サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
rekishikomugae.net
大隅国の一之宮の鹿児島神宮(かごしまじんぐう)にタノカンサァ(田の神)がいる。御神田を見守るように立っている。「宮内の田の神」とも呼ばれている。 タノカンサァ(田の神)は五穀豊穣や子孫繁栄の神様である。鹿児島県と宮崎県ではあちこちで見ることができる。詳しくは、こちらの記事にて。 rekishikomugae.net 鹿児島神宮の参道の向かって左のほうへ行くと、御神田がある。9月の訪問で、稲穂が重みを増しつつある感じだった。 御新田 こうべを垂れる稲穂かな 鹿児島神宮は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)・豊玉比売命(トヨタマヒメノミコト)を主祭神とする。皇室につながる日向神話の神であり、稲穂とも関わりがある。また、「大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう)」とも呼ばれる。八幡信仰も重ねられている。 鹿児島神宮については、こちらの記事にて。 rekishikomugae.net 御神田の端
花尾神社(はなおじんじゃ)の記事の続きである。旧称は花尾権現社。鹿児島市花尾町に鎮座し、源頼朝・丹後局(たんごのつぼね)・永金(ようきん)を祭る。丹後局は島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)の母とされる人物だ。また、島津忠久は源頼朝の庶子とも伝わる。 花尾神社の詳細は【前編】にて。 rekishikomugae.net このあたりは、古くは薩摩国満家院(みつえいん)の厚地(あつち)と呼ばれるところ。丹後局は晩年を厚地で暮らし、この地で亡くなったとされる。花尾神社の境内には「丹後局の墓」とされるものもある。 丹後局の墓 丹後局荼毘所跡 丹後局御腰掛石 丹後局の墓 参道の途中で登っていけるところがある。こちらに丹後局の墓がある。「子宝・安産」「丹後局の御墓」「おこけ石」と書かれている。ここを上へ。 参道脇を登る 登っていくと古石塔群がある。14世紀の造立と思われるものも。これらは平等王院と関
花尾神社(はなおじんじゃ)は、鹿児島市花尾町に鎮座する。旧称は「花尾権現社」「花尾大権現社」。この地は、薩摩国満家院(みつえいん)の厚地(厚智、あつち)というところであった。 御祭神は源頼朝と丹後局(たんごのつぼね)。従祀神に永金(ようきん)、相殿祭神に清和天皇。建保6年(1218年)に島津忠久(しまづただひさ)が御堂を建て、源頼朝の尊像を安置したのが始まりとされる。 島津忠久は島津氏の初代である。丹後局はその母とされる。そして源頼朝の御落胤という伝承がある。つまり、花尾権現社(花尾神社)の御祭神は島津忠久の両親とされる人物なのである。 島津忠久は源頼朝の御落胤と伝わる 島津忠久の出自について 島津本宗家による再興 境内が美しい もともとは熊野権現か? なお、日付は旧暦にて記す。 島津忠久は源頼朝の御落胤と伝わる 「島津忠久は源頼朝の庶長子」というのを、島津家では正式に採用している。『島津
龍門滝(りゅうもんのたき/りゅうもんだき)というのが、鹿児島県姶良市加治木にある。大きな滝で、けっこう遠くからも見える。高速道路(九州自動車道)を走っていると、加治木インターチェンジ近くで見ることができる。 昔から名瀑として知られていたようで、『三国名勝図会』でも紹介されている。絵が素晴らしい! 『三国名勝図会』巻之三十七より(国立国会図書館デジタルコレクション) 絵図と同じような角度から、写真を撮ってみるとこんな感じ。丘陵を網掛川が流れていて、この場所で一気に流れ落ちるのである。 龍門滝を見る 『三国名勝図会』については、こちらの記事にて。 rekishikomugae.net 滝のすぐ目の前に丘がある。ここからの眺めが良い。駐車場からも遠くはない。ちょっと登るけど、ここまでは気軽に訪れることができる。「龍門滝 高さ46メートル 幅43メートル」とある。 丘の上から 丘の上からは滝と滝壺
鹿児島縣護國神社は鹿児島市草牟田に鎮座する。護国神社は全国にあり、英霊(国家のために殉難した人の霊)を祀る。鹿児島縣護國神社は鹿児島県出身の英霊が7万7000余柱を御祭神とし、郷土の守り神として崇敬されている。 明治天皇の思し召しがあり、島津忠義が創祀 御祭神 参詣する 鹿児島縣護國神社頓宮 御祭神、幕末・維新の殉難者から 日下部伊三次翼命 日下部裕之進信政命 有村次左衛門兼清命 有村雄助兼武命 有馬新七正義命 柴山愛次郎道隆命 田中謙助盛明命 弟子丸竜助方行命 西田直五郎正基命 橋口壮助隷三命 橋口伝蔵兼備命 森山新五左衛門永治命 道島五郎兵衛正邦命 山本四郎義徳命 美玉三平親輔命 是枝柳右衛門貞至命 森山新蔵永賀命 児玉雄一郎命 益満休之助行武命 中原猶介尚男命 西郷吉二郎隆廣命 なお、明治5年(1872年)以前の日付については旧暦にて記す。 明治天皇の思し召しがあり、島津忠義が創祀
島津豊久(しまづとよひさ)は16世紀末に活躍した人物である。漫画の主人公にもなったりして、知名度もそこそこあるんじゃないだろうか。島津豊久の戦績を追ってみると、その戦場はおそろしく厳しいものばかりなのだ。 串木野城で誕生、父は島津家久 弟と姉と妹と 初陣は島原合戦(沖田畷の戦い) 元服 父の降伏、父の急死 佐土原領主になる 朝鮮転戦 庄内の乱 関ヶ原の戦い 島津義弘と合流 島津の退き口 佐土原を没収される 永吉島津家 なお、日付は旧暦にて記す。 串木野城で誕生、父は島津家久 島津豊久は元亀元年(1570年)6月に誕生。父は島津家久(いえひさ)の長男で、母は樺山善久(かばやまよしひさ)の娘。幼名は「豊寿丸」。通称は「又七郎」「中務大輔」で、これらは父と同じである。 初名は「島津忠豊(ただとよ)」。じつのところ、「島津豊久」と名乗った時期は短い。また、いつ改名したのかもはっきりしない。「豊久」
「こんなところがあるのか!」と、市街地から車で5分ほどの場所に。幸加木神社(こうかきじんじゃ)を参詣した。鎮座地は鹿児島市小野の山中。 御由緒 せせらぎの音を聞きながら 木村探元の墓 御由緒 『三国名勝図会』によると、かつては「高加木権現廟」と称した。「こうかき」は「高鍵」「高賀木」「高架木」とも書く。御祭神は伊弉冊命(イザナミノミコト)・速玉男神(ハヤタマノヲノカミ)・事解男神(コトサカノヲノカミ)の三坐。木村時勝がこの地に祭ったとされる。木村時勝は北条泰家(ほうじょうやすいえ)の三世孫であるという。 ちなみに北条泰家は14世紀の人で、得宗の北条高時(たかとき)の弟。正慶2年・元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡の際には、甥の北条時行(ときゆき、高時の嫡男)を逃がし、自身も陸奥へと逃亡。その後、京へ潜入して政府転覆計画に関わるも、計画は失敗。京から逃走した。また、北条家残党の蜂起を呼びか
中世の薩摩国では、渋谷(しぶや)氏が大きな力を持っていた。島津氏と手を組んだり、あるいは対立したり。戦国時代には渋谷一族の入来院(いりきいん)氏・祁答院(けどういん)氏・東郷(とうごう)氏が島津貴久(しまづたかひさ)に抵抗した。 渋谷一族の動きを追ってみる、とくに15世紀~16世紀について。 渋谷氏とは 14世紀から15世紀半ばまで 文明の大乱 高城氏の没落 三州大乱、渋谷一族の隆盛 奥州家と薩州家と相州家と渋谷一族と 祁答院氏が帖佐に進出 入来院重聡の娘が島津貴久の継室に 祁答院氏は島津勝久を支援 薩州家との戦い 島津貴久に反抗 清水の動乱・加治木の戦い 大隅合戦 薩州家が島津貴久と同盟 島津貴久包囲網 虎姫乱心、祁答院良重が刺殺される 菱刈合戦・大口合戦 渋谷一族の降伏 東郷氏に島津氏から養子が入る 祁答院氏の再興 入来院氏にも島津氏から養子が入る 薩摩日置流と示現流 なお、日付は旧暦
鹿児島県に「姶良(あいら)」という地名がある。 鹿児島湾の奥のほうには「姶良市」がある。「姶良郡」もある。現在の霧島市の一帯ももとは姶良郡だ。桜島の北側の湾は「姶良カルデラ」と呼ばれていたりもする。「姶良というと、あのあたりだな」と認識している人が多いことだろう。 でもこのあたりは、じつは「姶良」ではないのだ。大隅半島の南のほうの鹿屋市に「大姶良(おおあいら)」「吾平(あいら)」というところがあって、こっちのほうが本来の「姶良」なのだ。 大隅国の「姶羅郡」「姶良荘」「大姶良荘」 「始羅」と「姶羅」がごっちゃに? 姶良町と吾平町 阿比良比売/吾平津媛 大隅国の「姶羅郡」「姶良荘」「大姶良荘」 『続日本紀』によると、和銅6年(713年)に大隅国が設置されたとある。日向国から分立させてのもの、大隅国は「肝杯郡(きもつきのこおり)」「囎唹郡(そおのこおり)」「大隅郡(おおすみのこおり)」「姶羅郡(
16世紀半ばに、島津貴久(しまづたかひさ)は大隅国蒲生(かもう)を攻めた。この一帯での戦いは「大隅合戦」と呼ばれる。その中で激戦地となったのが松坂城(まつざかじょう)である。場所は鹿児島県姶良市蒲生町米丸。 松坂城跡は城域の一部を歩くことができる。荒々しい雰囲気の山城であった。 大隅合戦 切通を抜けて山中へ なお、日付は旧暦にて記す。 大隅合戦 天文23年(1554年)9月、島津貴久は大隅国始羅郡(しらのこおり、鹿児島県姶良市のあたり)の攻略に乗り出す。蒲生範清(かもうのりきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ)らが、加治木城(かじきじょう、姶良市加治木町反土)を囲んだことをきっかけに島津貴久は鹿児島から出兵する。 島津貴久は岩剣城(いわつるぎじょう、姶良市平松)を囲む。敵方は加治木の囲みを解いて、島津方に向かってきた。島津方はこれを叩き、岩剣城も落とす。 天文24年(1555年)3月に祁
17世紀以降の島津氏の分家についてまとめてみた。 島津氏にはもともと分家が多い。鎌倉時代から続く歴史の長さに加え、子沢山な当主も多かったりする。そんなわけで、一族の枝葉をいっぱいに広げる。中世から続く家柄もあり、江戸時代に立てられた分家もあり。 中世の島津氏 薩摩藩における分家 薩摩藩主家/島津本家 重富島津家(越前島津家) 加治木島津家 垂水島津家 今和泉島津家 玉里島津家 日置島津家 都城島津家 花岡島津家 宮之城島津家 永吉島津家 豊州島津家(黒木島津家) 知覧島津家 佐志島津家(佐司島津家) 新城島津家 市成島津家 島津本家準三男家(忠広一流) 島津本家準二男家(島津大蔵家) 島津本家準四男家(島津頼母家) 島津本家準五男家(岩崎島津家) 薩州家忠清一流 薩州家準二男家 島津将曹/碇山氏 島津伊勢/諏訪氏 佐土原藩/佐土原島津家 「島津」を名乗りとしない庶流 日付については旧暦にて
のどかな山間の集落である。鹿児島県姶良市の蒲生(かもう)に「高牧(たかまき)」というところがある。そこに面白い雰囲気のタノカサァ(田の神)がいた。「高牧の田の神」と呼ばれている。「ベロ出し田の神さぁ」とも呼ばれる。 タノカンサァ(田の神)は鹿児島県のあちこちにある神像である。現存する田の神像の制作年代から推測すると、18世紀以降に島津氏領内で盛んに造られるようになったと思われる。田の守り神、子孫繁栄の神、地域の守り神といった性格ののもので、集落ごとに大事にされている。 タノカンサァ(田の神)の詳細については、こちらの記事にまとめている。 rekishikomugae.net 山間の道を行くと墓地がある。その入口の上のほうに祠が置かれている。その中にタノカンサァ(田の神)は納められている。祠は石とレンガを積んで造られているみたい。たぶん、そこまで古いものではない感じ。 雨と風はしのげるね 中
鹿児島市の南のほうの谷山(たにやま)には、タノカンサァ(田の神)が多い。JR谷山駅の周辺を歩いていると、けっこうな数に出くわすのだ。そのうちの一つを紹介する。 タノカンサァ(田の神)の像は、鹿児島県内に大量にある。18世紀頃から島津氏領内で大量に造られるようになった。田の守り神であり、子孫繁栄の神でもある。 タノカンサァの詳細についてはこちらの記事にて。 rekishikomugae.net 公園の一角に 谷山には「永田川」というけっこう大きな川が流れている。その川沿いに「島ノ森公園」がある。それほど大きくない都市公園だ。その一角にタノカンサァがいる。近くのあぜ道に立っていたものが、区画整理の際にこちらの公園に移されたという。 どこにいるのか、わかるかな? 植え込みのところに 公園から外側を見るような感じ 「永田の田の神」と呼ばれている。このあたりは「永田」という地区である。その姿は地蔵っ
照島神社(てるしまじんじゃ)は、鹿児島県いちき串木野市西島平町に鎮座する。 串木野は薩摩半島の西側に位置し、東シナ海に面している。「串木野港」という大きな港がある。ここは遠洋漁業の基地でもある。その串木野港のやや南に「島平港(しまびらこう)」がある。ここが、かつては串木野港の中心地だった。 島平港の沖に「照島」という小島が浮かぶ。照島神社はここに祭られている。 創建年代は不明。御祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)・少彦名命(スクナヒコナノミコト)・大山津見命(オオヤマツミノミコト)。 朱色の太鼓橋を渡って 薩摩焼開祖着船上陸記念碑 島津義久も立ち寄る 徐福が上陸したところ? もともとは松尾大明神 朱色の太鼓橋を渡って 島平港の近くに大きな朱の鳥居が立っている。そこが参道口だ。赤い欄干のある参道を、海に向かって歩いていく。沿岸部は「なぎさ公園」そして整備。ここには広い駐車場もある。 鳥居を
鹿児島県薩摩川内市の入来(いりき)の浦之名(うらのみょう)の諏訪神社を参詣した。鎮座地は山の奥深く。なんとも聖地っぽい雰囲気だった。 諏訪神社は鹿児島県内に多い。明治時代に南方神社(みなかたじんじゃ)と改称したところもある。 鹿児島県内の諏訪神社・南方神社では、並立鳥居がよく見られる。鳥居というのは目立つ存在だ。それが2本立っている光景は、なかなかにインパクトがあるのだ。 森の中の並立鳥居 諏訪神社を17世紀に合祀 古代の祭祀の場? 森の中の並立鳥居 Googleマップで検索すると、入来のあたりには諏訪神社がいくつかある。そのうちの浦之名の諏訪神社は藺牟田池の麓にある。 山の中にある。地図には載っていないが、神社までの道もある。ただ、この道は車で入ると、かなりタイヘンなことになりそうだ。狭路であり、隘路であり、悪路である。麓のどこかに車を置いて、歩いていったほうがいい。 「諏方温泉」という
城野神社(じょうのじんじゃ)は、鹿児島県姶良市木津志に鎮座する。木津志(きづし)というところは、なかなかの山奥である。鎮座地は「隠れ里」という言葉がしっくりくるような雰囲気だ。 城野神社の参道口 御祭神は浄之御前(じょうのごぜん)。源為朝(みなもとのためとも)の奥方だと伝わっている。 城野神社の由緒 島津義弘の腹痛を治す 城野神社をお詣り 大隅国桑原郡の源為朝伝説 もとは違う神様か? 城野神社の由緒 由緒については『木津志百年史』(1966年発行)や『姶良町郷土誌』(1968年発行)に詳しい。こちらの資料を参考にした。 創建年代は不明。浄之御前については源為朝の妻と伝わるのみで、出自はわからない。「オソノ様」とも呼ばれているという。 もともとは現社地の北にある高嶺岡の山上に鎮座していという。ここの神様は白馬を嫌っていて、山上から見える道を往来する白馬がばたばたと死んでいたことから、御神体を
けっこう大きなタノカンサァ(田の神)だ。高さは台座を含めると117㎝。像だけでも96㎝。幅も60㎝くらいある。 鹿児島県姶良市の山間のほうに木津志(きづし)というところがある。そこで見つけたタノカンサァだ。「木津志の田の神」と呼ばれている。城野神社の鳥居の前のあたりの道の脇で、田んぼを見守っている。 木津志のタノカンサァは、耕地整理記念碑と並んで置かれている。もともとは地域内の別の場所にあったが、農地整理事業でこの場所へ移されたという。 記念碑と並んで 城野神社については、こちらの記事にて。 rekishikomugae.net 鹿児島県内には、田の神像があちこちにある。島津氏の領内で18世紀頃から盛んに造られるようになった。田の守り神であり、豊穣の神であり、子孫繁栄の神でもある。 タノカンサァ(田の神)の詳細はこちらの記事にて。 rekishikomugae.net 製造年代は不明だが、
医王山正智院泰平寺(たいへいじ)は鹿児島県薩摩川内市大小路町にある。かつての薩摩国の高城郡(たきのこおり)の水引郷(みずひきごう)のうち。 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は島津氏を攻める。大軍勢を率いて薩摩国に入り、陣を置いた場所は泰平寺であった。豊臣軍は圧倒的な兵力で島津方を敗走させる。島津義久(しまづよしひさ)は降伏。そして、剃髪して泰平寺におもむいた。豊臣秀吉に面会し、降伏が正式に認められた。 豊臣秀吉が引き連れていた兵は10万以上とも。これほどの大軍勢が駐屯できる場所はそうそうない。泰平寺は大寺院だったことがうかがえる。 明治初めの廃仏毀釈で泰平寺は徹底的に壊され、伽藍跡などは残っていない。なお、大正12年(1923年)に泰平寺が再興。また、跡地の一部は「泰平寺公園」としても整備されている。 豊臣秀吉が本陣を置く 泰平寺の宥印法印 泰平寺と塩大黒天 開山は和銅元年 『三国名勝図
日本国内の物事を深く理解するためのヒントが、『古事記』にはたくさん詰まっている。 例えば、神社へお詣りすると、そこには神様が祭られている。「どんな神様なんだろう?」と思う。また、神話が絡んだ史跡であったり、地名であったり、といったものにも出くわす。そのあたりを紐解くための資料として、『古事記』はすごく重宝するのだ。 『古事記』については、たくさんの書籍が出版されているが、岩波文庫のコレがいいなと個人的には思う。初版は1963年。古い本ではあるけれど。 『古事記』(岩波文庫) 校注/倉野憲司 発行/岩波書店 古事記 (岩波文庫 黄 1-1) 作者:倉野 憲司 岩波書店 Amazon 『古事記』とは? 「ふることふみ」「ふることぶみ」、あるいは「こじき」と読む。音読みの「こじき」が一般的だろうか。ただ、『古事記』が正式名称であるかどうかは、よくわかっていない。序文の中に「古事記」を書名としたこ
霧島連山の南麓に中津川(なかつがわ)というところがある。ここを車で通った際に神社を見つけた。なんとなく気になる存在だな……と寄ってみることにした。 伊邪那岐神社(いざなぎじんじゃ)という。鎮座地は鹿児島県霧島市牧園町下中津川。かつての大隅国の踊(おどり)のうちである。 道路沿いに立派な鳥居が見える。そこから石段が続いている。 伊邪那岐神社の参道口 もともとは「妙見神社」 「妙見温泉」はこの神社に由来 石段を登って 大関霧島の力石 税所氏の棟札、伊集院氏の棟札 もともとは「妙見神社」 創建年代は不明。御祭神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)・天日鷲命(アメノヒワシノミコト)。 じつは、「伊邪那岐神社」という社号は明治時代になってからのものである。それ以前は「妙見神社(みょうけんじんじゃ)」だった。明治時代初めの神仏分離により、仏
薩摩国の設置は、『続日本紀』によると大宝2年(702年)のこととされる。国府が置かれたの薩摩半島西部の川内(せんだい)であった。川内には薩摩国分寺跡がある。国の史跡にも指定。「薩摩国分寺跡史跡公園」として整備されている。場所は鹿児島県薩摩川内市国分寺町。 天平13年(741年)に聖武天皇の詔により、国ごとに国分寺を設置することになった。薩摩国分寺もその一つだ。 また、薩摩国分寺跡のすぐ近くにある「万葉の散歩道」もあわせて紹介する。ここには『万葉集』に収録された歌の碑がちょっとある。また、大伴家持(おおとものやかもち)の像も。大伴家持は薩摩守に任じられ、この地に居た時期がある。 薩摩国分寺跡へ 豊臣秀吉の侵攻で焼失、そして再興 「万葉の散歩道」 薩摩国分寺跡へ 史跡公園には駐車場がない。近くに川内歴史資料館があるので、こちらの駐車場を利用する。 川内歴史資料館 川内資料館には薩摩国分寺の復元
薩摩半島の西側に川内(せんだい)というところがある。ここに天辰寺前古墳(あまたつてらまえこふん)がある。場所は鹿児島県薩摩川内市天辰町。 この古墳は2008年6月に発見された。区画整理工事の中で大きな石がでてきて、動かすと空洞になっていたという。そこは石室だった。盗掘の形跡はなく、遺骨と副葬品が出てきたという。被葬者は壮年の女性。副葬品などから身分の高い人物であり、5世紀初め頃に埋葬されたと推測される。 ここを「天辰寺前古墳」と命名。「天辰寺前古墳史跡公園」として整備されている。 丘の上にあるのは円墳か? 久木原神社 古石塔もある 川内には、古代に大きなクニがあった? ニニギノミコトの神話から サツマの女王? 丘の上にあるのは円墳か? 住宅街の中に丘がある。けっこう目立つ存在だ。公園としてきれいに整備されている。駐車場もあるので、見学もしやすい。 住宅街の中に きれいに整備されている ちょ
鹿児島市本城町は、かつての大隅国吉田(よしだ)のうち。ここに「下坊上山の五輪塔」と呼ばれるものがある。ちなみに「しもんぼううえやま」と読む。 山の中に五輪塔が2基。『三国名勝図会』によると、次のような伝承があるという。 本城村、下之坊阿彌陀薬師堂の庭に在り、鎮西八郎爲朝夫婦の墓と傳称す、或は云爲朝自ら此石塔を建て、島へ下ると (『三国名勝図会』巻之七より) 源為朝(みなもとのためとも)とその妻の墓であると伝わる。また、源為朝が自分で建て、そして南島へ渡った、とも。 源為朝は保延5年(1139年)の生まれ。源為義の八男とされる。兄に源義朝(よしとも)があり、源頼朝は甥にあたる。 とにかく、めちゃめちゃ強かったと伝わる。怪力の持ち主で、強弓の使い手であったという。 保元元年(1156年)の「保元の乱」にて、父とともに崇徳上皇方で戦い、敗軍の将となる。戦後は伊豆大島に配流となる。伊豆大島で戦って
霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)は宮崎県小林市細野に鎮座する。ここは夷守神社(ひなもりじんじゃ)でもある。両社は合祀され、夷守神社の旧社地を鎮座地としている。 御祭神は瓊瓊杵命(ニニギノミコト)・木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)・彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)・鸕鷀草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)・玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)。日向三代(ひむかんさんだい)がそれぞれ夫婦で祭られている。夷守神社も御祭神は同じ。 明治時代に合祀される 霧島山中央六所権現(霧島岑神社) 雛守六所権現(夷守神社) 巨樹の並ぶ参道を奥へ 中央と、西と、東と 日付は旧暦にて記す。 明治時代に合祀される 霧島連山のまわりには「霧島六社権現」と称される6つの権現社があった。霧島岑神社(霧島山中央六所権現)も夷守神社(雛守六所権現)もこの中に数えられている。六社
島津家久(しまづいえひさ)の戦績をまとめてみた。 島津家久は四兄弟の末っ子である。通称は「中務大輔」「又七郎」。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。 この兄弟の中では島津義弘の知名度が圧倒的に高い。「戦場の鬼」というイメージだろうか。だが、島津家久の戦績は、この兄をも越えるかも。 ちなみに、『信長の野望』シリーズをはじめとするゲームの中では、島津家久の戦闘力がかなり高く設定されている。戦国時代好きには、それなりに知名度があると思われる。 島津家久の活躍が目立つようになるのは、永禄10年(1567年)からの菱刈(ひしかり)氏攻めより。島津氏は菱刈氏を降したのちに薩摩国を制圧。そのあと、大隅国と日向国も制した。この快進撃の一翼を、島津家久は担った。 戦国時代末期の九州は島津氏・大友(おおとも)氏・龍造寺(りゅうぞうじ)氏が三分する。やがて島津一強の様相と
山田川が蛇行するように流れている。そこには田んぼが広がっている。そんな風景を、タノカンサァ(田の神)が見守っている。「中川原の田の神」と呼ばれている。 場所は鹿児島県姶良市下名。「山田(やまだ)」と呼ばれている地区である。中川原自治公民館の横にちょっとした広場があり、そこにタノカンサァ(田の神)が祀られている。 何やら石像がふたつ。供えられている榊は新しく、水もたっぷり入っている。この日の朝に地域の方が供えたものだろう。 公民館の横に 榊をちょっと動かして、タノカンサァ(田の神)の姿を撮影させてもらう。石像には御幣も添えられていた。写真左がタノカンサァ(田の神)、右の石像はよくわからない。 石像がふたつ タノカンサァ(田の神)は、鹿児島県内あちこちで出会える。田の神像は島津氏領内(鹿児島県全域と宮崎県の一部)だけで見られる。18世紀初め頃から盛んに造られるようなったようである。豊穣の神、子
島津貴久(しまづたかひさ)のいちばんの協力者は、樺山善久(かばやまよしひさ)であろう。 16世紀の南九州において、島津氏は一族どうしで覇権を争った。本家筋の奥州家と、分家の薩州家と相州家と。この中で抗争を制したのが相州家の島津貴久だった。樺山善久は一貫して相州家に協力し、覇権の確立とその後の勢力拡大に貢献する。 樺山氏は島津氏の支族である。その歴史は南北朝争乱期にまで遡る。そして、なかなかの存在感を放っているのだ。そんな樺山氏について、ちょっとまとめてみた。 初代/島津資久(樺山資久) 2代/島津音久(樺山音久) 3代/樺山教宗 4代/樺山孝久 5代/樺山満久 6代/樺山長久 7代/樺山広久 8代/樺山善久 島津貴久の盟友 朝鮮に出陣できず、悔しがる 娘は島津家久に嫁ぐ、島津豊久は外孫 10代/樺山忠助 11代/樺山規久 12代/樺山忠正 13代/樺山久高 17代/樺山久広 藩家老を出す
桜島の東麓に「黒神(くろかみ)」というところがある。かつての東桜島村黒神。現在は鹿児島市黒神町となっている。 黒神には、埋もれた鳥居がある。腹五社神社(はらごしゃじんじゃ)のものだ。これは「黒神埋没鳥居」という史跡名でよく知られている。大正3年(1914年)の大噴火(大正大噴火、大正噴火)でこうなった。 「黒神埋没鳥居」は、当時の噴火の凄さを物語る。 黒神近くの鍋山から噴火 鳥居を見下ろす不思議な光景 由緒は詳らかならず 埋もれた門柱 退避壕 黒神近くの鍋山から噴火 大正3年(1914年)1月12日、桜島の大噴火が始まった。『桜島大正噴火誌』には「突然として爆發せり」と書かれる。 「突然」とあるが、前兆と思われる異変もあったという。前日の11日には地震が頻発し、山崩れも発生。大きな地鳴りもあった。そして12日の朝には、さらなる異変が。温泉が沸騰する、井戸があふれる、地面から水や熱水が湧きだ
島津氏は、元亀2年(1571年)に島津貴久(しまづたかひさ)が没して代替わりをする。跡を継いだのは長男の島津義久(よしひさ)。そして、次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)、四男の島津家久(いえひさ)らが兄を支える。 この四兄弟の時代になって、島津氏はものすごい勢いで支配領域を広げる。短期間のうちに九州のほとんどを制圧し、そして天下人となった豊臣秀吉と対峙することに。……その過程をたどってみる。 島津の四兄弟 島津義久 島津忠平(島津義弘) 島津歳久 島津家久 島津包囲網 肝付が動く、鹿児島湾岸の戦い 伊東も動く 加久藤城の戦い 木崎原の戦い 大隅の制圧 小濱の戦い 住吉原の戦い 禰寝氏の寝返り 牛根陥落、肝付が降伏 日向制圧 大友の日向侵攻、島津が迎え撃つ 大友が日向北部を制圧 新納院高城が包囲される 高城川の戦い(耳川の戦い) 三強鼎立 肥後国の戦乱
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『rekishikomugae.net』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く