サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
an-life.jp
職場におけるメンタル不調を予防する新規事業を創出している中西さん。会社の同僚たちの突然の休職から、情報通信業界におけるメンタルヘルスの実態に課題感を抱いたと言います。中西さんが目指したい社会とは。お話を伺いました。 中西 洋貴 なかにし ひろたか|富士通Japan株式会社 クロスインダストリービジネス本部 1986年生まれ。琉球大学卒業後、2008年に株式会社沖縄富士通システムエンジニアリング(現・富士通Japan株式会社)に入社。システムエンジニアとしてヘルスケア部門に配属され、電子カルテの導入・開発を行う。業務の中で、情報通信業界におけるメンタル不調の多さを感じ、メンタルケアサービス「Connector」を構想する。2021年、クロスインダストリービジネス本部に異動し、現在は新規事業創出を専任。大企業挑戦者支援プログラム「CHANGE by ONE JAPAN 2021」ファイナリスト
現役のプロレスラー・彰人として活動しながら、プロレス事業会社の副社長に抜擢された西垣さん。人前に出るのが苦手で、嫌なことから逃げてばかりだったという西垣さんが、「一生プロレスで食っていく」覚悟をしたきっかけとは。お話を伺いました。 西垣 彰人 にしがき あきと|株式会社CyberFight取締役副社長 1987年愛知県名古屋市で生まれる。レスリングの名門霞ヶ浦高校に進学。大学は心理学を専攻し、レスリングから離れるが、卒業後地元のスポルティーバエンタテイメントに入団し、初の生え抜き選手として2009年11月、愛プロレス博、愛知・Zepp Nagoya大会でデビュー。リングネームは「彰人」。2013年5月DDTに移籍。2020年サイバーエージェント傘下のプロレス事業子会社、「株式会社CyberFight」副社長に抜擢される。 恥ずかしがり屋の人見知り 愛知県名古屋市に、3姉兄の末っ子として生ま
株式会社LIFE PEPPERで組織・事業づくりに取り組む岡野さん。幼い頃から人一倍負けず嫌いだった岡野さんは、ベンチャー企業で死に物狂いで働く中で、様々な壁にぶつかります。精神的に追い込まれていく中で、岡野さんが気づいた自分にとっての幸せとは。お話を伺いました。 岡野 求 おかの もとむ|株式会社LIFE PEPPER 執行役員 新卒で中古車販売会社の営業を経験し、その後、成長ベンチャー2社の創業に携わり、ゼロから300人の会社の事業開発・組織開発を経験。現在は、株式会社LIFE PEPPERの執行役員として、事業開発、社外のアライアンス構築、組織づくりを担当。 負けを認められない苦しさ 埼玉県で生まれました。とってもひょうきんな子どもで、家族を笑わせるのが大好きでした。おどけて踊ったりする姿を見て、おばあちゃんは「もっちゃんがいるだけで、家がいつも明るくなるねぇ」と手放しで笑ってくれま
DDTプロレスリング所属のプロレスラーとして活躍する佐々木さん。病弱で人付き合いが苦手だった幼少期から、パンクやプロレスに目覚め、その独自のスタイルで「カリスマ」と称されるレスラーになるまでの経緯とは。お話を伺いました。 佐々木 大輔 ささき だいすけ|DDTプロレスリング所属プロレスラー 2005年10月22日デビュー。師匠であるプロレスラー、ディック東郷から指導を受け、DDTの最前線で活躍。KO-D無差別、KO-Dタッグ、KO-D6人タッグなど数々の主要タイトルを獲得している。2016年には、ユニット「DAMNATION」を結成。「群れない・媚びない・結婚しない」を掲げて活動中。 サプライズがある、プロレスの面白さ 東京都練馬区で生まれました。父は大工、母は主婦で、兄と妹がいます。4つ上の兄は几帳面な性格で、細かく注意をされるのでケンカばかりしていましたね。一方で、子どもの頃は病弱で、
子どもの頃からドラゴンクエストに夢中だった鈴木さん。親友の自殺と放射線医としての挫折をきっかけに、生きづらさを抱える人たちに寄り添いたいと思うように。コンテンツの街・秋葉原にクリニックを開業した鈴木さんが、医師として実現しようとしている本当の“回復”とは。お話を伺いました。 勇者になりたい 愛知県安城市で生まれ、2歳からは千葉県船橋市で育ちました。子どもの頃はファミコンにすっかりはまって、特に『ドラゴンクエスト』に夢中でした。小学5年生の時に、ドラクエの世界を描いた『ダイの大冒険』という漫画で「勇者とは、勇敢な者のことではなく、人に勇気を与える者のことだ」 という言葉に出会って、僕もそんな勇者になりたいと思うようになりました。 小中学校では成績が良く、学級委員をやったりして、そこそこ人気者でした。ところが高校に入った頃から、溢れ出る「モテたさ」から自意識過剰になり、コミュニケーションに苦手
2017年、28歳で大阪府四條畷市の市長に当選し、全国最年少市長になった東さん。外務省時代の上司の死、そして父親の死を通して、市長になる覚悟を決めます。負け戦だと言われた選挙を経て最年少市長となった今、地方から何を目指すのか。お話を伺いました。 調和がとれてみんなが笑顔のクラスに 大阪府四條畷市に生まれました。姉が2人います。両親から勉強しろと言われたことはなく、自由奔放に育ちました。ただ、親は僕のやる気を駆り立てるのが上手く、テストで98点を取ると、「もうちょっとで100点だったね」と、褒めながらも意欲が高まる言葉をかけてくるんです。それで自分から机に向かうようになりました。 小学校4年生の時、クラスで学級委員を決める選挙がありました。小4の男子って、ほぼ全員が立候補するわけですよ。大阪だし、みんな「俺や!」みたいな。僕も、楽しそうくらいの気持ちで立候補して、幸運にも当選したんです。 そ
人を育てることを軸に、Yahoo!アカデミア学長、グロービス経営大学院客員教授、株式会社ウェイウェイ代表取締役社長として企画・講師・ファシリテーター業を行う伊藤さん。ずっと本気になれず「他人の人生を生きてきた」という伊藤さんが、自分の人生を生きるようになった背景とは。お話を伺いました。 何でもできるからこそ本気になれない 東京都大田区で生まれました。幼少期は、分別のある、極めていい子でしたね。わがままを言わず親や先生の言うことをよく聞き、学級委員もする優等生。内向的だけど別け隔てなく、いじめられっ子にも人気がありました。 4歳上の姉の勉強を隣で見ていて、丸暗記も得意だったので同級生よりも勉強ができました。それでいて体育も得意で。要領が良く、何でもできたんですよね。 小学校卒業後、なんとなく中学受験をして、中高一貫の進学校に入りました。中学では硬式テニスに打ち込みました。姉がやっていたのと、
小さい頃から何事も徹底的に取り組み、勉強、ゲーム、アカペラ、ロースクール、仕事をとことんやってきた脇さん。総務省から神奈川県に出向して働く傍ら、全国の公務員500人以上が参加する交流会を主催しています。公務員3年目の春、父の死をきっかけに「命を何に使うか?」という問いに直面した脇さんが出した答えとは。お話を伺いました。 やるんだったら徹底的にやる 宮崎県都城市にある山之口町で生まれました。6人兄弟の末っ子で、一番上とは20歳くらい歳が離れています。親はスーパーを経営していました。父親は仕事人間で家庭をあまり顧みない性分でした。しかし、4歳上の姉が生まれた時、それではいけないと教育に力をいれるようになり、父は仕事をやめ、姉と僕はスパルタ教育を受けました。親の元で勉強ばかりしていたので、いつも一緒でしたね。 教育方針が一風変わっていたのかもしれません。ゲームをやっちゃだめって言われていたんです
【日本アイ・ビー・エム提供:オープン・イノベーションを生み出すエコシステム特集】VR(バーチャルリアリティ)とオンラインゲームの技術を利用して、新しいコミュニケーションの形を作る加藤さん。「引きこもりを加速する」というキャッチコピーの元、目指す世界とは?お話を伺いました。 アニメを見てプログラミングにハマる 大阪府大阪市平野区で生まれました。小さい頃から、外に出るよりも家で過ごすのが好きでした。家で本を読んでいると、親に「外に行って遊びなさい」と言われます。仕方なく外に行くんですが、結局、図書館で本を読んでいましたね。 親の言うことと逆のことをする子どもでしたね。ゲームをするなと言われても、友達の家に遊びに行ってゲームをしたり、パソコンでゲームをしたり。 夜遅くまで勉強せずに早く寝るように、と言われると、反発心からか、一層勉強が好きになりました。中学生の頃、内容はよく理解できずも、カッコつ
ビジネスや政治・スポーツの領域で、ヤフーのCOOやソフトバンクの役員で培った経験を還元したいと、話す喜多埜さん。教員免許を持ち、大学卒業後10年間ニューヨークでの塾講師を経て、創業期のヤフーに参画。ユニークな経歴の背景には、社会の流れとともに進化を続けていきたいという考え方がありました。 進路に悩んで、ニューヨークで塾講師に 神奈川県横浜市に生まれました。中高と地元の学校に通い、卒業後は早稲田大学の教育学部に進学しました。明確な将来の進路の展望は持っていませんでしたが、教師をしていた叔父の影響で教育に馴染みがあり、教職課程がありかつ民間就職の選択肢も残せる環境という基準で選びました。 大学に入ってからは、もっぱら遊び中心の生活でした。朝は必ず海に行ってサーフィンをしてから大学に向かい、出席が厳しい授業以外はサボって、アルバイトをしたり、麻雀をしたり。企画・イベントサークルに入り、学園祭で企
慶応義塾大学で「幸福学」を研究する前野さん。研究の範囲は、理工学から心理学、社会学、哲学まで、様々な分野にまたがり、全ての研究は、「世界中の人の幸せと平和に貢献するため」と話します。工学部を卒業し、エンジニアとしてのキャリアを歩んだ前野さんが、なぜ研究者に転身し、「幸福学」の研究を始めたのか。お話を伺いました。 人の心に興味がある子ども 山口県に生まれ、広島県で育ちました。活発な性格ではなく、運動よりも喋っているのが好きでした。 変に大人びていて、友達が話題にしているテレビ番組などには興味がありませんでした。それよりも、「自分とはなんだろう。世界とはなんだろう。宇宙とはなんだろう」といった、抽象的なことを考えるのが好きで、本を読み漁っていました。 心の研究をする哲学者、絵を描くのが好きだったので画家、「資源が少ない日本を豊かにするには、科学技術が必要だ」と聞いていたのでエンジニア、と将来な
「宇宙広告」「宇宙ライブ」などのエンターテイメント利用から、「宇宙×地方創生」「宇宙×農業効率化」など人の役に立つ形での利用まで、様々な宇宙利用を提案する金田さん。宇宙に対する憧れを持ちながらも、映像制作会社で働いていた金田さんが、どういう経緯で宇宙事業に携わるようになったのか。お話を伺いました。 「映像」と「宇宙」に魅了されたルーツ 東京都大田区で、大雪の降る日に生まれました。小さな頃から、他の人ができないことをしたり、見たことがないものを見せたりして、人を驚かせるのが好きでした。 中学生の頃、宇宙に興味を持ちました。中高一貫の男子校に通っていたからか、周りの友人は、電車やゲームなど何かしらのオタク。僕も何かのオタクにならなければと思い、宇宙を選びました。機械やロボットなどの人工的なものが好きで、その中で一番すごいのはロケットや宇宙科学だと思ったんです。 高校3年生の時に「H2Aロケット
「あそびの力で不可能を可能にする」というコンセプトのもと、「実名型遊びの体験メディア」PLAYLIFEを運営する佐藤さん。仕事に打ち込み過ぎて、心身ともに疲れ果て、自殺しようとした瞬間に溢れてきた、遊びの記憶。「遊びの力を信じている」と語り、70億人分の遊びの記憶を集めようとする挑戦の背景には、どんな思いがあるのでしょうか? 商売への嫌悪感、国連職員を目指す 北海道空知郡(そらちぐん)に生まれました。祖父の代から国内首位のシェアを誇る炭鉱を経営する家庭に育ち、小さい頃から商売を身近に感じていました。親から「自分で稼げ」と言われて育ち、仕事を手伝い、対価としてお金を受け取ることが習慣に。遊んだ帰りに友達がお小遣いでジュースを買っていても、自分だけ水道水を飲んでいました。そもそも、お小遣いという制度があることを知りませんでしたね。 小学生の頃から音楽が好きで、中学1年でCornelius(コー
学校の先生や先生を目指す人など、子どもと関わる大人向けの教育プログラムを提供する活動や、東日本大震災被災地にて教育支援を行う中川さん。「教育」を軸に様々な活動を行う根底には、どのような想いがあるのでしょうか。お話を伺いました。 中川 綾 なかがわ あや|子どもに関わる大人のサポート 株式会社アソビジ代表取締役、エデュケーショナルフューチャーセンター理事、プロジェクト結コンソーシアム理事、日本イエナプラン教育協会理事。ファシリテーター。 特技は、泳げない人も絶対に泳げるようにすること。趣味は、ハンコづくり。 ずっと教師になりたかった 東京都世田谷区で育ちました。小さな頃から、体育や図工、音楽などが好きでした。一方で、社会や算数など、覚えたり理解したりする勉強は苦手で、好きにもなれませんでした。体育などの好きなことで認めてもらえていたので、勉強はできなくてもいいやと自分に言い訳していました。
スポーツ選手の地位を上げることを目指し、アスリートと子どもが様々なスポーツを通じて触れ合うイベントを運営する相沢さん。ラグビー日本代表のキャプテンを務め、引退後は実業団の監督、吉本興業を経て独立へ。自身の経験から生まれた、スポーツへの思いとは? 高校中退の危機を救ったラグビーへの転向 東京都杉並区に生まれ育ちました。小さい頃から運動が好きで、小学校の時は親の影響で少年野球に入っていました。中学生になってからは友達の誘いでサッカー部に入りました。急激に背が伸び、1年生の時点で171cmありましたね。最初はゴールキーパー、途中からはディフェンダーでした。 毎日練習に打ち込み、区大会で優勝、都大会でも上位の成績でした。中2の時点で身長は181cmに伸びており、体格を見込まれて、都内の複数の強豪高校からスポーツ推薦をもらいました。進学先として選んだのは、国学院久我山高校でした。顧問の先生から薦めら
「標的型サイバー攻撃」を防ぐためのサイバーセキュリティの研究開発を行う鵜飼さん。小学5年生からプログラミングを始め、将来はその力を社会に活かしたいと考えるように。サイバーセキュリティの分野に出会い、研究開発を行うエンジニアから起業を決めた背景とは? 小5からプログラミングにのめり込む 徳島県阿波市に生まれ育ちました。父が電気工技士として電気製品の修理や工事等を行う仕事をしていたため、身の回りには機械がたくさんあり、時々父の手伝いもしていました。ものをいじることが好きで、ぼんやりとですが、電気・電子工学方面に関心がありました。 小学5年生になり、友人の間でファミコンが流行り始め、私も父に買ってほしいと頼むと、パソコンを紹介されました。「ゲームは買わなければいけないが、パソコンがあれば自らゲームを作れる」と。父は特別詳しいわけではなかったのですが、これからはパソコンの時代だという言葉にも押され
左股関節離断を経験し、世界で唯一の「股義足(こぎそく)」を履いたランナーとして活動しながら、日本IBMにてビジネスの最前線でも活躍する野田さん。30歳の時に事故で片脚を失ってからも、なぜ走り続けるのか。お話を伺いました。 野田 隼平 のだ じゅんぺい|システムエンジニア、股義足ランナー 日本IBM株式会社GBS事業所属。また、プライベートでは左脚に「股義足(こぎそく)」と呼ばれる義足をつけて走る。国際パラリンピック委員会公認大会に参加し、世界ランキング対象選手としての資格も有する(2014年ランキング33位)。 違う価値観の人と触れ合うのが楽しい 私は大阪府牧方市で育ちました。運動が好きで、小学生の時から野球に夢中になりました。ただ、中学生の頃には現実が見えてきて、プロ野球選手になろうとは思えませんでしたが。腰を痛めてしまい、高校では野球はできませんでした。それでも、大学では部活ではなくサ
フリーランスのカメラマンとして、フィルムカメラを中心に撮影を行う山本さん。 小さい頃からクリエイティブな分野に関心を持ちながらも、自らの意志ではなく、周りの意見に従って進路を決める日々。そんな中、写真と出会い、自分のやりたいことを選ぶことに決めた背景とは?お話を伺いました。 山本 春花 やまもと はるか|フィルムカメラを中心としたカメラマン 雑誌・書籍の撮影を中心にフリーランスで活動中。趣味の写真の楽しみを提案する「snap!」の企画・編集にも参加。2014年4月より、自身のBLOGにて女性モデルを被写体としたポートレートシリーズ「乙女グラフィー」の連載を開始。2014年9月アートフェア「台湾フォト」にも出展された。 自らのやりたいことでなく、周りに従い選択する日々 私は東京都板橋区に生まれ、3歳からは埼玉県で育ちました。小さい頃からイラストを描くことが好きで、ずっと絵を描いているような子
広告代理店のアートディレクターとして有名な広告を手がけ国内外を飛び回る一方、3年前に澤田流津軽三味線名取を襲名し、地道な演奏活動を続ける澤田邦風さん。「津軽三味線は私のライフワークです」と言いきる邦風さんが自身の活動を通して伝えたいこととは?その生き方に迫りました。 これなら誰にも負けない!大好きな絵を活かした仕事に就く 私は愛知県名古屋市に生まれました。幼い頃から絵を描くのが好きで、「外で遊んできなさい」と言われても部屋で絵を描いていました。小学校時代は授業中も絵を描いていました。そのせいで教科書は絵で真っ黒。親に見られて「ちゃんと授業を聞け!」と怒られることがよくありました。どんな絵を描いていたかというと、主に人。人の表情です。人柄やその時の気持ちを想像しながら「僕だったらこう描く」という絵を描いていたのです。そんな風にしたあと、友達に見せるのが楽しみでした。 中学生のとき、兄の影響で
投資用不動産の直接取引ができるwebサービスの展開を狙う巻口さん。幼い頃から参謀役に憧れナンバー2としての活躍を目指すも、大学受験の失敗・中退を経て新聞配達で生計を立てる日々へ。そんな環境から不動産・経営コンサルを経て、自ら新たな挑戦を決意した背景にはどのような思いがあったのでしょうか? 大学を3ヶ月で中退、新聞配達のバイト生活へ 私は新潟県新潟市の、親戚が皆料理人で職人気質な家庭で生まれ育ちました。小中学校とわりと勉強が好きだったこともあり、中学生になってからは生徒会長をつとめました。しかし、何かに熱中すると、周りを巻き込んで後先考えずに突っ走ってしまうタイプだったため、自分の意見から、周りに細かな作業を夜遅くまで大量にさせて迷惑をかけてしまうことなどもあって、人の上に立つ難しさをその時つくづく感じました。 それからは、将来はトップを目指すのではなく、どちらかというと三国志の諸葛亮孔明の
好きな時に好きな場所で流れ星を見ることができる、「人工流れ星」を作るプロジェクト「STAR-ALE」を運営する岡島さん。宇宙と研究者に憧れて天文学の博士課程まで進学するものの、進路を一転、新卒ではゴールドマン・サックスへ。「科学と社会を繋ぐ」というミッションで流れ星を作る事業をスタートするまでには、どのような思いがあったのでしょうか? 岡島 礼奈 おかじま れな|人工の流れ星を作る 好きな時に好きな場所で流れ星を見ることができる、「人工流れ星」を作るプロジェクト「STAR-ALE」を運営する株式会社ALEの代表取締役を務める。 ※本チャンネルは、TBSテレビ「夢の扉+」の協力でお届けしました。 TBSテレビ「夢の扉+」で、岡島 礼奈さんの活動に密着したドキュメンタリーが、 2015年11月22日(日)18時30分から放送されます。 番組公式HPはこちら 番組公式Facebookはこちら 「
「お互いの視野が広がる教育」を提供するため、様々な活動に関わる山瀬さん。特に、何かに踏み出す「ちょっと手前にいる人」の手を引いたり、背中を後押ししたいとか。そのような考えを持つ背景には、どのような体験があったのか。お話を伺いました。 日本に帰りたいと、引きこもっていたアメリカ生活 私は神奈川県横浜市で生まれました。目立ちたがりだった私は、学校では「出る杭は打たれる」と言わんばかりに、いじめられてしまうことも多くありました。そんな生活をしつつも、小学4年生で東京に引っ越し、中学1年生でアメリカに渡りました。国際結婚をしている親戚がいたので世界は身近でしたし、私には海外の雰囲気が合うとも思っていたので、楽しみでした。 ところが、実際に暮らし始めると、居心地の悪さを感じてしまいました。言葉が通じなくて意思疎通ができずに、どうしていいか分からなかったんです。また、それまで正しいと思っていた「日本で
価値観を広げてくれた海外での出会い 僕は神奈川県川崎市で生まれ育ちました。勉強はわりと得意な方で、中学受験して私立の中高一貫校に進学。将来は、サラリーマンにはなりたくないと、何となく思っていました。 高校2年生の時に、海外旅行に行くために初めて飛行機に乗りました。その時、「空を飛ぶのってすごいな」と感じ、深く考えずに将来はパイロットになろうと決めました。パイロットなら、サラリーマンっぽくない働き方だとも感じたんです。ただ、進学校に通っていたこともあり、大学は航空大学ではなく、色々勉強できそうな文系の大学に進みました。 将来は英語を使うだろうし、自分の世界を広げたいと思っていたので、大学4年生の1年間は交換留学に行こうと考えていましたが、その前の3年生の夏に、3週間ほど海外へ一人旅に出ることにしました。スノーボードが好きだったので、行き先は日本の夏にスノーボードができるニュージーランドにしま
スマートニュース株式会社にて、NPO支援プログラム「SmartNews ATLAS Program」の運営などを行う望月さん。こうした活動を通じて、「社会は自分たちで変えられる」という感覚を広げていきたいと語る背景には、どのような考え方があるのか。大学院で「自由」についての研究に打ち込んだあと、働きながら社会と関わっていくことを決めた望月さんにお話を伺いました。 日本の外で、現実社会の問題に触れる 私は埼玉県草加市で生まれ育ちました。小さな頃から本を読んだり、物事を考えたりするのが好きでした。中学卒業後は、慶應高校・慶應大学と進学し、東京へと出てからは、渋谷でヒップホップのレコードを買ったりしながら、ふらふらと過ごしていましたね。 大学1年生の冬に、1ヶ月ほどフランスのパリ政治学院で学ぶ機会がありました。初めての海外体験で、たくさんの刺激を受けたんです。 休みの日に、パリの郊外にある、旧植
人を介した採用手法であるリファラル・リクルーティングを用いて、チャレンジできずに悩む転職潜在層への機会提供を行うサービスを立ち上げる鈴木さん。「何者かになりたい」と様々な分野で挑戦をした学生時代を経て、現状に悩みながらも行動を起こせずにいる仲間への課題感で人材系企業に。社内新規事業制度を利用して新たな挑戦に踏み切る背景にある思いとは? 何者かになりたいという思いと器用貧乏への焦り 私は和歌山県和歌山市にある室町時代から続くお寺の家系に生まれました。600年以上続く寺ということもあり、他の家庭と比較するとルールに厳しい環境で、5歳から毎日1時間半は読み書きをして、テレビゲームは水曜日に1時間と決められていました。 一方で、家庭を離れた学校では自由を謳歌しており、何でも器用にこなせたため常に仲間の中心にいました。小学生から始めたサッカーでは初めて1年で市の選抜に選ばれ、高校から並行して始めたバ
フリーランスの管理栄養士として、食に関するイベントや、メディアでの執筆を行う圓尾さん。将来の夢なんて持たず、働くことに対してネガティブな印象すら持っていた少年時代から一変し、社会貢献のために早く働きたいと考えるようになったのは、どのような経験があったのか。お話を伺いました。 たまたま目に止まった栄養学 僕は、兵庫県で生まれました。神戸市の端の伊川谷という田舎の街。田んぼや川に囲まれて育ち、自然が大好きで、川で遊んだり、虫取りをして活発に過ごしていました。しかし、中学生になると、周りの目を気にして、なるべく目立たないようになりました。不良も多い地域だったので、いじめられたくなかったんです。 また、将来の夢なんてものはなく、安定している公務員になろうかと思っていました。父が、製薬会社から転職して公務員になったのを見て育った影響もありました。製薬会社時代は、接待などでお酒を飲んで遅くに帰っていま
ヴィレッジヴァンガード下北沢店およびインフォガレージのスタッフとして、音楽カルチャー全般の企画・販促等を行う金田さん。テクノ音楽に没頭し、深さを追求していた中、ある企画CDのヒットをキッカケに大きく価値観が変わることに。音楽カルチャーの分野を、自らの価値観にとらわれずに行き来する背景にはどんなエピソードがあったのか、お話を伺いました。 テクノ音楽との出会いと音楽漬けの日々 僕は東京都大田区に生まれました。小さいころは本が好きな大人しい子供で、一人でいるのが好きなタイプ。運動は得意ではなかったのですが体を動かすのは好きで、高校に入ってからは、学校のエースが集結するサッカー部や野球部でなく、ほぼみんなよーいドンでスタートできそうなアメフトを選びました。チョイスは間違ってなかったみたいで、部活はとても楽しく、毎日アメフトに明け暮れる日々を過ごしました。 しかし、勉強はほとんどしておらず、学校では
ログイン about. とは profile. プロフィールをつくる プロフィールをさがす life story. ライフストーリーをさがす 特集 タイアップチャンネル インタビュー動画 イベント情報 メンバーシップ会員になる お問い合わせ my page. ログイン 自分らしく生きたい人へ向けた、人生経験のシェアリングサービスです。 他者の人生を知ることで選択肢を広げ、自分の人生を残すことで内省を促します。 人生の経験を世界中の人とシェアすることで、自分らしい人生を歩む人たちを増やします。 もっと詳しく もっと詳しく service. のこす・シェアする 人生の歩み、体験、想いや活動情報などを、公式プロフィールとして残すことができます。 プロフィールをつくる
「国外に目を向けよ」 私は東京で生まれ、9歳の時に千葉県の松戸市に引っ越しました。小さな頃から、勉強など、「やること」をしっかりとやっていれば、好きにさせて欲しいと思っていて、学校の先生からは協調性がないと言われていましたね。 中学校まではサッカーをしていたのですが、高校ではもう少し緩い部活に入りたいと思い、ハイキング部に入ることにしました。毎月1回ほど山に登り、夏は合宿。冬は山には登らずにトレーニングをする環境でした。山の上からの眺めは素晴らしく、その景色を見るのが好きでした。 高校3年生の時、英語の先生から「これからのグローバル社会では、まずアジアを知らねばならない」と言われ、下川裕治さんのバックパック旅を綴った本を紹介されました。この本は衝撃的でした。それまで海外に行ったことが無かった私には、何もかもが新鮮に映ったんです。そして、全てが面白そうだと感じ、海外に強く興味を惹かれるように
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『オンラインワークを、社会の当たり前に。「目の前の可能性に飛び込む」という生き...』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く