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第328回 邪馬台国の会 吉備津彦の命の墓、大彦の命の墓、丹波の道主(たにはのちぬし)の命の墓、武渟川別(たけぬなかわけ)の命の墓 四道将軍の派遣と四道将軍の墓 前方後円墳は時代が新しくなると、前方部が発達してくる。また造出しがつくられるようになる。 そこで、横軸に、前方部幅/後円部径×100をとり、縱軸に、前方部幅/墳丘全長×100をとって、グラフにすると、下図のようになり、左下が古く、右上が新しい古墳と言える。これは川西宏幸氏による円筒埴輪の形式(Ⅰ~Ⅴ)からも表せ、古い形式Ⅰは左下、新しい形式Ⅴは右上になる。造出しがあるものが新しい古墳になる。 その中で、崇神天皇の古墳は左下より少し右にある。その付近に中山茶臼山古墳(吉備津彦の命の墓)、川柳将軍塚古墳(大彦の命の墓)、神明山古墳(丹波の道主の命の墓)などがある。 (下図はクリックすると大きくなります) 記紀は、崇神天皇が四道将軍を各
『東外流外三郡誌』の発見者・和田喜八郎氏のいとこにあたる、和田キヨエさんは、現在、和田喜八郎氏の住宅の所有者となっている。 『東外流外三郡誌』が発見されたという、旧和田喜八郎氏宅についての問い合わせや見学者に、和田キヨエさんはつぎのような文書を配布している。 和田キヨエさんの配布文書 私は和田元市(和田喜八郎の父)の弟の子で、喜八郎とはいとこです。 私は喜八郎宅後ろの同敷地内で生まれ、父が亡くなって母が再婚したことから14歳の時に母に連れられ一旦家を出ました。 しかし、数ヶ月で私はおばあちゃん(和田長作の妻)に連れ戻され、母は再婚先で暮しているため、一人になった私は喜八郎宅の家族と一緒に暮らし始めました。 私が喜八郎宅に住まいした期間は結婚するまでの、5年間で昭和19年の14歳から、昭和24年の19歳迄です。 結婚後は再び喜八郎宅裏の生家で暮らして現在に至っており、幼い頃から喜八郎宅へはし
「魏志倭人伝」の原文は、句読点もなく、章や節などもわけられていない。 つぎにかかげる現代語訳では、全体の構文をつかみやすくするため、三章五十節にわけ、見だしもつけた。 このように章や節にわけてみると「魏志倭人伝」はつぎの三つの章にわけられるような、かなり整然とした構成をしていることがわかる。 第一章 倭の国々 第二章 倭の風俗 第三章 政治と外交 「三国志」の編集の陳寿は、諸種の資料を、そのまま書きうつしたのではなく、一度整理したうえで記したしたとみられる。
最近、聖徳太子の実在を廻っていくつかの本が出版され話題になっている。 たとえば、中部大学人文学部教授大山誠一氏の『聖徳太子の誕生』では、「聖徳太子は実在しなかった!」とのべる。 これに対して、東北大学大学院教授田中英道氏の『聖徳太子虚構説を排す』では、そんなことはない、聖徳太子は実在したと反論している。 今回は、このような議論について、その内容や根拠について解説する。 ■ 聖徳太子 聖徳太子は574~622年の飛鳥時代の人であり、用明天皇の皇子で、母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女である。 推古天皇の時代に皇太子、摂政となり、十二階冠位の制定、憲法十七条の発布、遣隋使の派遣などを行った。 また、慧慈(えじ)にまなび、『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』をあらわした。 豊聡耳命(とよとみみのみこと)、上宮王(じょうぐうおう)ともいう。 推古天皇30年2月22日死去。 墓所は磯長墓(しながの
伊達宗泰編『古代「おおやまと」を探る』(学生社、2000年刊)にのせられている地図をベースに、 安本先生が、JR線や弥生時代の遺跡を書き加えた。伊達宗泰氏は中央部のアミ掛けの部分を「氾濫平野」と呼んでおられる。古代においては、この地域は盆地湖か湿地帯であって、人が住むのに適さなかったのであろう。
新刊記念特別講演会 ①『日本の建国』 ②饒速日(にぎはやひ)の命の東遷と邪馬台国の東遷 新型コロナウイルス対応として3月~10月は休講となります。 11月から会場変更:文化シヤッター(株)BXビル多目的ホール からきゅりあん(品川区立総合区民会館)に変わります。 日程が変則的になりますのでご注意ください。 テーマは都合により変更になることがあります。
「万葉集」を、朝鮮語で説明するという流行の本のほとんどは、正しい言語比較の方法をとっていない。 「朝鮮語は、日本語と関係があるはずだ」という未証明の前提のもとに謎を解こうとしている。 かくて「暗合」が「暗号」に転化する。 「歴史はくりかえす。」という。同じようなことは、時をおいてくりかえされるものだ。 最近、『人麻呂の暗号』『もう一つの万葉集』『日本語の悲劇』など、古代の日本語が、朝鮮語で解読できるという趣旨の本が、つぎつぎと刊行されている。これらのなかには、数十万部というベストセラーになっている本もあ るようだ。 このような事件は、これまでにもあった。 とくに有名なものに、『万葉集の謎』事件があ る。 これは、いまでも、言語学者たちのあいだで、語り草になっている。 もう30年以上まえの、昭和30年(1955)のことである。 それまで連続5年間ベストセラーを続けた 全6巻の大著『人間の歴史
1.旧石器捏造事件の現状 事件発覚からまだ3年しかたっていないのに、藤村新一ただ一人に罪をかぶせたまま忘れられようとしている。 藤村が関与した遺跡のみを2年半かけて再調査したが、なにも出てこなかった。捏造された遺跡からなにも出ないのは当然である。 25年間発掘を行ってきた東北旧石器研究所が解散した。資料や証拠品が散逸し隠される可能性がある。 2.藤村ひとりを断罪することへの疑問 藤村は発掘現場の一作業員。論文も読めないし石器の図面も書けない。25年間藤村一人で捏造が続けられるわけがない。 25年間に160以上の発掘現場で、専門家である現場監督の誰ひとり藤村の捏造を見抜けないなんてことはあり得ない。 藤村の手記は、黒塗りされてしまったが、共犯者がいたことをにおわせる記述がある 京都女子大学の野田正彰教授(精神病理学)は、悪の主役は藤村以外にあると次のように述べる。 彼(藤村)の話には真実もあ
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