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エクスターズの探求者 目次 吉田裕 第1章 太陽の誘惑 第2章 供犠 第3章 「アセファル」 Shimirin's HomePage 表紙へ �
1 宗教社会学 供犠が当時のバタイユの関心事であることが明らかになってきたが、この関心のバタイユにとっての意義を明らかにするには、学問的研究の成果からの摂取の問題を検討する必要がある。一九二二年頃に、古文書学校の友人アルフレート・メトロ――モースの講義を聴いて民族学に転じようとしていた――によって民族学に目を開かれて以来*1、「社会学研究会」の活動を含め、社会学との接触の全体像は、別の稿を用意しなくてはならない大きな問題だが、今はその中で供犠の理論を確かめることだけを目的とする。 彼の社会学への関心と受容は、言わずもがなのものであると見なされているようだが、少し立ち入ってみると、そう簡単ではないことが見えてくる。「自伝ノート」(一九五八年頃)で、彼は次のように述べている。〈デュルケムの著作と、なおいっそうモースの著作が、私に決定的な影響を及ぼした。しかし私はつねに距離を取ってきた。私の考え
1 太陽、肛門、眼球 バタイユを読み始めたときに人がいちばん強い印象を受けるのは、残酷さ、暴力、恐怖への彼の傾斜ではないだろうか。それは印象を受けるというよりは、むしろショックを受けるというに近いだろう。なぜこれほどまでに残虐なイメージを必要とするかを、私たちは問わずにはいられない。あるいはそれ以前に、嫌悪で本を閉じてしまうかもしれない。一九二六年、アンドレ・ブルトンは、初対面のバタイユのことを、偏執狂だと言ったし*1、三四年、革命運動の新たな方向が模索されていたとき、シモーヌ・ヴェイユはバタイユを、病理的な本能の解放を革命に持ち込むと批判したが*2、それが尋常な反応だったかもしれない。 バタイユのこのような関心は、彼が思想上の活動を始めた最初期から明らかである*3。青年期に達したバタイユが、研究論文以外に自発的に書きだしたのは、二六年頃の小説仕立ての『WC』であった。これは破棄されるが、
1 政治から宗教へ 三一年春の民主共産主義者サークルへの加盟から始まり、三四年二月の右翼暴動をめぐる分裂を経て、三五年秋から翌年春までの「コントル・アタック」の活動が、彼の政治的ミリタンティスムの時期だが*1、「コントル・アタック」の行き詰まりが明らかになろうとする頃、彼は「反神聖同盟」なるグループを計画する。だがこれはすぐさま宗教的な性格のグループ「アセファル」へと変貌する。アセファルAcephaleとは、頭脳を表すcephaleという言葉に、否定の接頭辞aが付いたものであって、「無頭」を意味する(それはまず最初はバタイユの基本的立場である反イデアリスムを表すものでもあったろう)。この時期から三九年の戦争の開始までを、バタイユは、この結社「アセファル」、同名の雑誌「アセファル」、「社会学研究会」の三つの活動を、時期的な多少の食い違いと協力者の異同を含みながら、ほぼ並行して行うが、バタイユ
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