもない遠隔地開発の体制でスタートすることになる。 最初のうちは、と書いたのは、もちろんいうまでもなく、世の中にはうまくいかないことが
●デススター撃破はそもそも無理な難易度で、普通は失敗する。 ⇒とてもムリなコトを成功するからヒーローだ。 ●体験は原理的には時系列に従うので一回性。だから死んでやり直しとかはありえない(死んだら「死んで終わった体験」が正しいことになる) ⇒これを死んでもやり直せる世界観を作ることで解決しているのが例えば"All you need is kill"だとか、トルネコ/シレンの「不思議のダンジョン」って仕掛けだったり、最近だと"シャドウ・オブ・モルドール"だったりする(ただしモルドールは時間が戻るわけではないのでさらにスゴい)。 ●ゲームデザイナーがユーザーに体験してもらいたいストーリーはもちろんデススターを破壊する ⇒100%成功するアイディア以外は、体験としては全部成り立たない。 つまり『ルーク・スカイウォーカー問題』 は、課金だろうが、100倍に速度を落とそうが、QTEだろうが絶対に失敗し
突然、ちょっとしたエピソードを残しておきたくなった。 「近代音ゲー」が登場した瞬間をいつかといえば、間違いなく『パラッパー・ザ・ラッパー(1996/PS1/SCE)』が登場した瞬間。あの時まで、音ゲーなんてジャンルは存在していなかった(ちなみに最初は「リズムゲー」と呼ばれていた)。 もちろんコンピュータゲームにはサウンドがついているものなのでゲームの中で音がキーになってるゲームはいろいろあった。 例えば『ジーザス(1987/PC-88SR/ENIX)』がそうだし、あのルーカスアーツの、あのブライアン・モリアーティが作った『LOOM(1990 /PC-AT/Lucas Arts)』もそうだ。また音ゲーの元祖に『オトッキー(1987/ファミコンディスクシステム/アスキー)』を挙げようとする人もいるだろうし、『たけしの挑戦状』のカラオケ、『いきなりミュージシャン(1987/ファミコン/東京書籍)
これはリングフィットを遊んでいるうちに、ある種の運動でベストが出にくくなったり、それともうまく出来ないときに、それはあなたのジョイコンのジャイロをリセットすると直るかもしれませんよ、ということを説明するお話。 問題。 自分が気が付いたのはリングフィットアドベンチャーを遊んでいて、腹筋にリングコンを押しつけて左右に身体を傾ける系列の運動で、左の傾きをうまくリングコンが取ってくれなくなって「?」ってなったことだった。 明らかにジョイコンのジャイロがおかしいのだけど、その時はジャイロの故障と思った。なぜなら僕はジョイコンを複数持っていて、他のジョイコンではちゃんと遊べたからだ。 ただジャイロが不調なのか故障なのかを知りたくて、本体メニューを眺めていたのだけど、これをうまく知る方法がサッパリない。 困ってイロイロ考えているうちに、はっと気が付いたのがリングフィットのモード選択前にリングコンの状態表
ビット表現だと下位からB-R-Gと並んでいる3ビット表現のカラーコードで、今風のRGBの表現で言うと0か255しかない原色バリバリの8色。 ちなみにこの色コードのビットがB-R-Gと並んでいるのにも意味がある。 輝度への寄与は大雑把に青=10%、赤=30%、緑=60%になるので、BRGという順は輝度への寄与の昇順だ。だから白黒のモニタに繋ぐとカラーコードそのままで黒から白に明るくなるメリットがある。そして当時は白黒のモニタが普通にあったので、このような配慮はとても重要だった。 これをRGBで並べると、白黒のグラデーションがガタガタになってしまう。少ないリソースでうまくいろいろやりくりするための先人の知恵だ。 カラーモニタで高性能なものは、当時高価だった本体よりさらに高価な本当の高嶺の花だった。 例に出ているPC-8001など本体はRAM16キロ版は168,000円だったが、専用の安い方の1
つい先日の話なのだけど、PCエンジンminiの発売を記念して、『電撃PCエンジンmini』が出版される話になり、それのインタビューを午前と午後の二本立てで受けるってことになった。 午前は『天外Ⅱ』で、桝田さん・辻野さん・あだちさん・そして僕という4人のメンバー。 インタビューするのは『天外Ⅱ』を小学校の時に遊んだという子だったのだけど、桝田さん、いきなり「親が金持ちだったのか、友達が金持ちだったのか、どっち? CDROMって高かったじゃん?」 答えは「兄貴が遊んでたんです」。 「やっぱ家が金持ちだったんじゃん」みたいなパンチあふれる展開に。 Evan-Amos – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18312042 『天外Ⅱ』発売時にスーパーCDROMの主力になりつつあったのは
1997年1月31日がFFⅦの発売日だったとニュースで読んだので『ドラクエとFFとToHeart』って、どう繋がりがあるのかタイトルからではさっぱりわからない同人誌から、FFⅦの一節を少しアレンジして掲載したい。 以下、本文。 FFⅦの最大の功績は何だったのかと言えば、3Dポリゴンを使用したコンピュータRPGを非常に印象的かつ完成度の高い形でプレゼンテーションしたことに尽きる。 そのプレゼンテーションとはなんだったのかというとFFⅦ・Ⅷ・ⅨのPS1でのFF三部作でも技術的なメインテーマで、Xで初めて完成の領域に近づいたゲームとムービーのシームレスな融合、すなわち映画のようなゲームだ。 これを可能にした決定的な理由はPS1のハードウェアにある。 PS1には当時としては非常に高性能なムービー再生用ハードウェア(特殊なDSPのような物)が搭載されており320×240で秒20~30フレーム程度の速
まず最初に書いておくと、当時はサードパーティの概念自体がまともになく、もちろん言うまでもなく任天堂さんの用意した開発環境だのデバッガだのなんてものは存在しない。 ではどのようにして開発したのか? ハドソンの場合には中本さん・岡田さんを中心に(たぶん、プラスして結構野沢さん)、自分たちで勝手にファミコンの開発環境を最初に作ったのだ。 これが1983年の秋ごろ。くしくもナムコさんも同じ時期に解析して開発していたらしい。 どんな環境だったのか? 下の図のように、岡田さんが設計したROMシミュレータをファミコンに挿して、それにPCからバイナリをダウンロードする形になっていた。 実際の開発は PC上でファミコンROMシミュレータで動作するバイナリを生成する。PCからROMシミュレータにプログラムをダウンロードする。PC側からROMシミュレータの上にあるプログラムを起動して、ファミコンの上でゲームを走
たまたま、以下のブログ記事が自分のところに流れてきて、twitterでゴチャゴチャ書いたけど、こんなのtwitterで書いてもしょうがねえやと思ったので全部削除して、記事で書くことにした。 https://www.cobalog.com/entry/loderunner 記事の問題点は下の引用部、ブ…
ツイッターでポロっとつぶやいたのだけど、ここでも記事をば。 某プログラマが34年前に発売された某有名ファミコンゲームのソースをgitに公開したので、以下にリンクを置いておく。 GitHub - omuanko/nnjhtrkn: Famous Ninja game for NESFamous Ninja game for NES. Contribute to omuanko/nnjhtrkn development by creating an account on GitHub. 某プログラマからの箴言は以下。 ■某プログラマ ちなみに びるど とおりますうご(www act65 を cpm86 エミュで 試してみた ソース見られるの恥ずかしい いまさらおそいか ちなみに act65は つけてないよ どっかで ひろってね ところで、イマドキな方には全く理解できないことがいろいろあるだろう
先日、『イースⅠ・Ⅱ』が発売30年だって見て「あっ」と思ったので日記など。 ちょっとだけ言い訳すると、自分にとってはマスターアップの11月の方が思い出的には深くて、発売日はヨドバシにいって1枚買って「売ってるなあ」ってニヤニヤして帰ってきて起動して「動いてるなあ」ってニヤニヤしたことぐらいしか印象に残ってないのだ。 まあ作り手にとってはマスターとアンケートの方が発売日よりずっと大事なもの…だったんだよ。今は0デイパッチとかあるから、発売日までマスター提出みたいになってて、大事になっちゃってるけど。 ところで、この記事を書き出して、ハドソンに国内版がもらえなかったことを思い出すなどw 年明けに打ち合わせに行ったとき、誰もくれなかった!w 海外版はジョン・グリーナーからもらったのに、国内版は誰もくれなかった!w と、下らない話はともかく。 『イースⅠ・Ⅱ』は自分にとって奇跡だった。 『天外Ⅱ』
とびとびになっているので簡単に書いておくと、これは作るチームの概要や『イースⅠ・Ⅱ』のタイトルが決まってから後の話になる。 これの底本になっている…と言ってもいい、自分の書いた同人誌(およびブログ)と変化が比較的小さいところは、飛ばさせてもらうことにしている。 ちなみに、原稿はこれより先の話まで進んでいます。 CSGで出す5月のデモでは、ゲームは動き始めていたが、グラフィックや音楽まで考えれば、到底イベントに出せるレベルではないのはわかっていたので、本編を出す予定はなく、タイトルデモだけの予定だった。 4月の半ばぐらいにはオープニングのコンテは出来ていたのだけど、山根がなかなか北海道に来なくて作業が進みにくかったが、やってくると作業ははかどるようになった。 ところでここでは5月末と書いているが、CSGは6月だったかもしれない。池袋であったヤツだったと思うのだけど…真剣に資料を調べるとわかる
冬コミで出すつもりの第2巻はPCエンジン版の『イースⅠ・Ⅱ』をどのように、何を考えて制作したのか、それは結果的にはオリジナルスタッフの方向と合っていたのかの答え合わせなんかを、1巻書いた後、オリジナルスタッフが思い出したことなんかを補足しつつ書いていくのだけど、そのターゲットになっていたPCエンジンCDROMももはや30年以上前のハードで、知らない人も多いだろうから、まず制作されたプラットフォームのPCエンジンについて説明しておきたい。 PCエンジンは1987年秋にNECホームエレクトロニクスから発売されたゲームマシンだ。 ポストファミコンを狙って作られたゲームマシンで、 ハドソンが開発したLSIを中心にした、当時としては高速、かつファミコンと比較して、圧倒的に強力なグラフィック・オーディオ性能を持っていて『R-TYPE』の移植などで名を馳せることになった。 そのPCエンジンにCDROMを
PCエンジンminiで初めてときメモを遊ぶ人は「幼馴染の万能超人、藤崎詩織にふさわしくなるために自分を鍛えるゲーム」と信じてプレイして欲しいw 元ツイート このツイートをしたとき、いろいろな反応をもらったが、どうしてこう書いたかというと、僕が初めてレビューしたとき、すなわち94年の4月ごろにコナミからやってきた『ときめきメモリアル』のPCエンジン版をプレイするとき、そう思ってレビューを始めたからだ。 それはファミ通のPCエンジン版の最初のレビューでも知ることができる。 僕には伝説的な(7/7/7/6)のまともにプレイしたとは思えないレビューで、じゃあ実質ベタ移植のPS1ではなんで32点(8/8/7/9)なんだよと皮肉を言いたくなる代物だったけれど、書かれていたゲーム内容紹介-- 幼なじみの藤崎詩織ちゃんから告白されるのが目的の、恋愛ときめきシミュレーションゲーム。エンディングはプレーヤーの
”イースの世界設定は『I』・『II』で完全に完結することを前提に作られており、最終的に現実の歴史とリンクするようになっている” 僕のツイート このデタラメには続きがあり「オリジナルスタッフはⅠ・Ⅱで終わらせるつもりで辞めた(Ⅲはつまり他が作ったことになっている)」とか「山根は続けたかったからⅠ・Ⅱでシナリオいじった」とか、もうよくこんだけデタラメを書けると呆れる代物だ。 このとんでもないデタラメはwikipediaのイースシリーズの初期の項目を筆頭に、何か所かで書かれていたのだけど、これにモトネタがあるのか不思議に思っていた。 というのも、山根のくだりはともかく、それなりに発想力のある話で、素人がゼロから考られるとはさすがに少々想像しがたく、何か元ネタがあったのかなあ? と調べていただけど、さっぱりわからず、ツイートしたのだけど…そしたら、このツイートを日本ではクトゥルーとレトロゲームにつ
イースの移植の話が始まったのは、僕がハドソンでPC-8801(MkⅡ SR)版『イースⅡ』にハマっていたから。 1989年1月、デビュー作の『凄ノ王伝説』がデバッグに入っていてヒマになっていたのもあり、北海道ハドソン技術本部4Fの開発の隅にあった企画のエリアに入り浸って『イースⅡ』(88年発売)で遊び倒していた。 正確には一度は遊んでいたのだけど、もちろん『凄ノ王伝説』を作っているわけで、そのあと遊ぶヒマがなかったのだ。ハドソンの僕の机にあったのはPCエンジンとファミコンで、遊ぶチャンスがちょっとしかなかったのである。 そして遊ぶヒマが出来てからは2回クリアして、毎日デモ眺めてたんだから、どんだけ好きなんだと自分でも思ってしまう。 そこに当時ハドソンの常務だった中本さんが「そんなにイースが面白いんだったら移植をしないか?」ともちかけてきた。 もともと僕はゲームを作る上で、ビジュアル指向・映
橋本さんはPC88でのスクロールに拘っていたのは、今まででわかるけれど、一つの到達点が『イースⅢ』の多重スクロールだ。 でも、どうしてそんなに多重スクロールにあこがれたのか? 80年代はアーケードがゲームの王様で、家庭用より遥かにパワフルだったけれど、大きな違いの一つが多重スクロールだった。 82年ぐらいまではアーケードでも多重スクロールはほぼなかったのだけど、82年の後半あたりからボツボツ並び始め、83年ごろになると多重スクロール(BG面2枚+ラスター)ぐらいは当たり前になっていく。 家庭用でもそれに憧れて、ラスタースクロールなどを駆使して多重スクロールっぽく見せるのが流行するわけだ。 そして橋本さんももちろん多重スクロールに対するあこがれがあり『イースⅢ』を作る。 この技術の基本は『イースⅡ』の鐘つき堂からやってきているのは確かだけど、鐘つき堂には敵はいないし、スクロールも単純だ。 P
とても楽しいハドソン系の飲み会があり、そこで預かってくれないか? と言われたのが、1988年9月に作られたNO・RI・KOのディスクだった。 ウラノリコと書かれているのは、画像データの大半が仮素材の代物だったからだ。 なお、当時のスタッフがPEというエディタで適当に描いたもの。 NO・RI・KOはアルファシステムが制作しているので、マウスで適当に描かれたテキストに結構九州弁が含まれているのがなかなかに面白い。 これはスタンパ(と当時は僕らは呼んでいた)形式、つまり本当に生産されたもので、記憶ではマスターを出すとだいたい一週間ぐらいすると来るものだったわけだけど、どうしてこんな仮素材の代物をスタンパにしたのか? 誰も本当にCDROMでゲームがちゃんとが動くのかわかっていなかったし、見たこともなかったから、実ディスクを作ってみるのが必須だった 1988年8月ぐらいまでBIOSを作っていて(僕も
30年前あったPCエンジンという8ビットゲームマシンは、僕にとってとても思い出深いハードだ。 なんせこのハードでゲームを作るプロ側に立てるようになったのだから、そりゃあ思い出も深い。 そのPCエンジンがレトロゲームマシンの復刻ブームでミニとして出るという話になり、なんとそれのお手伝いをさせてもらえることになり、スタッフロールに名前が出ることになってしまった。 30年やっていると、こんなボーナスが出ることもあるんだなと思った。 ではなんのお手伝いをしてたのか? あまり具体的な個々の内容に触れないように書くと、30年前のソフトとハードの中身の説明ということになる。特に多かったのは圧縮・メモリの質問とビデオ周りの質問。 実は圧縮は難しくなくて、当時の圧縮はグラフィック側はLZSSを使って、コレはこんな数字を設定してますよって話を伝えたりすれば「なるほど!」でだいたい終わった。 奥村先生が当時のソ
ええと、嘘だろオイという感じなんですが、冬コミまであるつもりだった在庫が本当に全くなくなってしまいまして、オークションとかで売られるのもイヤなので再販します。 再販の時、いくつか致命的な( ゚∀゚)・∵. グハッ!! な、誤植を修正します。 特に自分的に絶対に直すと決めているのは…MSX2版のイースⅡのリリース日を、なぜか89年と誤植していた、下のページ(これは直した版)。 あと、コマゴマと装飾の間違いとか、漢字の間違いとか誤植は修正しますが、内容には違いはないので、初版を持っておられる方も安心してくださいませ。 BEEPさんの方でまた取って下さるかとかはわかりませんが(;´Д`)、9月22日のゲームレジェンドには確実に持っていきます。 と、簡単な報告でした。
五月雨式に要素の話は書いていたけれど、続けて本編を書いていなかったのには理由がある。 マジメに書くのが馬鹿らしくなっていたからだ。ま、残しているが、ブログについたあるコメントが、あまりに失礼で、スタッフまで馬鹿にするような、何も知らない人間の不愉快極まりないコメントをつけられて、こんな馬鹿らしい思いをして書く必要はないと思ったので、書く気が失せてしまったのだ(今、読んでも失礼で気分が悪くなったのでポイントしない)。 だけど「お前が書かないと残らない」とか「書け」とか、当時のスタッフやら友達に言われまくったので、ま、出来るだけ最後まで続けて書いていくつもりである。なお、自分の記憶で自信がないところがかなりあるので、クボキュウ・松田君・山根・その他、あんときiv書きながら「ゼルダ最高だあ!」って1日SFCゼルダやってた、某蛯名まで、とっつかまえて、クロスチェックして書いてくつもりである。 と、
『上海』の難易度についての話を書いたら、さすがワタクシのお友達たち、ハンパではない経歴の持ち主の人たちばかりで、次々と驚くべき事実がわかったので、今回はそれについて書いていきたい。 まず、なにより『上海』というゲームのオリジナルの来歴自体がとんでもなく面白かったので、そこから話を始めていきたい。 元システムソフトの石川さんと話をしていたとき、オリジナルの(Activisionの)『上海』の話が出たのだけど、ではオリジナルとはなんぞやと調べてみた。 そして『上海』について検索すると、例によって信頼の全くおけない日本語版wikipediaがトップの方に出てきて「オリジナルはマッキントッシュ」と書かれていたのだけど、いくら調べてもそのソースが見つからない(ついでに書くと誰かが書き直した。だがPLATOだというソースはどこにもないので、なんだかなあと思ったが)。 Activisionのゲームだから
もう30年近く前になるが、確か『天外Ⅱ』を作っていたときだったと思う。 ある日、アルファシステムの山本さんが、僕に言いだした。 「岩崎さん、『上海』ってゲームあるじゃないですか」 今では、上海を今では知らない人がいると思うので簡単に説明すると麻雀牌を使った絵合わせパズルだ。 下の画像のように麻雀牌を積む。 2枚一組、同じ絵柄の牌を取れる。最後まで牌を取り切ることが目標。上に牌が載っておらず、左右のどちらかが空いている牌は取れる。取れる牌がなくなったらゲームオーバー と、こんなゲームだ。 当時の大ヒットパズルゲームで、まあ当時のゲームを遊んでいるユーザーなら誰でも知っているレベルだったと思う。ついでに書くとアーケードゲームにまでなってたりする。 山本さんは続けた。 「実はPCエンジン版の『上海』の移植をウチでやったんですけれど、あれ、確実にクリアできるようになっているんですけど、難易度設定っ
これはPCエンジン版イースⅠ・Ⅱの30周年を記念して、PC88版からイースⅣまでの自分が調べた限りの出来るだけ正しい通史を書こうとする試みだ。 シリーズ全体については、カテゴリで見て欲しい。 というわけで本文。 サルモン神殿の開発に入ったのが1987年の11月頃だったと思われるのだけど、例によって… ■ファルコム関係者の証言 サルモン神殿からディスクが切り替わるので、そろそろ「終盤へ向けて」という感じだったのかも。ただしリクエストはあっても神殿の設定等は無し(笑)とりあえず、神殿ぽいものを考える事になりました。 なんてことになるわけだ。 ところで、ゲーム的な話をすると、実はディスク2に切り替わってからの方がディスク1より長いぐらいだ。 マップ的に見てもムーンドリアの遺跡・聖域・ラスティーニ廃坑・ノルティア氷壁・バーンドブレスの5つに対して、サルモン神殿(中央・東・西)・地下水路(東・西)・
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