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大谷翔平
jouno.hatenablog.com
http://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/20060725#1153746892 メディア・リテラシーについては以前書いた。 http://d.hatena.ne.jp/jouno/20041206/1102344331 今読み返すと、かなり読みにくい文体で、いろいろ考えが変わっているところもある。(教育の必要、とか)しかし、あの頃から、メディアリテラシーを唱えることに感じる胡散臭さというのは、少しも変わっていない。そこで、改めて、いったいぜんたい、何故、安易なメディアリテラシー意識が、結果として、読み手が、自分の解釈で、テキストを好き勝手に判断してよい、テキストを尊重しなくていい、という陰謀論的な方向に向かってしまうのか、ということを考えてみた。 第一に、そして最終的に、基本にあるのは、われわれは、判断せざるを得ない、ということがある。メディアリテラシーは、少
http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060727/1153958256 こういう言論の問題は、工夫する能力そのものが、環境次第で容易に欠損しうるということへの想像力がないことだ。工夫しさえすればよい。そのとおり。問題は、工夫する能力こそが物質的情況によって、まずはじめに失われるものだということだ。すべて、こういう議論は、ワーキング・プア関係でもそうだが、物質的情況は、精神を犯さないという前提がある。がんばる能力、工夫する能力こそが、物質的支援を何よりも必要とする、いちばん容易に喪失されるものなのだ。工夫できないということは、工夫しない、工夫したくないということではない。そのような読み替えこそが、つねに叱責の回路を可能にする。競争に伍せないということの、源泉の大きなもの、それは物質的リソース、手札の不足と同時に(とは
失われた時を求めて、の囚われの女、と、蟲と眼球と殺菌消毒、を読んだ、読んでいる。途中なのは前者。 日日日は面白い。かなりはまっている。いま一番なのは凶華様だろう。それで、これはどういう高いハードルなのかわからないけれども、それでといっても、殆ど文脈と関係ないのだけれども、ヴィルパリジ老侯爵夫人と、極上生徒会のれーちゃん先輩との間には共通点がある。形容詞を三つ繰り返すところだ。 程度をあらわす副詞がかなりとかすごくとか、非常に退化していていかんともしがたい。これは明白な言葉の衰亡だ。 涼宮ハルヒの憂鬱について、セカイ系という指摘をするのは間違ってはいないが安易で、そこに批判とまではいかないが意識的に表面的構造として採用しているという事情があるのだから、そういう表面の構造を採用させている事情まで届かなくては、誰でも言える指摘に過ぎない。 ところで、神人について、使徒とかシシ神さまとか言っておい
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/10/post_bcc0.html で、これは面白いだけでなく重要な話で、関連で、昨日、コメントアウトした部分を復活させてみる。 で、ネオダーウィニズムの中でも、ドーキンスのストーリーなんかは「中の人」を作ってしまっている。つまり、彼の場合は「利己的な遺伝子」がデザイナーということになる。かれはわかってやっているんだろうけど、そこには抜きがたく目的論的=神学的語りが残存してしまう。むしろ現代の生物学はだから、セントラルドグマは崩れ、たんぱく質の重要性に着目し、西欧形而上学的な、本質=発現モデルではなく、相互作用=交渉モデルのほうに近い。 思うに、知的なものをより知的なもので説明しようという欲望は、新プラトン主義的な流出論モデルがあるんじゃないかという気がする。派生物はだんだん劣化するとい
折しも山形浩生が、小谷野敦ではなく室井尚を相手としてだが、過度の反・嫌煙プロパガンダに批判的な文章を書いていた。とりあえず一読では、返す刀での、行き過ぎた嫌煙派の現状への批判的目配りもきいていて、バランスの取れた論考という印象。 http://cruel.org/other/smoking.html via http://d.hatena.ne.jp/zokkon/20051001#c1128179502 追記。なんだ、ブックマーク見たらけっこう前から話題だったのか。 そういえば、かつて、シミンと思いやりでリンクしたページには 喫煙者を救え! http://www.letre.co.jp/~iwaki/smokers/ という論説があり、これもさすが出色の内容。 基本的には害は害として、嫌煙の行き過ぎはリベラリズムの立場で批判というのが穏当なのではないか。 しかし、これは思いつき程度のこと
http://d.hatena.ne.jp/iduru/20050909#p1 http://d.hatena.ne.jp/kowagari/20050909/1126273573 iduruさんが何にいらだっているのかよく分からない。というか、愛を、何か特別なものとして切り離して考えすぎだと思う。猫を飼え、というのは、不安を知るということだ。iduruさんが、猫と人とは違う、というとき考えているのは、関係のスキルの問題だ。アニさんが考えているのは、非モテの主体の側の条件なのである。つまり、心配するということに愛の原型の、まず主体の側の条件がある。iduruさんが考えている、関係としての愛が成立する条件としての「ただ愛するだけでは愛されないということの身体的体得」の「前」に、たとえエゴイスティックなものであれ、つまり、「猫かわいがりして医者に見せないでかえって殺してしまう母親」のような意味
そういえば、まさしく状態動詞の継続的用法の例で、参考ページにあるんだけど、 「さっきからここにいたよ」と 「さっきからここにいるよ」 はどう違うか、ってとっさに答えられない質問だよなあ。直感的にいうと、前者は「またせるんじゃねえ!」であり、後者は「気づけよ!」なのだが、それをどう分析すべきかが難しい。 とりあえず、前者は、問題になっている状態「いる」が、「今まで」とどう関係しているかに言及している。これはいわばアリバイにかかわる発言である。それに対し、後者は、「これから」とどう関係するかに言及している。これはリアクションを求める発言だ。 http://d.hatena.ne.jp/trivial/20050906 での既定事項という言い方はぼくもちょっと思いついたのだが、「確定」「対象化」というモメントは確実にある。しかしそれですべてわりきれるか、というと、ちょっと踏み込めない感じがする。
というのは便利な書き方だけれども、で、いまどう思ってるんだよ! と、はげしく突っ込みたくなるのはいかんともしがたい。 まあ、こういうふうに、特定の文言をどうこういうと何より自分がそういうふうにかけなくなってやな感じなので、本質的には、表現じゃなくて、内容の問題なんだけどね。つまり、説明しにくいのだけれど、印象とか感想のような時制をつけて語る意味のあるものと、判断や意見の場合は違うというような。現在はまた自分には違う意見があるかもしれないという余地をほのめかし的に残すことで、微妙に文責を逃れるような使い方をたまに見かける、というようなこと。
http://d.hatena.ne.jp/schillasal/20050829 ぼくとしては単純に言葉の定義の違いだけの問題とは考えていません。 つまり、どういう説得をしようと、「だからなぜそうしなければならないのか?」と常に問うことはできるわけです。 ぼくは、倫理を除きます、という文言というよりは、寄せられた回答に対する態度からして、この「だからといってなぜそうしなければならないのか」と原理的には常に問い返しうる、ということへの軽視あるいは無視がある、と考えたわけです。 なるほど、現実的な他者は、原理的につねに問い返しうるからといってつねには問い返さないわけです。つまり、実際にはまだ問う余地があるところで、なぜか現実的な他者は納得してしまうわけです。 で、もしも質問が、そういう現実的な他者を説得する論理を問う、ということなら、そもそも、普遍的な答えなんかないし、答えの間に優劣もないわ
はてなアイデアが投資志向の参加者が増えれば、そういうものとして回るという意見があるけれども、アイデアポイントには要望を実現する以外の価値がないのだから、要望志向よりもポイント獲得志向になるということはありえない。 たしかに貨幣とモノではそうした倒錯が存在するけれども、アイデアポイントでそうした倒錯が成立する可能性は現状ではない。なぜかというと、貨幣とモノでそうした倒錯が成立するのは、貨幣が強力な流動性(交換可能性、交換の自由度)を持っているからだけれども、アイデアポイントの形で持っていることのほうが、特定の要望に属するポイントという資産という形でもっていることよりも有利な理由があるだろうか。 そのためには、たとえば、つぎからつぎへと日常的に要望をたくさん抱いては適えられるという状況なら、自由な流動性のあるポイントを持っていることは有利だが、通常、参加者の抱く要望の数はそれほど多くない。流動
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050823 例としてあげるURLが適切かどうかは詳しくないので分からないし、類似もとりあえず表層的なものなのですが、essaさんの集団知論に関する違和感は、経済でひところ言われたニューエコノミー論(http://www.nagaitosiya.com/a/new_economy.html)やある種の「ブードゥー経済学」での市場への政府介入が市場の失敗の主原因であるという見方や、哲学での歴史の終焉論と類似のものを感じるからです。とくにニューエコノミー論への批判は参考になるのではないでしょうか。 集団知にはなにか単純な市場的な最適化プロセス以上の創造的機能があるという仮説の欠陥は、検証不可能なことです。撹乱要因という因子を恣意的に持ち出しうるならば、失敗の原因を外部に求めるか内部に求めるかは立場の違いだけになってしまう
残酷だから具体的・即物的な描写を子供に伝達する必要はないというのは、間違っている。第二次大戦は実際に神話的なアスペクトをもった戦争だった。普通の帝国主義戦争としての側面をいまは強調し、神話的側面は宣伝であったという言説が有力になりつつあるが、間違っている。そのうえ、さらにそこから切断されて、原爆の異様性は、その現実的感触を忘却しなければ、それを政治的に意味づけたり利用したりできないという性格のものだ。これは冷戦の核の特異性とも「違う」。使用された核と、使用されない核の意味は、やはり、決定的に違うのだ。使用されない核は、それがどれほど神話的で異常に政治的なインパクトを持っていたとしても、政治の範囲にとどまりうるものでしかない。わたしたちは、あたかも原爆を、政治的に利用されうるもののようにして語り、現に政治的に利用された神話として受け取り、それゆえに否定したりするが、そのことこそ、原爆の現実性
基本的な問題点は、経済と要望とで類似していない点にあると思う。 経済と違って、もっとも需要されたアイディアが、もっとも供給されるアイディアではないわけで、現行の仕組みが、表面化させるのは、あくまでも、供給(実装)に対する予測であって、需要(要望)に対する予測ではない。 需要はそれ自身に供給を引き起こす能力をもっているけれども、要望は実装をそれ自身で引き起こす自動的メカニズムをもっておらず、あくまでも、はてなの判断が介在する。 したがって、この仕組みが、実装に対する予測であるのみならず、要望に対する予測でもあるためには、はてなが、要望の絶対量に自動的に比例して実装するというルールで動かなければならないけれども、これは勿論、不可能なわけで。 勿論、株式部分ではなく素朴な市場部分は実需要(要望)の多寡に比例しているので、完全に投機的に実需要から乖離することはないと思うけれども。 つまり、実装への
簡単に言うと「笑いは狭いほど面白い」といった松本人志にあこがれるのも、内輪ウケ芸の開祖というべきとんねるずの石橋にあこがれるのも、シュールなノリのラーメンズにあこがれるのも、jounoさんの意見としては「趣味じゃないから、はてなダイアリーではやめてほしい」ということだと解釈した。 徹頭徹尾間違い。やめてほしいということも、趣味という話も、まして、はてなダイアリーで、という話も、一箇所たりともしていない。これは本気で、ひどい要約。 そんなことをいう筈がないじゃないですか。僕にどうしてあなたになにかをするなと命令する権利があるんですか。そんなくだらない越権を主張する痛いひとのように見せかけるのが狙いなんでしょうか。 ぼくは、あなたに一方的に決め付けられたから、それは違う、といっているんです。どうして、まるでぼくがあなたに何かを押し付けているような、真逆の話になるんです。 また、僕はこの三人の芸
http://d.hatena.ne.jp/otsune/20050604/p2 バトルではありません。すくなくてもここではまだ意見の対立なんてない。ぼくは知りたいから尋ねただけだし、かれは答えたくなければ断ればそれですむだけ。言葉が足りないのはそれ自体は別に悪いことではない。しかし、言葉が足りないこと自体に何かいわくありげな意味を見出そうとするのは間違っている。言挙げすることによって表現しようとしたことが失われたりはしない。わかりやすい知的な整理でやめるから何か違うということになるのであって、その違うということを大切にしてさらに続ければ、少なくとも、何でないかはわかる。それは、最初漠然とイメージでこんな感じかなあと思っている時点よりも、何倍もまし。もちろんひとは議論する義務はない。ただ、「無粋なマジレス」はことを明らかにする効果がないというのは間違い、ということ。ついでにいえば、芸事なら
http://d.hatena.ne.jp/kokorosha/20050509#p2 基本的にはそれほど異論はないのですが、現状のシステムにおいて、同格のほかのユーザーに削除提案されること自体が問題である、というニュアンスは違和感があります。削除の理由とか内容とか必要性とかがきびしく問われる、というのはわかるし、そのとおりだと思うんです。まして、現状、ユーザー削除の必要性はあきらかな登録ミス以外ではほとんどなくなっていますし。(実際かなり長い間ぼくは削除提案してませんし、その意思もありません) 感情的な問題としてはわかりますし、そういう配慮が求められるというのもわかるのですが、しかしユーザー削除ができる、それだけではなく、まずいとおもったら削除提案をしたり戻したりして、ユーザー同士で議論してください、というのは、はてなのシステム(抽象的で漠然とした意味ではなくて、サーバー側で日記などを実
へいぜい、メディア・リテラシー話のお決まりの、「これからはますます個人にうそや事実を見抜く能力が必要とされる」というのを聞くたび、自分は、はなはだ胡散な印象を禁じえない。 無理な要求であると思うからだ。一方では、そういう能力を体系化し、養成する教育制度というものを提案することなしに、そういう警句を吐いても意味などない。泥棒を道徳意識の喚起で解決しようとするようなものである。また、実際にメディアが信用を失えば、誰でもいわれるまでもなくメディアのいうことに慎重になるだろう。他方では、そうした訓練が一定の意味があるとしても、ひとは基本的にだまされるものであり、人間はだまされるものだということを前提にして、メディア状況の問題をかんがえるべきであって、人間の条件の方を仮想的に変更することで解決しようというのは筋違いだ。十分な判断材料のない場合、簡単に信じてしまうと同じくらい、簡単に否定してしまうのも
パンプキンシザーズがかっこいい。それと、いまさらカウボーイビバップ。 怪物王女もいい。 しかし、まえからデトロイトメタルシティのどこが面白いのかわからない。 landreaalはさすがにすばらしい。 グインに於けるツンデレの扱いの酷さについて。 ブルーバックスの「非対称の起源」絶賛読書中。なかなか、頭がくらくらしてくる感じ。 「電波的な彼女」シリーズ。こんなに面白いとは思ってなかった。 「ゴールデンエイジ」2巻。けっこう盛り上がってきた。 「いぬかみっ!」を途中まで読んでみたのだが、ここまではあんまり記憶に残らない普通の少女まんがという感じ。 そういえばあらいりゅうじとか赤城毅とかも記憶に残らない。そういうつもりで本人も書いてるんだろうけど。 壊憲という字面はけっこう悪くない。(ただし縦書の場合) Fateをやりたい。PS2を買う余裕がない。いわんやPS3に於いてをや。 いつもブリーチの扉
http://antipop.zapto.org/mt/archives/001249.php http://antipop.zapto.org/docs/translations/ajax.html http://jpspan.sourceforge.net/wiki/doku.php?id=javascript:xmlhttprequest XMLHttpRequestはいいよなあ、と思っていたけど、ちゃんと名前をつけて考察している人があったみたい。 URLメモをさらにメモ。 http://d.hatena.ne.jp/naonos/20050224/1109233424 あとこれもインターフェイスはjavascriptみたいなんだけど、すごい。 http://www.freem.ne.jp/contents/fun/triglav.html 追記。 javascriptのxmlrpc
http://jouno.s11.xrea.com/x/script/typekey/TypeKey.rb python版をほとんどそっくりもとにして書いてみました。あんまりテストしてません。 sample script程度に考えてください。いちおう動くはず。 参考 http://www.movabletype.org/docs/tk-apps.html http://uva.jp/dh/mt/archives/004510.html 追記。 http://www.namaraii.com/diary/?date=20050130#p01 via http://sheepman.parfait.ne.jp/20050207.html#p02 うわ。こんなところに正解が。ぼくはでたらめにやってたら偶然この構造になってるのを見つけたですよ。(なんとなくASN1.decodeしてみた)ちゃんと検
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