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大谷翔平
hiroshisj.hatenablog.com
本当によい行い 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:9-14) 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とイエスは言いま
不正にまみれた富 「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百
誇るべきもの このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。(ガラテア6:14-18) 「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」とパウロは言います。イエス・キリストと共に自分を十字架にかけ、神にすべてを捧げたわたしたちに、もし誇るものがあるとすれば、それ
四人目の博士~愛の贈り物 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見
《今日の福音》ルカ12:35-38 主人の帰りを待つよい僕のように、いつ主人が帰って来てもいいように準備していなさいとイエスは言っています。「主人が帰ってくる」という表現は、世の終わりに審判者である「人の子」イエスが再び来られることの比喩と考えられます。いつ世の終りが来てもあわてないように、神の御旨に従った生活をしていなさいとイエスは言いたかったのでしょう。 柳田敏洋神父様は、ここで「目を覚ましている」という言葉が使われていることに注目しています。仏教で煩悩から解放され、解脱した人のことを「覚者」(ブッダ)と呼ぶことと響き合う表現ではないかと考えられるからです。わたしたちはキリスト教徒も、自我への囚われから解放され、いつも聖霊の力によって目覚めている必要があるでしょう。 《洗礼と堅信》 今回は、キリスト教に入信するプロセスの中で中心になる洗礼・堅信・御聖体の3つの秘跡の中から、特に入信に固
大阪城公園のスズメたち 青葉が生い茂る5月の大阪城公園で、スズメたちの日常生活を覗いてみました。まずは、お散歩中のスズメ。きれいに咲いたタンポポの前で立ち止まりました。 うっそうと生い茂るジャングルのような雑草。中に餌が隠れているかもしれません。 仲間たちを呼んで、一緒に餌探しに出発です。 スズメの幼鳥が、枝にしっかりつかまって仲間たちの行方を追っていました。まだ黄色いくちばしとずんぐりした体形、かわいらしいですね。 気持ちのよさそうな砂場を見つけたスズメが、たまらずにダイビング。砂浴びの時間です。 仲間もやって来て、2匹でうれしそうに砂浴びをしています。遊んでいるようにも見えますが、体から寄生虫を取り、飛翔能力を万全に保つための重要な日課です。 砂浴びに疲れたのか、砂の中に折り重なって横たわる2羽のスズメ。とぼけた表情がかわいらしいですね。 枝にしっかりつかまって、辺りを見回すスズメ。野
「マザー・テレサに学ぶキリスト教」第9回〜「霊的な闇」1 1997年「神の愛の宣教者会」が公刊した資料集 “Come Be My Light”は、マザー・テレサを慕う世界中のすべての人々を驚愕させました。この資料集で公開されたマザーの書簡には、わたしたちが知っているマザーとは違う、ある意味で「マザー・テレサらしからぬ」言葉が書き連ねられていたからです。そこにわたしたちが見たのは、神の愛を全く感じられない闇の中を、ただイエス・キリストの十字架だけに希望を置いて進んでいく信仰者としてのマザー・テレサでした。 この「霊的な闇」の体験は、マザーがスラム街に出た直後から始まり、マザーが帰天するまで約50年にわたって続いたと言われています。闇を味わい尽くしたマザーは、生前次のように書き残しています。 「もしわたしが聖人になるなら、『暗闇の聖人』になるでしょう。いつも天国を留守にして、地上で闇の中にいる
第32回「解放の神学」の挑戦 現代のキリスト教は、世界の貧困に直面したとき「貧しい人たちの苦しみを無視して、自分たちだけが救われるような宗教でいいのか」という深刻な問いを突き付けられました。貧しい国では、教会の前で人々が飢えや渇きに苦しんでいるのを知りながら、教会でミサを立てなければならないキリスト教徒たちもいます。そのような人たちにとって、この問いがどれほど深刻なものであったか想像に難くありません。この問いへの答えとして生まれたのが、今日ご紹介する「解放の神学」です。 参考までに、世界食糧計画の最新の統計によれば、現在飢えや栄養不良で苦しんでいる人が地球上に8億5000万人おり、そのうち3億5000万人は子どもです。それが原因でいのちを落とす人が、1日に2万5000人おり、そのうち1万8000人は子どもです。6秒に1人の子どもが、餓えのために命を落としているということになります。 1.「
《今日の福音》マルコ2:23-28 イエスの弟子たちが、歩きながら他人の畑の麦を摘み取り、手でもみほぐして食べています。どうも行儀の悪い行動ですが、この行動にはきちんと聖書的な根拠があります。申命記23章26節の「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」という規定です。律法は、空腹な旅人や貧しい人などを想定して、他人の畑で麦の穂を摘んでも食べていいと規定しているのです。神様は空腹で苦しんでいる人々に対して深い憐みを示す方だということが、この規定から分かります。 ところが、ファリサイ派の人々は弟子たちの行動についてイエスに苦情を言います。彼らが穂を摘み取ったのが安息日だったからです。ファリサイ派の人々は、安息日に麦の刈り入れという労働をすることが、モーセの十戒の「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト記20章8節)という規定に反すると考えたのです
生きる力 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンであ
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