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大谷翔平
monsterspace.hateblo.jp
もはや一昔前のような気さえしてしまうが、「100日後に死ぬワニ」という1日更新型4コマがわりと流行った。これが秀逸だったのは「100日後に死ぬ○○」にそれなりの汎用性があることで、歴史オタ界隈でも歴史上の人物を○○に入れるのがそれなりにまた流行った(多くは一発ネタだったが)。ただ、実際問題として本当に死までの100日を追いかけられる人物は多くはない。まず病死の場合、死までの数日~数十日は病に苦しむので、日々にバラエティ感が出ない。そもそもの話として1日1日の動静の記録がわからない。 すなわち、「100日後に死ぬ○○」が可能なのは、1日の動静が丹念に記録に残り、なおかつ突然の死を迎えた人物に限られる。足利義教はこの両条件を満たす存在であるため、試みに100日の動静を調べてみることにした。 なお、この記事の情報はほぼほぼコピペみたいなものなので、この記事を参考に誰かが漫画化するとかSNSでbo
松永久秀は三好政権関係の人脈の中ではダントツの知名度を持つ戦国武将である。久秀のみがメジャー武将と言っても過言ではないほどである。これはやはり戦国時代の超メジャー人・織田信長と関係を構築したため、その関係性がフィーチャーされる機会が多いためであろう。しかし、何よりも著名およびキャラ付けとして重要なのは三悪説話である。すなわち、松永久秀には以下3つの逸話がある。 主家である三好氏の要人を殺害し乗っ取った 将軍足利義輝を殺害した 東大寺大仏殿を燃やした 私も多くの人の例に漏れず、これらの逸話を信用し、松永久秀を下剋上の極致を尽くした悪人、「梟雄」と解してきた。その一方、ここ10年ほどで「久秀はどうやら梟雄ではないらしい」という話も広まってきた。その時はそこまでそのような説を信用していたわけではなく、半信半疑な思いもあった。ようやく自分の久秀像が変わってきたのはここ数年くらいの話であるが、それな
発売されるとわかった時から話題騒然だった本です。何せ、六角氏は室町時代・戦国時代に侮れない勢力を誇りながら、この手の比較的一般向けの評伝を欠いていたからですね。タイトルは六角定頼ですが、実際には章を割いて、前2代の高頼・氏綱、後2代の義賢・義弼までフォローしています。言わば「戦国六角氏五代」が読めるわけで豪華な一冊と言えましょう。 六角定頼:武門の棟梁、天下を平定す (ミネルヴァ日本評伝選) 作者:村井祐樹発売日: 2019/05/22メディア: 単行本 さて、私にとってはこの本が出たことで得るものは単に戦国六角氏の伝記が読めるということに留まりません。これまでこのブログを読んできた方にはおわかりかと思いますが、私は三好氏を贔屓にしておりまして、特に近年の三好長慶再評価とその徐々な定着ぶりには感激するところ大なわけです。ただ、一方で三好長慶、あるいはその家臣として有名な松永久秀のみ称揚され
元亀元年(1570)に行われた織田信長の朝倉義景攻めは信長の人生を語る上で外せないイベントの一つである。と言っても、朝倉攻めそのものが画期と言うよりも、この最中に織田信長の同盟者であった浅井長政が信長より離反し、以降織田信長は長期にわたって、いわゆる「信長包囲網」との戦いに突入した、この契機としての位置付けが大きい。さらには、朝倉と浅井の挟み撃ちにされた信長が命からがら逃げだし、木下秀吉が殿を務めたというエピソードはもはや「神話」となっているきらいさえある。 では、なぜ織田信長は朝倉攻めを行ったのか?通説では、織田信長は傀儡将軍足利義昭を利用して、諸大名に上洛を呼びかけた。しかし、義景はこの上洛の本質が義昭ではなく信長への臣従にあると考えたため、上洛要請を黙殺した。信長はこれをいい口実として、義景を義昭への反逆者に認定、討伐することにしたというものである。さらには、そもそも足利義昭は傀儡と
三好政長(宗三)の息子・政勝と三好三人衆の一人・三好宗渭が同一人物であることは今やWikipediaにすら載っている。この事実が指摘されたのは平成22年(2010)と9年前にすぎない(『戦国期三好政権の研究』補論二「三好一族の人名比定について」)*1が、すでに巷間には知名度を確保しているとも言えるだろう。そういうわけでもはや常識とのほほんとしていたのだが、最近「本当にそうなのか?」という問い合わせを頂いた。私個人としては政勝と宗渭が同一人物であることは間違いないと思っているが、考えてみれば自分で確かめて論理を組み立てたわけではないので、良い機会であるし調べてみることにした。 まず、わかりやすく決め手になるのが花押(署名の下に書く属人的紋章)で、天野忠幸氏の指摘もこれを根拠にしておられる。実際、注で何を見て花押を確認すればいいのかまで明記されていた。いやあ有難い話である。 大仙院文書 (史料
三好康長はどちらかと言えばマイナーな三好一族の中ではそこそこ名前が知られている武将ではないかと思われる。なぜなら、康長は織田信長の重臣となっており、近年は本能寺の変の原因として四国説がクローズアップされる中、四国説のキーマンとなる人物だからである。来年放映予定の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、主人公が明智光秀であるからには、康長も登場することは間違いなく、ドラマの中での役割やキャストには今から期待している。…ってそういうことを言いたいのではないのだが。 しかし、三好康長は織田信長の家臣としては新参であり、それまでの長きに渡って明確に信長の敵であった。康長を一転して重用するに至った信長の判断は興味深く思われるが、あまり説得力のある説明は聞いたことがない。しかも織田家臣としての康長は目立った戦功を挙げていないようにも見えるが、信長からの重用は信長が死ぬまでいささかも揺るぐことはなかった。これこそ
永禄の変とは永禄8年(1565)5月19日、室町幕府将軍足利義輝が三好義継、松永久通、三好長逸らの襲撃を受け殺害された事件である。戦国時代の足利将軍は影が薄い存在のようにも捉えられがちだが、この事件は織田信長上洛のきっかけとなっただけに知名度も高く、足利義輝が抵抗の際奮戦したことから、義輝は「剣豪将軍」とキャラ付けされることも多い。その一方で事件そのものの畿内政治史における意義や、なぜ義輝が殺されたのかなどは一般的にはあまり意識されていないのではないだろうか。戦国時代の足利将軍は「傀儡」であり、実権を握る三好・松永氏に反抗したため、殺された、そのような「下剋上」の典型としての理解が今でも多いような気がする。 しかし、戦国時代の室町幕府は傀儡として操られる権威だったわけではなく、統治機関としての実体性を備え、有力大名と連立して畿内の支配を実現していたことがわかりつつある。そのような中で永禄の
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