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syounagon.hatenablog.com
「本当だろうか、 本当にお前が来てくれたのだろうか、 毎日毎夜、都のことばかり思いつめて、 今では恋しい者の面影が、夢かうつつか、 わからなくなってしまったのだよ。 お前の来たのは夢ではないのか? 本当にお前が来たのか? 夢であったら覚めた後がどんなに辛い事か」 「僧都様、これは本当でございますよ。 決して夢ではありませぬ。 それにしても、 よくこうやって生き長らえておいでになりました」 「まったくそうなんだ、お前のいうとおりだが、 恥ずかしい話、わしは少将が島を去る時、 よしなに取計うから待てといった言葉が 忘れられなかったのじゃよ。 おろかなものでのう、 その一言に、もしやと頼みの綱をかけ、 一日一日を生き伸びていたのじゃ、 何せ、ここは食い物のないところで、 わしも丈夫な折は、 山にのぼって硫黄《いおう》とやらを取り、 商人船の来る度に食物と代えて貰っていたが、 体が弱ってからは、
たったひとり、鬼界ヶ島に取り残された俊寛が、 幼い頃から可愛がって使っていた有王という少年があった。 鬼界ヶ島の流人が 大赦になって都入りをするという話を伝え聞いた有王は、 喜び勇んで鳥羽まで出迎えにいった。 「どんなにおやつれになってお帰りだろう、 随分辛いことだったろうなあ」 あれこれ考えているうちに、 鬼界ヶ島の流人らしい一行が到着した。 見送り人のごった返す中で、 有王は、俊寛の姿を探し求めたが、 それらしい人の姿は見当らなかった。 有王は次第に不安と焦燥を覚えながらも、 「そんなはずはない、そんなバカなことはない」 と自分にいい聞かせながら、 一人一人の顔をのぞきこむようにして探した。 何度探しても結局は、無駄であった。 俊寛らしい人の影はみえないのである。 「もし、一寸お尋ねいたします」 思い切って有王は、人に尋ねてみようと決心した。 「今日ご大赦のあった鬼界ヶ島流人のうちの一
治承二年の正月がやってきた。 宮中の行事はすべて例年の如く行われ、 四日には、高倉帝が院の御所にお出でになり、 新年のお喜びを申し上げた。 こうして表面は、 いつもながらの目出度い正月の祝賀風景が繰りひろげられていたが、 後白河法皇の心中は、内心穏やかならぬものがあった。 成親はじめ側近の誰彼が、殺されたり流されたりしたのは、 つい去年の夏のことである。 その生々しい光景はまだ、昨日のできごとの様に、 まざまざと心に甦《よみが》えってくる‥ 少納言のホームページ 源氏物語&古典 少納言の部屋🪷も ぜひご覧ください🌟https://syounagon.jimdosite.com 【ふるさと納税】【喜界島特産】宜家の胡麻フロランタン(5個入り)×8 価格: 10000 円楽天で詳細を見る 【ふるさと納税】クラフトビール WAN50(ワンフィフティ) 4.5% 350ml×12本 価格: 3
大宮はこの不祥事を二人の孫のために 悲しんでおいでになったが、 その中でも若君のほうをお愛しになる心が強かったのか、 もうそんなに大人びた恋愛などのできるようになったかと かわいくお思われにならないでもなかった。 もってのほかのように言った内大臣の言葉を 肯定あそばすこともできない。 必ずしもそうであるまい、たいした愛情のなかった子供を、 自分がたいせつに育ててやるようになったため、 東宮の後宮というような志望も 父親が持つことになったのである。 それが実現できなくて、 普通の結婚をしなければならない運命になれば、 源氏の長男以上のすぐれた婿があるものではない。 容貌をはじめとして何から言っても 同等の公達《きんだち》のあるわけはない、 もっと価値の低い婿を持たねばならない気がすると、 やや公平でない御愛情から、 大臣を恨んでおいでになるのであったが、 宮のこのお心持ちを知ったならまして大
「で、このことはしばらく秘密にしておこう。 評判はどんなにしていても立つものだが、 せめてあなたたちは、 事実でないと否定をすることに骨を折るがいい。 そのうち私の邸《やしき》へつれて行くことにする。 宮様の御好意が足りないからなのだ。 あなたがたはいくら何だっても、 こうなれと望んだわけではないだろう」 と大臣が言うと、 乳母たちは、 大宮のそう取られておいでになることをお気の毒に思いながらも、 また自家のあかりが立ててもらえたようにうれしく思った。 「さようでございますとも、 大納言家への聞こえということも 私たちは思っているのでございますもの、 どんなに人柄がごりっぱでも、 ただの御縁におつきになることなどを 私たちは希望申し上げるわけはございません」 と言う。 姫君はまったく無邪気で、どう戒めても、 おしえてもわかりそうにないのを見て大臣は泣き出した。 「どういうふうに体裁を繕えば
姫君は何も知らずにいた。 のぞいた居間に 可憐な美しい顔をして姫君がすわっているのを見て、 大臣の心に父の愛が深く湧《わ》いた。 「いくら年が行かないからといって、 あまりに幼稚な心を持っているあなただとは知らないで、 われわれの娘としての人並みの未来を 私はいろいろに考えていたのだ。 あなたよりも私のほうが廃《すた》り物になった気がする」 と大臣は言って、 それから乳母《めのと》を責めるのであった。 乳母は大臣に対して何とも弁明ができない。 ただ、 「こんなことでは大事な内親王様がたにも あやまちのあることを昔の小説などで読みましたが、 それは御信頼を裏切るおそばの者があって、 男の方のお手引きをするとか、 また思いがけない隙《すき》ができたとかいうことで 起きるのですよ。 こちらのことは何年も 始終ごいっしょに遊んでおいでになった間なんですもの。 お小さくはいらっしゃるし宮様が寛大にお
「あなたがそうお言いになるのはもっともだけれど、 私はまったく二人の孫が何を思って、 何をしているかを知りませんでした。 私こそ残念でなりませんのに、 同じように罪を私が負わせられるとは恨めしいことです。 私は手もとへ来た時から、特別にかわいくて、 あなたがそれほどにしようとお思いにならないほど大事にして、 私はあの人に 女の最高の幸福を受けうる価値もつけようとしてました。 一方の孫を溺愛《できあい》して、 ああしたまだ少年の者に 結婚を許そうなどとは思いもよらぬことです。 それにしても、 だれがあなたにそんなことを言ったのでしょう。 人の中傷かもしれぬことで、 腹をお立てになったりなさることはよくないし、 ないことで娘の名に傷をつけてしまうことにもなりますよ」 「何のないことだものですか。 女房たちも批難して、 蔭《かげ》では笑っていることでしょうから、 私の心中は穏やかでありようがあり
「御信頼しているものですから、子供をお預けしまして、 親である私はかえって何の世話もいたしませんで、 手もとに置きました娘の後宮のはげしい競争に 敗惨《はいざん》の姿になって、 疲れてしまっております方のことばかりを心配して 世話をやいておりまして、 こちらに御 厄介《やっかい》になります以上は、 私がそんなふうに捨てて置きましても、 あなた様は彼を一人並みの女にしてくださいますことと 期待していたのですが、 意外なことになりましたから、私は残念なのです。 源氏の大臣は天下の第一人者といわれるりっぱな方ではありますが ほとんど家の中どうしのような者のいっしょになりますことは、 人に聞こえましても軽率に思われることです。 低い身分の人たちの中でも、 そんなことは世間へはばかってさせないものです。 それはあの人のためにもよいことでは決してありません。 全然離れた家へはなやかに婿として迎えられる
乳母には、平大納言時忠の奥方が選ばれた。 これは後に帥典侍《そつのすけ》と呼ばれた人である。 法皇はやがて、御所へ還御になったが、 清盛は余りの嬉しさに、お土産にと、砂金一千両、 富士綿二千両を進呈したのは、 今までに類のないことだけに、 人々に異様な感じを与えたようである。 今度の御産《ごさん》にあたっては、 変ったことがいろいろあった。 その第一は、何といっても、法皇が、自ら祈祷者として、 祈られたことだったろう。 その二には、后《きさき》御産の行事として、 御殿の棟から甑《こしき》を落す習慣があり、 皇子の時は南、皇女の時は北と決まっていたが、 この時には間違って北に落してしまい、 慌てて落し直すという珍事《ちんじ》があった。 悪い前兆でなければよいが、と思った人もいたらしい。 一番面白かったのは、 清盛の日頃に似合わぬあわて方であった。 重盛は、例によって、 少しも騒がないところは
鬼界ヶ島を立った丹波少将らの一行は、 肥前国 鹿瀬《かせ》の庄《しょう》に着いた。 宰相教盛は使いをやって、 「年内は波が荒く航海も困難であろうから、 年が明けてから、京に帰るがよい」 といわせたので一行はここで新年を迎えることにした。 十一月十二日未明、中宮が産気づかれた。 このうわさで京中はわき立ったが、 御産所の六波羅の池殿《いけどの》には、 法皇が行幸されたのをはじめとして、 関白殿以下、 太政大臣など官職をおびた文武百官一人ももれなく伺候した。 これまでに、女御《にょうご》、 后《きさき》の御産の時に大赦が行なわれたことがあったが、 今度の御産の時も大赦が先例に従って行なわれ、 多くの重罪の者も許された。こうしたなかで、 鬼界ヶ島の俊寛が、 ただ一人許されなかったのは気の毒なことであった。 中宮は、安産の願立《がんだて》を行なわれ、 皇子がお生れになったら、 八幡、平野、大原野な
「俊寛がいまこんな有様になったのも、 あなたの父の謀叛からじゃ。 あなたも知らぬ顔はできぬはずじゃ。 頼む、許されぬとあらば都とまでは言わぬ、 せめてこの船で日向か薩摩の地まで連れて行ってくれい。 あなた方が島にいればこそ、 時には故郷のことも伝えきくことができた。 今わし一人になったら、それもできなくなるのじゃ」 俊寛は少将の袂をつかんで離さぬ。 袂が島と本土とむすぶただ一つの橋のように、 彼は両手でつかんでいた。 俊寛に口説かれた少将は、 もともと気性の優しい人だけに涙ぐみながら、 何んとかこの男に希望を与えようとして懸命に慰めた。 「まことにご尤もの話しと思います。 われら二人が召し帰されるのは嬉しいが、 あなたを見ては行くに行かれぬ気持です。 お言葉通り、船に乗せてお連れしたいが、 上使の方が、それはだめじゃと、 それ、さきほどからくり返して申しておらるる。 許されもしないのに三人
大赦の御使、 丹左衛門尉基康《たんざえもんのじょうもとやす》と その供のものをのせた船は、 目指す鬼界ヶ島についたが、荒漠とした孤島のさまは、 都より訪れた人々に、おそろしく激しい印象を与えた。 船が島につくや、波にぬれた浜に一気に飛び下りた基康は、 大声をあげた。 「都から流された平判官康頼入道、丹波少将殿はおらるるか」 供の者もこれに和して、口々に尋ねたが、 しばしは波の音がこれに応えるばかりであった。 というのも、 康頼と少将の二人は例の熊野詣に行っていたからであったが、 ただ一人俊寛は小屋のほとりに寝そべったまま、 一人京の街をおもい、故郷の寺の山々に思いをはせていた。 人の声もまれで、耳にするのは、風の音、波の音、 時折り島を渡る海鳥の叫びぐらいで、 近頃物音に無関心になっている俊寛の耳に、 海辺から人の叫び声が伝わって来たのである。 愕然《がくぜん》として身を起した俊寛はわが耳
ところで悪いことには、悪いことが重なるもので、 唯でさえ衰弱している中宮に、 またしても物《もの》の怪《け》がとりついたのである。 童子に物の怪を乗り移らせて占ってみると、 多くの生霊、死霊が、取りついていたことがわかった。 とりわけその内でも執念深いのは、 去る保元の乱に讃岐に流された崇徳院《すとくいん》の霊、 同じく首謀者、左大臣頼長、 新しい所では、新大納言成親、西光、 それに鬼界ヶ島の流人の生霊などであった。 清盛は即座に沙汰を下すと、 崇徳院には、追号を捧げ、崇徳天皇とし、 頼長には、贈官贈位で太政大臣の贈位をし、 勅使として少内記惟基《しょうないきこれもと》が派遣された。 その他さまざまの怨霊慰撫が行われたが、 このことを聞いて、門脇《かどわき》の宰相は早速重盛を訪ねた。 「中宮の御産のため様々のお祈りをなされていると聞きますが、 何と申しましても、 特赦にまさるものはないと思
鬼界ヶ島に流された、俊寛、康頼、成経の三人は、 少将の舅、宰相教盛の領地である肥前、鹿瀬庄《かせのしょう》から、 何かにつけて衣類や食物を送らせるように手配して呉れたおかげで、 どうやらこうやら生きることだけは出来たらしい。 康頼は、かねてから出家の志を持っていたが、 流罪の途中、周防《すおう》の室積《むろづみ》で出家し、 性照《しょうしょう》と名乗った。 ついにかくそむきはてける世の中を とく捨てざりしことぞくやしき これはその時の歌である。 少将と康頼は、前から熊野権現の信者であったから、 何とかこの土地にも熊野権現を祭って、 一日も早く帰京のかなうように 日夜祈参しようという相談が持ちあがった。 「どうじゃ、俊寛殿、貴方も、この計画に一枚お加わりなさい。 都へ帰参の望みもかなうかも知れぬ」 二人が熱心にすすめても、しかし俊寛は、 ばかばかしそうに首を振るばかりであった。 康頼と少将は
内大臣は車中で娘の恋愛のことばかりが考えられた。 非常に悪いことではないが、 従弟どうしの結婚などはあまりにありふれたことすぎるし、 野合の初めを世間の噂《うわさ》に上されることもつらい。 後宮の競争に女御をおさえた源氏が恨めしい上に、 また自分はその失敗に代えて あの娘を東宮へと志していたのではないか、 僥倖《ぎょうこう》があるいはそこにあるかもしれぬと、 ただ一つの慰めだったこともこわされたと思うのであった。 源氏と大臣との交情は睦《むつ》まじく行っているのであるが、 昔もその傾向があったように、 負けたくない心が断然強くて、 大臣はそのことが不快であるために朝まで安眠もできなかった。 大宮も様子を悟っておいでになるであろうが、 非常におかわいくお思いになる孫であるから勝手なことをさせて、 見ぬ顔をしておいでになるのであろうと女房たちの言っていた点で、 大臣は大宮を恨めしがっていた。
福原に着いたのは、六月二十二日である。 一応 備中国《びっちゅうのくに》に流罪と決まり、 瀬尾太郎兼康が警備の任をおびてゆくことになった。 兼康は、とかく、 あとあと宰相から恨まれるのがこわいから、 かゆいところに手の届くような労《いたわ》り方で、 少将の心を何とか慰めようとするのであるが、 少将の方は一日として楽しまぬのである。 彼の心には、 父成親の行方だけが気にかかっていたのである。 その成親は、備前《びぜん》の児島が港に近いという理由で、 備前、備中の境、 有木《ありき》の別所《べっしょ》という山寺に移された。 この有木の別所と、少将のいる備中の瀬尾《せのお》とは、 僅か五十町足らずという目と鼻のあいだであった。 人づてにそのことを聞いた少将は、 どうにもなつかしくなって、ある日兼康に、 「父上のいられる有木の別所まで、何里程のところなのじゃ」 とたずねた。 本当の事をいってはかえ
宿所に帰った重盛は、主馬判官盛国を呼びだすと、 「唯今、重盛が、天下の大事を聞き出して参った。 常日頃、重盛のために命を惜しまぬ者があれば、 急ぎ集めるように」 といった。この知らせがたちまち広がったから、 日頃、物事に動じぬ人のお召しというので、 まさに天下の一大事とばかりに、 誰も彼も、おっとり刀で小松殿へ集ってきた。 小松殿で何事かが起るという知らせは、 西八条にも届いていた。 西八条につめていた数千騎は、誰いうとなく、 一人残らず、小松殿にとんでいってしまい、 清盛邸はひっそり閑としてしまった。 驚いたのは、清盛である。貞能を呼ぶと、 「一体、重盛は、 何のつもりでこれらの兵を狩り集めたのだろう。 まさか、さっきわしに申した事を実行して、 このわしに弓矢を引こうというつもりではないだろうな」 といささか心細げにいった。 「とんでもございません、 あの方に限って そんな馬鹿な真似をな
重盛は、烏帽子に直衣《なおし》という平服姿で、 さらさらと衣ずれの音をさせながら、 終始、落着き払って、清盛の座所にやってきた。 重盛の到着を聞いた時から、 「あいつのことだから、又じゃらじゃらした平服姿で、 わざとやってくるぞ、少しは意見してやらねば」 と思っていた清盛だったが、わが子とはいえ、 一目《いちもく》おいている上に、 その礼儀正しさと、慈悲深さは定評のある男であり、 会ったとたんに清盛は、 自分の格好が恥ずかしくなってきた。 急いで障子を立てると、 彼は、慌てて腹巻の上から法衣をひっかけたが、 胸板の金物が、ともすると着物の合せ目から見えるのを、 無理にひっぱって、しきりに衿《えり》をかき合せていた。 重盛は、弟宗盛の上座に着くと、黙って父の顔を見た。 しばらく沈黙が続いていたが、 清盛の方から先に口を切った。 「いろいろ調べてみると、成親の謀叛《むほん》は、 ほんの出来心で
「こちらへ」 と宮はお言いになって、 お居間の中の几帳を隔てた席へ若君は通された。 「あなたにはあまり逢いませんね。 なぜそんなにむきになって学問ばかりをおさせになるのだろう。 あまり学問のできすぎることは不幸を招くことだと 大臣も御体験なすったことなのだけれど、 あなたをまたそうおしつけになるのだね、 わけのあることでしょうが、 ただそんなふうに閉じ込められていて あなたがかわいそうでならない」 と内大臣は言った。 「時々は違ったこともしてごらんなさい。 笛だって古い歴史を持った音楽で、 いいものなのですよ」 内大臣はこう言いながら笛を若君へ渡した。 若々しく朗らかな音《ね》を吹き立てる笛がおもしろいために しばらく絃楽のほうはやめさせて、 大臣はぎょうさんなふうでなく拍子を取りながら、 「萩《はぎ》が花ずり」(衣がへせんや、わが衣は野原 篠原《しのはら》萩の花ずり)など歌っていた。 「
姫君がこぢんまりとした美しいふうで、 十三絃《げん》の琴を弾いている髪つき、 顔と髪の接触点の美などの艶《えん》な上品さに大臣が じっと見入っているのを姫君が知って、 恥ずかしそうにからだを少し小さくしている横顔がきれいで、 絃《いと》を押す手つきなどの美しいのも 絵に描いたように思われるのを、 大宮も非常にかわいく思召《おぼしめ》されるふうであった。 姫君はちょっと掻《か》き合わせをした程度で 弾きやめて琴を前のほうへ押し出した。 内大臣は大和琴《やまとごと》を引き寄せて、 律の調子の曲のかえって若々しい気のするものを、 名手であるこの人が、 粗弾《あらび》きに弾き出したのが非常におもしろく聞こえた。 外では木の葉がほろほろとこぼれている時、 老いた女房などは涙を落としながら あちらこちらの几帳の蔭《かげ》などに幾人かずつ集まって この音楽に聞き入っていた。 「風《かぜ》の力|蓋《けだ》
大学へ若君が寮試を受けに行く日は、 寮門に顕官の車が無数に止まった。 あらゆる廷臣が今日はここへ来ることかと思われる列席者の 派手《はで》に並んだ所へ、 人の介添えを受けながらはいって来た若君は、 大学生の仲間とは見ることもできないような 品のよい美しい顔をしていた。 例の貧乏学生の多い席末の座につかねばならないことで、 若君が迷惑そうな顔をしているのももっともに思われた。 ここでもまた叱るもの威嚇するものがあって不愉快であったが、 若君は少しも臆《おく》せずに進んで出て試験を受けた。 昔学問の盛んだった時代にも劣らず大学の栄えるころで、 上中下の各階級から学生が出ていたから、 いよいよ学問と見識の備わった人が輩出するばかりであった。 文人《もんにん》と擬生《ぎしょう》の試験も 若君は成績よく通ったため、 師も弟子《でし》もいっそう励みが出て学業を熱心にするようになった。 源氏の家でも始終
丹波少将|成経《なりつね》は、 その夜、院の御所の宿直で、まだ家には帰っていなかった。 そこへ、大納言の家来が、急を知らせにかけつけてきた。 始めて、事の子細を知った少将の驚きも深かった。 それにしても、宰相《さいしょう》殿から、 何ともいってこないのは変だ、と思っていた矢先、 宰相からも使いの者がとんできた。 宰相とは、清盛の弟 教盛《のりもり》のことであるが、 教盛の娘が成経の妻になっていたから、 成経には舅《しゅうと》であった。 「何事か存じませぬが、清盛公から、 西八条へ出頭するようにというお達しが参っておりますが」 宰相の使いの言葉を聞くより早く、 少将は、その意味を察して、 法皇の側仕えの女房を呼び出すと、事の次第を物語った。 「昨晩は、何となく往来のあたりが騒然としておりまして、 私なども、又、山法師が、陳情にでも参ったものかとばかり、 うかつに考えておりましたが、 何と、こ
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翌くる六月一日の未明、清盛は、 検非違使安倍資成《けびいしあべのすけなり》を召し、 院の御所への使いを命じた。 資成は御所に着くと、 大膳大夫信業《だいぜんのだいふのぶなり》を呼んで清盛の伝言を、 法皇に伝えてくれるように頼んだ。 「わが君の仰有《おっしゃ》るには、 法皇側近の方々が、 平家一門を滅して天下を乱そうという計画をお持ちとききました。 こちらとしても捨てては置かれませんから、 一人一人召し捕え、いい様に処分するつもりでいますが、 その点あらかじめご了承下さって、 何卒ご妨害などしないで頂きたいのです」 信業もこの知らせにひどく、どぎまぎしながら、 「暫くお待ちを、唯今、法皇にお取次ぎいたしますから」 と言い置いてあたふたと、院の前にかけつけてきた。 「どうやら、鹿ヶ谷の一件を、清盛が嗅ぎつけたらしく」 信業の知らせに、 日頃、沈着な院も、返す言葉がない。 唯、唇をわなわな震わせ
第21帖 乙女3です🪻 故太政大臣家で生まれた源氏の若君の 元服の式を上げる用意がされていて、 源氏は二条の院で行なわせたく思うのであったが、 祖母の宮が御覧になりたく思召すのがもっともで、 そうしたことはお気の毒に思われて、 やはり今までお育てになった宮の御殿でその式をした。 右大将を始め伯父君《おじぎみ》たちが 皆りっぱな顕官になっていて勢力のある人たちであったから、 母方の親戚からの祝品その他の贈り物もおびただしかった。 かねてから京じゅうの騒ぎになるほど 華美な祝い事になったのである。 初めから四位にしようと源氏は思ってもいたことであったし、 世間もそう見ていたが、まだきわめて小さい子を、 何事も自分の意志のとおりになる時代にそんな取り計らいをするのは、 俗人のすることであるという気がしてきたので、 源氏は長男に四位を与えることはやめて、 六位の浅葱《あさぎ》の袍《ほう》を着せて
額に汗をみなぎらせ、真蒼《まっさお》な顔に息使いも荒く、 西八条の邸に入ってきた行綱に、 家来達も驚いて、早速、清盛の所に知らせた。 「何、行綱だと? めったに来もしない奴が、 又何でこんな夜中にやって来たんだ? とにかくおそいから、わしは逢わん、 盛国《もりくに》、お前が、言伝てを聞いてこい」 清盛は傍らの主馬判官《しゅめのはんがん》盛国にいった。 暫くして盛国が戻ってきて、 「何か、直《じ》きじき、お話したいとか」 「直きじきだと? 一体何だろう?」 さすがに清盛も、行綱の唯ならぬ様子に、 何事か起ったのかと、不安になってきて、 自分で渡殿《わたどの》の中門まで出てきた。 「この夜更けに、一体、何の用で、わしに逢いたいのじゃ?」 「実は、昼のうちは人目につきやすく、 中々その折もございませんで、 夜中お騒せしてまことに心苦しいのですが、 このところ、後白河院の御所で、兵具《ひょうぐ》を
山門の衆徒が、前座主《ざす》の流罪を妨害して、 山へ連れ戻した知らせは、後白河法皇をひどく怒らせた。 「山門の大衆どもは、勅命を何と心得えて、 このように言語道断のことをするのだろうか?」 側に侍《はべ》っていた西光法師も、 前座主帰山の知らせに何か手をうたなくてはと、 考えていた矢先だから、ここぞとばかり、一ひざ進めると、 「山門の奴らの横暴な振舞は今に始った事ではございませぬが、 此度は又以ての他の狼藉《ろうぜき》振り、 これは余程、厳重な処分をいたさねば、 後々までも禍恨は絶たれぬものと思います」 したり顔に申し上げた。 とにかく讒臣《ざんしん》は国を乱すということわざがあるが、 西光らもその良い例で、何かと、 自分の都合のよいように法皇の心を引き廻していたともいえる。 こんなうわさが山門にまで伝わってきて、 中には、 新大納言成親に命じて既に山攻めの仕度が始ったなどという者もあり、
驚いたのは、明雲大僧正である。 元々、道理一点ばりの人だからここに及んでも、 喜ぶより先に、この事件の行末を気にかけていた。 「私は、法皇の勅勘を受けて流される罪人なのですから、 少しも早く、都の内を追い出されて、 先を急がねばならぬ身です。 お志は有難いが、貴方方に迷惑はかけたくない、 早くお引き取り下さい」 と言う。 しかし、このくらいで引き下る衆徒ではない。 何が何でも山に戻って貰わねば、 山の名誉にもかかわるとばかり、座主の決意を促した。 「家を出て山門に入ってからというもの、 専ら、国家の平和を祈り、 衆徒の皆さんをも大切にしてきたつもりですし、 我が身にあやまちがあろうとは思われず、 この度の事でも、 私は、人をも神仏をも誰一人お恨み申してはおりません。 それにしても、 ここまで追いかけてきて下さった衆徒の皆さんの志を思うと、 何とお礼を申し上げてよいものやら」 後は唯涙をぬぐ
この明雲大僧正は、 久我大納言顕通《こがのだいなごんあきみち》の子で、 仁安《にんあん》元年座主となり、 当時天下第一と言われる程の智識と高徳を備えた人で、 上からも下からも、尊敬されていた人だったが、 ある時、陰陽師《おんようし》の安倍泰親《あべのやすちか》が、 「これ程、智識のある人にしては不思議だが、 明雲の名は、上に日月、下に雲と、 行末の思いやられるお名前だ」 といったことがあったが、今になってみると、 その言葉もある程度うなずけるものがある。 二十一日は、座主の京都追放の日であった。 執行役人に追い立てられながら、 座主は泣くなく京をあとにして、 一先ず、一切経谷にある草庵に入った。 二十三日がいよいよ、東国伊豆に向って出発する日である。 さすがに日頃住みなれた都を離れ、 恐らくは二度と、 帰れぬであろう関東への旅に立つ大僧正の心の内には、 様々の想念が渦巻いていた。 一行は、
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