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福岡県、宗像市(むなかたし)の吉留という地区に水神社が鎮座します。むかしの唐津街道沿いにある神社です。ここに一基、庚申塔がまつられていました。旧唐津街道は道幅がせまく、また、車を駐車できる場所がみつからなかったため、水神社の西北西約600mの場所にある吉武地区コミュニティ・センターの駐車場に車を停めさせていただき、徒歩で水神社へ移動しました。 拝殿の奥に本殿があり、本殿に向かって右側に庚申塔が祀られていました。 場所:福岡県宗像市吉留 座標値:33.802230,130.618708 正面に「猨田彦大神」と刻まれています。石の中央部に袈裟がけするように凹凸があるために、「猨田」と「彦大神」が離れて刻まれています。 側面や裏面を確認してみましたが、建立年などは刻まれていませんでした。
福岡県飯塚市の元吉という地区。福岡県道415号線沿いに、天降神社が鎮座します。神社の参道脇に庚申塔と、その他の石塔群が祀られていました。 石塔群にむかって右側から二番目と四番目の石塔が庚申塔です。こちらの庚申塔は右から二番目のものです。 場所:福岡県飯塚市庄内元吉 座標値:33.6632004,130.7288818 庚申尊天と正面に刻まれています。裏側に寛政十二庚申、二月吉日と刻まれています。寛政十二年は西暦1800年で、その年の干支は庚申(かのえさる)です。 ▼こちらの庚申塔は右から四番目の庚申塔です。正面には猿田彦太神と刻まれているようです。 側面には赤坂吉郎と刻まれているようにみえます。 裏面には嘉永という文字と「己」という文字が見えます。嘉永年間で「己」の文字が含まれる干支がある年は、嘉永二年(1849年)だけです。その年の干支は己酉(つちのととり)です。そうなると、ほとんどみえ
北九州市にある折尾駅(おりおえき)の、東南東約300mの地点に折尾鷹見神社が鎮座します。立派な神社です。その参道脇に庚申塔が一基まつられていました。 場所:福岡県北九州市八幡西区南鷹見町 座標値:33.862133,130.715576 猿田彦大神、明治三午九月。明治三年は西暦1870年で、干支は庚午(かのえうま)です。 折尾駅の南東部には、古い町並みが残っています。路地が細く、車が1台やっと通れるほどの幅です。折尾駅周辺の100円パーキングで車を停めて、徒歩にて鷹見神社までは移動しました。
飯塚市(いいづかし)の佐與(さよ)という地区に貴船神社が鎮座します。貴船神社に三基の庚申塔がまつられていました。 ①猿田彦大神、文化十一年戊十月吉日。 場所:福岡県飯塚市佐與 座標値:33.669716,130.723602 おそらく「文化十一年」と側面に刻まれていると考えられますが、「一年」の部分がはっきりと読み取れません。ただその下に「戌」という文字がみえるため、干支が甲戌(きのえいぬ)である文化十一年が造立年として刻まれていると考えました。西暦でいうと1814年です。 ②猿田彦大神、明治十五年壬十二月十二日。庚申塔の裏側に造立年月が刻まれています。台座には庚申講に加入している方たちらしき名前が刻まれています。明治十五年は西暦1882年、干支は壬午(みずのえうま)です。 場所:福岡県飯塚市佐與 座標値:33.669753,130.723614 社殿にむかって左側に3番目の庚申塔がまつら
鹿毛馬(かけのうま)という地区に厳島神社が鎮座します。厳島神社境内に四基の庚申塔が祀られていました。拝殿にむかって左側奥に庚申塔群はまつられています。 場所:福岡県飯塚市鹿毛馬 座標値:33.672703,130.735046 庚申塔群にむかって右側から順番にご紹介してゆきます。 ①猨田彦大神、文政四年、巳四年吉日。文政四年は西暦1821年、干支は辛巳(かのとみ)です。 ②猿田彦大神、文化八年、未十月吉日。文化八年は西暦1811年、干支は辛未(かのとひつじ)です。 ③猿田彦大神、文化十癸酉歳、春二月□□。文化十年は西暦1813年、干支は癸酉(みずのととり)です。 ④猿田彦大神、文化十□□□、(右側面にも記銘はあるようだが不明)。文字が風化してほとんど読みにくくなっています。文化十までは読み取れますが、その下の文字は読み取れません。文化十年代は十五年までありますので、西暦1813年~1818
河東(かとう)天満宮の境内。三基の祠と、一基の地蔵菩薩とおもわれる石仏、一字一石塔、無銘の石塔数基とともに、庚申塔が一基まつられていました。 場所:福岡県宗像市河東 座標値:33.813957,130.539139 庚申尊天、元禄十五年、卯月吉日。元禄十五年は西暦 1702年、干支は壬午(みずのえうま)です。
飯塚市の元吉(もとよし)という地区にある元吉公民館。公民館の50mほど南西部に、四基の庚申塔らしき石塔群がまつられていました。ほとんどの文字は風化し確認できなくなっていましたが、かろうじて「庚申」という文字がいくつか読めました。 場所:福岡県飯塚市庄内元吉 座標値:33.661882,130.730618 元吉公民館の駐車場に車を停めさせていただき、徒歩で現地へと移動しました。 庚申塔群にむかって右から… ①(文字は読み取れず) ②庚申、(その他建立年などは読み取れず) ③謹請 庚申、□正、十□ ④奉請 □□□□、元禄二年己巳□ かろうじて建立年が確認できた庚申塔が、むかって一番左側の庚申塔です。元禄二年、つまり西暦1689年で、「二」の文字の下に、おそらく「己巳(つちのとみ)」の文字が薄く確認できます。1689年の干支は己巳(つちのとみ)なので、刻まれている文字と整合します。
山守神社の参道入口に庚申塔が祀られていました。 場所:福岡県飯塚市鹿毛馬 座標値:33.6797523,130.7332153 猿田彦大神、昭和閏戊申 「昭和閏戊申」。昭和に、閏年(うるうどし)で、干支(えと)が戊申(つちのえさる)の年を探してみます。 明治から平成にかけての干支一覧を調べたサイト▼ 参照:http://www.nagaoka.jrc.or.jp/age.html 昭和の閏年を調べたサイト▼ 参照:https://www.seirekigengou.com/gengou/showa/ すると、昭和43年(1968年)に閏年で、かつ、干支が戊申である年がありました。 以下は山守神社の参道と境内の様子です。舗装されていない山道をすすむと、途中で鹿毛馬神籠石(かけのうまこうごいし)が見えてきます。神籠石をのりこえて、少し登ると標高38.7mの地点に祠だけがまつられています。 鹿毛
市立しものせき水族館「海響館」 場所:山口県下関市あるかぽーと
福津市を訪れたとき、目的地の近くにあった手光波切不動古墳(てびかなみきりふどうこふん)を訪ねました。Google mapで史跡というキーワードで検索すると、こちらの古墳が結果にあがり、古墳内部にまで入れることが紹介されていたため、訪れてみることにしました。 場所:福岡県福津市手光 座標値:33.770278,130.497960 入口付近の案内板によると、古墳内部の玄室(げんしつ)…つまり遺骸や副葬品をおさめている部屋…の高さが2mあるとのことです。古墳の入口である玄門(げんもん)から玄室のいちばん奥までの長さが10.8mの「横穴式石室」。横断面図を下に示します▼ 羨道(せんどう)部分を写した写真です▼ 床面はコンクリートでできているのではないかと思うような平らな石(床石)が埋め込まれているようです。 玄室には江戸時代の終わりごろ…おそらく西暦1850年~1860年ごろ…に安置された波切不
小竹町の新多(にいだ)という地区に絹干神社(きぬぼしじんじゃ)が鎮座します。境内に四基の庚申塔がまつられていました。 拝殿にむかって左側に屋根付きで、六基の石塔がまつられています▼ おそらくそのうち四基が庚申塔です。「おそらく」というのは、四基のうち一基は風化により刻まれていた文字がまったく判読できなかったためです。下の写真だと一番右側の石塔が「おそらく」庚申塔です。その形状や、他の庚申塔とともに一箇所に祀られていることから、庚申塔だと考えます。 場所:福岡県鞍手郡小竹町新多 座標値:33.693314,130.681157 庚申塔の概略図・配置図を下に示します▼ ①から順番にご紹介します。 ①(記銘・建立年不明) ②庚申尊天、□□二天、□月□。元号の部分がみえなくなっています。建立年は不明です。 ③庚申尊天、享保十五、六月廿五(三?)。享保十五年は西暦1730年、干支は庚戌(かのえいぬ)
福岡県鞍手郡(くらてぐん)の小竹町(こたけまち)勝野に亀山神社が鎮座します。境内に四基の庚申塔群がまつられていました。 四基の庚申塔群の配置概略図は以下のとおりです▼ ①の庚申塔は鳥居のすぐそばにまつられていました。1枚めの写真にうつされた鳥居のすぐそばです。 場所:福岡県鞍手郡小竹町勝野 座標値:33.693996,130.707225 ①猿田彦大神天、寛保三年、亥十二月十一日。寛保三年は西暦1743年、干支は癸亥(みずのとい)です。 ②③④の三基の庚申塔は、社殿にむかって左側に、石祠とともにまつられていました▼ ②③④と順番に、ご紹介してゆきます。 ②庚申祭壇、明和三天、正月吉日。明和三年は西暦1766年、干支は丙戌(ひのえいぬ)です▼ ③(不明)、宝暦十三年、未正月。宝暦十三年は西暦1763年、干支は癸未(みずのとひつじ)です▼ ④庚神祭壇、宝暦十四天、三月吉日。宝暦十四年は西暦17
場所:福岡県飯塚市潤野 座標値:33.633156,130.667331 「死者之碑」と刻まれた石碑。裏側には「明治三十六年一月十七日」の日付と、死者氏名がずらっと刻まれています。明治三十六年は西暦1903年です。1901年に、今の北九州市に創業された八幡製鐵所(やはたせいてつしょ)へ石炭を供給するための炭鉱のひとつでした。潤野炭鉱は、1899年に国に買い取られましたが、その4年後にガス爆発がおきました。このときのガス爆発の犠牲者は64名でした。64名の犠牲者名がここに刻まれています。 慰霊碑は墓地のいっかくにまつられています。墓地は福岡県立嘉穂高校のすぐ東側に位置します。墓地のさらに東側630m地点にはイオン穂波店があります。嘉穂高校がある場所は潤野炭鉱本鉱、イオン穂波店がある場所は潤野炭鉱中央坑があった場所です。 慰霊碑の土台部分。石垣がつまれている部分をよく観察してみると、石炭っぽい
福岡県飯塚市(いいづかし)の目尾(しゃかのお)という地区に、濱生(はまお)神社が鎮座します。ここに6基の庚申塔群がまつられていました。 場所:福岡県飯塚市目尾 座標値:33.674997,130.698273 ※庚申塔の数が多いため、座標値は社殿の場所を示しています。 濱生神社 境内の概略図は以下のようになっています。社殿にむかって左側に5基の庚申塔群、右側に1基の庚申塔と、そのほかの神様がまつられています。石祠も合わせると、13基の石塔や石祠がまつられています。 ▼社殿にむかって左側にまつられる石祠と庚申塔群です。 ①から⑥まで順番にご紹介します。 ①道祖神、建立年などの文字はみられませんでした▼ ②興玉神(おきたまのかみ)、安永四未年、十一月吉日。安永四年は西暦1775年、干支は乙未(きのとひつじ)です。 ③猿田彦大神、□□三。元号部分が読み取れず、造立年は不明です。 ④猿田彦大神、享
福岡県飯塚市の鯰田(なまずた)という地区に、皇祖神社(こうそじんじゃ)が鎮座します。 皇祖神社の境内に、複数の庚申塔がまつられていました。文字がみえなくなっているものが一部あり、庚申塔と判断できない石塔もあります。判断できない石塔もふくめて、境内に祀られている石塔群を記載してみたいと思います。今回、ご紹介する石塔は7基です。 場所:福岡県飯塚市鯰田 Google map 石塔群と神社本殿の、おおよその位置関係を示すと、以下のようになります。 ①→⑦まで順番にご紹介します。まず①~⑤です。鳥居をくぐって、すぐ右側にまつられている庚申塔群です。 ①猿田彦大神、という文字のみが確認できます▼ ②「猿」らしき文字が、かろうじて確認できます。他の文字は見えません▼ ③石塔正面の文字は風化してみえなくなっています▼ この石塔の左右には猿田彦大神の庚申塔と、庚申の文字が刻まれている庚申塔がまつられている
飯塚市(いいづかし)鯰田(なまずた)という地区に、大行事神社があります。この境内に4基の、おそらく庚申塔とおもわれる石塔がまつられていました。 場所:福岡県飯塚市鯰田 座標値:33.668240,130.701100 一番右側の庚申塔らしき石塔ですが、文字が風化して、みえなくなっています▼ 庚申塔にむかって右側面に、元文五庚申年、□月十四日と刻まれています。元文五年は西暦1740年、干支は庚申(かのえさる)です。 左側面には、甲子(きのえね)十一月再興、と刻まれています。 右から2番目の庚申塔には、猿田彦大神とのみ刻まれています。造立年月は確認できませんでした▼ 右から3番目の庚申塔らしき石塔にも文字は確認できませんでした▼ 右から4番目…つまりいちばん左側の、小さめの庚申塔には、猿田彦、とだけ刻まれています。 裏側には、天明、という文字がかろうじて読み取れます。しかし何年であるかは確認で
都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)が祀られている現人神社(あらひとじんじゃ)。神様の使いである猿が、流行り病である疱瘡(ほうそう)を鎮めたという言い伝えから、猿の石像が祀られているそうです。猿の石像を参拝にいきました。 場所:福岡県田川郡香春町採銅所 座標値:33.713787,130.851311 拝殿にむかって右側。本殿の手前。 狛犬とともに二基の猿の石像が祀られています。 中央の台座には「大嶋郡 中瀬キヨ」と刻まれているようです。 拝殿にむかっての左側にも同様に、一基の狛犬と、二基の猿の石像がまつられていました。 いちばん大きな猿の石像台座にも「大嶋郡 中瀬キヨ」の文字が刻まれています。「福岡県の廃止市町村一覧 - Wikipedia」で調べてみても福岡県内に大嶋郡という地区はみあたりません。 現人神社境内に祀られる二基の庚申塔 神社入口に猿田彦大神の庚申塔が祀られています。
場所:大分県宇佐市院内町大門 座標値:33.405929,131.272273
『沖縄のいきもの』P.38‐44の読書ノートです。サンゴの生態について紹介されています。 ※クリックするとAmazonサイトが開きます サンゴは海水が透明な場所で生息することができます。それはサンゴと共生している褐虫藻(かっちゅうそう)と呼ばれる植物プランクトンが光合成をするために日光が必要となるからです。日光を褐虫藻が吸収するためには、濁った海ではだめで、水の透明な海でなければなりません。いっぽう、「水が透明である」ということは、陸地から栄養豊富な土壌などが流れてきていないということであるため、栄養分が少ない海であるということになります。栄養分の少ない海ではあるものの、サンゴと共生する褐虫藻が光合成をして、栄養分をサンゴに分け与えてくれているため、サンゴは発達することができます。 サンゴ自体は、イソギンチャクやクラゲと同じ、腔腸動物(こうちょうどうぶつ)に分類されます。つまりサンゴは、イ
【キーワード】site:hatenablog.com …でGoogle検索にかけると、はてなブログサービス内だけの検索結果が表示され、重宝しています。例えば以下のような感じです▼ 例) 沖縄の亀甲墓site:hatenablog.com 御嶽うたきsite:hatenablog.com 手書きノートを日常で活用するsite:hatenablog.com さらに「パワースポット」など、あまり結果に表示したくない言葉を省きたいときは、半角のハイフン「‐」を除外キーワードの前につけます。どうも半角のハイフン「‐」じゃないといけないらしく、ほかの形の似た横棒「-」だと除外されないようです▼ 例) 御嶽うたきsite:hatenablog.com -パワースポット この方法で、だいぶ個人的に好みなブログ記事にたどりつくことができるようになりました。はてなブログ内で記事を書かれているかたがたは、「好き
『治癒と物語』に、沖縄県宮古島市の伊良部島にある御嶽(うたき)が紹介されています。場所は、伊良部(いらぶ) 佐良浜(さらはま)という地区です。 伊良部は以下の7つの行政区でできています。 ①伊良部、②長浜、③佐和田、④国仲、⑤仲地、⑥前里添、⑦池間添 ⑥前里添(まえさとそえ)、⑦池間添(いけまそえ)をあわせて、通称 佐良浜(さらはま)と呼びます。 佐良浜の人たちにとっての「カミ」が祀られている場所が拝所で、「ムイ」と呼ばれます。「ムイ」というのはいくつかの拝所のことを指すそうで… ・村の祭祀でツカサ(司)たちがまわって祭祀を行う拝所 ・村落の一定年齢の女性たちが参加する祭祀であるユウクイのときに回る拝所 ・各地のサト(里のこと?)の拝所 参照:『治癒と物語』P.59 ユウクイ(ユークイ)とは、島の豊饒を祈願する行事のことで、島に住む人たちのために、ツカサンマと呼ばれる女性たちがおこないます
読書メモ.『沖縄のいきもの』P.35‐38 沖縄の海は、現在、サンゴ礁の発達したエメラルドブルーの海がイメージとしてあります。しかし、沖縄トラフがある以前は、海底に泥があつく堆積している濁った海がひろがっていたといいます。 大むかし、海底に泥がどうしてたまっていたのかというと、中国にある大きな川である揚子江*1や黄河などから大量の泥がながれこんできたためと考えられます。 この泥は粘土層として現在でも琉球列島の各所で確認することができます。この粘土層は「島尻層(しまじりそう)」と呼ばれています。 約200万年前以降に、地殻変動の影響で、琉球列島の北西に長さ約1000km、最大深度2000mになる海底の凹地(くぼち)ができました。これが沖縄トラフと呼ばれています。この凹地は、中国がある大陸側の地殻がのびて沈みこんでできたものだと考えられています。この沖縄トラフ…つまり凹地…に中国大陸からながれ
書籍『治癒と物語』において、伊良部島(いらぶじま)の佐良浜(さらはま)地区の民間医療(書籍内では民俗医療と呼ばれている)について紹介されています。読書するにあたり、伊良部島、佐良浜の位置関係について下調べしてみます。宮古島は沖縄本島から、さらに南西へ約300キロメートル離れており、沖縄から飛行機で約50分、フェリーで約6時間かかるほどです。交通手段が機械化されていない時代には、文化的なへだたりが大きく、沖縄本島との交流もかぎられていました。そのため、この地域独特の文化が発達したと考えられます。 宮古島の人口は約5万5千人、伊良部島の人口は約6千人。現在は宮古島と伊良部島との間には伊良部大橋が2015年1月に開通し、車でも両島を行き来できるようになりましたが、橋ができる以前は船で両島を行き来していました。伊良部島のフェリーの発着場が「佐良浜(さらはま)」でした。 宮古島の北側にある池間島から
沖縄本島は、およそ北緯26度で、北緯30度ふきんにあたります。赤道の南北30度ふきんは、一年じゅう「亜熱帯性高気圧」という温かい高気圧におおわれています。赤道上で温められた空気が、上昇気流により大気上層にあがっていき、南北30度あたりでおりてきます。 参照:亜熱帯高圧帯 - Wikipedia 参照:『沖縄のいきもの』P.33‐35 参照:OpenStreetMap for Wikipedia - Wikipedia article: 北緯30度線 おりてきた空気は高温で乾燥しているために、大陸の内部では、この温かい空気がおりてきた地域は乾燥地帯となってしまいます。外国の北緯30度ふきんの国を確認してみると、アフリカ大陸北部のチュニジア、エジプトの首都カイロ、チベットのラサ(拉萨)などがあげられ、いずれも乾燥した気候で周囲に砂漠がひろがっている地域もあります。 しかし、おなじ北緯30度ふき
福岡県の北部、遠賀郡(おんがぐん)と宗像市(むなかたし)との間をへだてる、おおきな四つの山があります。 湯川山(ゆかわやま)、孔大寺山(こだいしやま)、金山(かなやま)、城山(じょうやま)の4つの連山です。遠方からながめると4つのふくらみが見えるために「四塚連山(よつつかれんざん)」と呼ばれています。 ↑福岡県宗像市山田ふきんから眺める孔大寺山(こだいしやま) ↑福岡県宗像市山田ふきんから眺める金山(かなやま)、城山(じょうやま)方面 一見すると、なんの変哲もない山なのですが、「残丘山地(ざんきゅうさんち)」に分類されるめずらしい山々です。残丘山地はモナドノック(monadnock)とも呼ばれます。地質図naviで確認してみると、いまから1億2500万年前~1億1300万年前につくられた安山岩により四塚連山は構成されていることがわかります。 残丘(ざんきゅう)→「残った丘」で、風雨や水の流
福岡県道502号線を車で走っていると、「鐘崎貝塚(かねざきかいづか)」の看板が立っている場所があり、その先にこんもりとした丘があるのが目にはいっていました。気になっていた場所だったので2024年1月25日にいってみました。 場所:福岡県宗像市上八 座標値:33.871569,130.529521 国土地理院地図で鐘崎貝塚の場所を確認すると、「さつき松原」の北端部に位置しています。地質図naviでは貝塚がみつかったあたりは「海岸・砂丘堆積物」でできていることが確認できます。「さつき松原」の松林がある地域は、新生代・第四紀 後期更新世前期…258万年前~77万4000年前…に堆積した砂の土地だということがわかります。 鐘崎貝塚は、上八(こうじょう)という地区にあるために上八貝塚ともよばれます。現地は案内板がたっているのみで、なにか遺跡らしいものがあるわけではありません。 丘の上から貝塚を眺める
福岡市東区奈多に鎮座する志式神社から西側にある海岸方面へとつづく小道の脇に、「大乗妙典一字一石塔」と刻まれた石塔がまつられていました。法華経のひと文字ひと文字を小石に書いて、その小石を埋めた場所に建てられた石塔だと考えられます。 場所:福岡県福岡市東区奈多 座標値:33.691658,130.405734 福岡県古賀市 筵内(むしろうち)の医王寺にも一字一石塔があるようです参照。福岡県以外にも、埼玉県飯能市平松の円泉寺、佐賀県藤津郡太良町糸岐などにもみられます。
福岡県福岡市東区の奈多という地区に鎮座する志式神社(ししきじんじゃ)。志式神社の境内に二基の庚申塔がまつられていました。 志式神社の本殿にむかって右側へ歩いていくと正一位稲荷大明神がまつられている場所があります。その場所の入口に庚申塔はまつられています。 場所:福岡県福岡市東区奈多 座標値:33.691329,130.407074 二基の庚申塔にむかって、右側の庚申塔には「青面金剛(しょうめんこんごう)」をあらわす「うん」と読まれる梵字が刻まれています。そして、その下には… 正徳六年 南無青面金剛 丙申六月吉日 …と刻まれています。 正徳六年は西暦1716年、干支は丙申(ひのえさる)です。 むかって左側の庚申塔には… 庚申尊天 天明三癸 八月吉日 …と刻まれています。 天明三年は西暦1783年、干支は癸卯(みずのとう)です。
福岡県 北東部の海岸には海流の関係なのか、砂がたまりやすい地形があつまっています。その一例を下の国土地理院地図に示してみます。下の図は国土地理院地図の「土地の成り立ち・土地利用‐海の作用による地形」機能を使用したものです。 福岡市東区の「海の中道(うみのなかみち)」あたりから、遠賀郡岡垣町の「三里松原」あたりまで、約40kmにわたって砂関連の地質をみることができます。 福津市の渡(わたり)という地区を訪れてみました。この地区の海岸では陸繋砂州(りくけいさす)と呼ばれる、島と本土とを結ぶ砂浜をみることができます。また砂岩・泥岩でつくられた岸壁もみることができます。 下の写真は砂岩・泥岩でできた渡地区の海岸の風景です。 場所:福岡県福津市渡 座標値:33.809426,130.459149 それぞれの岩を観察すると細かい粒で構成されていることがわかります。 岩の表面をこするとザラザラした触感で
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