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武人の妻などは、衣服省略の風潮に伴って、小袖の上に細い帯を結び垂れ、身分の高い婦人でも、上に打掛(うちかけ)という小袖同形の衣を上から引きかけるのみとなり、髪は垂髪に「びんそぎ」の髪を両側にたれ、化粧法も、つくり眉を上の方に描くようになった。 打掛には、明より伝来した高級の浮織物、あるいはこの技術を受けて日本で織り上げられたもの等が用いられたりした。この高級浮織物を唐織という。 打掛の下着は間着といわれ、通常白地が用いられるが、その下に模様のある下着を重ねたりした。江戸時代には赤地の打掛に赤地の間着、黒地の打掛には黒地の間着が用いられ、公武家にあっては間着に通常地文様のものも用いるが染や 刺の文様はほどこされていない。
開館時間:午前9:00~午後5:00迄 休館日:日曜日/祝日/お盆(8月13日~17日)/展示替期間(6月1日~6月30日、12月1日~1月6日) 入館料:一般 500円 中学生/高校生/大学生 300円 小学生 200円
狩衣はもと民間の服であった。狩りに行く時、鷹狩等に行く時に着る、という意味で、もとは布製のものであったから布衣(ほい)ともいわれた。こらが時代の推移に従い、堂上家の内々の服となり、ついで六位以下(地下)の正装ともなり、地質の絹の綾や紗が用いられるようになった。狩衣の特徴は身一巾で脇があき、袖は後ろの一部分だけ身につき、袖には袖括りの紐がつけられている。現在も狩衣は神職の服装として用いられる。 烏帽子に、狩衣、指貫、で丁重な時には単を重ねる。 1 立烏帽子(たてえぼし) 2 単(ひとえ) 3 狩衣(かりぎぬ) 4 狩衣の当(あて)[宛]帯(おび) 5 狩衣の袖括(そでぐくり)の紐(お) 6 指貫(さしぬき)[奴袴(ぬばかま)] 7 蝙蝠(かわほり)[扇(おうぎ)]
武家の正装であった直垂から大紋・素襖と次々と簡略な服装が作られたが、やがてそれぞれが儀式の用となるに従い、平素には素襖の袖を省いた肩衣に袴をはき、小袖を下につけた姿となり、それも又平素のものとはいいながら正装のうちに入ることとなる。江戸時代にはこの肩衣、袴が裃(かみしも)と称されて武家の式服として正装化されて行く。 この姿は織田信長像によったもので、本能寺の変の翌天正11年6月2日、一周忌の為に寄進された狩野元秀の筆になる図像が愛知県長興寺に現存しているのでこれにしたがい草色の肩衣に同色白二引の袴をつけ五三桐紋とした、白小袖に紅の下着を重ね、露頂のまま、小刀を佩び、手に白骨(しらぼね)の扇を持つ、袴には腰板がつき腰[紐]は狭くなっている。肩衣は後世のものと異り、襞も自然に、胸の前の打合わせも深い。 小袖の寸法は永禄9年銘のある辻ケ花染小袖実測図[神谷栄子氏編日本の美術小袖]等を参酌した。
貴族の邸宅は寝殿造(しんでんづくり)とよばれるもので、正式なものは一町四方の築地塀(ついじべい)に囲まれた敷地の真中に、東西棟の寝殿(しんでん)(主殿)を中心に建て、その東西にそれぞれ南北棟の対の屋(たいのや)を配置して、その間を渡殿(わたどの)や透渡殿(すきわたどの)でつないでいる。 さらにふつう南側には池のある庭園が広がっており、東西の対の屋から南へ延びる廊が、泉殿(いずみどの)や釣殿(つりどの)とよばれる池に接する建物へつながる、というように池に向かって「コ」の字型の建物群を作っている。六條院春の御殿もこの構成に準じている。 寝殿(しんでん) 寝殿は、主人の住む寝殿造の主殿で、六條院の春の御殿の場合、正面の柱間(桁行)が五間、側面の柱間(梁間)が二間の母屋(もや)を中心に、周囲に一間づつの廂(ひさし)が付いている。廂の外にさらに簀子(すのこ)の濡れ縁が付いて、廂と簀子の間に格子(こう
太夫というのは元来中国にならった官位の称号で5位相当の職で公家では殿上人であり、江戸時代でいえば大名に当たる地位で、遊芸人の敬称に用いられた。江戸時代には高級な遊女を太夫の名で呼ぶようになり、特に京都の遊廓は伝統と權威を誇っていたので太夫といえば島原ということになる。京都で「くるわ」が公認されたのは、応永年中で足利義満が許可した九条の里で、応仁の大乱後二条万里小路に移り大きな柳が2本あったので柳町といわれ、今もその跡を柳馬場といっている。公許は天正17年[1589]で更に慶長7年六条に移り、六条三筋町といわれ吉野太夫は才色兼備として今なおその名が知られている。その後、都市の発展にしたがい、都市部を離れ郊外に追われた、これが現在の島原で正しくは西新屋敷という。寛永17年[1640]この地に移転した時の騒ぎが当時の大事件であった島原の乱にも似ていたので、人々はここを島原と称したと伝えられている
日本の先史時代の石器時代は紀元前三世紀頃まで続くが 狩猟や漁労を主としたこの時代には縄文式土器の使用が見られた。大陸の文化から孤立し、其の範囲は北海道から沖縄迄及んでいた。貝塚土器や土偶でその生活の一端をしのぶことが出来る。 数十年前まで石器時代そのままの生活をしていたといわれる濠州のアボロンジーという民族が裸身であるのに対して、日本の土偶には下半身の腰を覆うものや上半身の衣や顔面の覆いさえも窺われる。編物として細い繊維を編んだ布が土器の圧痕で推定され 後期には織物の実物も発見されたという。樹皮をうちくだいたタパのような繊維製品もあったのかも知れないし、魚皮、獣皮も用いられた事もあろう。 ここでは鹿の夏毛の皮を上半身の衣とし、繊維を撚って紐状としたものを連ねて下半身を覆う腰蓑とした姿を想定してみた。 [参考 愛媛県上浮穴郡美川村上黒岩、岩陰遺跡出土の線刻の女神像に腰紐と腰蓑が見られる。]
開館時間:午前10:00~午後5:00迄 休館日:日曜日/祝日/お盆(8月13日~17日)/展示替期間(6月1日~7月31日、12月1日~2月3日) 入館料:一般 800円 中学生/高校生/大学生 300円 小学生 200円
風俗博物館は令和6年8月25日から10月3日まで休館します。再開は10月4日からとなります。 トップページを新しくいたしました。旧ページはこちらから 風俗を通して平安の世界を感じる 風俗博物館は古代から近代にいたるまでの日本の風俗・衣裳を実物展示する博物館として昭和49年にオープンしました。平成10年には、これらの装束が具体的に生活の中でどのように使われてきたかということを御覧頂くために、「源氏物語~六條院の生活~」と題してリニューアル展示し、『源氏物語』の様々なシーンを選び、具現展示を行っております。 そして平成24年には平安初期を題材とした『竹取物語たけとりものがたり』を1/4展示に加え、平安中期を題材とした『源氏物語』の展示とともに、約400年という長きに渡った平安時代の服飾の流れを御覧いただく為の展示へと充実されました。 千年の時空を越え、平安時代が今ここに 1/4の縮尺での具現化
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