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大滝詠一 恥ずかしながら僕は「A LONG VACATION」から大滝詠一を聴き始めた口である。大滝のラジオ番組のリスナーだった訳でもないし、コロンビア時代のナイアガラ・レーベルを知っている訳でもない。ごく普通の、当たり前のポップス・ファンとして当時売れていたロンバケを手に取った。時は1981年、僕は高校1年生だった。 その後、僕が佐野元春、伊藤銀次に傾倒し、そこからさらに洋楽を聴くようになって行った背景にはもちろん大滝詠一の影響もあったが、大滝がロンバケまでにたどった足跡には正直あまり興味が持てず、長い間真面目に聴くこともなかった。というか音源を持っていなかった。かろうじて「NIAGARA TRIANGLE VOL.1」を買ったくらいだ。 大滝の音楽に対する愛情と造詣の深さにはもちろん敬意を抱いていたが、「ロンバケ」以前の大滝が世に問うていた音頭モノとかコミック・ソング的なものは僕にはほ
マイティ・レモン・ドロップスはネオサイケの文脈で語られることの多いバンドである。マイティ・ワーやティアドロップ・エクスプローズを思い起こさせるバンド名に加え、エコー&ザ・バニーメンからの影響も強く指摘される。しかし彼らがそうしたネオサイケのビッグ・ネームと異なるのは、彼らがとことん凡庸であるということだ。イアン・マッカロクの切れるような痛みも、ジュリアン・コープの強迫的な狂気も彼らにはない。彼らにできるのはそうしたイコンの輪郭をただ丹念に、誠実になぞってみせることだけなのだ。 こないだフリッパーズ関係のサイトを見ていたら、ラジオ番組でフリッパーズの二人がこのバンドを評して「一皮剥けるかと思ったら」、「剥けてなくて、皮」と発言していて大笑いだった。そう、どこまで行っても一皮剥けない凡庸感こそマイティーズの真骨頂である。しかし、そうした覚醒のない二流のバンドが、例えばネオサイケの最も本質的な部
短編集に未収の短編 ここに挙げるのは短編集に収められていない短編である。その中には講談社から刊行された「村上春樹全作品」に収められたものもあるが、村上春樹自身の意向で意図的に一切の再刊が行われていないものもある。初出または「全作品」の所収巻は分かる限りで記載しておくので、中には入手の困難なものもあるが興味のある人はどこかで探して手に取ってみるといいと思う。まあ、そこまでして読んでみるべき価値があるかは保証できないけど。 そういう訳なので、ここに挙げた作品相互の間には内容的な関連はない。発表時期も初期から最近のものまで様々だし、長さも異なる。ほとんど中編と呼んで差し支えないものからほんの数ページの掌編まで。こうやってこぼれ落ちたものを落ち穂拾いみたいに拾い集めるのもまた楽しい。 ■ 街と、その不確かな壁 「文学界」1980年9月号 「1973年のピンボール」が芥川賞候補になり、その受賞第一作
役に立つドイツ旅行のポイント 言葉について ●言葉の問題は、やり始めるときりがありませんが、今回は旅行の局面で知っておくべきことを中心にご説明いたしましょう。細かい語彙、場面別の例文なんかは、本屋さんで「ドイツ語旅行会話集」とかいった類の本を買って参照して下さい。こういう本って結局あんまり役に立たなかったりもしますが、ま、精神衛生上一定の役割は果たすでしょうし、巻末の「ドイツ語メニューの読み方」や「ミニ単語集」が意外と重宝したりします。重いものじゃないので1冊持って行って損はしません。辞書用の薄い紙で製本してあったりすると、飛びこんだトイレに紙がなかったときの備えにもなって便利です。 ●さて、まず、よく訊かれるのは、「ドイツでは英語は通じますか」ということです。一般的に言ってドイツでは英語は通じます。少なくともきちんとした教育を受けている一定以下の年齢の人は大変まともな英語を話します。イギ
ピチカート・ファイヴといえば小西康陽と野宮真貴という最終形態からすればもはや「前史」に属してしまいそうな小西(b)、高浪慶太郎(g、vo)、鴨宮諒(kb)、そしてボーカル佐々木麻美子という4人組時代の唯一のフル・アルバムでありデビュー・アルバム。ノンスタンダード時代の12インチ・シングルで既にメジャー・デビューを果たしていたが、かっちりと構成した3分から4分のオリジナルの歌ものをフィーチャー(1曲のみインスト)した本作は、小西の、世界に対する宣戦布告であったと言っていいかもしれない。 音楽的にはバート・バカラックの大きな影響を受け、ブラスやストリングスを大々的にフィーチャーしたソフトなポップスであり、佐々木麻美子の舌足らずで甘いボーカルも相まって、非常にソフィスティケートされたラウンジ・ミュージックである。その音楽形態からはロックとは呼び難く、実際当時のロック・ジャーナリズムにはほとんど黙
ノルウェイの森 村上春樹の名前を一躍有名にした大ヒット作。大学に入ったばかりの「僕」は自殺した親友キズキの恋人直子と偶然出会う。週末ごとにデートを重ね「僕」は次第に直子にひかれて行くが、直子は心を深く病んでいた。同級生の緑、学生寮で奇妙な友情を交わす永沢さん、その恋人ハツミさん、そして京都の山奥の療養施設で直子の面倒を見るレイコさん、村上作品の中では例がないほど現実的、写実的なタッチで描かれた「普通の恋愛小説」である。 だが「普通」というのはもちろんこの小説に羊男ややみくろが出てこないというだけの意味に過ぎない。そこで展開される小説世界はまったく「普通」ではないし、厳密に言えばこれは「恋愛小説」ですらない。ここで語られているのはむしろ「恋愛」とは正反対の「死」のことである。これほど「死」の濃厚な影が全体を覆っている作品は他にないくらいだ。物語のトーンは陰鬱で寒々しい。村上春樹は執拗に、憑か
Low-Flying Aircraft and Other Stories (1976) 邦訳: 死亡した宇宙飛行士 NW-SF社(1982) ■ The Ultimate City 最終都市 (1976) 訳:野口幸夫 これのみ中編と呼べそうな分量の作品。すべての化石燃料を使い尽くし、人々が都市を放棄して自然エネルギーによる田園生活を営んでいる世界。主人公ハロウェイはグライダーで今は廃墟となったかつての大都市に舞い降り、そこを復興させようと企てる。都市文明のグロテスクなカリカチュア、飛ぶことへのオブセッション、そして犯罪が社会をドライブするというビジョン。中期から後期の長編とも呼応し、読み応えのある作品である。 ■ Low-Flying Aircraft 低空飛行機 (1975) 訳:野口幸夫 極端に出生率が低下し、人口の激減した世界。いや、出生はするのだが生まれる子供は皆重度の奇形なの
Deng Xiaoping, who? かつて僕は為替ディーラーをやっていた。目の前のモニターは刻々と流されるニュースを休みなく映し出している。「ルービン財務長官辞任」、「日本国債格下げ」、「独連銀利上げ決定」。そんなニュースに混じってあるときこんな見出しが飛び込んできた。「Deng Xiaoping死去」。 ??? 「デン・シャオピンてだれや?」。だが、もちろんそんなことを考えているヒマはない。Deng Xiaopingがだれでもいい。本当に死んだのかどうかということも後回しだ。問題は、このニュースを見た市場参加者が売るか、買うか、それだけだ。 その時僕が売ったのか、買ったのか、その結果もうかったのか損したのか、今となってはもう覚えていない。記憶に残っているのは、「Deng Xiaoping」という名前に振り回されたことだけだ。それがだれかは程なく分かった。ドイツ人に「Deng Xiao
中国行きのスロウ・ボート 村上春樹の第一短編集である。表題作を初めとする7編が収められている。作品の発表時期は80年4月から82年12月まで、ほぼ2年半にかけてであり、村上自身のノートによれば最初の4編が「ピンボール」の後に、残りの3編が「羊」の後に書かれたものということになっている。 読んでみると分かるが、最初の4編と残りの3編(中でも「午後の最後の芝生」と「土の中の彼女の小さな犬」の2編)の間には明確な断層がある。最初の4編がまだどこか未成熟で、生硬で、挑戦的で、試行錯誤的であるのに比べ、次の2編は明らかに小説的な成熟を遂げ、それ自体物語として十分な喚起力を備えるに至っている。おそらくは「羊」を書き上げることで村上の中には「語られるべき物語」のはっきりとした輪郭が見えるようになったのに違いない。 短編小説では、短い紙数の間にどれだけ物語の中心、核のようなものにまでまっすぐたどり着き、そ
P.K.ディック SF作品レビュー ディックは決して巧い作家ではないと思う。着想は面白くともプロットは破綻し、伏線は回収されないまま放置され、晩年には神秘体験をしたとか得体の知れないことを言いだし、フィクションと実生活が混じり合って半ば神がかった状態(実際にはドラッグで脳みそが半ば溶けかかった状態)になってしまう。それでも僕がディックを読み続けるのはやはり、この作家が書く現実の相対性、当たり前に見える生活のすぐ裏側に隠れた悪夢がどこまでもリアルだからだ。駄作、失敗作も含めて多作な人ではあるが、ウェブ・ベースでその著作を系統立ててコンパクトに評論し、ビブリオグラフィの全体を紹介したものが見当たらないので、今回、ディックSF作品の発表順再読を試みる記録として、僕の各作品に対する感想を書きつけておくことにする。(2007.8.11) 【長 編】
J.D.サリンジャー 全作品レビュー ここではアメリカの作家J.D.サリンジャーが生前に発表した作品のレビューを掲載する。サリンジャーとその作品については下の「コーナー開設時前書き」を参照してほしい。さらに詳しく知りたい場合は文春新書「翻訳夜話2 サリンジャー戦記(村上春樹・柴田元幸:著)」をお勧めする。 サリンジャーが生前に刊行を許したのは以下に示す通りわずか4冊に過ぎない。代表作とされる長編「ライ麦畑でつかまえて」の他、短編集である「ナイン・ストーリーズ」、そして中編を合わせた「フラニーとゾーイー」「大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章-」。これらは比較的容易に手に入れることができる。 実際にはこれら以外にも第二次世界大戦以前から雑誌に発表された短編、中編が相当数ある。これらは本国では出版が許されていないのだが、我が国ではどういう版権のマジックか、こうした短編もまた短編集として
J.G.バラード 小説総覧 僕はイギリス文学の熱心な読者ではないので、バラードがいったいイギリスでどんな位置づけの作家なのかよく知らないし、また興味もない。僕にとって重要なのはJ.G.バラードという作家その人、彼の書く作品そのものなのだ。ニューウェーブSFの旗手だとかそんなこともどうでもいい。彼の小説が僕の中の何かと確実に呼応する、その瞬間のためにこそ僕はバラードの作品を読む。 とはいえバラードの作品は概して読みにくい。登場人物はおしなべて性格が破綻しており、そこで描かれる風景は終末的で陰鬱だ。僕たちが見慣れた世界の運動原理はそこでは何の説明もないまま放棄され、すべては救いのないカオスの中へと回帰して行く。読んでいてうきうきするような楽しい作品はひとつとしてない。むしろそれは僕たちを憂鬱にし、不安にし、混乱させる。だからバラードの小説を手に取るためにはある種の覚悟が必要であり、彼がたたきつ
ディックの処女長編。ストーリー自体は他愛のないもので、読み捨てにされるペーパーバックらしいいかにもSF的な道具立て、筋立てのオプティミスティックな作品に仕上がっている。後年の、物語が果てしなく破綻して行き読者が自分の立っている場所を見失うのが当たり前のディックの世界を先に経験してしまうと、むしろ本作を初めとする初期長編の分かりやすさ、行儀のよさに戸惑ってしまうのではないかと思うくらいだ。 テレパスの親衛隊に守られた世界政府の執政者、冥王星の外側に位置する太陽系の第十惑星「炎の月」への宇宙旅行、月面基地での暗殺者と親衛隊との一騎打ちなど、今となってはあまりにベタ過ぎる設定の典型的なSF活劇には、この作品が書かれた50年代という時代背景を感じない訳には行かないが、翻ればそれは、こうした通俗的なフォーマットの中できちんと物語を構築することのできるディックの確かな基礎筆力の証でもある。 しかし、絶
悪夢機械 1987年に新潮文庫から刊行された短編集で、1953年から1956年までに発表された作品8編と、1979年、1980年に発表された晩年の作品2編の合計10編を収録している。これは同年にアメリカで刊行された全5巻からなるディックの短編全集「The Collected Stories of Philip K. Dick」を元に、当時本邦未訳であった作品を選んで訳出したもの。編・訳はいずれも浅倉久志である。後に映画化され「マイノリティ・リポート」としてハヤカワ文庫の同名の短編集に再録された「少数報告」を除けば他の短編集とは重複もなく貴重な作品集である。 ■Planet For Transients 訪問者 1953 浅倉久志・訳 全面的な核戦争によって強烈な放射線を浴びた地球。突然変異で地球の生物相はすっかり変わり果て、人間もまた環境の変化に適応してさまざまに進化した種族に分化しつつあ
村上春樹 作品レビュー 村上春樹の小説を読むとそれについて語りたくなる。そこには自分がふだん感じていながらうまく言葉にできなかったことがそのまま書かれているからだ。これは僕の小説だ、これは僕のことなのだ、そう大声でふれてまわりたくなる。 だけどいざ実際に語ろうとするとそれはやはりうまく言葉にできない。考えてみればそれは当たり前の話かもしれない。村上春樹が何百枚もの原稿用紙を費やして書こうとしたことを、僕たちが簡単にひとことやふたことで語れる訳がないのだ。僕がその小説を読んで感じたことを伝えたければ、その相手にも同じ小説を読んでもらうしかない。村上春樹の小説というのはそういう面を持っている。 だからここにあるのはきちんとした書評ではない。僕が村上春樹の長編小説をあらためて発表順に読み返しながら思いついたことを書きとめたメモに過ぎないと思って欲しい。これから村上春樹を読もうとしている人にとって
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three cheers for our side 海へ行くつもりじゃなかった フリッパーズ・ギター POLYSTAR H30R-10004 (1989) ■ ハロー/いとこの来る日曜日 ■ ボーイズ、トリコに火を放つ ■ すてきなジョイライド ■ コーヒーミルク・クレイジー ■ 僕のレッド・シューズ物語 ■ 奇妙なロリポップ ■ ピクニックには早すぎる ■ サンバ・パレードの華麗な噂が ■ 恋してるだとか好きだとか ■ さようならパステルズ・バッヂ ■ やがて鐘が鳴る ■ レッド・フラッグ オレンジ・ジュースの曲名から取られた英文タイトルの「Three Cheers For Our Side」は「僕らのもったいぶりに万歳」。アノラックからパステルズ・バッヂをはずせ、だの、ヘアドレッサーは男の子じゃなくちゃいけない、だの、高い山ではまだ激しく雨が降っている、だの、下手くそな英語で次から次へ
国境の南、太陽の西 「ダンス・ダンス・ダンス」によって初期作品の系譜に一応の区切りをつけた村上春樹が新たな小説世界に踏み出した作品。「羊」から「ダンス」までの4作がいずれも上下2巻の大作であったのに比べれば短く感じられるが、この作品も500枚を超す長編である。 「ノルウェイの森」のことを「恋愛小説」だと思った人たちにとってはこの作品は間違いなく「不倫小説」だろう。ジャズ・バーを経営する「僕」の前にかつて幼い思いを寄せた女性が現れて、という筋立てはそれ自体として読めば紛れもなく、中年の男が結婚生活と愛人との間で苦しむ道ならぬ恋の物語だからだ。だが、「森」が「恋愛小説」でなかったように、これもまた「不倫小説」ではない。あるいは「ただの不倫小説」ではないというべきか。 「僕」にとって運命的な女性である「島本さん」についての描写は物語の最初の20ページほど、「僕」が中学に入ったところで終わってしま
1973年のピンボール 「風の歌を聴け」に続く第2作。舞台は「風…」から3年後の1973年、「僕」は大学を卒業し友人と小さな翻訳事務所を営んでいる。前作から続いて出てくるのは「僕」の他に「鼠」、そしてジェイと彼のバー。その他の主な登場人物は、双子、翻訳事務所の庶務を取り仕切る女の子、「鼠」と束の間つきあう「女」、直子、そして、「スペースシップ」という名の3フリッパーのピンボールマシン。 前作が「僕」の夏休みの一コマを淡々と切り取って見せたのに比べて、本作では「物語」への傾斜が強まっている。双子と暮らす「僕」の心をある日ピンボールマシンが捉える。「僕」がかつて(「風の歌を聴け」に描かれた70年の冬のことだ)虜になったスペースシップを探して再会を果たすことがこの作品の骨格になっている。 だが、作品にピンボールが登場するのは紙数も半分を過ぎてからだ。そこに至るまでは、僕とある日転がりこんできた双
「子」のつく名前の女の子は頭がいい / 金原克範 1995年に発表された本だが、その重要性はいささかも失われていない。というよりむしろそこでなされた警告はより先鋭に僕たちの生活に関わり始めているようにすら思われる。 タイトルは挑戦的だがこれはもちろん姓名判断の本ではない。自分の子供(ここでは女の子)に「子」のつく名前をつければ自動的に頭が良くなるという訳ではないし、「子」のつかない名前を持つからといってその子供がすべて頭が悪い訳でももちろんない。大ざっぱに要約すれば、ここで言われているのは次のようなことだ。 子供が有用な情報を的確に選択・受容し、その情報を現実に活用できるかどうかは、家庭環境、中でもその家庭のメディアとのつきあい方に大きく左右される。メディアに過度に依存している家庭では、子供は、楽しく、面白い、「口当たりのいい」情報しか受容できなくなりがちであり、学校の授業や親の忠告といっ
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