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衆院選
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落語は今までご縁のない伝統芸能だった。国立劇場や演舞場などでポスターを目にする機会は多々あれど、自分から足を運ぶほどの興味はなかったというのが正直なところ。でも、数年前心游舎のワークショップで落語を取り上げたいという話になり、落語家の立川志の八師匠をご紹介いただいてから、急に落語との距離が近づくことになったのである。 初めての落語は「時そば」をオンラインで コロナ禍であったこともあり、ワークショップはオンライン開催。事務局は、参加者は見るだけ、質問などはチャットでというウェビナー形式を想定していたのだが、打ち合わせのときに師匠が待ったをかけた。「落語は観客との対話があって成り立つもの。画面に向かって話し続けるのはちょっと」と。なるほど。確かに仰るとおりである。落語家さんは、客席の反応を見ながら、話すスピードを変えたり、身振り手振りを大きくしたり、毎回少しずつ対応を変えながら高座を務められる
TOP Culture 「えー!」と思わず声が出たことも。祖父・三笠宮殿下の「日本舞踊」のお姿【彬子女王殿下が次世代に伝えたい日本文化】 歌舞伎、能、狂言、文楽、日本舞踊…様々な伝統芸能関連の公演の際に、度々会場で目撃される私は、「伝統芸能に造詣が深い人」と思われている節がある。だから、時々聞かれる。「彬子様は日本舞踊とか仕舞とか、やってみようとは思われないんですか?」と。 三笠宮殿下が、70歳頃に始められた日本舞踊 答えは、「No」である。第一の理由は、既に伝統芸能関連の方々に友人・知人が多いこと。「師匠」として出会った人が「友人」になるのはいいのだが、「友人」であった人が「師匠」になると、その時点でその関係性が変わってしまう。友人と師弟関係が生まれ、それまではフラットな目線でできていたはずの会話ができなくなってしまうのが嫌なのである。 そして、第二の理由が素晴らしい人の舞台を見すぎてし
コロナ禍になってから、心游舎ではオンラインのトークセッションやワークショップなどを始めた。中でも好評なのがオンライン料理教室である。一般的な料理教室は、キッチンスタジオのようなところに生徒が集まり、同じ材料と同じ調理器具を使って行うものだと思うが、心游舎の料理教室はオンライン。京都の名店に伺い、現地からウェブ会議のシステムを使って配信し、参加者の皆様には、ご自宅の台所からスマートフォンやパソコンをつないで参加していただくというスタイルである。 オンラインだからこそできる、貴重な体験 オンラインなので、日本全国、また海外におられる会員の方にも参加していただけるし、お子さんが小さくて、なかなか対面のワークショップには参加できないという会員さんも、ご自宅からなら参加しやすい。こちらから材料をお送りする場合もあるけれど、基本的にはご自身で材料を調達していただくことになっているので、近所のスーパーで
鹿児島県の離島である奄美大島。 そんな奄美大島の空港に降りると、驚くことがある。 とにかく、空港の土産物屋が「黒糖」一色なのだ。そのままの黒糖はもちろん、黒糖チョコレート、黒糖ピーナツ、黒糖バナナ。はては黒糖焼酎から黒糖とよもぎを使った黒いお餅「ふちもち」まで。いやはや、これでもかというほどの「黒糖」推し。 奄美大島の人はそんなに黒糖が好きなのかとも思ったが。じつは、島には、黒糖にまつわる知られざる暗黒時代があった。俗にいう「黒糖地獄」である。 島の歴史を語る上で「黒糖」だけは外せない。 ということで、「知る旅―奄美大島」の次の取材先はコチラ。 昭和60(1985)年創業の「水間(みずま)黒糖製造工場」である。 水間黒糖製糖工場 奄美大島とは切っても切れない「黒糖」。そんな黒糖を昔ながらの手作業で製造し、今なお伝統を守り続けている「水間黒糖製造工場」を訪れた。 今回は、黒糖製造に携わる人た
心游舎を始めて気付いたことの一つに、「なんで?」の力がある。子どもは、わからないことがあると、なんでも「なんで?なんで?」と聞いてくる。「お茶ってなんでにがいの?」とか、「なんで神社で手を洗うの?」とか。 私たちは大人になるに従って、「なんで?」とあまり考えなくなる気がする。「なんでかようわからへんけど、そういうもんや」と思っていることが多くなってはいないだろうか。間違ったことを正しいこととして認識しているかもしれないし、いざという時にきちんとした判断ができないことも出てくるかもしれない。この「考えることをやめる」のはとても危険なことだと思うようになった。 神様に対する「なんで?」 以前石清水八幡宮でワークショップをした際、境内散策をしたことがあった。そのとき参加していた子どもの一人に、境内に点在する摂社・末社を横目に見ながら「この神さんは三人でちっちゃいおうちに住んでるのに、こっちの神さ
はじめに かつて日本は強大な軍事力を保有していました。日本が強国であることは東洋の安定に繋がり、ひいては世界平和にも貢献できると、日本人が本気で信じていた時期もありました。明治新政府が徴兵令を施行して「皇軍」を創始してから第二次大戦に敗れるまで、旧日本軍が存在したのは僅かに70有余年のことに過ぎませんが、その爪痕は現在なお大きく残っています。その旧軍が、どのように生まれたかを辿ってみましょう。 国民国家と軍隊と 明治維新の20年前、欧州では1848年革命=「諸国民の春」によってウィーン体制が崩壊し、続々と国民国家が生まれました。スペインやオスマン帝国の支配から脱した諸国民が主権国家を築いたのと同時に、(日本における幕藩体制のように)小国が分立していたドイツやイタリアでは統一国家が生まれました。それら国民国家は、当然のこととして、自衛のために軍隊を保有します。 江戸時代の日本には、幕府による
「鍵善良房」の水ようかん「甘露竹(かんろたけ)」。 青竹にようかんを流し込んだこのお菓子は、京都の夏の風物詩として知られている。今となっては、京都のみならず、いろんな店がこのスタイルで水ようかんを販売しているが、「鍵善良房」が始めたのは昭和初期。京都の中でもかなり早かったと聞いている。 青竹を蓋しているのは、一枚の笹の葉。シュルっと笹の葉をほどくと、青い香りが鼻をくすぐる。錐(きり)で底の節に穴を開けて、そっと振るとようかんがすべり出てくる。 「甘露竹」の販売期間中は、本店喫茶室でおうす(抹茶)と一緒にいただくこともできる。 つるん、と寒天が口に入るところまでは覚えているのだが、そこからが早い。みずみずしく口の中でほどけて、すっと消える。あんのやわらかな甘みが、わずかに舌の上に残るのみ。 この”はかなさ”を何にたとえよう…と思ったら、それこそが菓銘「甘露竹」なのだと腑に落ちる。笹の葉に浮か
この記事をご覧になっている方の中には、美術館や博物館などに行った際、古代中国の青銅器を目にしたことがある方も多いと思います。謎めいて神秘的なこれらの青銅器は、今から約三千年前、殷周時代に生み出され、国や時代を超えて多くの人を魅了してきました。 そんな魅力的な中国古代の青銅器ですが、一見、何に使っていたのか想像もつかず、文様なども奇想天外であるため、どうやって鑑賞すればいいか分からない、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。 今回は、世界でも屈指の青銅器のコレクションを所持する泉屋博古館の学芸員、山本堯(やまもとたかし)さんに、青銅器とは何かというところからその奥深さまで、広く語っていただきました。 ※美術品として特に評価が高いのは殷周時代の青銅器で、泉屋博古館には殷周青銅器のほか、後の時代の青銅器も所属されています。なお、この記事で「青銅器」という場合、殷周とその周辺の時代の青銅器を
「八百万(やおよろず)の神」という言葉があるように、日本の神様は数が多いですが、「電気・電波」の神が祀られる日本で唯一の神社があります。 場所は、多くの観光客を惹きつける京都嵐山の渡月橋近くに位置する名刹、法輪寺です。 このお寺の境内には、電電明神を「電気・電波を司る祖神」として祀る電電宮(でんでんぐう)があります。 老舗の家電メーカーから新進のIT事業者まで、電気や電波に関連する企業から参拝者が足しげく訪れる電電宮とは、どのような所なのでしょうか。実際に訪れてみました。 「嵯峨の虚空蔵さん」と親しまれる法輪寺 嵐山ふもとの地域は、古くは葛野と呼ばれ、4~5世紀の応神天皇の治世には、中国からの渡来人によって開発がなされ、繁栄を謳歌していました。 くだって奈良時代に元明天皇が、行基菩薩に命じこの地に木上山 葛井寺を建立しました。713年のことだそうです。 平安時代の初期、道昌(どうしょう)僧
能ときくと、ゆっくりした動き、低くうなる声などを想像してしまう。だが、しかし! 足利義満や世阿弥の時代、能のテンポは今の2~3倍速かったという衝撃の研究があるらしい。 なぜ今の能は遅くなったのか? さっそく研究者に聞いてみよう。お話を伺ったのは、早稲田大学演劇博物館顧問・早稲田大学名誉教授の竹本幹夫先生。秀吉の時代の資料を集め、当時の速いテンポとメロディーの能を復元した経験がある先生だ。 尚、聞き手はオフィスの給湯室で抹茶をたてる「給湯流茶道(きゅうとうりゅうさどう)」。「給湯流」と表記させていただく。 「演技がノロすぎる!」と徳川幕府に通報され、出禁になった能楽師もいた? 給湯流茶道(以下、給湯流):今の能に比べて、世阿弥のころの能は2~3倍の速さで演じられたと聞いたことがあります。しかし、映像データが残っていない室町時代のことをどうやって調べているのでしょうか? 竹本幹夫先生(以下、竹
暗闇で「暗くてお靴が分からないわ」と履き物を探す女性に第一次世界大戦後に造船業で成功した恰幅の良い実業家(船成金)が火をつけた百円札をかざし「どうだ明るくなったろう」というセリフの描かれたインパクト絶大な風刺画。歴史の教科書で見たことがある!という人も多いのでは?この風刺画を書いたのが和田邦坊(わだくにぼう)なのです。この作品は発表して90年以上もたちますが今でも様々なメディアで取り上げられ、令和になった今でもSNSでバズったりもしているのです。邦坊とはいったいどんな人だったのでしょうか? 和田邦坊「成金栄華時代」※全ての作品画像提供:灸まん美術館和田邦坊画業館 作者・和田邦坊とは? 小説家、商業プロデューサー、画家とマルチな活躍 和田邦坊は香川県出身(1899~1992年)で時事漫画家、小説家、商業プロデューサー、讃岐民芸館館長、デザイナー、画家として活躍しました。 和田邦坊 1929年
あなたは「イケメン日本画」をご存じだろうか。立派な、この図屏風…… ▲男子楽園図屏風/木村了子 よく見ると現代のイケメンが描かれている。しかも農作業中! この作品を描いたのは、木村了子さん。椎名林檎や坂本冬美の作品にも絵を提供する売れっ子作家だ。東京藝術大学の出身で、西洋画を学んだそう。しかし今は、日本画の手法で現代のイケメンを描いている。木村さんが描く男性は美しい顔なのに、よく見るとじわじわ笑いがこみあげる。この独特のおかしみはどこから来るのか……日本美術史の研究者に聞いてみた。また、記事の後半では木村さんご本人も登場! なぜ油絵から日本画に転向したのか、涙と笑いあふれる経緯をきいた。お二人に話を伺うと、日本美術の歴史にもいろいろな「男女問題」があったことが判明。そんな件も含め、ぜひお読みいただきたい。 尚、聞き手はオフィスの給湯室で抹茶をたてる「給湯流茶道(きゅうとうりゅうさどう)」。
鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡(あずまかがみ)』にはこのように書かれています。 矢口の餅を用意したのは、北条義時(ほうじょう よしとき)です。一枚のお盆の左側に黒色の餅が三つ、中央に赤色の餅三つ、右側に白色の餅三つが置かれていました。餅の大きさは、長さが八寸、幅が三寸、厚さが一寸です。このお盆は三枚用意されて、頼朝様の御前に置かれました。 こんなカンジですかね……? 最初に工藤景光(くどう かげみつ)が呼ばれて前へ出てきて、蹲踞(そんきょ)しました。 蹲踞とは、当時の武士が目上の人に対して改まった座り方です。相撲や剣道の試合前の座り方ですね。 そして白い餅を真ん中に置き、赤い餅を右側に置き直しましました。 あらあら、義時が間違えちゃったんでしょうか それからそれぞれを一つづつ取って、黒が上、赤が真ん中、白が下になるように重ね、座っている左側の横に倒れた木の上に置きました。この分は山の神に供
犬王(いぬおう)をご存じだろうか。足利義満の時代にめちゃくちゃ人気があった能楽師だ。世阿弥が美少年だったころ、義満にかわいがられたエピソードをご存じの方は多いだろう。しかし世阿弥が大人になったころ、むしろ義満は犬王のほうを推していたとか。 当時の大衆人気もすさまじく、犬王が出るステージはいつも満員。一目でも犬王を見ようと、近くの屋根にのぼって見る客もいたというからすごい。しかし今、犬王の記録はほとんど残ってないという。そんな謎に包まれた犬王が主人公として歌い踊るアニメが2022年5月28日(土)から全国の映画館で公開されている。 ▲©2021 “INU-OH” Film Partners 監督はアニメ『映像研には手を出すな!』の湯浅政明、脚本は『アンナチュラル』野木亜紀子、キャラクター原案は松本大洋、音楽は『あまちゃん』大友良英、と、人気者たちが名を連ねる。さらに声優は、アヴちゃん(女王蜂
藤子不二雄Ⓐの『まんが道』。 1970年に『週刊少年チャンピオン』に連載された「あすなろ編」にはじまり、2013年に続編『愛…しりそめし頃に…』が完結するまで43年にわたって描かれた半自伝的作品。 フィクションの要素が多いながらも、藤子不二雄(ふじこふじお)両名をモデルとした満賀道雄(まがみちお)と才野茂(さいのしげる)の歩む青春が、戦後草創期のマンガと共に描かれていく。マンガ家ならずとも、なにかの志を持って上京した人には欠かせない、生涯何度も読み返す作品だろう。 誰もが成功するわけじゃない『まんが道』 でも『まんが道』は単なる成功の物語ではない。今なお伝説として語られるトキワ荘に集う若きマンガ家たち。 彼らのすべてが成功したとは言い難い。 例え成功しなくても……創作に人生を賭ける者は絶えない 中でも読み進めるうち次第に気になってくるのが、同じくマンガ家を志していた森安なおやである。 藤子
こんにちは。いくつかのシリーズで私を認識している読者の方は、なんとなく「承久の乱の朝廷方推しなのかな?」と感じている人もいるでしょう。そうです。めちゃくちゃ朝廷方推しです。 2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、北条義時が主役なので、朝廷関係者はどれほど出るのかは不明ですが……。承久の乱を描くには外せない貴族が4人います。それが、乱の首謀者として処刑された、葉室宗行(はむろ むねゆき)、葉室光親(はむろ みつちか)、高倉範茂(たかくら のりもち)、源有雅(みなもと ありまさ)です。 彼らは承久の乱の後、源有雅は東山道(とうざんどう=近世の中山道)、他3人は東海道を通って鎌倉に護送されますが、その途中で処刑されてしまいました。 そこで今回は東海道で鎌倉に向かった3人の貴族を追ってみました! 葉室宗行の半生 葉室宗行さんは承安4(1174)年生まれ。後鳥羽上皇の側近で権中納言(ごん
もし「東京の城といえば?」と問われたら、何と答えますか? たいていの人は「江戸城」と答えるでしょう。現在の皇居を含む、日本最大の城跡です。「では、江戸城以外では?」と重ねて問われたら、どうでしょう。「他にもあるの?」というリアクションをする人が多いかもしれません。そもそも世界有数の大都市東京と、昔の城跡のイメージは結びつきにくいものです。しかし実際のところ東京には、23区内に約100、多摩地域を含めた東京都全体では約200もの中世の城がありました。ちょっと驚きませんか? たとえば八王子市の滝山城や八王子城、町田市の沢山(さわやま)城など、多摩地域には当時の姿をよく留める山城や丘城の跡がいくつもありますし、23区内でも世田谷区の世田谷城や、練馬区の石神井(しゃくじい)城などは、土塁や堀などが比較的わかりやすいかたちで現存しています。 さて、それら都内の城の中で、戦国時代に山内上杉(やまのうち
みなさんは「武士」と聞いたら、いつの時代を思い浮かべますか? 鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代か……意見が分かれそうですね。武士はそれだけ長い間、日本の支配階級として権力を持ちつづけていました。 武士スタント逢坂くん!(1) (ビッグコミックス) 武士の起源はどこにある? 平安後期に、武士はそれまでの支配階級だった貴族に代わって実権を持つようになりました。やがて鎌倉幕府が誕生し、武士は日本社会の中心的存在となっていきます。 もちろん、彼らはある日ひょっこり誕生したわけではありません。平安時代に台頭した武士の起源は諸説あり、以下のように言われています。 貴族に支配される都に対し、地方では有力な農民が豪族として力をつけ、彼らが自衛のために武装するようになった。 もともと都には、武芸を生業(なりわい)とする家系に生まれ、武の専門職(武官)として朝廷や貴族に仕える下級貴族たちがいた。 問題の
「歴史にifはない」と申します。確かに、過去や今は変えられません。日々の小さな出来事の積み重ねで、私たちの「今」があるのですから。 しかし、未来は変えられます。歴史を紐解き「もし、あのときこうだったら」を考えれば、新しい未来が見えてくるかもしれません。NHK大河ドラマ『青天を衝け』の舞台となった激動の幕末・明治から「何が起きなかったか」を一緒に考えてみませんか。 ※本シリーズは歴史ライター・大山格氏のご寄稿によるものです。
アニメ『鬼滅の刃』の舞台としても登場する遊郭。そこで働いていた遊女たちにはいろいろな格付け、仕事上の階級がありました。立場によっては、働きかたも大違い。 遊女の格、そして格上の遊女に必須の資質とは? 遊郭ってどんな場所? 豊臣秀吉が天下を統一したのち、1585(天正13)年に大坂に、1589(天正17)年に京都に遊女(ゆうじょ)を集めた場所をつくったのが遊郭(ゆうかく)の始まり。女好きの秀吉は、遊女を集めて武士たちを慰労しようと考えたようです。 江戸時代にはそれを引き継ぐように江戸吉原、大坂新町、京都島原、長崎丸山など全国に約20カ所の遊郭が設けられました。実は最初、幕府は徳川家に敵対心を持つ浪人が遊女たちを隠れみのに集まるのを警戒し、江戸から遊女を追い出そうとします。が、それをあきらめて遊女を1カ所に集めるという形で、取り締まることにしたのです。 遊郭の郭とは城の囲いのこと。遊郭が周囲を
日本人には知られていないが、海外では人気の日本製品。 そのような内容の記事を、筆者は他のメディアでも書くことがある。日本人は、案外自分たちのことをよく知らない。たとえば「海外では日本のこんな製品が話題になってるんだよ」と書くと、時折その記事がバズってしまう。疑い深い人は「澤田はまた嘘をついている」などとSNSに書いたりするが、まあそれだけこのネタはよく読まれるということだ。 今回は、ナイフの話である。 肥後守(ひごのかみ)と男子小学生 さて、筆者澤田真一はナイフコレクター。 ナイフは文明の礎である。道具を作るにも料理をするにも、ナイフは絶対に欠かせない。また、ブレードの製造は高度な技術がなければできない。人間が人間である所以、それはナイフの存在である。 昔の子供は、それを直感的に理解していた。 兵庫県三木市の企業永尾かね駒製作所は、『肥後守(ひごのかみ)』という折り畳みナイフを製造している
お米が主食の日本。日本人なら、釜でたかれた艶々でホカホカのご飯を目にして「美味しそう」と感じない人はいないのではないでしょうか。白米はもちろん、旬の食材をお米と一緒に炊いた「釜めし」は、日本人の心を捉えて離さない料理です。 「釜めし」と聞くと一番に思い浮かぶのが、駅弁「峠の釜めし」。ぽってりと重みのある器が印象的ですよね。 素焼きの蓋を開けると、中には色とりどりの食材がぎゅっと詰め込まれていて、どこか懐かしく、幸福感に満たされます。
「日本語研究を大成した人は誰ですか」 「本居宣長」 本居宣長の功績は歴史や国語の教科書にも記されている。多くの人々はそう答えるかもしれない。 日本にキリスト教をもたらしたイエズス会もまた日本語研究に多大な貢献を果たしていたことはご存知だろうか。 驚くべきことに、外国出身でありながらイエズス会の宣教師が成し遂げた功績は、天才国学者として讃(たた)えられた本居宣長を凌駕するものであったのだ。 イエズス会の宣教師は日本文化の翻訳者だ イエズス会の宣教師は、キリスト教の伝道師のみならず、いわゆる日本文化の翻訳者でもあった。 イエズス会は活版印刷技術の黎明期に、実に多くの日本語研究書や教義書を総集成し、天草や加津佐(かづさ)の地にてポルトガル式ローマ字本や国字本を刊行。宣教師たちは『平家物語』や『伊曾保物語(いそほものがたり)』、『金句集(きんくしゅう)』を日本語教材にするために、室町時代の話し言葉
みなさん「おから」と聞いて思いつくのはどんなお料理でしょう? 私が1番に思いつくのは、お野菜が具材でお出汁で甘辛く味付けした炒り煮。最近では、ドーナツやケーキに混ぜてあったり、ヘルシー食材としてポテトサラダの代わりにも使われていますね。 私は、おからが大好きで、特にお葱と浅利を具材にして炊いたものが大好物! しかし、子供の受けがあまり良くなく、張り切って作ってもあまり食べないので悩んでいました。 おからで「やったー!」と喜んでほしいと思うのは贅沢かしら、と思いながら試作を重ねて出来たのが今回のお料理です。 これを出すと初めは不思議そうだった子供達も、今では「やったー!たくさん食べる!」と大喜び。朝におやつに夜ご飯に、大好物になりました。意外なことに、私の両親もお気に入りで、教えたところよく作っているそう。おつまみやサラダの具にもぴったりなんです。 (材料) 生おから 300g 玉ねぎ 1
今までに体験したことのない自粛生活。自分を律することの難しさやリアルに人と会えない、話せない生活は、否応なしに自分自身と向き合う時間となった。「美味しいものが食べたい!」「外に出たい!」「喋りたい!」など、あまりに当たり前だったことができないことの辛さ、もうこれは修行以外の何物でもない! そう思い、血迷いながら占いにはまったり、瞑想してみたりするものの、心落ち着かない私は、考えあぐねた結果、一つの答えを得た。「そうだ、仏像を彫ろう!」。仏教美術の知識にうとい私でも、仏像を見るとなんだか心落ち着くではないか。しかし思い立ったのもつかの間、すぐに壁にぶち当たった。何を隠そう、私は子どもの頃から家族もあきれるほどの不器用だったのだ。その顛末は最後に書くとして。 この仏像を生涯に12万体も彫ったといわれる人物がいた。江戸時代に生きた円空上人だ 「善財童子立像」(神明神社所蔵)円空自身と言われる善財
最近、何気なくtwitterを見たら、トピックスに有名タレントの訃報を伝えるニュースがあってびっくり、ということがあります。 「最新ニュースの情報源って、SNSが発達する以前は何だったんだろう? テレビ、ラジオ? 新聞? その前は……?」と遡っていったところ、江戸時代には「瓦版(かわらばん)」というメディアがありました。瓦版とは、地震・火事から仇討(あだうち)・心中事件といったワイドショー的なネタを記事にして街頭で売り歩いた印刷物のこと。これとは別に、「死絵(しにえ)」と呼ばれる訃報を伝える錦絵もあったとか。 そこで、この記事では「死絵」を取り上げ、どのようなものだったのかを紹介します。 そもそも、「死絵」とは? 「死絵」とは、歌舞伎役者など、人気のある人が亡くなった時に訃報と追善を兼ねて作られた錦絵のこと。江戸中期から明治後期にかけて出版されました。 その特徴は、役者の似顔絵に亡くなった
「初めてフランスに来た日本アニメ」、「日本アニメの火付け役」、「ジャパンポップカルチャーの伝道師」。なんのアニメかわかりますか? フランス名は「ゴールドラック(Goldorak)」、日本では「UFOロボ グレンダイザー」と呼ばれています。 それでも、ピンと来ない方は「マジンガーZ」の3シリーズ目と聞いたら、少しイメージが湧くでしょうか。日本ではあまり馴染みがないけれど、フランスでは誰でも知っていて、今もなお絶大な人気を誇っています。日本でロボットアニメといえば「鉄腕アトム」、「鉄人28号」が先駆けとなり、「マジンガーZ」で更に飛躍したといわれています。そんな「マジンガーZ」の3シリーズ目が、製作45周年という節目にパリで続々とイベントが企画されています。なぜフランスでそこまで人気なのか、その秘密に迫ります。 フランス人が半世紀近く愛する「ゴールドラック」とは 2021年9月15日(水)から
サムネイル画像は日本海海戦後に凱旋した第一艦隊幕僚たち。秋山真之会編『秋山真之』(昭和8年。国立国会図書館デジタルコレクション)より はじめに 日露戦争の発端は何処にあるのでしょうか? 日本がロシアを仮想敵国として強く意識しはじめたのはシベリア鉄道の着工がきっかけです。そのことは【日英同盟の回】で詳しく書きました。鉄道が開通する前、すでにロシアの版図は沿海州にまで及び、さらに領域を拡大しようとする形勢にあって、欧州と極東が鉄道で結ばれれば、さらに進出してくるだろうと予測されていました。 日本が恐れていたのは、かつてモンゴルが九州を襲ったときのように朝鮮半島が列強の基地になることでした。理想からすれば、日本は清国、朝鮮国と提携して列強の東アジア進出を食いとめることが望ましいのですが、現実には【日清戦争】に至ってしまいました。そして、戦争には勝利したものの、三国干渉によって領土は獲得できません
1981年12月20日寬仁親王殿下の第一女子として誕生。学習院大学を卒業後、オックスフォード大学マートン・コレッジに留学。日本美術史を専攻し、海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行い、2010年に博士号を取得。女性皇族として博士号は史上初。現在、京都産業大学日本文化研究所特別教授、京都市立芸術大学客員教授。子どもたちに日本文化を伝えるための「心游舎」を創設し、全国で活動中。
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