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最近、仕事が忙しくて休みの日も鬱々とした気分が続いていました。やっぱり体を動かさないといけないな…と、大分県由布市にある由布岳へ。やることはいっぱいあるけど、ひとまずそんなことは考えず登ってみたのが、いい気分転換となりました。 冬の由布岳はなんといっても霧氷 下から見上げると山頂付近に霧氷がみえます。でも下からだとその美しさはわかりません↓ ↓雪の積もっている部分とそうでない部分がはっきりと分かれています。 ↓ここからが雪と霧氷の世界 ↓8合目あたりまで登ると九州の屋根…久住連山(大分県竹田市)がみえてきます。 ↓今日は空気が澄んでいるので、久住がはっきりくっきり。雲海に浮かんでいます。 ↓由布岳のマタエ付近 ↓こちらは西峰。鎖場の多い西峰は冬に登る勇気がないので東峰へ行きます。 ↓山頂付近は、またさらに別世界。「エビのしっぽ」も見られます。 ↓山頂から久住連山を眺める ↓山頂のお地蔵様も
2022年7月31日に、福岡県の糟屋郡(かすやぐん)にある「志免炭坑跡(しめたんこうあと)」を訪ねました。志免町の炭鉱に関する史跡をめぐって、のちに調べながら記事を書いていると… 戦時中は軍艦の燃料として石炭が多量に必要であったこと、筑豊だけでなく糟屋郡にもたくさんの良質な石炭が採れていたこと…などがわかってきました。 下の図は志免炭坑跡における、現在の配置図です。現在はシーメイトという福祉施設内に、これら志免炭坑の史跡が保存されています。 第八坑連卸坑口跡 場所:福岡県糟屋郡志免町志免 座標値:33.591153,130.486485 下に記している案内板の説明を読んでみると、この坑口からは、トロッコを使ってボタ(廃棄する石)を坑内から出したり、人や資材を運び入れたり出したりしていたということです。トロッコを稼働させるためには、巻上機というのが必要で、これが坑口からすこし離れた場所に設置
2022年8月22日に、山口県萩市にある須佐ホルンフェルスという珍しい地形を訪れました。ティラミスのような外見のめずらしい地形です。白と黒のコントラストが、こんなにはっきりとしている理由は、どうもその岩のできかたによるもののようです。 場所:山口県萩市須佐高山 座標地:34.647664,131.596270 どうしてこのような不思議な地形ができるのでしょう?須佐ホルンフェルスのできかたを、いろんなサイトで調べてみるのですが、「砂泥互層、須佐層群、火成岩体、高山はんれい岩、変成作用」など聞きなれない用語がならび、よく理解ができません。 ざっくりと解釈すると…「海の底にたまった泥や砂などが、溶岩の熱をうけて、その組成が変化したもの」が須佐ホルンフェルスということです。 簡単な図にすると以下のようになります。 もともと、海底に層状にたまっていた砂や泥に、溶岩が貫入してきました。溶岩の熱を受けて
わたしは本を読むときは、ほとんどAmazonの電子書籍で読んでいます。紙の本で読むのは、郷土史などが紹介されている書籍や古書など、電子書籍で出版されにくい書籍のみです。 Amazonの電子書籍サービスがKindle(キンドル)というもので、Kindleだと専用の端末を持たなくても、スマートホンのKindleアプリで電子書籍を読むことができます。よってスマホひとつあれば、いつでもどこでも、ちょっとした時間があれば書籍を読めるのでとても重宝しています。 でも今回はKindle本の便利さをご紹介するのではなく、電子書籍を読み上げてくれるTalkBack(トークバック)という便利な機能についての紹介です。 トークバックは視覚障がい者向けのアプリで、スマホの操作をひとつひとつ音声で知らせてくれて、操作をサポートしてくれるサービスアプリです。Googleから提供されているので、アンドロイド搭載のスマホ
製鉄所での鉄鋼の生産には大量の水が必要といわれます。北九州市八幡製鉄所の操業が開始された当時、鋼鉄1トンの生産には200トン以上の水が必要といわれていました。そのため八幡製鉄所では創業当時から鉄鋼生産に必要な水の確保へ注力し、製鉄所構内だけにとどまらず、製鉄所ちかくの大谷地区や大蔵地区にも貯水池がつくられました。 八幡製鉄所は、さらに遠賀川にまで水を求めました。遠賀川から水を引くためにポンプ場設備もつくられました。 世界遺産に登録された遠賀川ポンプ場 場所:福岡県中間市土手ノ内 座標値:33.811098,130.706813 これら数多くの水源地のひとつに、河内(かわち)貯水池があります。八幡製鉄所の第三次拡張計画にもとづき建設されたのが河内貯水池です。河内貯水池は八幡製鉄所第三次拡張工事の一環として、1919年(大正8年)5月に着工され、1927年(昭和2年)3月に完成したアースダムで
福岡県北九州市若松区の歴史について、地元のかたに聞いていると、いままでわたしの知らなかったことがたくさんでてきます。今回ご紹介する『若松市営 電気軌道』もそのひとつです。 石炭の需要がなくなった2021年現在では、若松地域の繁栄は面影をのこすのみとなっています。しかし石炭エネルギーの需要があった時代、若松地区は石炭の集積港としてたいへん栄えました。 筑豊炭田から産出された石炭は、鉄道で若松駅にまで輸送され、若松港から大型船で福岡、大阪、中国・四国地方へ運ばれました。 この石炭輸送をおもに支えたのが鉄道です。石炭がたくさん使われていた時代には、まだトラックは主な輸送手段とはなっていなかったようです。筑豊炭田で石炭がほりだされはじめたのは1700年初頭、つまり、江戸時代の元禄末期です。 この時代の石炭輸送はおもに船で、その後、1891年(明治24年)若松-直方間の路線開通をはじまりとして、鉄道
大分県内の石仏や摩崖仏(まがいぶつ)は、豊後大野市、臼杵市、国東市など比較的地方にあるイメージをもっていました。開発が進んでいる大分市内にも摩崖仏(まがいぶつ)があることを知り、訪ねてみることにしました。 場所:大分県大分市高瀬加羅 座標値:33.179928,131.576158 高瀬石仏は民家裏の畑のすぐ隣にあります。そのため民家の間を通る私道のような道をとおらせていただきます。私は勇気がいりました。 しかも道を歩いていると、庭に飼われている犬に吠えられます。冷や冷やしながら民家横を通ると、すぐに石仏がある岩窟がみえてきます。 以下、案内板の説明を引用しながら、高瀬石仏についてご紹介したいとおもいます。 国指定史跡(昭和9年1月22日) 大分川支流七瀬川右岸の字加羅(から)に位置する高瀬石仏は、数少ない石窟(せきくつ)形式の摩崖仏(まがいぶつ)です。凝灰岩を彫り込んだ石窟は高さ1.8メ
場所:大分県佐伯市堅田西野 座標値:32.914015,131.874159 大分県佐伯市の堅田(かたた)という地区に、とても古い庚申塔が祀られています。上の一枚目の写真を見てみると、田んぼのなかにこんもりと樹が生えています。この樹の根元に三基の庚申塔と、石祠が二基、そして石幢(せきどう)と呼ばれる石灯籠のような形をした石塔が祀られています。 上の写真には、二基の石祠のあいだに石幢が祀られているのが写っています。この裏側に三基の庚申塔が祀られています。 三基の庚申塔にむかって右側から順にご紹介します。その前に、まず案内板に書かれている内容を以下転記してみます。 庚申塔 佐伯市西野区 市指定民族文化財(昭和四八年一月一日)住民が、 神仏を信仰するためと、礼拝、行事の対象として建 てられたと伝えられています。この塔は凝灰石造りで、高さ七十八センチ、幅五十七センチ、厚さ十九センチの板碑型で、正面
日本ではじめて立体交差駅ができたという珍しい歴史をもつ折尾駅(おりおえき)。2021年(令和3年)1月3日に、JR折尾駅の新駅舎が開業しました。折尾駅をふくむ折尾地区周辺において大規模な整備が、2006年(平成18年)からおこなわれています。この整備は2025年(令和7年)までには完了する予定で、この事業の一環として折尾駅関連施設のリニューアルもおこなわれています(参照:北九州ホームページ 折尾地区総合整備事業について)。 場所:福岡県北九州市八幡西区堀川町 折尾駅が新駅舎となる前、とても複雑な構造の駅でした。駅ホームが立体交差しているという複雑怪奇な構造をもっていたのです。なぜそのような構造となったのかは、「複雑な歴史をたどったJR折尾(おりお)駅」という2021年2月17日の投稿でご紹介しました。 複雑となった理由をざっくりというと、異なる鉄道会社がひいた線路が交差していて、のちの時代
2022年7月23日(土)に、大分県豊後大野市にある稲積水中鍾乳洞(いなづみすいちゅうしょうにゅうどう)を訪問しました。大分県にすんでいたときにも、行けておらず、ずっと訪問してみたいと思っていた場所です。 場所:大分県豊後大野市三重町中津留300 Google map わたしは、九州・山口県地域のおおきな鍾乳洞である、「秋吉洞(山口県)」「千仏鍾乳洞(北九州市)」へ行ったことがあります。これらと比較すると、稲積水中鍾乳洞は規模は小さいように感じましたが、ふたつにわかれる細長い洞窟が、見ごたえのある鍾乳洞でした。 鍾乳洞コース図【公式ホームページ】https://www.inazumi.com/cave/index.html 上図の、黄色で示された新生洞から歩き、その後、水中洞を歩きました。新生洞の一番奥まで歩いたら、一度分岐点までもどり、そして水中洞へと行くかたちとなります。 稲積山(いな
大分県玖珠郡九重町から熊本県阿蘇郡小国町までつづいていた路線がありました。宮原(みやのはる)線と呼ばれる、いまは廃線となってしまった路線です。 宮原線 熊本県阿蘇郡小国町 北里ふきんの橋梁 撮影場所座標値:33.145448,131.109760 この宮原線について『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P.331-333に、まだ私の知らなかった歴史が紹介されていたので、まとめてみたいと思います。それは…宮原線が全線開通する1954年(昭和29年)の前に、一度、宮原線は線路のいちぶを長崎県へともっていかれていた…という歴史です。 戦時中 宮原線は休止させられていた 宮原線がはじめに開通したのが「豊後森駅」-「宝泉寺駅」間でした。1937年(昭和12年)のことです。宝泉寺には温泉がわいており、おそらくこの温泉街へひとを運ぶためにつくられた路線だと考えられます参照-宝泉寺温泉-九重町温泉協会。
2021年12月12日(日)に福岡県北九州市の響灘グリーンパークを訪れました。その際、グリーパーク内の「ローズガーデン」にもたちよりました。グリーンパークのローズガーデンは、320種2500株のバラが育てられている福岡県最大級のバラ園なのだそうです参照。 場所:福岡県北九州市若松区竹並1006 12月の寒い時期、バラは見ることはできないだろうとあきらめていました。春と秋がバラのシーズンなのですが、2021年12月12日(日)にローズガーデンを訪れたときにもたくさんのバラが花開いていました。来園したこの日は風の強い日で、すぐにバラの花は風にゆられてしまいます。花を手で触るわけにはいかないので、カメラのシャッター速度を上げ、風が弱くなった瞬間を撮ります。 カメラのレンズをバラの花びらに近づけて、しっかりと花びらの形の美しさを撮ってみました。 ウーメロ 花びらの色のグラデーションが美しいです。写
2022年7月17日に、大分市にある口戸摩崖仏を訪ねました。 場所:大分県大分市口戸平野 座標値:33.1742897,131.5634003 七瀬川の左岸、高さ73mほどの丘陵地中腹 南面に「口戸摩崖仏(くちどまがいぶつ)」は彫られています。 摩崖仏は、高さ1.8m、奥行き1.4m、幅9mの岩窟に彫られています。鎌倉末期から室町時代に造られ、つくられた当時は岩窟に板戸がとりつけられていたと考えられています参照。 現在は、岩窟の前に鉄製の柵がとりつけられています。柵の入口を開け、岩のトンネルをくぐって岩窟へとつづく階段をのぼってゆきます。 石のトンネルと階段 石段を上から眺めたところ 岩窟から外を眺める 岩窟には3つの龕(がん)が彫られており、中央部には比売大神(ひめおおかみ)、岩窟に向かって右側には応神天皇(おうじんてんのう)、左側には神功皇后(じんぐうこうごう)が彫られています。 中央
福岡県久留米市に田主丸(たぬしまる)という、果物の栽培が盛んなことで有名な地区があります。田主丸はもとより、久留米市全体がカッパを前面におしだした街のPRを行なっています。 どうして河童(かっぱ)なのか?気になり調べてみると、河童族であったり、九千坊(くせんぼう)という河童であったりと、河童に関する情報がぞくぞくとヒットします。九千坊という河童は、いったい何ものなのか? 九州最強の河童王といわれる九千坊(くせんぼう)は、筑後川(ちくごがわ)にすんでいたといわれます。この河童王の仲間が九千匹いたために九千坊と名付けられたのですが、もともとこのような物語は、北九州出身の火野葦平(ひのあしへい)氏によって形づくられたようです(参照:河童九千坊の総本山は田主丸 【久留米市田主丸町】) 1954年(昭和29年)に、田主丸をながれる筑後川上流で、夜明ダムが完成しました。ダム完成により、大分県日田市との
以前、大分県の宇佐市に数年間すんでいました。宇佐市には「宇佐海軍航空隊」があり、航空隊に関する史跡がのこっています。また、航空隊があった当時、空襲のことなどの体験を地元のかたからお聞きすることがありました。 宇佐に滞在していたときは、宇佐海軍航空隊について調べたり、戦争遺跡をめぐったりしたことがありませんでした。福岡県の北九州へ移動してから、戦争遺跡について調べる機会がおおくなり、もともと住んでいた宇佐の航空隊についても調べる機会を得ることができました。 今回は、宇佐海軍航空隊が航空機を隠すために使用していた掩体壕(えんたいごう)を訪ねました。そのときの写真とともに、宇佐海軍航空隊の歴史について調べてみましたので、記していきたいと思います。 城井一号掩体壕 場所:大分県宇佐市大字城井159番地 座標値:33.548973,131.339887 『九州遺産―近現代遺産編101』P.163では
豊前国小倉藩と筑後国久留米藩を結んでいた秋月(あきづき)街道。秋月街道沿いの宿場町のひとつとして「猪膝宿(いのひざのしゅく)」があります。宿場町には、高い確率で庚申塔がまつられています。そのため庚申塔をさがしに猪膝宿へと足をはこびました。 猪膝宿跡である猪国の集落南西端に、白鳥神社が鎮座します。この白鳥神社境内に庚申塔がまつられていました。 街道沿いに鎮座する白鳥神社 白鳥神社境内に祀られている庚申塔は4基あり、以下の場所に祀られていました。 ①33.5868294,130.790395 ②33.5873451,130.7902679 ③33.587324,130.790275 ④33.587298,130.790271 ①の庚申塔は下の写真のようにかなりごつごつとした自然石に「猿田彦大神」とだけ刻まれたものです。建立年は確認できませんでした。 ②③④の庚申塔は、三基横一列に並べられていま
苅田町の山奥、本谷という地区に小さな集落があります。集落の北端部道端に庚申塔が一基祀られていました。南北約200mほどの長さの集落で、数件の家しかありません。その数件のうちのひとつが天台宗「東伝寺」という寺院です。 場所:福岡県京都郡苅田町山口 座標値:33.766331,130.927630 庚申塔の正面に梵字と「青面金剛」という文字が刻まれています。 青面金剛は、中国の道教に由来した仏様です参照。 青面金剛が庚申待の際に祀られるようになったのは、天台宗の影響です。庚申のご利益が青面金剛のご利益に似ていたためです参照。 青面金剛がもともと、結核などの感染症を指す”伝尸(でんし)”から人々を守ってくれるといわれていました。この”伝尸(でんし)”という言葉が、庚申信仰にでてくる”三尸(さんし)”と結びついたため、青面金剛と庚申信仰が結び付いたといわれています参照。 福岡県内は猿田彦大神の神道
土公神(どこうじん)と刻まれた石塔を、大分県国東市国見町竹田津で2020年にみつけることができました。この神様がなんなのか?以前、記事にしていました(参照:生活の中心の神様が道ばたに祀られていた) 場所:大分県国東市国見町竹田津 座標値:33.665847,131.560942 民間信仰 (桜井徳太郎著)P.159-161を読んでいたとき、また、この土公神という神さまが、「屋敷祭と荒神祓-1.外荒神と内荒神」の章で紹介されていました。ここに紹介されている情報を以前の記事に追加するかたちで、今回はご紹介します。 『民間信仰 (桜井徳太郎著)』のなかでも土公神は、その土地の神、つまり屋敷神として紹介されています。この屋敷神というのは荒神様のひとつであり、以下のように分類されています(P.159) 写真の土公神(どこうじん)の別名は外荒神(そとこうじん)、屋敷荒神(やしきこうじん)ともいうという
2022年7月10日(日)。直方市(のおがたし)にある標高620mの鷹取山。朝5時30分ごろ、眼下には雲海がひろがっていました。およそ6時ごろに、すぐ近くの福智山山頂ふきんから朝日が顔をだしました。山際では水しぶきをあげる波のように、雲が上昇してゆきます。 わずかな時間、太陽がみえていましたが、このあとすぐに福知山山頂と太陽は厚い雲に覆われてしまいました。 下は太陽が顔をだしたときに撮った写真です。鷹取山山頂は花畑になっています。朝露が光を反射し、きらびやかでした。 場所:福岡県直方市大字永満寺 座標値:33.739416,130.788496
福岡県の京都(みやこ)郡、苅田(かんだ)町に与原(よばる)という地区があります。ここに塩竈(しおがま)神社が鎮座します。 塩竈神社 拝殿 塩竈という名から想像できるように、むかしこの神社があるふきんには塩田がひろがっていたといいます。具体的にはどの範囲で塩田が広がっていたのか、『新京築風土記(山内公二著)』P.29に紹介されている情報をもとに地形図にしめしてみます。 苅田にあった塩田の範囲(推測) 今昔マップに掲載されている最古の地図が、1922年(大正11年)のものです。上の地図は大正11年のものを加工して作成しています。苅田に塩田がつくられたのが1866年(慶応2年)から1902年(明治35年)までです。 そのため上の地図は、製塩業がさかんであった時代の地図とは、多少異なっているとおもいます。しかし、海岸沿いに示されている「荒地」や「田」のマークが塩田のなごりであると予想しました。 『
十年以上も前、はじめて私が柳川をおとずれたときカーナビの広域地図を見ながら「水路のおおい場所だなあ」と感じたことを覚えています。どうしてこんなに水路が多いのか疑問に思いつつも調べることはなく過ぎました。 ただ、ずっと水路の多いこの街をゆっくりと歩いてみたいという想いと、どうして多くの水路がつくられているのかという疑問をもって、改めて柳川の町を、2022年2月11日に歩きました。 以下、当時撮った写真とともに、水路について調べた内容をズラズラとまとめてみたいと思います。 沖端 水天宮と沖端町 柳川市沖端町(33.1587639,130.3951874) 柳川市袋町 あめんぼセンター前 ◇◇◇◇◇ 町中に水路がはりめぐらされている福岡県 柳川(やながわ)市。柳川は一見すると水の豊富な地域のように思えますが、調べていくと、その逆で真水を得にくい地理的な特徴があるということを知りました。 柳川市に
大分県の玖珠郡(くすぐん)には、戦争に関する史跡は、ほとんどないと思っていましたが、玖珠町の豊後森駅と、九重町の千町無田(せんちょうむた)という場所に残っていることがわかりました。今回ご紹介する史跡は『九州遺産 近現代遺産編101(文・写真 砂田光紀)』P.70-71に掲載されている『豊後森機関庫』です。 2022年の初日をあびる機関庫外周部 場所:大分県玖珠郡玖珠町帆足 座標値:33.281105,131.158563 厳密にいうと豊後森機関庫は”戦争史跡”ではないと思うのですが、戦時中に米軍の攻撃を受けた痕があるということで、戦争に関する史跡としてご紹介します。 豊後森機関庫は、転車台*1を中心にして、扇形に機関車を格納する形となっています。この形態の機関庫を「ラウンドハウス(扇形庫(せんけいこ))」といいます。扇形庫は、九州では唯一ここ玖珠(くす)に残されています。 北九州市若松区の
『新 京築風土記』(山内公二著)P150を読んでいて、実在の人物が神さまとして祀られる神社があると知り、行ってみることにしました。神社の名前は「仙人神社」。江戸時代の後半にあたる安政年間(1854年~1859年)に、福岡県京都郡(みやこぐん)の池田村という地区に住んでいた、「せん助」という人物が祀られています。「せん助さん」という愛称で親しまれています。 場所:福岡県京都郡みやこ町勝山池田 座標値:33.7200447,130.901216 どうして、「せん助さん」が神さまとして祀られるようになったのか?そのエピソードがおもしろいために、以下、神社前の案内看板の内容を抜粋します。 せん助さんは大の酒好きでお人好し。いつも一升びんをぶらさげてまわり、会う人みんなにお酒を飲ませて陽気に笑い、自分の山を売っては祝い酒を振る舞う。そんな名物男だった。 そのせん助さんの口ぐせは「自分が死んだら、林の
下の写真は耳納(みのう)連山のふもとにある「浮羽稲荷神社」から眺めた筑後(ちくご)平野です。山の斜面にずらっとならぶ真っ赤な鳥居とともに、はるかかなたまでひろがるまったいらな平野が印象的な風景です。 場所:福岡県うきは市浮羽町流川 座標値:33.323416,130.791319 いっぽう、福岡県うきは市に清水寺(せいすいじ)という臨済宗のお寺があり、この境内にきれいな湧き水がでています。清水寺の南側に位置する耳納(みのう)山地にしみこんだ雨水が、山麓部各所からわきだしているようで、そのうちのひとつが、ここ清水湧水(きよみずゆうすい)として知られています。 場所:福岡県うきは市浮羽町山北 座標値:33.328883,130.812230 これらの2つの名所は福岡県うきは市の、ほぼ中央部である「うきは市浮羽町」にあります。うきは市の南半分は600m~800m級の山々がつらなり、北半分は平野と
福智山ろく花公園へ「ユリ」を観にいきました。ユリは、その種類によって開花時期が異なるようで、だいたい、5月から8月のようです参照。2022年7月10日に公園を訪れたときは、オニユリ、スターゲイザーという種類が、美しく咲いていました。花に詳しくはありませんが、ユリのコーナーをみてみると、花は咲かせてはいないけどまだつぼみのものが多くあるようでした。もしかしたら、これからもどんどんと他種のユリのはなが咲いていくのかもしれません。 場所:福岡県直方市大字永満寺1498番地 Google map オニユリ ユリの仲間である「スターゲイザー」 ラベンダー
場所:大分県中津市耶馬溪町大字深耶馬 座標値:33.369812,131.168282 深耶馬渓(しんやばけい)は、おもに流紋岩(りゅうもんがん)やデイサイトで構成されています。
北九州市小倉南区の長野本町に若宮八幡神社があり、神社の鳥居よこに二基の石塔がまつられています。そのうちひとつは、「猿田彦大神」ときざまれているのがわかりますが、もうひとつの三角形の石塔は、文字が確認できませんでした。 場所:福岡県北九州市小倉南区長野本町 座標値:33.829153,130.916728 猿田彦大神と刻まれた庚申塔は、建立年月の銘は確認することはできませんでした。 ホームページ『北九州市まちかど探検』参照では、もう一基、若宮八幡神社に庚申塔が祀られていることが紹介されています。残念ながら、この情報を行った当時知らず、わたしは確認できませんでした。
ずっと、これは何?と気になっていた遺構です。県道沿いの斜面にあります。 場所:福岡県嘉麻市牛隈 座標値:33.5726129,130.7383196 炭鉱内に人や物資をはこぶための巻き上げ機を固定するための台だそうです。
『北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会編)』P.102-103を拝読して、日清戦争後につくられた高蔵山堡塁(たかくらやまほるい)の跡にいってみました。山中にあるため、なかなかここまで行く時間がとれませんでしたが、平日に仕事の休みがとれた2021年9月21日(火曜日)に、じっくり堡塁跡までせめることができました。 場所:福岡県北九州市小倉南区大字吉田 座標値:33.8575946,130.9321605 高蔵山堡塁の倉庫群 9月21日におとずれる前の別日に、一度、この堡塁跡まで行こうとしましたが、想像していたよりも道中が荒れていたため、途中で断念しました。高蔵山堡塁跡までのルートをネットや地形図で確認し、再度、挑戦することにしました。 基本的に、昔つかわれていた軍用道路をたどって堡塁跡までいくことができます。しかし、軍用道路だけをつかって堡塁跡まで行こうとすると、おおきく遠回りを
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