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中東情勢
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煩悩が潜在意識下にある微細な状態にあれば、心を無に帰して原初の状態に解消する逆展開によって取り除かれるべきである。 瞑想は心の意識的な部分で行うものなので、煩悩が潜在意識下にあって、まだ表に現れていない場合には取り除くことはできません。 どういうことかというと、例えば、まだ幼い赤ん坊にも、その人特有の性質や癖が潜在下に隠れています。それが成長して表れてくると、いろいろな経験をもたらすことになります。そうして喜びや苦しみを経験することになるのですが、生まれてすぐはまだ表に出ていないので、赤ん坊自身も周りの人もそれを注意して取り除くことはできません。 それと同じように、私たちにもまだ、自分の中にどのような煩悩性の思いがあって、将来どのような結果をもたらすのか分からない部分があります。それを今意識して取り除くことは不可能だということです。 それはちょうど、まだ芽を出していない種にたとえることがで
『瞑想とその方法』(Meditation and Its Methods)は、「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ全集」(The Complete Works of Swami Vivekananda)の中から、瞑想に関する部分が抜粋された書物です。 著者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)は、近代インドの覚者シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの愛弟子であり、西洋に初めてヨーガの叡知と方法を伝えた聖者でした。ヨーガの成就者、ヨーガにおける権威であり、インド独立運動の精神的支柱ともなりました。(彼についてのエピソードをいくつか紹介しています。 Episode5:人の中にある神性への信仰——スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの原点 Episode10:英知と純真は人々への愛でつながる——ヴィヴェーカーナンダの偉大なるハートと信仰者ギリシュ) 『瞑想とその方法』は、日本語での
ヨガといえば、一般的にはヨーガのアーサナ(ポーズ)を思い浮かべるかと思います。実際にはヨーガというのは広大な体系をもち、アーサナはそのほんの一部にすぎません。しかしそのアーサナでさえも、何を目的とするのか正しく理解されていなければ、効果のないものになってしまいます。 アーサナは瞑想を目的とするもので、その目的を目指している場合に十分有効となります。つまり、アーサナと瞑想は別のものではありません。 ここでは、ヨガつまりヨーガのアーサナと瞑想の関係について、①ヨーガやアーサナは本来どのようなものか、②ヨーガの体系のなかでアーサナがどのように発展してきたか、③アーサナはどのように行えば効果があるかを説明しながら、そのすべてにおいて本質的に重要なのは瞑想であるということを解説したいと思います。 ヨーガとアーサナの意味 ヨーガ本来の意味 「ヨーガ」という言葉は「結びつけること」を意味します(「結びつ
←【前編】へ *上の画像はブッダの前世における自己犠牲を表した「シビ王物語」の浮彫 カルマ・ヨーガの理想 これまでに述べた初期段階のカルマ・ヨーガは、他者のためになるというよりは、むしろ自分のためになる実践である。それはエゴ意識に巻き込まれず、本当の自分であり続けるための方法だといえる。 無執着に生きることは、その人の清らかさが周りの人に良い影響を与えるという意味で確かに他者のためになるのだが、より積極的に「他者のため」を考えた場合、それだけでは物足りない。 無執着にさえも執着しない 人を積極的に助けていくには、エゴ意識をなくすという「自分のため」の動機をもたず、純粋に「他者のため」だけを思って奉仕しなければならない。それが自分の修行のために他者を利用しない、本当の意味での献身になるだろう。 そのためには、無私・無執着に徹する思いさえも放棄していかなくてはならない。初期段階ではその実現を求
瞑想を6カ月にわたってコースで学ぶ「瞑想専科」を、4月11日から開講します! 外から見るのでは何が起こっているのか分かりにくい瞑想を、各回ごとの具体的なテーマにそって、瞑想の中で起こっていることを外に出すかたちで筋道を立てて学んでいけます。(下の画像をクリックすると瞑想専科のページに飛べます) 6カ月という期間は、ちょうど僕がまったく瞑想というものが分からない状態から、「これが瞑想かも!?」という体験があるまでの期間でもありました。(詳しく知りたい方は「師と弟子」—ヨーガ行者としての僕の歩み⑧を読んでください) ですから、たとえほんの数カ月間であっても、瞑想というものが何となく分かってきた、体験ができたということが起こるのは可能だと思っています。 事実、2013年から大阪や京都で瞑想専科を数回行なってきたのですが、まったく瞑想など初めてで5分も集中できなくても、コースの最後には、すべての人
*上の画像はブッダの前世における自己犠牲を表した「シビ王物語」の浮彫 純粋な「他者のため」に至るまで 自分のために生きることを追求していくと、自分のことは忘れ、他者のために生きることになる。 自分を極める 一流の芸術家やアスリートたちは、そのような生き方をしたように思える。 最初、彼らは自分の才能を誇っていたかもしれない。しかし他人と比べてどれだけ自分が優れていようと、自分がトップを走ったまま誰も追いつけず優勝が確実であっても、彼らは止まろうとしない。これまで以上の作品や記録を求めて、自分という限界を超えて突き進もうとするのである。 そこにはもうかつてのうぬぼれはない。自分の才能を誇り、それをもっともっと極めたいと思う果てに、彼らは自らの才能を越えて、自分を誇ることを忘れて、作品や記録というものも超えた「偉大なる何か」に向かってまい進する。 自分という限界を超えたところ なぜそれほどまでに
夢で出会った人を、目覚めた人は見ることがないように、愛した人も、時が来て逝ってしまうと、もう見ることがない。名前がこれこれだと言われるそれらの人々は、かつて見られもし、聞かれもした。逝った人の、告げられる名前だけが残る。 憂いと嘆きと物惜しみを、「私のもの」を貪る者たちは棄てない。それゆえ、聖者たちは所有を棄てて安穏を見ていった。 『スッタニパータ』第4章6(807-809) 瞑想の集中ポイント:有無や生死を超えて真実に実在するものとは? 夢のように有ったり無くなったりするものは真実の実在ではなく、生死さえも例外ではない。では真実に実在するものとは何なのか? 何が実在するとはブッダは言わない。「聖者は所有意識を棄てて安穏にある」と言うだけである。有無の観念を超えて実在するもの、生死への固執を超えたところで体験すること、ブッダはそれに名前を付けることを極力拒んだ。 それが意味するのは、そうい
『ヨーガ・スートラ』とは、ヨーガの教え・哲学とそれを実現するための方法を記したヨーガの根本教典です。紀元前3世紀ごろから編纂が始まり、紀元後500年ごろに現在の形で成立したと考えられています。 全4章にわたり195のスートラ(経文)で成り立ち、第2章は55のスートラで構成されています。(現在は14番目のスートラまでを掲載しています) 各スートラのあとの📖をクリック(タップ)すると、スートラ本文とコメントを別ウィンドウで読むことができます。 日常的に行うべきヨーガ【クリヤー・ヨーガ】は、 ➊心の不浄を取り除く熱になる苦行、 ➋聖典の学び、 ➌至高の存在に心をゆだねることである。📖 ॐ 日常で行うヨーガは、瞑想で三昧を実現するためと、苦をもたらす煩悩を弱めるためにある。📖 ॐ <煩悩> 煩悩とは、 ❶無知、 ❷自我意識、 ❸貪欲、 ❹嫌悪、 ❺生命欲、である。📖 ॐ 無知以外の煩悩は眠
今日から3月です。少しずつ春の気配を感じられる時節になってきましたね。春は大気も何だかざわめき、陽気になってきますが、インドにはホーリー祭と呼ばれるとっても有名な春のお祭りが3月の満月の日にあるそうです。春の豊作祈願のお祭りですが、クリシュナ神の伝説とも関係し、色粉や色水を掛け合うのが特徴です。もう誰も彼もがいろんな色をかけられてしまいます。 今日は、そんなホーリー祭のインドの細密画を一つ紹介しましょう。 18世紀のインドの細密画(カングラ派)ですが、クリシュナとラーダーがホーリー祭を楽しんでいる様子が描かれています。(中央左の女性がラーダーで、右がクリシュナです) クリシュナや牛飼いの少年たちは竹で作った水鉄砲で、赤やサフラン色の水をラーダーやゴーピー(牛飼い娘)たちに振り掛けたり、粉を振りまいたりしています。男と女に陣営が分かれているのが面白い構図ですね。そしてラーダーやゴーピーたちは
生命欲は、自ずと備わり継続するもので、賢者にも同じように起こる。 生命欲というのは裏返せば、死の恐怖ということです。誰もが死を恐れます。しかし、なぜ死を恐れるのか、死の恐怖とはいったい何なのかについて知っている人は、まずいませんし、それについて考えることさえ、怖くてできないか、あるいは考えるべきではないこととしてタブー視されます。 僕も小学校に上がったかどうかというような幼いころに、突然、死ぬのが怖くなって眠れなくなったことがありました。その時の恐怖は、自分が無になってしまうことへの恐怖だったと思います。僕という存在が消えてしまうことの恐怖です。そして僕が消えてしまえば、今見えているこの世界も、テレビを消すように消えてしまい、永遠の無になってしまう。 死のあとのことを知ることは決してできません。自分がどうなったかも、残された世界も、それがどうなったのかだけでなく、存在するのかどうかさえも確
念願のポスターができました!!! 下鴨クラスは、北大路、下鴨本通りの交差点、少し東に行った北側にあります。 日曜日の朝、北大路通り「洛北高校前」のバス停から青いビルを見上げてみてください。 この素敵なポスターが目にはいるはず (^–^)/ そして嬉しい事は続くーー!! 下鴨クラスはようやく三年目を迎えましたが、先日、始めての親春会がありました。ヨーガを学び始めたばかりの人から二年ほど熱心に通ってくださっている人まで、女性ばかり和気あいあいとした雰囲気の中、楽しく過すことができました。 夕方六時半から始まった会でしたが、なんと終バスがなくなるまで、私たちはヨーガのこと、自分自身のこと、仕事のことなど、隣の人と話したり、全員で話し合ったりと、お互いの理解を深める濃密な時間をもつことができました。 印象的だったことは、みんなが素直に話し合い、また人の話やアドヴァイスも真剣に聞いていたことです。こ
先日、新春!バクティ・サンガム特別編が開催されました。去年の年末最後のバクティ・サンガムが大好評だったため、急遽企画され、この日を迎えました。 前回初めてバクティ・サンガムを体験され、今回も続けて参加された方が3名、今回が初参加という方が5名、総勢約20名で、またまた大盛況となりました! 今回は新春!特別編ということで、バクティ・サンガムでよく歌われる定番の曲、 ①Hare Krishna、②Manasa Bhajare、 ③Jaya Jagadambe、の3曲を歌い、それぞれの歌の神様 ①クリシュナ ②シヴァ ③ドゥルガーが紹介されました。 写真にもあるように、神様の美しいタペストリーが飾られて、いつにもまして神々しい空間になりました。そして、ミラバイさんが以下のクリシュナのエピソードを紹介していたとき、面白いことが起こりました。 「クリシュナが小さい頃、ある時、彼が泥土を食べていると牛
バクティ・ヨーガというものをご存知ですか? バクティというのは「信愛」という意味です。バクティ・ヨーガとは、人の根源にある愛の力によって、神——私たちの本質——と一つになるヨーガです。 ヨーガといえば、いろいろなポーズ(アーサナ)を思い浮かべる方が多いかと思いますが、呼吸と心を静めるためにさまざまなポーズを取る方法は、比較的新しい時代に発展したヨーガです。(といっても1,000年くらいの歴史がありますが) バクティ・ヨーガはもっと古くからあるもので、少なくとも2,300年以上前(ウパニシャッドという聖典)に起源をさかのぼることができます。特に『バガヴァッド・ギーター』という、インドで最も親しまれてきた聖典では、「すべてのヨーガ行者のなかでも、バクティを行う者は最高に専心した者、最高のヨーガ行者である」と言われるほど、ヨーガの主要な道です。 バクティ・ヨーガによって神を悟った聖者たちは数知れ
嫌悪とは、苦しみに執らわれることである。 ヨーガの瞑想を始めて僕が気づいた大きなことの一つは、意外にも人は嫌なことへの執着が非常に強いということです。 執着といえば、名誉とか地位とかお金とか異性とか、心にとって欲望の対象になるものに持つものだと思いがちです。ところが、その想定とは逆に、嫌なことや嫌いな人のことをいつまでも忘れようとしない心の力が思いのほか強いのです。 もちろん、そんなことは覚えていたくありません。すぐにでも忘れてしまいたいと思います。ところが、いつまでも頭のなかを回っているのは、嫌なことばかりということが少なくありません。後悔や不安や、自分や他人が嫌いだという感情もそこに含まれます。 嫌いならば、忘れたいならば、それ以上考えなければいいのにと、自分でも思います。しかし、それが思い通りになりません。なぜなら、それは心の表層意識だけでなく、深層意識に染みついた煩悩が関係している
プロローグ 「何がしたいかやない、何が真実かや!」シュリー・マハーヨーギーは強い口調でこう言われた。 「自分の理想を見つけるように」と言われていた私は、本当に自分が何をしたいのか、自分にとって理想的な状態は何なのか考えようとしていた。しかし自分が何を望んでいるのか、強い気持ちを見出すことはできない。自分にとって理想とはいったい何なのか? 答えが出せないまま、「自分が何をしたいのか分かりません」と打ち明けていた。 シュリー・マハーヨーギーは、それを聞くとすぐさまそう突っぱねて、そして続けられた。「理想というのは、何がしたいとかそういうことじゃない。真実——これこそが理想なの。これはもう私たち自身の存在に関わることだからね」 「自分がしたいこと」から「自分」そのものへ 前回は、自分が何をしたいのか分からない、自分をつかめない、ということに対して、何がその原因なのか、どうしたらそれを解決できるの
貪欲とは、快楽に執らわれることである。 やっぱり快楽には執らわれますよね〜😅 誰もが。でも私たちもバカではないですから、人生の経験から学ぶわけです。快いこと楽しいこともいつかは終わってしまう、それどころかひどい苦しみに変わってしまうことがあるということを。 確かに経験には快いことと苦しいことがあって、「人生楽ありゃ苦もあるさ」というのが現象における事実です。そこで快は快、苦は苦で終わらせておけば、それ以上の問題は起こりません。おいしいものを食べて「ああ、おいしかった」で終わらせれば問題は起こらないし、恋人と別れても「ああ、楽しかった」で終わらせれば、いい思い出で終わるわけです。 しかし、私たちの心には「もう一度あの楽しさを、快楽を味わいたい」という執着が備わっています。それが貪欲という煩悩です。楽も苦に変えてしまう「苦しみ製造機」です。「こうだったのに、ああだったのに」という思いが、「で
自我意識とは、純粋に見ているだけの真実の自己の力と、見る作用を行っている心の力が、まるで一体であるかのようになっていることである。 覚者シュリー・ラーマクリシュナは自我意識を、料理するフライパンの上で火にかけられて飛び跳ねる野菜にたとえました。食材には意識がありません。しかしフライパンで炒められると、あたかも意識があるかのように飛び跳ねます。その様子を見て、野菜に独自の意識があるように勘違いしているようなものだというのです。 僕にも子供の頃の似たような思い出があります。お正月に食べるお雑煮に、我が家では食べる前にかつお節を入れるのですが、熱いお雑煮に入れると、まるでかつお節が生きているかのようにひらひらと踊るのです。「かつお節が生きてるみたい!」と妹と喜んで両親に話していました。 私たちが「自分は自分だ」と思っている自我意識には、そんな混同があるといいます。自己と心はまったく別のものである
欲望に対する貪欲を制御せよ。……あなたには取るものも、捨てるものも、何もないようにせよ。 以前(過去)にあったものを涸渇させ、この先(未来)には何もないようにせよ。その間(現在)でも握りしめないなら、平安に生きるだろう。 あらゆる名前や形のあるものに対して貪欲を離れたバラモン(聖なる人)には、死に支配される原因となる(カルマの)流入はないのだ。 『スッタニパータ』第5章12(1098-1100) 瞑想の集中ポイント:過去でもなく未来でもなく、今この瞬間の命を生きること 過去はすでに存在しないものであり、未来はまだ存在しないものである。過去と未来は、実際には今という瞬間の心の中にある。それは単なる知的な意味での記憶や予想というだけではない。過去のすでに終わった出来事による印象の種を、今この心の中に保持して執らわれている。そして過去からの印象を延長して、未来の傾向に引き継ごうとしている。それが
はじめに 「生きがい」や「自分らしさ」という言葉がよく聞かれる。老若男女を問わず、誰もが自由に自分らしく、積極的に自分の人生を生きたいと願っている。 しかし他方、自分が何をしたいのか分からないという人は多い。哲学的な問題ではなく、もっと単純に自分が何をしたいのか、まず分からないのだ。人生の目的がはっきりしないために、生きる方向性が定まらず、自分に自信を持つことができない。その時々を楽しく過ごしてはいても、その裏では何かしら虚しさを感じてしまう。 どうして私たちは自分のしたいことが分からないのか? どうすれば自分がつかめるか? 『真実の生を求めて—何のために生きるのか』のシリーズでは、ヨーガ・瞑想の体験と教えにもとづいて、このことを考えていくのを皮切りに、「本当に自分のためとはどういうことなのか」「他者のためとはどういうことか」、そして「何のためでもない、真実ゆえの生き方とはどういうものか」
風は冷たいですが、澄んだ青空が広がっていますね。 先日は月に2回(第1・3火曜日の午前中)行なっている相模湖ヨーガ・サークルに行ってきました。 私が住んでいる吉祥寺から中央線でずーっと西に行った終点の高尾駅から、もう一つ西へ行った駅が「相模湖」です。 しかしこの高尾駅から相模湖駅までの一駅が長く、ひと山越えるため、間違って快速に乗ってしまった!?と思うほど別世界に来た気がします 笑。 相模湖ヨーガ・サークルのメンバーは東京都・高尾(八王子市)に住んでいる方と、神奈川県の相模湖や藤野(相模湖のもう一つ隣りの駅)の方が多いのですが、それぞれの地域の寒さの違いなども最近は良く話題に上ります。相模湖で畑をされている方は、この辺りは神奈川県というより会津若松と気温が同じだから、その辺りで取れる作物を作らないといけないのと笑いながらおっしゃってました。 さて、今月までは高尾駅近くのメンバーの方のお宅を
ヨガのポーズを行う前後には、それぞれ2時間ほど食事を摂らないように勧められています。私たちのヨーガ・瞑想クラスでも、そのようにお願いしています。 しかし、そもそもどうしてヨガの前後で食事をしないほうがよいのでしょうか? また2時間という数字にどのような意味があるのでしょう? 実は、それには人間の体が行っている消化の仕組みと、さらには食物でできた肉体の内側にある精妙な気の働き、そしてヨガのポーズが体に及ぼしている深い効果が関係しています。 ヨガの前後で食事を控える理由を知っていくだけでも、私たちが普段気づいていない体と気の深い働きを学んでいくことができます。 ヨーガの前に食事を2時間空ける理由その1 ヨガのポーズ(インドのサンスクリット語で正確には「ヨーガ」と読み、ポーズのことは「アーサナ」(坐法)といいます)を行う前に、食事を2時間ほど控える理由は、胃の消化時間が関係しています。 食べ物の
愛する者をその腕に抱くと全世界を忘れる 内にあるもの、外にあるものすべてを 同様に自己を抱きしめる者は、内も外も知らないのである ずっと長い間、「愛」は理想でした。 たった一人の人でもいい、たった一つのことでもいい、それだけを愛して、それしか見えなくて、そこにすべてを捧げ尽くす、そんな風に生きてみたいと思っていました。 それさえあれば他には何もいらない、そんな相手に出会えたなら本望だと思っていました。 冒頭の詩に出会った時、私が理想としていた世界がここにある!と狂喜しました。 プレーマ(真の愛)という世界です。 この詩の中で歌われた「愛する者」は神であり、同時に自己でした。私は長い間、神を求めていたんだと思いました。 ヨーガの中にバクティ・ヨーガといわれる「信愛のヨーガ」があります。それは人をプレーマ・神の愛に目覚めさせる道です。私たちの中にある愛する思いをもっともっと純粋にし、完全に昇華
.. 執着とは、 心の中に理想像を作り上げ、 それと比較して異なるときに発生する心の作用です。 その理想像を作らないようにすることが、 無執着です。 サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ この教えに触れると、いつも「なるほど〜」って唸ってしまいます! 確かに、何かにつけて心が動揺するときは、心の中に何らかの理想像があるからです。それがある限り執着が生じ、心は揺れ動きます。 例えば、恋人、友人、成績、評価、仕事、出世、結婚、子供、娯楽、おしゃれ、旅行、スイーツ、パソコン、iPhone・・・なんと様々な自分を幸福にするだろうと思った理想像をこれまで作り上げてきたことかと思いませんか!その度に心は揺れ動いてしまう…なぜなんでしょう!? 例えば、最初にiPhoneを購入しようと思った時は、素晴しい喜びを自分に与えてくれるiPhoneは輝きを放っていて、それを手に持つ自分を想像しただけ
今日は月に一度のシッダ・マールガの日でした。毎月3人が好きな聖者の生きざまから学んだ気付きを話してくれます。今回はシュリー・ラーマクリシュナの直弟子、プレーマーナンダとラーマクリシュナーナンダ。その他には女性の聖者、アーナンダモイマーとマザーテレサについて話がありました。 この4名の聖者やこれまで紹介してもらった聖者すべてに共通していることは「神を愛する」ということと「神に明け渡す」ということ。もうこれはヨーガの進歩において必要不可欠だと痛感します。彼ら、彼女らは神なる存在を愛し続けました。 でも「愛する」ってどういうことでしょうね。 たとえば「歯磨きをする」とか「食事をする」とかいうと「する」の前の言葉は具体的で意味や行動がすぐに思いつきます。でも「愛する」と言われると「歯する」と言われたときに歯に何するの?と思うように結局何をするの?と思ってしまいます。(私だけかな……) 今まで人や動
質問者「私は何の頼りもなく、独りで強大な(輪廻の)激流を渡ることはできません! この激流を渡るために頼りとなる拠り所を説いてください」 ブッダ「無一物を理想として集中を保ち、『(私には)何もないのだ』ということを頼りにして、激流を渡れ。欲望を棄てて、おしゃべりを離れ、渇望が消滅することを昼も夜も切望せよ」 『スッタニパータ』第5章7(1069-1070) 別の質問者「震え上がるような激流が起こったとき、洪水のまんなかに立ち、老いと死に圧倒された人々にとって(拠り所となる)中洲を説いてください」 ブッダ「無一物であり、何ものにも執着しない、これが中洲であって、それ以外にはない。私はこれをニルヴァーナ(涅槃)と呼ぶ。老いと死(という苦しみ)の完全な消滅である」 『スッタニパータ』第5章11(1092, 1094) 瞑想の集中ポイント:ニルヴァーナの境地を求める強烈な切望 苦しみから抜け出すため
皆様、明けましておめでとうございます。 去年3月に越して以来、東京で初めての年明けを迎えました。 これまでにもちろん何度も新年を迎えてきたわけですが、今年の元旦はいつもとは違う心持ちがします。例年はその年の抱負などは考えても思いつかないのですが、今年は違いました。 今年の抱負は「点火」です。 昨年大晦日の年明け前から、ヨーガへの志を同じくする仲間4人と年越しの瞑想を行いました。瞑想とそのあとの余韻のなかで思い至った、今年にかける希望がこの「点火」です。 それは、ヨーガの道をともに歩む兄弟弟子たちはもちろんのこと、昨年に縁を結ぶことができた人たち、まだ見ぬ兄弟姉妹、そして自らのうちにある神性・神を顕そうと、いまだ到達することのない答えを求めている現在・未来の人たちのなかに、「私というこの命、この純粋な実在こそが神である」という堅固な自信の火種をもたらし、神に憧れる信仰の炎があらゆる苦悩を焼き
今年も暮れて参りました。皆さんにとってはよい一年でしたか? 私の今年のテーマは「愛」でしたから、最後にバクティにまつわるお話をしたいと思います。 私が好きなラマナ・マハリシという19世紀の賢者がいます。マハリシは「私は誰か!?」という真我の探求を教えたギャーナ・ヨーギーとしてよく知られていますが、彼自身が書いた詩を目にした時に、私は、まるでラマナ・マハリシは、聖なるかがり火の山アルナーチャラに魅せられ、捕われたバクタではないかと思いました。アルナーチャラをクリシュナと読み替えれば、ラーダーそのものだと思ったのです。 アルナーチャラという山はとても古い山で、地質学的には36億年前にできた山だそうです。山の起源について語られた古代の伝説によると、ヴィシュヌ神とブラフマー神の争いを仲裁するために光の柱になったシヴァ神は、そのままでは人々にはあまりにも眩しすぎるため、代わりにアルナーチャラの山に姿
無知というのは、①永遠でないものに永遠を見ること、②不純なものに純粋を見ること、③苦しみに幸福を見ること、④自分でないものに自分を見ることである。 私たちは生まれながらに大きな思い違いをしていて、それが人生全体に起こる苦しみを生み出しているといいます。それを近代インドの覚者シュリー・ラーマクリシュナは、沙漠のラクダがトゲのあるサボテン(あるいは木の枝)を食べ続けようとする様子にたとえました。トゲが刺さって口から血を流しているにもかかわらず、それでもラクダは「おいしい」と思って、やめようとしません。本当は苦しみであるものを幸福だと勘違いしているのです。 もし根本的に間違った前提に立って、間違った目標に向かっているとすれば、そのために行われる努力はすべて間違っている。それどころか、ますます望むところとは違う方向に行くことになります。私たち人間は、トゲのサボテンを食べるために、一所懸命に働いてお
お久しぶりです、皆さんお変わりありませんか?私は南相馬に来て3回目の冬を迎えています。私は変わりないですが、私の周りで変わったことと言えば、職場の定年がまた一年延びたことです。新しい人が入らないので、今いる人に長く働いてもらうしかないのです。去年も一年延びたので、今定年は62歳です。この地域の施設も同じような感じで、定年が65歳という所や70歳という所もあると聞きます。今の仕事を70歳までやるって…ちょっと想像できないですね。 ところで、タイトルに書いた聖人についてですが、カソリックの中でマザーテレサが聖人に認定されることになったそうですね。認定されるにはその人にまつわる2回の奇跡が必要だとか。もっとも、そういうことには本人が一番関心がないのかも知れませんけど。 そのマザーテレサですが、私は昔から彼女が好きで、ヨーガを始めてからずっと瞑想の対象にしていました。でもある時ふと疑問を持ったんで
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