おとといのエントリで触れた政治系ブロガーの「水騒動再燃」に関連して、この騒動を(外側から)丹念に観察しておられた玄倉川さんが「水伝」騒動とリベラリズムおよび「所属する」リベラル、「なる」リベラルと云うエントリをお書きになっている。 これらのエントリは、騒動の周辺にいたとあるブロガーの「リベラリズム」認識に関して書かれたものであり、その主題そのものについてはぼくがなにか云うべきようなことではない。ただ、 水葉氏が反知性の人であればそれはそれでいいけれど(本当はよくない)、彼女の運動論的な考え方とは矛盾するように思う。知性によって他者の理と自分の利を適応させてはじめて運動が成功するのであり、「反知性でもいいじゃないか、にんげんだもの」というやり方ではあちこちから矛盾が噴出して空中分解するだろう。と云うような玄倉川さんの理解には深く同意する。 で、なんか似たような構図を、ぼくなんかは日常的に見て