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ウィーン学団の哲学#2 論理実証主義に対する批判 [ 分析哲学 ] 論理実証主義は、検証可能性に頼って科学を峻別するというラディカルな哲学運動ゆえに多くの反感を買い、また、多くの問題を含んでいたため、多種多様な批判を受けることになる。そのうちの一部を記す: 検証理論はすべての科学理論の排斥する 検証可能性をそのまま受け取ると、帰納法によって導かれた経験的全称命題を切り捨てなければならなくなってしまう。なぜなら、例えば、「すべてのカラスは黒い」∀xCxという命題は、カラスの総体の一部を直接経験することによって、帰納的に導かれた(一部の直接経験に還元された)全称命題である。しかし、論理実証主義は命題を分析しその個々の命題に対し検証可能条件を要求するため、この命題の真偽を検証するには、「カラスAは黒い&カラスBは黒い&・・・・」(Ca&Cb&・・・)と世界中のすべてのカラスを過去未来
クワイン「経験主義の二つのドグマ」#1 分析と総合というドグマ [ 分析哲学 ] クワインによる批判 ウィーン学団の論理実証主義は多くの批判を受けることになるが、中でも重要なのはクワイン(W.V.O.Quine)によって提出された「経験主義のふたつのドグマ」(Two Dogmas of Empiricism)(1951)である。この論文は単に論理実証主義を批判するだけではなく、それが前提としている経験主義の伝統的な前提を信用するに足らないドグマであるとし現代において哲学を大きく前進させた重要なものだ。この論文はそのタイトルのとおり経験主義の根本における二つのドグマを示す: 1、分析的判断と総合的判断の区別。 2、経験主義の還元主義。 クワインは分析性と総合性の厳密な区別による二分法(二元論)には循環があり成立しないドグマであるということを指摘する。そして次に、この区別の曖昧
ドゥルーズ=ガタリ「ミル・プラトー」 リゾームとノマドロジー(メモ) [ 現代哲学 ] 『アンチ・オイディプス』において、ドゥルーズ=ガタリは、欲望を考察してこれに理性や思考といったものをも一元的に還元し、そして、この欲望する機械の一元論から諸社会形態とそれの最終形態である資本主義を考察した。そして、『ミル・プラトー』において、この欲望する機械一元論による歴史考察は拡張され、かなり広範囲な領域を取り扱う。 リゾームとプラトー ドゥルーズ=ガタリはリゾームという概念によって体系的な形態から外れたものであってもそれは混沌ではなく多様体という別の秩序によって成立していることを示す。つまり、伝統的な知や組織の形態とは、ツリー式とみることができ、それは、ものごとを幹、枝、さらに小さい枝というふうにきっちりと分類する(分類したものの同一性を前提とする)。この理路整然とした体系的な形態は、西
ドゥルーズ「差異と反復」(メモ) [ 現代哲学 ] 前期ドゥルーズ(差異と反復) ガタリと出会う前のドゥルーズは、ベルクソンに影響をうけつつ「差異」を考察する。そして、この考察はドゥルーズ=ガタリの著作を支えるものとなる。伝統的な西洋哲学では、無限性を備える超越存在が、無限に連続する差異をもつ有限な存在の同一性を保証していた。デカルトのコギトは神によってその同一性を保障されている。しかし、ポストモダンの時代に突入した現代において、ニーチェの「神は死んだ」という宣言にみられるようにこのような超越的形而上学的規定を解体する傾向にあった。ドゥルーズもまたこのような時代の思想的要求に応じて客観的指標を批判して、同一のものが反復(再現前=表象)しうるということを否定する。そして、世界を同一性のうちに収束させずに分散するものそれ自体として把握する。 ・差異のある反復 差異と反復は矛
前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#5 独我論 [ 心の哲学 ] 前回、論理空間の真理操作によって事態に対応する複合命題が構成されることを見た。そして、これで、事実から事態という可能性の領域へどのように立ち戻るかが判明したことになる。これが『論考』の根幹をなす議論であり、これが「語りえるもの」の領域を確定する。そして、ここから独我論を仲介して、自我、論理、倫理という「語りえぬもの」の領域の議論へ至る。 6、独我論:論理空間の基底で発見した「私」について ↓ 7、論理:論理空間における操作 ↓ 8、倫理:実践的な領野 6、独我論(solipsism)(5.6 〜) 事実に対応する命題から名を切り離す過程で言語が私秘性に覆われていることを発見する。そして、言語を「私の言語」とすることにより、存在論的な独我論へ至る。 6−1、私的言語論(言語は私の言
前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#2-1 写像と命題 [ 分析哲学 ] 思考の可能性を見出すために、事実を対象に分解し、それらを再結合して事態を構成する必要があることをみた。しかし、現実の対象を組み合わせて新たな事実を作ったのでは、それは現実性であって可能性ではない。そのため、Wは先の存在論的な議論を離れ、2.1からは、どのように我々が事実や対象と関係をもっているかという議論、つまり、事実の写像、思考、言語などの議論に移る。 写像理論(picture theory) 現実性である事実から可能性を見出すには、事実の代替手段が必要となる。それが現実の像(独Bild, 英picture, image)である。我々は、事実を写像することによって事実の(観念的な)模型として像を作る(そして、この事実の模型としての像もまたひとつの事実である)。そして、何かを理解するということは
前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#1 可能性の探求 [ 分析哲学 ] 『論考』の目的(the Tractatus) ウィトゲンシュタイン(以下W)の『論理哲学論考』(以下『論考』)は、七つのテーゼとそれを補佐する複数の命題の集まりで構成されてる。そして、タイトルが「論理哲学」なのに最初に提示される命題が「世界は成立していることがの総体である」といった存在論的命題からいきなり始まる。まず、これは何を主題としているのだろうか。それは序文にかかれている:「およそ語りえるものについては明晰に語りうる、そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない。かくして、本書は思考に対して限界を引く」。『論考』の目的は思考の限界の探求であり「語りえぬもの」と「語りえるもの」の峻別である。またそれによって伝統的哲学的問題である倫理、芸術、形而上学などを「語りえぬもの」、つまり真偽を問うこ
ブログのテーマは設定していません。ノート、メモ代わりです。もくじ 古代哲学 古代哲学史#1 古代ギリシャ自然哲学 古代哲学史#2 自然哲学から人間あり方へ 古代哲学史#3 ヘレニズム プラトン「メノン―徳について―」考察 プラトン「メノン」におけるメノンのパラドックスと想起説 プラトン「エウテュプロン―敬虔について―」考察 プラトン「ラケス―勇気について―」198a-199cにおける議論 プラトン「国家」#1-1正義について(ケパロスとポレマルコスとの問答) プラトン「国家」#1-2正義について(トラシュマコスとの問答) プラトン「国家」#1-3正義について(ソクラテスの正義) プラトン「国家」#2 哲人政治 プラトン「国家」#3 太陽の比喩・線分の比喩・洞窟の比喩 アリストテレス#1 形而上学 アリストテレス#2 論理学 ア
ヒューム「人間知性研究」#2 自由意志と懐疑論 [ 近代哲学 ] 自由意志(free will) 決定論によると、あらゆる行動は全てなにかしらに決定されており、自由意志は存在しない。しかし、それによると、私がどのようなことをしようと責任や罪は私自身のうちになく、その決定したものに回帰する。ヒュームがとる立場は私の行動は全て決定されているが、それでも自由意志はあると主張する「両立論(compatibilism)」とされる。ヒュームは上記の恒常的連接による習慣や常識の形成を人間の生活にも適用する。つまり我々は親しい友人がいきなり暖炉に手を突っ込み燃え尽きるまでそのままにしているなどと予想しないし、落とした財布が羽が生えて戻ってくることを期待しない。このように人間の行為の間には規則性や常習性がある。しかし、だからといってこれは人間の自由意志の否定にはならない。習慣に逆らって手を暖炉に
ヒューム「人間知性研究」#1 恒常的連接と因果関係 [ 近代哲学 ] ロックから始まったイギリス経験主義はヒュームで極限まで押し進められる。それにより彼は因果関係の必然性とそれを形成する人間理性に対する懐疑論を提唱する。 観念の起源 ヒュームは「知覚(perception)」という語を用いる(これはロックの「観念」にあたる)。知覚は「印象(impression)」と「観念(idea)」のふたつからなる。「印象」は我々が直接経験する「生き生きとした」経験であり、外的知覚である「感覚」と内的知覚である「反省」に分けられる。「観念」は印象のコピーであり、それより鮮明さを欠いたものとして与えられる。 ・単純観念と複合観念 逆に言えば、最初に印象として経験していないものに対して観念を持つことは不可能であるという。しかし、例えば、「黄金の山」のような実際に直接印象として経験した
存在と本質(esse-essentia) トマスは存在を無条件に認める。つまり、現実がもつ信実性を承認する。存在はただそれ自体として自立的に存在する。これが存在の根本性格であり、質や量といった偶有性は二次的に見出されるに過ぎない。トマスは当時のアリストテレス解釈から新プラトン主義やアラブ的な混入要素を取り除き、純粋なアリストテレスの存在論を求め、そしてその上で彼を乗り越えようとした。つまり、アリストテレスにおいては存在論的基本概念は「形相−質料(forma-materia)」と「現実態−可能態」であったが、それにトマスは「存在−本質(esse-essentia)」を加えた。 トマスによると「形相−質料」は主に自然世界の存在者(質量的事物res materialis)に限られるが、「現実態−可能態」は自然世界のみならず、質量を持たない形相のみの存在者(天使(知性的実体)や神(純粋現実
志向性 Intentionality 心は志向性と意識という二つの特性をもつ。(我々のあらゆる意識状態はそれについての質的な感覚を備えている。その性質をクオリア(質的経験)と呼ぶ。JacksonやNagelを参照)。ここでは志向性について見てみたい。志向性とは19世紀にブレンターノによってスコラ哲学の造語を復活させたことから始まり、フッサールの現象学に強い影響を与える。また、現代でも分析哲学などで幅広く取り扱われている概念である。それは我々が何かを考えたり、思い浮かべたり、期待したりするとき、我々の意識はその何かに向かっている。例えば机の上のコーヒーを手に取るという日常的な行為でも、机の上にコーヒーがあるという信念やコーヒーを飲みたいという欲求などに基づいていると考えられる。よって、それなくして我々は自分自身や他人の行為を理解することができない。 しかし、志向性の対象は現実に存在し
一般的な言語概念 我々は一般的に言語とは記述/記号であると考える。デカルトは内面と外面、つまり心と体をはっきりと区別する。そして内面にアクセスできるのは本人だけである(私秘性)。我々は「痛み」を内的に経験し「痛み」の概念を知る。そして「痛み」という獲得した概念を用いて事態を記述する。言語は感情または感覚を表現する道具である。また「私は痛い」と「彼は痛い」の違いは直接的記述と間接的推測の違いであると考える「痛み」とは自分の直接的体験の名称である。 ウィトゲンシュタインによる言語概念(「規則に従う」) 私的言語とは我々の言語から逸脱したものであるのだから、まず我々の言語とは何という問題を明確にしておきたい。ウィトゲンシュタインによる言語とは共同体の制度・規則の下行われて始めて意味を持つ。(親が子に命名するというのが規則だから親は命名することができる。しかし他人は命名できないのは規則
クリプキ批判と「規則に従う」の発見 しかしクリプキの主張をみてみると、§201の後半をまるまる無視していることが分かる。それを見てみるとクリプキが言及するような懐疑論的パラドックスや懐疑論的解決など主張しておらず、逆にウィトゲンシュタインは明確にそのパラドックスは「誤解」を基としていると言い、その考えを排除している。 ・しかし「此処には、一致も不一致も存在しない」と言うとすれば、そこには、ある誤解がある。このことは、我々はその思考過程において解釈に次ぐ解釈をしていると言うことの中に、すでに示されている。このことを通して我々が示すことは、こうである:規則のある把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」といい「規則に反する」と言うことの中に現れるものである。(§201) このようにクリプキが言うパラドックスやそれの解決方などはウィトゲ
ウィトゲンシュタインのパラドックス (クリプキによる解釈) 懐疑論的問題(Sceptical problem) ウィトゲンシュタインは(§185)においてある奇妙な数列の問題を提示する。ある教師が2,4,6,8…という数列を教えていた。しかしある生徒が100を超えてから、98,100,104,108…という法則と異なった数列を言い出した。この例が示すことは、この生徒に彼の誤りを言葉で説明できないということである。生徒にとっては上記の数列が「自然」であり「規則的」なのである。我々が98,100,102,104…という数列を自然であると感じるのと同じように生徒も98,100,104,108…という数列が「自然」なのであり、その状態を自然に感じ何の疑問も抱いていない。また、教師は自分に対して生徒が間違っていること を説明できない。我々は100+2=102であるという確信をもつが、その確
「探求」における後期のウィトゲンシュタインは、「言語を話すことがある活動の、あるいは生活形式の一部であることを際立たせる」(§23)意図を込めて、「わたしはまた、言語とそれが織り込まれる諸活動の総体も「言語ゲーム」と名づける」(§7)といった。このような永遠の相の下での世界認識の道具としての言語(proposition)という考えを突き崩そうとする(「論考」を論駁しようとする)。彼はそのために、我々の言語使用をその規則(論理)との関係を考え直そうとする。其処で彼が用いるのが、言語とゲームとの類似関係である。 「探求」の言語観によれば、我々の言語使用は全て、複数の人間どうしで行われるゲームのように、人間観の行為として遂行される。この好意は常にそれ自身の規則にのっとってのみ可能になっているのであるが、しかしその規則の限定や批判は、それを行っている個人の内的な了解や、それを第三者的に観察して
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