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言語に関するPledgeCrewのブックマーク (20)

  • 鈴木貞美に反論する(その1) - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    今月号の『新潮』に、一月号に掲載された私の書評に対する鈴木貞美の反論が出た。案の定、完全に議論はすれ違っている。 はじめに断わっておくが、私は書評とは解説や概説ではないと考えている。そもそも、紙幅は限られているので、切り口は限定的とならざるを得ない。鈴木は、反論のはじめに自著(『「日文学」の成立』)のポイントを解説しつつ、「中島は、この骨格がまるで把握できないまま、「批判」を試みている」と述べるが、鈴木のいう「骨格」は、ほぼ書の「はしがき」が引用された「帯」の文句そのままだ。 さすがに、「帯」をなぞる程度の解説で貴重な紙幅を費すのは失礼だと考えただけで、その代わり、「近代を支えてきた概念総体を批判的に検討しなければならない」という鈴木のモチーフについては冒頭でそれなりに触れ、それに関わる問題点に絞って論じたのが、私の書評だったはずである。 以下、をまとめた著者としては不満もあろうが(

    鈴木貞美に反論する(その1) - KAZUO NAKAJIMA 間奏
  • 漢字という虚構: 極東ブログ

    さらに漢字について書く。ご関心のないかたも多いことだと思うので、おつきあいを願うものではない。そして、おつきあい頂いたかたの反論や反感も多いのではないかと思う。ある程度、しかたがないと思う。というのは、これまでの漢字についての私の話は虚構といえば虚構なのだ。「白川静は『と』だと思う」(参照)で、なぜソーシュールなんかをひっぱり出したかというと、虚構を打ち立てるためだ。 虚構は、ここでは、嘘という意味ではない。言語学の方法論というのは、こういう虚構を必要とする。そして、この虚構がなければ、果てしない混乱になるし、私は白川静の漢字研究はその混乱の果てであると考えている。以上の考えに変更はない。 が、もう少し述べる個人的な必要性を感じている。私のこの分野の思想を少し展開してみたい気がするのだ。 関連して余談めくが、この間、暗黒日記から批判のようなものがあった。ご関心のあるかたは、先の記事の長いコ

    PledgeCrew
    PledgeCrew 2010/02/17
    いずれそのうち暇ができたら
  • 思想の哲学: 言 語 過 程 説 の 主 体 的 意 識

    §1.言語過程説の方法 時枝誠記氏の言語過程説の方法は、実際に ある場面で伝達のなかだちとなるコトバオンに研究の出発点をおくことを拒否して、「主体的意識」に基礎をおく方法です。わたくしは、この「主体的意識」が、どんな論理にみちびかれて登場したかを、まず しらべてみようとおもいます。 時枝氏は、「国語学原論」で、つぎのように論じています。≪音声は、ただそれだけ取出したのではこれを言語ということが出来ない。(10ぺ)≫ 時枝氏は、こうして音声を「ただそれだけ」とりだし、「それだけについて」みるのです。そのとき音声は≪物理的音波(175ぺ)≫にすぎません。そのため、これを言語とよぶことができません。それを理由に、時枝氏は、この音声をきりすててしまい、完全に黙殺します。同様にして、文字もきりすてられ、黙殺されます。(この文字・かきことばについて、いまは ふかく たちいらないことにします。) こうい

    PledgeCrew
    PledgeCrew 2010/02/15
    「国語学原論」積んだままで序文しか読んでない
  • 「速度」や「身体性」など - Living, Loving, Thinking, Again

    http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091212/1260650699やhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100104/1262578368に関係する。 http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20100116/1263641297 雲南に行く直前に読んだ。今頃になって反応。 やねごんのひらがな分かち書きなんだけど、とりあえず人の言うように馴れの問題はあるとしても、やはり漢字仮名交じり文よりは、読む速度が落ちるものであることは確かなことのように思えるのですにゃ。漢字のような表意文字における読み手の認識の速度の優位性はあるのではにゃーのか。 ひらがな分かち書きに馴れてにゃー人は、さらに読む速度が落ちるでしょうにゃ。で、読む速度が落ちると、どうしてもテキストが身体性を獲得してしまう。 やねごんの

    「速度」や「身体性」など - Living, Loving, Thinking, Again
    PledgeCrew
    PledgeCrew 2010/02/08
    「人間の言語機能と発声機能の間に必然的・本質的な結びつきはないようだ」それは論理的にも当然。そうでなければ、唖者や聾者にも言語を理解し利用する能力があることが説明できません/↑聾教育での手話禁止とか
  • 「finalvent さんの漢字論」珍説を再び斬る - hΛlの女好き日記(2010-02-01)#p04

    PledgeCrew
    PledgeCrew 2010/02/02
    漢字の表意性と表音性
  • Who's Afraid of Noam Chomsky?

    Sentence structure is innate but whining is acquired. ―Woody Allen, Remembering Needleman, 1976 (文の構造は生得的だが、ぐずり泣きは後天的) 「生成文法に対するお考えを今度ぜひ、エッセイにしてください。金川さんの切れ目のない文体は慣れると癖になります」というリクエストがあったので恐る恐る書いてみる。「お考え」というものはないのだけれど、感想くらいは書けるだろうと思って書いてみた。 最近のチョムスキーの理論はまるで知らないし、僕の知識はかなり古いと思うが、彼が何を考えているのか、紹介してみたい。自慢ではないが、僕の下宿にはチョンスケというがいたからチョンスケの専門家なのである。 生成文法は怖い、というイメージがあるが、上のおじさんの顔を見ると怖くないでしょ。 今の学問的発展は少し無理があるよ

  • 国家生き残り戦略としての日本語リストラ - michikaifu’s diary

    我が家の息子たちが、「日語を母国語として勉強する学校」から「外国語として習う学校」に移ってから2ヶ月。いろいろ目から鱗なことがあって、面白い。 そこでつらつら考えるに、ニッポンの「国語なんたら審議会」には刺客を送り込まれ、全国の国語の先生たちからはカミソリを送られてきそうなことなのだが、「国家百年の計」を考えると、ここでおもいっきり、日語の言語体系を大幅リストラして簡素化することが、国家戦略として正しいんじゃないかと思えてきた。 なぜかというと、このままで行けば、ありとあらゆる面で日中国に負けることはまちがいない。あちらのほうが人口多いし、それは仕方ないんだけど、そのあと「成熟国」としてこの先どうまともに生きて、1億もいるぜいたくに慣れた人口(この先減るにしても)を養っていくかと考えると、やっぱり「ブランド維持」が必要。そのためにすべきことはいろいろあるんだけど、「対中国語」という

    国家生き残り戦略としての日本語リストラ - michikaifu’s diary
  • 漢字排除論の排除するもの - 妄想科學日報

    漢字は、文字表記として ふくざつすぎるために、さまざまな文字弱者を 排除し、抑圧している。 もちろん、漢字を なくせば 文字弱者が いなくなるわけでは もちろんない。だが、おおきく改善することが たくさんある。 わたしが「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者、中途失聴者、読字障害を もつひと、知的障害者、日語学習者です。 そうしたひとたちが文字情報にアクセスする権利を うばっているのが、いまある日語表記に ほかなりません。漢字が障害となる どあいは、それぞれ ことなっています。けれども、なんらかの かたちで、漢字は障害として はたらいているのです。 単純(たんじゅん)に言(い)って程度問題(ていどもんだい)である。漢字(かんじ)は確(たし)かにそれが読(よ)めない人(ひと)を排除(はいじょ)するが、仮名(かな)のみに制限(せいげん)

    漢字排除論の排除するもの - 妄想科學日報
  • 表記と速度と身体性 - 地下生活者の手遊び

    書く書くと言いながら書いてにゃー宿題がたくさんあるのだけれど、その中のひとつに応答しますにゃ。下記エントリコメント欄で、「はんろん、というわけではなく、エントリをたてておこたえしたい。」と書きましたにゃ。 かんじを つかわないと ひょうげん できない こと lever_building(以下やねごん)の、ひらがな分かち書きに対する反応には僕も興味深いと思っておりましたにゃー。「読みにくい」という否定的反応が目立ちますよにゃ。 で このひらがな分かち書きとそれに対する反応を見ていて、僕が連想したのは詩の書き方と読み方なのですにゃ。 詩(ここでは散文詩をのぞく)というものの形式のひとつとして、改行と連というものがありますにゃ。改行や連というものがもつ効果はいろいろとあるんだけれど、一般的に 読む速度を落とす という効果があるのではにゃーだろうか。 もっと正確に言えば、詩というテキストの要求する

    表記と速度と身体性 - 地下生活者の手遊び
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    PledgeCrew 2010/01/16
    漢字借用の容易さは1文字=1概念という特性によるものでは。漢字もむろん特定言語では特定音声に結びついてるがそれで表意性自体は否定できまい。脱「神話」なら理解はできる。なお漢字の意味が言語間で揺れるのは当然
  • よみやすさって、なんだろう - hituziのブログじゃがー

    漢字の すくない日語の文章を かいていると、すぐに よみにくいという反応が かえってきます。はたして、よみやすいって どういうことだろう。きょうのテーマは、「よみやすさ」です。 日語学/日教育の研究者であるシュテファン・カイザーさんの「日語と漢字・日人と漢字 : 日語の表記と国内外における捉え方について」という講演が あります。これが、とても よく まとまっています。まず、これを よんでみてください。PDFで公開されています。 あるいは、つぎの文章が とても参考になります。 山口 光(やまぐち・ひかる)1987 「表意文字と表音文字」『日語学』8月号 山田尚勇(やまだ・ひさお) 1987 「文字体系と思考形態」『日語学』8月号、43-64 山田尚勇 1990 「文字の型と読みの速さ」『日語学』11月号、4-29 マーシャル・アンガー「漢字とアルファベットの読み書き能力」

    よみやすさって、なんだろう - hituziのブログじゃがー
    PledgeCrew
    PledgeCrew 2010/01/16
    健常者は音声で概念を認識するから誤変換があっても文脈から正しい言葉に変換しなおして認識する。個人の感覚というがそれは個の歴史において形成されたもの。非科学的とは言えまい。↓「なれの問題」ではあるね
  • 『こころとことば』 - Living, Loving, Thinking, Again

    の自宅に残してあるの山の中で、三浦つとむ『こころとことば』(季節社、1979)が偶々目に留まったので、読み始める。分量も少なく、また平易な文章でもあり、忽ちのうちに読了してしまう。 三浦つとむは、在野の言語学・認識論(弁証法)研究者で、1989年に亡くなっている*1。 書は、「はじめに」で、「ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために、使われています」(p.3)と述べられているように、またタイトルにもあるように、人間の心の表出としての言語という立場に立っている。それは時枝誠記の「辞」と「詞」の区別を引き継ぐものである*2; ことばを大きくわけると二つになります。自分のむこうにあるものごとやありかたをとりあげることばと、そのときに自分の心に生れた気もちを示すことばの、二つです(p.25)。また、書の目玉は「もう一人の自分」*3という概念だろう。事実、「もう一人の自

    『こころとことば』 - Living, Loving, Thinking, Again
    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/10/20
    そこはたしかに三浦の弱いところですね。とくに晩年は過去の業績の反復と新たな潮流、とくに構造主義に対するやっつけ的批判に終始したという感があります。独我論というのはたぶん時枝から引き継いだものでしょう
  • アイヌ学の誕生 - 我が九条

    におけるアイヌ学の権威と言えば金田一京助がまず思い浮かぶだろう。金田一によるアイヌ学について少し考えてみたい。 金田一とその弟子に当たる知里幸恵・知里真志保については丸山隆司氏の『〈アイヌ〉学の誕生ー金田一と知里と』(彩流社、2002年)に多くを拠っている。 金田一京助はアイヌ研究に入るきっかけを次のように述べている。 普通に行つてゐたら国語の研究者とでもなつてゐた所だつたらうと思ふ。が国文学に行かず、国史に行かず、国語から滑つてアイヌ語の専攻へ這入つたのは、やはり一には自分の性分からであらうが、又一には不思議な縁が自分を此の方向へたぐつてゐた事が、今に至つてはつきりとたどられる。 夢多き青年時代をわけもなく酔はした「天才」というような語のひびきが、いつしか我々を酔はしめなくなった時、英雄時代の夢から醒めて平凡な全体性、「民衆」といふものの力がより多く我々の注意を惹き我々の心をうつやう

    アイヌ学の誕生 - 我が九条
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  • Web評論誌「コーラ」7号 <倫理の現在形>第7回:吸血鬼はフランツ・ファノンの夢を見るか?(永野 潤)

    藤子F不二雄(ふじこ・えふ・ふじお)のSF短編マンガは、繰り返し同じ世界を描いています。それは「人間」がマイノリティーとなる世界です。それは、いわゆる「ディストピアもの」と言ってもいいでしょう。たとえば、「絶滅の島」という作品(1985年)(注1)では、人類が絶滅の危機に瀕した地球が舞台です。地球は毛むくじゃらの巨大な「宇宙怪物」たちに突如攻撃され、圧倒的な軍事力の差に、地球人はほとんど殺戮されてしまったのです。生き残った主人公の少年は言います。「戦争なんてものじゃなかった 一方的に焼き尽くし、破壊しつくし、殺しつくし……。 人間をまるで雑草か何かのように……。」彼を含む27人は、「秘島ツアー」で孤島にやってきていたため殺戮をまぬがれ、生き残ったわずかな人間です。しかし、その人々も宇宙怪物に見つかってしまい、襲撃を受けます。人々は武器をもって抵抗しますが、次々に捕らえられ、残虐な仕方で殺さ

    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/04/25
    余談だがマールは手話を言語に含めていた。それを否定したのはスターリン「それは言語学が言語をつかう正常な人間をとりあつかうものであって、異常な人間、言語をもたぬ聾唖者を取り扱うものではないからである」
  • 随想・追憶 抄

    工藤 浩 (東京外国語大学) 東大国語研究室は、創始者 上田万年 以来、言語の研究方法の近代化と取り組んでおり、「文法」のような古めかしい領域には、あまり関心を もたなかったように見える。 ドイツの当時最新の、史的・比較言語学を身につけて帰朝した上田万年の目には、新井白石の「近代」性は見えても、居宣長や富士谷成章や鈴木朖の「前近代」的な分析は 理解しがたいものであったのだろう。いや、前近代は、破壊され否定されるべきものであって、学問的に乗り越えられるべき対象でさえ なかったのだろう。山田孝雄の学位請求論文が、永らく審査もされずに放っておかれたという 周知のエピソードは、当時の国語研究室の体質の一面を象徴的に物語る。 新村出の回想(「思い出を語る」1956年)によれば、新村の後任として 国語調査委員会の補助委員に 山田孝雄を「抜擢」したのは、上田万年だったとのことであるが、調査委員とし

  • 言語過程説の主体的意識

  • 言語過程説について

    ■小引 この論文は、『コトバの科学』の第4号(1951年発行)に のった論文であるが、奥田の論文集『ことばの研究・序説』の<補・初期の原稿>の部分にも収録されていない。なお、表題に(1)とあり、文の始めの方に「問題は二つに要約される;1)思想と言語との過程的関係:2)主体的活動としての言語。」とあり、終わりの方にも「第二の問題」への言及があるが、実際には、(2)以降は発表されていない。【このページ末尾の付記 参照】 これ以前にも、民族学・民族誌関係の論文は いくつか あるが、奥田靖雄は、この論文において 時枝誠記の言語過程説を批判し、ひきつづいて「音韻についての覚書」(『コトバの科学』5号 1952年 『ことばの研究・序説』所収)において 服部四郎の音韻論を批判することによって、彼の「唯物弁証法」的な 日言語学を出発させたのである。 その際、1950年の「スターリン論文」等によっ

  • 国民文学論争と弁証法4

    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/04/11
    時枝によるスターリン批判
  • デイヴィドソンを最大限活用するためのFirefoxプラグイン3つ - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

    さて、科学の多くは「見えるもの」を観察し、「見えないもの」について明らかにしようとするものである。 デイヴィドソンが「根源的解釈」という状況設定を通じて提案した「デイヴィドソンのプログラム」にも見えるものと見えないものが仮定されている。 わたしの書いた図は上半分と下半分に分かれるが、上半分に置かれた「信念」「欲求」および「言語の意味」が見えないもの、下半分に置かれた「文」と、人と文の関係である「真と見なす」「選好する」が見えるものである。 さしあたって人の頭の中、つまり「信念(事実として受け入れていること)」「欲求(価値付け)」はわからないものと仮定されている。その人が話す言葉もわからないものとして仮定されている。そういう風に状況を設定したのだから当り前だ。 一方、人が「どの文を真と見なしているか」「どの文を良いもの/悪いものと見なしているか」はわかるものと仮定されている。それは言葉の意味

  • ふたつの「ろう者」。 - hituziのブログじゃがー

    ことばの平等を めざして。 - hituziのブログじゃがーの つづきです。 じつを いいますと、わたしの修士論文は「ろう者の言語的権利をめぐる社会言語学的研究」というものでした。朝鮮語が よめるかたは PDFファイルで 公開していますので、ごらんください。 きょうは ふるいを とりあげます。 草島時介(くさじま・ときすけ)1983『ことばは生きている』秀英出版。 このでは196ページから218ページまで「障害者のことば」と題して4つのエッセイが収録されています。ここで とりあげるのは、「障害者のことば(3) -聴障者のはなしことばとその教育」です。はじめの部分を みてみましょう。 かつては、耳の不自由な人、全く聞こえない人は、聾唖(ろうあ)学校に入ったものである。耳が聞こえないといっても、その程度はいろいろである。全く聞こえない人、不自由な人、ほとんど聞こえない人というように、さまざ

    ふたつの「ろう者」。 - hituziのブログじゃがー
    PledgeCrew
    PledgeCrew 2008/12/31
    時枝の言語過程説の流れを汲む継いだ三浦つとむは、ソシュールの口真似で言語の本質を音声に求め、手話の言語性を否定したスターリン論文を批判した。三浦つとむ『認識と言語の理論』第二部 勁草書房
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