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やる気の出し方
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一般には黒装束に身を固め、自由自在に忍術を操って身を隠したり敵を攻撃したりといったイメージのある忍者。これら忍術と忍者のルーツは甲賀・伊賀だといわれています。さてこの「忍術」と、戦国期に活躍した「忍者」に少し触れてみましょう。 忍術と忍者の発生 忍術の歴史は仏教とともに六世紀に伝来した兵書「孫子」に始まる。この世界最古かつ最高といわれる兵書に「兵は危道なり、濫りに用う勿れ、智略は正道で王者の道である」という教えがあり、これがもとで我が国のいわゆる忍術が発生したとされる。 忍者を初めて使ったとされるのは蘇我馬子と聖徳太子である。馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇はじめ蘇我氏に対抗する豪族達を次々に暗殺してその勢力基盤を拡大し、聖徳太子は秦の河勝(香具師の祖)・服部氏族(伊賀忍者の祖)・大伴細人(甲賀忍者の祖)らを使って各地の情報を収集したと伝えられる。 そして忍術の発
第1位 真田幸村 174 昌幸の子で本名は信繁。大坂夏の陣で赤備えの軍団を率いて家康の本陣に迫り、島津家の士に「真田日本一…」と言わせたほどめざましい奮戦をするも、ついには衆寡敵せず力尽き安居天神境内にて戦死。その見事な兵の進退と鬼神のような武勇を敵からも讃えられ、遺品は髪の毛一本に至るまで奪い合いになったという。 第2位 織田信長 173 軍政両面に数々の新機軸を採用した戦国の革命児。今川義元4万の大軍を桶狭間にてわずか2千の軍勢で撃破するという強運に始まるも、天下統一事業の半ばで隙をつかれて明智光秀の謀反に遭い、燃え上がる本能寺にて自刃するという悲運の最期を遂げた。 第3位 上杉謙信 162 戦国の神将と呼ばれ自らを毘沙門天の化身と信じ、出陣した合戦は全て負けることがなかったという。長尾為景の子で国内の豪族たちの統制力に欠けていた兄晴景を隠居させ越後国主に。かつては敵であった上杉憲政か
関ヶ原の戦いは、戦国史上はもとより、日本史上にその名を留める大戦として広く知られています。ここでは戦いの発端や結果はもちろん、それと同時に日本各地で起こった局地戦も含めて多角度からご紹介していきたいと思います。 なお、本稿は巷説・伝承なども引用の上で作成してあり、史実の追究を目的として作成したものではないことを、あらかじめお断りさせていただきます。 関ヶ原の戦いとは 慶長五(1600)年九月十五日、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町一帯で、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元(実質上は石田三成)を総大将とする西軍の間で一大決戦が行われたことは、歴史にさほど詳しくない人でも知っていると思われる事実である。しかし、戦いはわずか一日で実にあっけなく終わった。結果は家康が勝利を収め、三成等西軍首脳は斬首・所領没収・減封などの処分を受け、程なく家康は江戸に幕府を開いて政権基盤を確固たるものにしていく。 し
You're the th visitor. Last Update Dec. 23 2004 ※カウンタ直りました。(1/21)
ここでは戦国期の個性派武将たちの辞世の句と伝えられるものを集めてみました。中には明らかに後世の作であろうと思われるものもありますが、堅いことは考えずに資料中に見られたものをピックアップしてみました。横書きご容赦下さい。 赤松義村(あかまつ よしむら) ? ~1521 立ちよりて影もうつさじ流れては 浮世を出る谷川の水 ※これは厳密には辞世の句ではないが、播磨室津に幽閉されていた彼は、死の直前にこの歌を吟じたことから、辞世の句代わりとみなした。 明智光秀(あけち みつひで) 1528~1582 順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元 朝倉義景(あさくら よしかげ) 1533~1573 七顛八倒 四十年中 無他無自 四大本空 足利義輝(あしかが よしてる) 1536~1563 五月雨はつゆかなみだか時鳥 わが名をあげよ雲の上まで 尼子勝久(あまご かつひさ) 1553~1578
戦国期を彩る個性派武将たちには、それぞれ「十八番」とも言える得意戦法がありました。ここではその有名な武将たちの得意戦法をご紹介します。 武田信玄 → 啄木鳥の戦法 上杉謙信 → 車懸りの陣 真田幸村 → 影武者攪乱戦法 豊臣秀吉 → 水攻め/干し殺し 鈴木重秀 → 組撃ち鉄砲 島津義久・義弘→ 釣り野伏せ 伊達政宗 → 騎馬鉄砲隊 武田信玄→啄木鳥の戦法 この啄木鳥(きつつき)の戦法は、啄木鳥がエサを捕るときに、木の反対側をつついて虫をびっくりさせて穴から這い出させ、出てきたところを捕らえるという習性に目を付けた軍師・山本勘助が川中島の合戦時に進言したことに始まる。 つまり、機動力のある精鋭部隊を敵陣の中核や留守城などに迂回進軍させ、敵がそれに気を取られている隙に本軍で一気に攻略するというものである。 川中島の合戦においてはさすがに敵は謙信、この戦術を見破り、武田勢は大苦戦となる。しかし、
※2001.8.1 カウンタ設置。 背景:「関ヶ原合戦図屏風」(部分・関ヶ原町歴史民俗資料館蔵/掲載許可済) ※当コンテンツ中の文章及び画像の無断引用を禁じます。 制作協力:平群町教育委員会/平群史蹟を守る会
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