「集団的自衛権」の見直し、首相の靖国参拝など、周辺諸国から「軍国主義化」の懸念も表明され始めた、このところの日本。では、「あの戦争」を、70年前の日本人はどのように戦ったのだろうか? 『日本人と日本兵』(講談社現代新書)著者の一ノ瀬俊也氏に、敵であるアメリカ軍の目に映った日本兵の赤裸々な姿について話を聞いた。 実は弱かった「日本軍」? ――単刀直入に言って、米軍の日本軍に対する評価はどうだったのでしょう? 高かったのか、低かったのか? 一ノ瀬 同時代の他国陸軍との比較ということであれば、決して高くありません、というより低いです。当時のヨーロッパにおける陸戦はまず航空部隊が敵の正面から後方まで爆撃し、続いて戦車部隊が前面に出て敵陣を突破、これを後続の歩兵部隊が占領するという機甲戦になっていますが、これに関する日本軍の装備・戦術は最後まで日中戦争レベルに過ぎない、という低い評価です。各戦場で相
□元駐タイ日本大使・岡崎久彦 首相の靖国参拝の報を聞いて、心の中の霧が晴れたように思う。もうこれで良いのだと思う。 国民の大多数も同じ感情だったと思う。直後の世論調査では69%が参拝を支持し、安倍晋三内閣の支持率も上昇したという。 ≪米国の「失望」表明は失策≫ 英語で、enough is enough(もうたくさんだ)という。靖国問題はもうおしまいにしてほしい、というのが日本人の一致した心情だといえよう。 今後は定期的に参拝していただきたい。本来、安倍首相は政治的打算ではなく、日本人の良心として参拝を希望しておられた。人知れず参拝できればそれでも良いというぐらいのお考えだったと推察する。だから今回でご本人は一応ご満足かもしれないが、これを機会に年中行事にしてほしい。 初め一、二回は波乱もあろう。米国も一言言ってしまって引っ込みがつかないでいる。今回の「失望感」の表明は、日米関係だけでなく、
年の初めに「靖国問題」について改めて考える 謹んで新春のお慶びを申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いします。 さて、昨年末、安倍総理が就任1周年の節目に合わせ、かねてからの公約を果たす形で、靖国神社を参拝しました。それに対し、近隣の中国や韓国やロシアはもとより、同盟国である米国や欧州諸国からも厳しい批判の声が上がりました。本来、慰霊と静かな祈りの場所でなければならない靖国神社がかくも物々しい外交問題、政治問題化の喧騒の中に投げ入れられてしまうことは、まったくもって残念なことです。来年迎える「戦後70年」を見据え、私が考える靖国問題の解決策につき改めて述べたいと思います。 戦没者追悼という国内問題のもつ国際的な影響 安倍総理は、はたして諸外国からの反発を認識しながらも敢えてこの時期に参拝したのでしょうか。まず、前回の首相在任中に参拝できなかったことを「痛恨の極み」と公言していたにもかかわ
2014年1月1日 21時0分 by ライブドアニュース編集部 ざっくり言うと 元特攻隊の90歳の男性に、戦時中の話を聞いている 戦時中でも欧米の文化が流入し、刺激的だったと当時を振り返っている 特攻隊として赴任した先で女性にモテたなど、意外な「リア充」ぶりが明かされた 『風立ちぬ』や『永遠の0』など昨年はなにかと話題になったゼロ戦や員たち。その特攻隊の生き残りとして生きてきた男たちが真実でリアルな人生を語る! *** 早稲田大学の1年生だった江名武彦さん(90歳)は、昭和18(1943)年の12月に学徒出陣。その後、彼は海軍に入隊して特攻隊員になった。ゼロ戦、そしてカミカゼ。現在では神格化されたキーワードだけど、その身近にいた若者たちはちょっとで、ユーモアもあり、今の若者と変わらない男たちだった。 ―昭和16(1941)年の12月8日。開戦の日は何をしていましたか? 江名 高等学校のとき
2024年5月20日(現地時間)、国際刑事裁判所(ICC)のカリム・カーン主任検察官は、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相や、ハマスのガザ地区指導者であるヤヒヤ・シンワル氏など計5名に対し、戦争犯···
70年間、心の支えにしてきたものがある。たんすの引き出しいっぱい、約150通に及ぶ手紙。26歳で戦死した夫が残したラブレターだ。 寂しいとき、悩んだとき…。宮崎市の貴島テル子さん(97)は折に触れて手紙を広げる。「気持ちが落ち着いて、元気になるんです。手紙の中の彼は生きているから」。海軍航空隊のパイロットだった夫の政明さんは、1942年9月5日、ソロモン諸島で戦死した。結婚から1年8カ月、一緒に過ごせたのはたったの75日間だった。 親友の兄だった政明さんと知り合ったのは、23歳のとき。父の赴任先の中国から宮崎に帰省中だった。海を隔てた手紙のやりとりが始まり、互いにひかれていった。 《貴女(あなた)を得ればほかのものを全て失っても悔いないくらいです》《毎日毎日貴女のことでいっぱいで苦しい》《この幸福が何時(いつ)までも何時までも続く様 確信すると同時に二人でそれを築き上げませう》 手紙は3日
久々の古里へ 広島駅など帰省ラッシュ【動画】 (12/29) 年末年始を古里で過ごす人たちの帰省が29日、本格化した。新型コロナウイルスの感染状況が昨年の同時期...
安倍政権下では靖国参拝や従軍慰安婦などの「歴史的」な問題が、単に中国と韓国との間だけでなく、米国との間でも微妙な波紋を広げるようになった。 特に日本の政治指導者たちによる靖国神社参拝は、2006年頃の小泉純一郎首相時代とは異なり、米国でも批判的な反応を生むようになった。米国のマスコミや学者たちの間で、日本の閣僚の靖国参拝を「戦争の美化」や「軍国主義の復活」という言葉と結びつける反応が増えてきたのだ。 その種の批判はオバマ政権の内部にさえあるという。ちなみに前ブッシュ政権は日本の首相らの靖国参拝を否定的に捉えるという傾向をまったく見せなかった。 「外国の政府からあれこれ指示されるべき慣行ではない」 さて、そんな背景の中で、6月上旬に訪日した日本近代史研究の専門学者ケビン・ドーク氏が安倍晋三首相とも会い、改めて日本の政治指導者による靖国神社参拝を奨励した。 靖国参拝は日本を守るために戦って、命
歴史認識が再び大きな外交問題として浮上してきた。 海外で「ナショナリスト」として知られる安倍晋三首相について、政権発足前からその保守的な言動に懸念が広がっていた。政権奪回後、保守的な「安倍カラー」を抑え経済回復に力を注いだが、いつ「本性」を現すかわからないと警戒する声は消えなかった。そして、安倍首相が国会で「侵略の定義は国際的に定まっていない」と発言し、閣僚の靖国神社参拝を擁護するに至って、ついに「本性」を現したと受け止められてしまった。安倍政権は、海外、特にアメリカで高まる懸念の声を反映してか、「村山談話」の継承を表明するなど、慎重に軌道修正を図った。 一方、橋下徹・日本維新の会共同代表の軍と性に関する発言が、より大きな波紋を世界中に広げている。発言の主旨は、当時はどの国の軍にも慰安所はあったのに、日本だけが責められるのはおかしいということだ。しかし、この発言は、慰安婦の必要性を肯定する
童貞には辛い真実の愛の物語 Tweet カテゴリ☆☆☆ 0 :ハムスター2ちゃんねる 2012年9月16日 15:00 ID:hamusoku 1 2 3 1 :ハムスター名無し2012年09月16日 15:02 ID:jt6YzhVG0 おいやめろ;; 2 :ハムスターちゃんねる2012年09月16日 15:02 ID:EktlXn0G0 ………。 4 :ハムスター名無し2012年09月16日 15:03 ID:.2erQ5.E0 うわああああああああ 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45
戦争体験聞き取り冊子に 2012年1月26日 01:17 カテゴリー:九州 > 福岡 戦争体験者の聞き取りをまとめた冊子の作製を進めている調査員 高齢化する戦争体験者の声を後世に残そうと、小郡市埋蔵文化財調査センターが戦争体験の聞き取りを進めている。約50人の証言者の言葉をそのまま紹介する冊子を作製中で、4月には市内の小中学校や図書館などに配布する予定。同センターの有田雄一企画主査は「戦争体験者の生の声を聞ける時間は残り少ない。史実に載らない個人の悲劇を知ることで、戦争の悲惨さを身近に受け止め、考えるきっかけにしてほしい」と願っている。 聞き取りは、有田さんを含む同センターの4人の調査員で実施。当初は地区に残る言い伝えや遊び、まじないなどをまとめる目的で高齢者を取材していたが、戦争体験を熱く語る高齢者に出会った有田さんが「体験談を語る機会がないまま年を取り、悲惨さを伝え残したい高齢者が
心打つと大反響…亡くなった米兵が娘に残した手紙 戦争は多くの死者を出し、残された人は悲しむことになります。 アフガニスタンで亡くなった米兵が、自分の娘へ手紙を残していたそうです。 心に響くと多くの人の心をとらえて離さない、その手紙の内容をご紹介します。 僕のスイートなカイリーへ 僕のことをもう覚えて無いかもしれないけれど、パパが君のことをとても大好きだったと言うことは知っておいて欲しい。君が9ヶ月のときにパパはアフガニスタンにやって来た。君を残していくのが一番つらかった。君はパパにとって特別で、神様からの真のギフトだと思っている。人生で一番すばらしかった日は君が生まれた日だ。君が笑っているのを見るたびに僕の心は溶けたよ。パパの人生は君が生まれるまで完全なものじゃなかったんだ。 君が育っていくところを見てあげらないことを謝るよ。でも覚えておいて欲しいんだ。パパは消えたわけじゃなくて天国から毎
今から65年前の1945年8月15日正午――。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世のために太平を開かんと欲す・・・」 ラジオから流れてきた天皇陛下の玉音放送を、松本太助・海軍中尉は青森県・大湊の陸上輸送部隊で聴いていた。途切れ途切れでよく聞き取れず、「陛下が『堪え難きを堪え』とおっしゃるのだから、もっと頑張れということなのか・・・」と首をかしげた。 だが放送後、上官から「今の放送は終戦の詔書である」と教えられ、松本中尉は「本当に戦争が終わったのか? 自分は助かったのか?」と自問自答を繰り返した。既に兄と弟は戦死していた・・・ 軍国主義を叩き込まれ、商船学校から海軍士官に 松本 太助氏(まつもと・たすけ) 1922年8月京都市出身 44年9月神戸高等商船学校卒、海軍少尉 11月空母「海鷹」 45年1月戦艦「長門」 5月駆逐艦「初桜」 6月海軍中尉 復員・石炭輸送業務を経て49年海上保安
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