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パリ五輪
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大著である。本論は王寺賢太『消え去る立法者』(名古屋大学、2023年)の内容を簡便に紹介し、その学術的意義を見定めようとする書評を目指していないことをあらかじめ断っておきたい。というのも、すでにいくつかの書評が書かれており、本書の全体像を理解するにはそれらを読むのが有益である。ゆえに、本論は各章それぞれに対しコメントすることによって実直に『消え去る立法者』を紹介することでは満足せず、本書が実践しているような泥臭い手つきで『消え去る立法者』が提示した問題圏のいくつかに介入しようとするものである。 「消え去る立法者」という魅惑的な表現から、読む以前に我々はこの書物のなかに〈現代思想〉的な気を衒った議論——もちろん本書は現代思想・現代哲学の議論を多分に前提としているのだが——を想起しがちである。かつ、「立法者」という概念を中心に18世紀の思想家たちの言説が引用されながら本書が編まれていると読者は
フーコーの著作に一定親しんで来られた方は、①と②の言い換えにはさほど違和感を持たれないでしょう。いきなり「スピーチ・アクト」という英米的語彙を持ち出すのはどうかと思われる向きもあるやもしれませんが、69年の『知の考古学』に至るプロセスでフーコーがオースティンからはじまる言語行為論、分析哲学に深く耽溺していたことは今日では周知の事実ですし、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念をフーコーが自分なりに変奏してその後自家薬籠中のものとしたことも同じです。こうした点については掘り下げれば興味深い論点も多々あるのですが、ここでは触れないでおきます。注目したいのは三番目です。存在論がフィクション?かなり唐突に響かないでしょうか。ハイデッガーは嘘八百を並べたとでも言いたいのでしょうか。フーコーがこのドイツ哲学者に深く影響されていたことも周知の事実ですから、ここでフィクションの語を持ち出す意味を、読者と
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