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ベンヤミンに関するPledgeCrewのブックマーク (6)

  • ベンヤミン『暴力批判論』12神的な暴力 - 恐妻家の献立表blog

    論理に飛躍があったら、それは鼻づまりのせいです。 ついに神話的暴力を「滅ぼすことが課題」であることが明らかになった。もっともこれはベンヤミンにとっての課題であり、私自身は同意を留保する。神話や伝説がどう扱われるべきかは、亡霊の両義性にも似たやっかいな問題を含んでおり、ベンヤミンにはその厄介さに対する視点が欠けているように思われる。 それはさておき、ベンヤミンが神話的暴力に対して持ち出してくるのは神的暴力である。 まさにこの課題こそ、究極において、神話的暴力に停止を命じうる純粋な直接的暴力についての問いを、もういちど提起するものだ。いっさいの領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。(ベンヤミン『暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)』p59) 神話的暴力(法を措定、境界を設定、罪をつくり贖わせる、脅迫的、血の匂いがする、ニ

    ベンヤミン『暴力批判論』12神的な暴力 - 恐妻家の献立表blog
  • ベンヤミン『暴力批判論』3自然法と実定法 - 恐妻家の献立表blog

    最初に余談。 以下の文章も興味深い。 こういう見かたは、のちにダーウィンの生物学をつうじて、たぶんいっそう力づけられることになった。ダーウィンの生物学は、まったくドグマ的なしかたで、自然淘汰のほかには暴力だけが、生命的な自然の目的にふさわしい根源的な手段である、と見なしている。ダーウィン派の通俗哲学を一読すれば分かるが、この博物学のドグマから、もっと乱暴な法哲学のドグマ−−おおよそ自然な目的にかなった暴力は、それだけでもう正当である、とするドグマ−−へは、ほんの小さな一歩にすぎない。(p31) この社会進化論についての言及は、『暴力批判論』の主旨からいえば脚注にすぎないものだが、ちょっと引っかかるものを感じるので書き留めておく。ベンヤミンが後の方で触れることになるソレル『暴力論』がベルクソン哲学の影響を受けていることと考えあわせると興味深さもなおさらになる。ベルクソンは、当時の代表的な社会

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  • ベンヤミン『暴力批判論』14どんでん返し - 恐妻家の献立表blog

    ようやく結論部分にたどりついた。 神的暴力の名のもとにひたすら暴力行使の正当化をしようとしているようにも思えてしまうベンヤミンだが、最後になって意外なことを言い出す。 暴力批判論は、暴力の歴史の哲学である。この歴史の「哲学」だというわけは、暴力の廃絶の理念のみが、そのときどきの暴力的な事実にたいする批判的・弁別的・かつ決定的な態度を可能にするからだ。(ベンヤミン『暴力批判論』p63) これはまったくその通りだと思う。理念の価値は現実的ではないことにある。理念を現実に合わせてしまうとなし崩し的に、すべてがどうでもよくなる。「手近なものしか見ない眼では」この「暴力の廃絶の理念」の意味がわからない。従来の暴力に新たな暴力をもって対抗する程度である。この点については、歴史上、多くの革命政権が、政権奪取後に自らの掲げた理念を裏切ってきたことを想起するだけで十分だろう。 理念は掲げられ続けなければなら

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    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/08/20
    連載の最終部分
  • ベンヤミン「暴力批判論」再考 - 恐妻家の献立表blog

    余暇を利用してベンヤミン「暴力批判論」のとくに後半部分を再読した。 以下長文。 カント観について 『ゲーテの「親和力」について』でベンヤミンはカントの婚姻の定義を次のように評価する。 事柄の実際に即した婚姻の規定という点で、カントの命題は完全なものであり、予感を容れないという意識において崇高である。(『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)』P47) ベンヤミンは、現実にピッタリ当てはまる、という点でカントを評価している。しかし、「婚姻の即物的自然から演繹できるのは、明らかにその非道徳性だけであろう」。 ついでに、中島義道がこんなことも書いているので引いておく。 何が目的としての人間性に適ったことであるのかは、何が適法的行為か、何が非適法的行為かの判定に依存する。そして、その判定は定言命法だけからは少なくとも直接には出てこないのであり、定言命法を時代および社会の通念と

    ベンヤミン「暴力批判論」再考 - 恐妻家の献立表blog
  • 拙著『社会』における誤訳(ベンヤミン)について - Ichinokawaの日記

    標記の件につき、この場を借りて、訂正と説明をさせていただきます。 【1】まず、何をどう訂正すべきかですが、拙著『社会』の84頁9行目以下を、きわめて不十分ながら、以下のように訂正しなければなりません(【 】内が訂正後の文言)。 《……「この運動が時流にのって躍進している理由は、議会主義を時代遅れとして否定するからだ。この運動は、神【秘】的要素をたずさえつつ、新たな活動へと神【秘に包まれながら】突入していく。束稈は、力の束となった。しかし、そこに刺さった『恐れ』と『服従』という二つの斧は、その刃先をそれだけ一層、ギラッと光らせている」[引用情報省略]。 議会主義の否定が新た【に】「神【秘】」を生み、そこからファシズムという暴力が誕生する。その現場を、ベンヤミンは目撃した。「神的」暴力をそこから救出するためには、議会制民主主義そのものを救出する必要があったのだと私は思う。》 上の引用の第2文以

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    来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…

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