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大谷翔平
shanxi.nekoyamada.com
本書は「オーラルヒストリープロジェクト」(http://www.ohproject.com/)の主宰者である米濱泰英氏が、山西残留事件についてまとめたものである...
1938年(昭和13年)6月、日本軍の武漢への侵攻を恐れた中国軍は、河南省の花園口付近で堤防を爆破し、黄河を決壊させた。洪水によって敵を制する”以水代兵”を目論んだのだ。決壊口から溢れ出た黄河の水は、瞬く間に濁流となって、河南省東部全域、さらには遠く安徽省北西部までをも冠水させた。 黄河決壊を命じたのは蒋介石だ。蒋介石は自伝で、黄河堤防を「有史以来、中国の為政者にとって最大の事業の一つ」であると賞賛した上で、それを自ら決壊させるのは「まさに断腸の思い」とし、しかし日本軍の侵攻を食い止めるために必要な策だったと言っている。確かに黄河の決壊によって日本軍は進撃を一時阻まれた。しかし損害はほとんどなかった。水に囲まれて孤立した日本軍第十四師団でも、洪水による死者はたった三名だった。それに対して民衆の被害は甚大だった。濁流に多くの人と家畜が呑み込まれ、家屋や田畑は水没し、水が引いた後には伝染病が蔓
※本稿は2006年9月9日に公開した元原稿に加筆修正したものです 月刊誌『正論』が報じてきた遺棄化学兵器”スクープ”は、きわめてお粗末なものだ。引継書に化学兵器の記載はなく、月号を経るにつれ論旨もゆがんできた。真相は複雑かつ微妙だが、正論が主張するような陰謀ではけしてない。 化学兵器が明記されていた台湾軍の兵器引継書 『正論』2006年9月号が報じた台湾軍の兵器引継書には、「あか筒」や「みどり筒」といった化学兵器が連合軍に対して引き継ぎされていることが明記されている(268頁)。この台湾軍の引継書で気を強くしたのであろう、これまで一連の”スクープ”を報じてこなかった産経新聞も、9月3日付の東京朝刊で、担当編集者である喜多由浩氏の署名原稿で一連の流れを報じた。この記事で喜多氏は、台湾軍の引継書を「中国側の主張を覆す可能性」のひとつとして挙げている。 新資料発見か?政府調査 中国遺棄化学兵器問
日華事変において、中共こそが救国を担ったという主張が長年にわたって流布されてきた。しかし、それは嘘である。八年間にわたる「抗日戦争」で日本軍の矢面に立ったのは国府軍で中共ではなかった。そもそも中共指導部に、日本軍に対する抗戦意欲はなかった。中共の至上命題は大陸の覇権を握ることで抗日ではなかったからだ。 先般、安倍総理は、慰安婦問題について、「軍の関与はあったが強制はなかった」という趣旨の談話をした。これを二枚舌だ何だと批判する向きがあるが的はずれである。そもそも、「軍の関与はあった」と「強制はなかった」は不可分だからだ。「軍の関与はあった(ゆえに)強制は(あり得)なかった」が建前であり、史実もおおむねその通りだった。その点で安倍談話に何ら落ち度はない。 将兵にセックスサービスを提供する慰安所は民間業者の経営だったが、その開設については軍に許認可権があった。一般に日華事変において慰安所は南京
1945年(昭和20年)8月、日本政府のポツダム宣言受諾による無条件降伏という形で、八年に及ぶ日中間の戦いも幕を閉じた。現地日本軍は武装解除、民間企業は接収され、日本国籍の軍人および民間人は日本に帰還することとなった。ところが、山西省では最終的に五千六百人に及ぶ邦人が残留し、その後四年間の熾烈な国共内戦に参加する前代未聞の事態が生じた。山西残留事件である。 当時、中国に残留を希望する邦人は珍しくなかった。戦前の人は現代人よりも遙かに海外雄飛に対する心の壁が低く、居残って良い生活を維持したいという人は多かった。山西残留が特異なのは、その規模もさることながら、実質的な国軍の留用が行われたこと、現地の居留民が邦人社会を維持したまま残留したことである。 中共の脅威にさらされていた閻錫山は、終戦を機に邦人残留を企図する。残留を承諾した邦人戦闘員に対し、全員に将校待遇、三階級の特進、給与の高額支給、営
保守派のオピニオン誌『正論』が六月号において”スクープ”と称して報じた、水間政憲氏の筆による「”遺棄化学兵器”は中国に引き渡されていた」という記事。すでに国会議員が国政の場でこの記事を取り上げており、政府は精査を約束、証拠にあたる史料の保管場所には警官が派遣されて警備にあたるなど話題を呼んでいる。 この記事は、山形のシベリア史料館に現存している旧軍の兵器引継書に化学兵器を示す記載が確認できるとし、日本側が莫大な経費を負担することで問題となっていた遺棄化学兵器処理問題において、従来の論拠が覆される”超一級の史料”であるとするものだ。問題の兵器引継書は、社会党市議を長年務め、シベリア抑留者の団体「全抑協」会長だった故斉藤六郎氏が、生前にソ連やロシアの公文書館から入手した大量の旧軍書類の中にあったもの。その数は兵器引継書だけでも六百冊に及ぶという。旧軍と中国軍との間に交わされた公文書がなぜロシア
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