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沖縄県の県庁所在地、那覇市。観光地として知られる市ですが、その一方で30万人の人口を抱える地方都市としての側面も持ち合わせています。 そして、この都市の近現代における都市史はアメリカ統治時代を挟んでいるがゆえに特異なものといえるでしょう。そんな那覇市が未来へ向けて新しいまちづくりをしていく様子を特集していきます。 今回は、アメリカ軍住宅跡地に作られた新しいまち「那覇新都心」をとりあげます。 那覇市北部にできた新しいまち 那覇新都心は那覇市北部に位置し、モノレールを利用すると那覇空港駅から20分弱、県庁前駅から10分弱の位置にあります。地域の東側には国道330号線とモノレール、西側には国道58号線が通り、その間は東西を第2環状線をはじめとした大きな道で結ばれています。 モノレールで「おもろまち」駅を降りれば、駅前には大きな免税店「T・ギャラリア」や商業ビル、ホテルがあり、少し歩くと大きな商業
2017年2月に閉店した「さくら野百貨店仙台店」。東北を代表する駅前という好立地にあったにも関わらず、突然閉店したことは、仙台のまちに大きな驚きを与えました。 この店はかつて「丸光」という屋号で市民に愛された地場百貨店でした。同じ地場百貨店の「藤崎」が東北一の百貨店として営業を続けるのに対し、「丸光」はどうして屋号を変え、結果的に突然の閉店という幕切れになってしまったのでしょうか。今回は「丸光」から「さくら野百貨店仙台店」への変遷を追いながら、明暗を分けた経営の違いを探ります。 さくら野百貨店仙台店と周辺の商業施設の立地 (作成:かぜみな) (OpenStreetMapを元に作成) ©OpenStreetMap contributors 第二の地場百貨店「丸光」 1946年に仙台駅前で創業し、1953年に百貨店としての営業を開始した丸光は、仙台駅前で初となる本格的な商業施設として急成長し、
東京都心部から東におよそ60㎞ほどに位置する千葉県八街(やちまた)市。北総台地の上に位置する農業主体のまちです。 このまちは住宅開発に翻弄された結果、インフラ整備が追いつかず、放棄された土地や家が残るまちという側面も持ちます。 今回は、そんな「八街」の翻弄された歴史とその後にある現在の姿を見つめます。 「八街」の開墾、そして飛行場建設 八街は元々野馬の放牧が行われているだけの荒涼とした台地でした。そこに開墾の手が入ったのが明治維新後の開墾事業です。この事業は旧士族などの困窮民対策として進められ、八街はその「8番目の開拓地」として人々が居住をはじめます。しかし、周囲には灌漑農業に適した大きな河川もなく、開拓事業は過酷を極めました。そのため、開墾当初から離脱者が相次いだと伝えられています。しかし、茶葉や養蚕など様々な試行錯誤を経て、やがて落花生の一大産地としてその名を知られるようになっていきま
近年、「コンパクトなまちづくり」が盛んに叫ばれています。その裏には、かつて郊外、そして「超郊外」で無計画な宅地開発が行われ、様々な社会的損失を引き起こしたという都市計画的な反省があります。 今回は北総台地で過去に行われた無計画な宅地開発の経緯を紹介し、その結果生まれた「超郊外」の分譲地のこれからについて考えます。 北総台地に生まれた「超郊外」の分譲地 戦後の日本は、経済発展と産業構造の変化に伴い、膨大な人口が都市部へ流入しました。爆発的な勢いで都市が拡大するなかで、住宅供給は逼迫の一途を辿り、1950年代後半から1970年代にかけて、首都圏の郊外でも、大規模な住宅団地の造成が推し進められていきました。 一方、この時代はモータリゼーションの発展やレジャーの多様化も進み、全国各地で自動車道路の建設やゴルフ場などのレジャー施設の建設も相次いでおり、衰退する林業や農業に見切りをつけ、所有する山林や
【まちのすがた】国際通りは那覇ではなかった!?近代の那覇市街成立から崩壊を追う―国際通りから見える”那覇”:第1回 もう暦の上では秋になり、暑さもそろそろ和らごうかという時期になってきました。夏休みはリゾートに出かけた方も多いのではないでしょうか。 やはり日本でリゾートとして名高いのは「沖縄」です。1975年の沖縄海洋博以来、繰り返しPRされてきた「沖縄=リゾート」というイメージは多くの人に根付いているようです。 その沖縄で観光の玄関口となるのは沖縄県の県都・那覇です。中でも目抜き通りの「国際通り」は沖縄の戦災復興・経済成長の象徴として「奇跡の1マイル」とも呼ばれ、今日も多くの観光客が訪れています。 一方で、国際通りは戦災復興・経済成長の象徴としてだけではなく、これまでの那覇のまちに関わる様々な事柄の起点にもなります。そこで、今回から3回にわたって、「国際通り」から見える様々なまちの表情を
matinote初めての海外特集です。今回は、お隣は韓国の首都、ソウルです。 皆さん、ソウルというと何を思い浮かべるでしょうか。景福宮、東大門といった伝統的な建築物、江南や明洞といった最先端の韓国文化・ブランドを発信するエリア……人によって様々だと思います。 そこで、matinote的視点から、様々なものが入り混じる都市・ソウルをお伝えします。 第一回は、ソウルの「地形」と「スケール」をキーワードに読み解いていきます。 ソウルと「地形」まず、 ソウルを特徴付ける「山」と「川」、すなわち地形を見ていきましょう。 山・川とソウル都心の位置関係図です。 (OpenStreetMapを元に夕霧もや作成) © OpenStreetMap contributors ソウルは現在から約500年前、「李氏朝鮮」の時代に建造された古い都で、今に至るまで場所を移していません。建造された当時、ソウルは周囲を山に
他地域から浜松のまちを訪れると、駅前には遠鉄百貨店があり、遠鉄バスや遠鉄タクシーが走り回っています。まさに遠州鉄道は「浜松の顔」と思えるでしょう。駅だけではなく、浜松市内において「遠鉄」は各所に存在感があります。鉄道・バスともに高頻度の運行を行っていますし、「遠鉄百貨店」や「遠鉄ストア」といった小売業や「舘山寺温泉」の観光開発も手がけているのです。 しかしながら、遠州平野に位置し、自動車メーカースズキのお膝元の浜松で交通手段として利用されているのは専ら自動車です。交通分担率を見てみると鉄道・バスは2.2%ずつ、自動車は66.8%となっており、他の政令指定都市と比べても自動車の利用率は高めです。 それでも、鉄道とバスはともに便利な交通機関として機能しています。 今回は「鉄道線」を中心に遠鉄の姿をご紹介します。 遠州鉄道についてまず、遠州鉄道線の歴史と概要を簡単に見てみましょう。 鉄道線は新浜
今年はNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で舞台となった浜松市。人口70万人を擁し、中心街にある浜松駅前に広がる景観は大都市の風格があります。 しかし、浜松駅は開業時は「場末」と呼ばれた場所でした。そんな浜松駅周辺がどのようにいまのような姿になっていったのか、追ってみたいと思います。 場末に生まれた浜松駅 徳川家康の築城により栄えた浜松の市街地は、当初東海道沿いに発展していました。一方で東海道線の浜松駅は地形の都合から、市街地の東の端、田んぼの中に置かれました。これでも陳情により市街地寄りに駅の計画場所が変更となっています。当初の計画ではさらに南側の場所に作られる予定でした。 東海道線の浜松駅が開業した10年後に遠州鉄道が開業します。当初の遠州鉄道のルートは現在のように直線的ではなく、蛇行しながら市街地を進むものでした。 開業当初は東海道(現在の国道152号線)の北にある遠州浜松駅までの開業
名古屋北部の郊外都市「小牧市」。市内には桃花台ニュータウンがありますが、新交通システムの廃線をはじめ「失敗」といわれることもあります。一方で小牧市全体がどんなまちかはそこまで語られることはありません。そこで小牧市の「いま」を中心部とニュータウンを中心にさまざまな角度から見て、どのようなまちなのか紹介していきます。
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