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関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第52号、2012年1月 マニラ戦とベイビューホテル事件 林 博史 日本軍による集団強かん事件について、調べたものです。地図は省略しました。 2012.4.15記 はじめに マニラ戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた日米両軍による市街戦である。この戦闘によって、マニラ市街は徹底的に破壊され、マニラ市民約10万人が犠牲になった。日米両軍の戦闘行為、特に米軍の砲爆撃による被害が大きかったことも指摘されているが、フィリピンにおいてこのマニラ戦をとりわけ有名にしているのが、その中でおこなわれた日本軍の数多くの残虐行為である。キリスト教の聖職者を含めアメリカ、イギリス、フランス、スペイン、スイス、ロシア、ドイツ、イタリアなどの市民、そしてフィリピン市民が組織的意図的に虐殺される事件がマニラ市内の各所で頻発した。男たちだけでなく女
日本軍「慰安婦」問題に関する本の紹介 『図書新聞』2969号、2010年6月12日 文献紹介 日本の「韓国併合」100年を考える 第三回 日本軍「慰安婦」問題に不可欠な事実の実証と構造的な認識 林 博史 日本軍「慰安婦」関係で推薦する本の紹介です。この連載の第一回で、西野瑠美子さんがすでに推薦した本ははずしています。 2010.6.17記 日本軍「慰安婦」制度の全体像を描いた最初の成果の一つが、吉見義明・林博史編著『共同研究 日本軍慰安婦』(大月書店・本体2524円、1995年刊)だった。被害者の証言に加えて、93年に設立された日本の戦争責任資料センターによって日本軍公文書や元将兵らの戦記・回想録の調査がおこなわれ、それらの諸資料をふまえて、9人の共同作業で生まれたのが同書である。このなかで「慰安婦」制度の仕組みが明らかにされるとともに、本国日本、植民地の朝鮮・台湾、中国や東南アジアなどの
林博史『シンガポール華僑粛清』高文研、2007年、より はじめに 同書の「はじめに」を紹介します。 2009.5.2記 チャンギ国際空港 東京二三区と同じくらいしかない小さな島に四四〇万人あまりが住んでいる国シンガポールは、日本人にとって魅力ある観光地である。毎年六〇万人の観光客が訪れ、さらに仕事などで在留している日本人も約二万六〇〇〇人にのぼり、日本人学校(小学校)も二つある。 日本からの飛行機はシンガポールの東端にあるチャンギ国際空港に着く。東京からは夕方に出て深夜に到着する便が多いので、着陸前には付近の島々や海岸沿いの夜景がきれいだ。東南アジアの空港に着くと、独特の香りがするものだが,チャンギ空港は近代的すぎるのか、あまりそういう香りがしない。しかし入国審査の列に並ぶと、英語や中国語、マレー語、タミール語、日本語などさまざまな言葉で歓迎の言葉が書かれた垂幕が並んでおり、シンガポールら
林博史『戦後平和主義を問い直す―戦犯裁判、憲法九条、 東アジア関係をめぐって』かもがわ出版、2008年 「はじめに」より 2008年8月にこの本を刊行しました。そのなかの「はじめに」の一部をここに紹介します。ちょうど映画「私は貝になりたい」の公開が始めるときであり、それに関する個所を掲載します。これほどでたらめな映画が、あたかも良心的な映画であるかのように何十年にもわたってくりかえし制作、放映されているところに、日本の戦後平和主義の欠陥が象徴的に示されているように思います。できれば、この本全体を読んでいただければ幸いです。 2008.11.15記 はじめに 一九四五年の敗戦を契機として、その後、今日にいたるまで日本は自らが戦争を仕掛けることをしてこなかったですし、直接の戦闘に参加することもしてきませんでした。残念ながら後者については事実上、戦争に参加していると言えるのですが、直接、武
吉見義明・林博史編著『共同研究・日本軍慰安婦』 大月書店、1995年8月刊行、2600円 この本は日本の戦争責任資料センターの約2年間の調査研究の成果です。執筆者は9人ですが、たくさんのボランティアの方々の協力の成果でもあります。ここでは、この本の目次と「はじめに」を紹介します。 本書の目次 第一章 日本軍慰安婦とはなにか 一 軍慰安婦制度の概要 二 このような制度がなぜ必要とされたのか 第二章 軍慰安婦制度の指揮命令系統 一 陸軍 二 海軍・内務省・総督府 第三章 日本・台湾・朝鮮からの軍慰安婦の徴集 一 日本国内からの徴集 二 台湾からの徴集 三 朝鮮からの徴集 第四章 中国占領地における徴集と慰安所の展開 一 前史 二 日中戦争初動期における軍慰安所の開設と慰安婦の募集 三 日中戦争長期化のもとでの軍慰安婦の徴集と慰安所の展開 四 関特演と関東軍 五
2007年11月27日10:00掲載 沖縄戦の「集団自決」への教科書検定について 文部科学省 教科用図書検定調査審議会に提出した意見書を公表するにあたって 林 博史 この意見書は、2007年11月22日付で郵送しました。3連休が入りますので、文科省に届くのは26日になると思います。それにあわせて、このホームページでも公表します。 文科省からは、正誤訂正の手続きが終了するまでは、意見提出を依頼されたことも含めて公表を控えてほしいと依頼されていますが、そうした秘密裏に検定作業をおこなうことこそが、今回のような歪曲された検定がなされた大きな原因であると考えますので、そうした依頼は拒否し、広く市民に公開することにしました。記者会見をおこなう予定はありませんので、この場で公表したいと思います。 今回、文科省が意見を依頼した人選そのものが不明朗であり、ほとんどの(あるいはすべての)沖縄にいる沖縄戦の
修正された点を見ると、実教出版がかなり抵抗していることがわかるが、いずれにせよすべて、「集団自決」を強いた、あるいは追いやったものとしての“日本軍”が削除されていることがわかる。その結果、なぜ、なにによって追い込まれたのかがわからない表現になっている。読み方によっては、米軍が迫ってきたので追いつめられた、だから住民が自ら自決したのだという解釈もなりたちうるだろう。日本軍の加害性を削除させ、日本軍への否定的なイメージをなくすこと、そのための突破口として「集団自決」がねらわれた印象を受ける。「集団自決『軍の強制』削除」(東京新聞.2007.3.31)、「『集団自決』軍関与を否定」(沖縄タイムス.2007.3.31)という新聞の見出しは、検定の特徴を端的に表わしている。 こうした検定意見をつけたことについて、文科省は、「軍の強制は現代史の通説になっているが、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する
『沖縄タイムス』2007年10月6日7日 教科書検定への異議 文科省の意見撤回を 林 博史 これは『沖縄タイムス』の2面に連載された私の意見です。すでにNHKで何度か話しをし、さらに9月29日の県民大会後、いくつかのテレビで若干のコメントをしたのですが、放送されたのは話したことのほんの一部です。日本政府の不誠実でごまかしの対応に腹立たしい思いで、沖縄の中でも安易に妥協しようとする動きが出ているようですので、検定意見撤回しかないと強調したかったこと、また後にはっきりと残る形で示しておきたかったこともあり、『沖縄タイムス』に載せてもらいました。2007.10.10記 日本軍の強制を削除させた教科書検定に対する沖縄県民の怒りの前に政府はようやく対応せざるをえなくなってきた。そのなかで浮上してきたのが、検定そのものは認めたうえで、教科書会社から記述の訂正があった場合には「真摯に対応す
論 文 の ペ ー ジ このページには、私の書いたもののなかからいくつかを選んで、その全文を収録しています。大学の紀要やミニコミ誌、あるいは現在では入手しにくいものなどを中心にして、今でもまだ読んでもらう意味があると考えるものを選んでいます。原則として単行本に収録されたものは入っていませんので、書店を通じて購入していただくか、図書館で借りて読んで下さい。 ここに掲載したのは保存してあったファイルから転換したものです。ただ実際には校正の段階で修正した箇所があったはずなのですが、それをチェックしていません。最近のものは校正で修正したものを保存ファイルにも反映させるようにしているのですが。ですからもし印刷されたものと食い違っている場合には印刷物を定本として扱ってください。ご了承ください。
戦争史料の見方、扱い方 「図書館雑誌」1999年8月 林 博史 「図書館雑誌」への第3弾です。前の2回は、日本の戦争責任資料センターについての紹介と協力のお願いという性格が強かったのですが、今回は戦争にかかわる史料論です。 2001.3.31記 1 戦争史料にはどのようなものがあるか 現代の総力戦のもとでは、戦時下におけるあらゆる史料が戦争史料と言ってもよいだろうし、さらに戦争の準備から戦後処理にいたる史料も含まれるだろう。歴史学では人間の存在や活動の痕跡を示すあらゆるものが史料であると考えているが、近代日本の戦争史料という場合には、大きく分けて文献史料、オーラル史料、遺跡などの物的史料に分けられるだろう。 �@文献史料 文献史料としては、陸海軍その他政府機関の公文書、兵士や市民の戦記、回想録、日記などがあげられる。日本の旧陸海軍の文書は、敗戦のときに閣議決定により焼却命令が出され、多くが
「女性・戦争・人権」学会 学会誌 『女性・戦争・人権』 第7号、2005年3月 アメリカ軍の性対策の歴史―1950年代まで 林 博史 アメリカ軍の性対策について調べ始めたのが2002年からですが、これは私が最初に書いた論文です。ずいぶん労力と時間を費やした仕事で、アメリカ史を一から勉強しなおしましたが、まだまだ理解が浅いことを痛感しています。その後、関連するものをいくつか書いていますが、これは私にとって重要なものであることは間違いないでしょう。 2006.7.28記 はじめに 一 米軍の海外駐留の開始と性病対策の確立 二 売春禁圧策の実施―第一次世界大戦 三 第二次世界大戦前の政策の修正 四 第二次世界大戦下の米軍 五 占領下日本での米兵向け売春宿 六 兵士処罰の廃止と人格指導計画の導入 七 朝鮮戦争の勃発と基地売買春の拡大 おわりに はじめ
マレー半島における日本軍慰安所について 関東学院大学経済学部一般教育論集『自然・人間・社会』第15号、1993年7月 林 博史 雑誌『世界』に書いたものはコンパクト版ですが、その後、わかっている限り詳細に資料を紹介しながら書いたものがこれです。なおクアラピラの慰安所については『世界』をご参照ください。 1999.4.1 はじめに T 慰安所に関する日本軍史料 U 元日本兵の証言にみる慰安所 V ネグリセンビラン州の慰安所 W マレー半島各地の慰安所 X シンガポールの慰安所と料亭 おわりに はじめに 1992年1月防衛庁防衛研究所図書館が所蔵する旧日本軍の史料の中に慰安所関係の史料があることが吉見義明氏によって確認され、その内容が『朝日新聞』で報道された。その結果、日本政府は戦後47年にしてようやく国が慰安所に「関与」していたことを認めた。そして政府は防衛庁・外務省など関連
1999.4.1開設 最終更新2008.9.27 日本の現代史と戦争責任についてのホームページ Welcome to Hayashi Hirofumi's Homepage on Modern History and Japan's War Responsibility 林 博 史 研 究 室 へ よ う こ そ [English] このホームページをご覧になるみなさんへ 日本とアジアの現代史、特に日本がアジア各地に対しておこなった侵略戦争やそのなかでおこなわれた戦争犯罪、そしてそれにともなう戦争責任、などなど、そんなことに関心のある方へのメッセージがこのホームページです。 この夏は、アメリカ、カナダ、沖縄、韓国と行ってきました。こんな資料があったのかと驚くような、すさまじい資料とも出会いました。ある資料を目の前にして、身体が硬直して息ができなくなるような経験もしました。たくさ
沖縄戦記録・研究の現状と課題 ―“軍隊と民衆”の視点から― 関東学院大学経済学部一般教育論集『自然・人間・社会』第8号、1987年4月 林 博史 これは沖縄戦について書いた最初の論文です。これまで沖縄戦についてどのように語られてきたのか、その成果はなにか、問題点や残されている課題はなにか、などについて整理してみたものです。10年以上前の時点のものですので、その後も調査や研究はさらに進展していますが、基本的な認識は今でも妥当だろうと思っています。沖縄戦について少し深く勉強してみようとする方に参考になるものがあるのではないかと思います。 1999.7.22 はじめに �T 沖縄戦記録の二つの流れ �U 沖縄戦研究の現状 1.犠牲者数などの実証的な確定作業 2.忘れられた犠牲者たちの実相 3.沖縄内の戦争責任 �V 沖縄戦研究の視点と課題 1.日本軍の敗北過程の中
秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判 『週刊 金曜日』290号、1999年11月5日 林 博史 この著者は時々、まともな仕事もするのですが、しばしば人が変わったように、ずさんな仕事、あるいは人を誹謗中傷するような、因縁をつけるようなこともやります。この本は、ずさんな仕事の代表的なケースでしょう。この小文でも紹介したような、写真や図表の無断盗用、資料の書換え・誤読・引用ミス、資料の混同、意味を捻じ曲げる恣意的な引用・抜粋などの例をリストアップしてみたのですが、膨大な量になりあきれてしまいました。どこかで公表しようかとも考えたこともありましたが、バカらしくなってやめました。それにしても人に対してはさんざん因縁をつけながら、自分の間違いを指摘されても無視して開き直るのには、驚くばかりです。なお前田朗さんがこの本の「図版盗用」「写真盗用」「伝聞・憶測・捏造」などの問題点を詳細に批判されています
「大東亜共栄圏」の実態--日本軍占領下のアジア 沖縄県史料編集室編『沖縄戦研究�U』沖縄県教育委員会発行 、1999年2月 林 博史 これは新沖縄県史の一環として、沖縄戦の前史にあたる時期について刊行された2冊の本のうちの1冊に書いたものです。論文というよりも一般向けにわかりやすく解説したものです。本では写真や図表などをたくさん使いましたが、ここでは文字の部分だけ掲載します。 (1)から(16)の16項目と参考文献からなっています。 2002.5.19記 (1)「大東亜共栄圏」 開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、これにより南方進攻作戦は一段落した。日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、ニューギニア北部からソロモン諸島、東はギルバート諸島、北はアリューシャン列島のアッツ、
(注)9歳以下の女の子で年齢不明の1人は 6〜10歳に含めた。11〜15歳のうち11〜12歳6人、13〜15歳6人となっている。男女の区分は名前でおこなったが、判断しにくい人もあり、男女の数は一応の目安にしていただきたい。成年男子の最低年齢は47歳であり、16〜46歳がいない。 なおその後の調査により0歳児がもう一人いたことが判明したので、合計は82人ではなく83人である。 (出典)下嶋哲朗『南風の吹く日』 b 渡嘉敷島6 渡嘉敷島には海上挺進第三戦隊とそれへの配属部隊として勤務隊、整備中隊、特設水上勤務中隊の一部などがいた。駐留していた日本兵から島民に対し米兵の残虐さがくりかえし宣伝され、いざとなれば死ぬしかないと思わされていた。この点は日本軍がいたところではすべて共通している。 三月二〇日村の兵事主任を通して非常呼集がかけられて役場の職員と一七歳以下の青年あわせて二〇数人が集
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