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コーヒー沼
syounagon.hatenablog.com
夜ふけになったのであるが、 この機会に皇太后を御訪問あそばさないことも 冷淡なことであると思召《おぼしめ》して、 お帰りがけに帝はそのほうの御殿へおまわりになった。 源氏もお供をして参ったのである。 太后は非常に喜んでお迎えになった。 もう非常に老いておいでになるのを、 御覧になっても帝は御母宮をお思い出しになって、 こんな長生きをされる方もあるのにと残念に思召された。 「もう老人になってしまいまして、 私などはすべての過去を忘れてしまっておりますのに、 もったいない御訪問をいただきましたことから、 昔の御代《みよ》が忍ばれます」 と太后は泣いておいでになった。 「御両親が早くお崩《かく》れになりまして以来、 春を春でもないように寂しく見ておりましたが、 今日はじめて春を十分に享楽いたしました。 また伺いましょう」 と陛下は仰せられ、源氏も御|挨拶《あいさつ》をした。 「また別の日に伺候い
奏楽所が遠くて、 細かい楽音が聞き分けられないために、 楽器が御前へ召された。 兵部卿の宮が琵琶《びわ》、内大臣は和琴《わごん》、 十三|絃《げん》が 院の帝《みかど》の御前に差し上げられて、 琴《きん》は例のように源氏の役になった。 皆名手で、絶妙な合奏楽になった。 歌う役を勤める殿上役人が選ばれてあって、 「安名尊《あなとうと》」が最初に歌われ、 次に桜人《さくらびと》が出た。 月が朧《おぼ》ろに出て美しい夜の庭に、 中島あたりではそこかしこに 篝火《かがりび》が焚《た》かれてあった。 そうしてもう合奏が済んだ。 🌸🎼徒桜 written by のる 少納言のホームページ 源氏物語&古典 syounagon-web ぜひご覧ください🪷 https://syounagon-web-1.jimdosite.com 🪷聴く古典文学 少納言チャンネルは、聴く古典文学動画。チャンネル登録
「春鶯囀《しゅんおうてん》」が舞われている時、 昔の桜花の宴の日のことを院の帝はお思い出しになって、 「もうあんなおもしろいことは見られないと思う」 と源氏へ仰せられたが、 源氏はそのお言葉から青春時代の恋愛三昧《ざんまい》を 忍んで物哀れな気分になった。 源氏は院へ杯を参らせて歌った。 鶯《うぐひす》のさへづる春は昔にてむつれし花のかげぞ変はれる 院は、 九重を霞《かすみ》へだつる住処《すみか》にも春と告げくる鶯の声 とお答えになった。 太宰帥《だざいのそつ》の宮といわれた方は 兵部卿《ひょうぶきょう》になっておいでになるのであるが、 陛下へ杯を献じた。 いにしへを吹き伝へたる笛竹にさへづる鳥の音《ね》さへ変はらぬ この歌を奏上した宮の御様子がことにりっぱであった。 帝は杯をお取りになって、 鶯の昔を恋ひて囀《さへづ》るは木《こ》づたふ花の色やあせたる と仰せになるのが重々しく気高《けだ
元日も源氏は外出の要がなかったから 長閑《のどか》であった。 良房《よしふさ》の大臣の賜わった古例で、 七日の白馬《あおうま》が二条の院へ引かれて来た。 宮中どおりに行なわれた荘重な式であった。 二月二十幾日に朱雀《すざく》院へ行幸があった。 桜の盛りにはまだなっていなかったが、 三月は母后の御忌月《おんきづき》であったから、 この月が選ばれたのである。 早咲きの桜は咲いていて、 春のながめはもう美しかった。 お迎えになる院のほうでもいろいろの御準備があった。 行幸の供奉《ぐぶ》をする顕官も親王方も その日の服装などに苦心を払っておいでになった。 その人たちは皆青色の下に桜襲《さくらがさね》を用いた。 帝は赤色の御服であった。 お召しがあって源氏の大臣が参院した。 同じ赤色を着ているのであったから、 帝と同じものと見えて、 源氏の美貌《びぼう》が輝いた。 御宴席に出た人々の様子も態度も 非
明けて、ことしは元亨《げんこう》二年だった。 ただしく過去をかぞえれば、武家幕府の創始者、 頼朝の没後から百二十二年目にあたる初春《はる》である。 又太郎は一室で、清楚な狩衣《かりぎぬ》に着かえ、 烏帽子も新しくして、若水を汲むべく、 庭の井筒《いづつ》へ降り立っていた。 彼の伯父なる人とは、六波羅評定衆の一員、 上杉|兵庫頭《ひょうごのかみ》憲房《のりふさ》である。 ここはその邸内だったのはいうまでもない。 「アア都は早いな」 井筒のつるべへ手をかけながら、 又太郎はゆうべの酔の気《け》もない面《おもて》を、 梅の梢《こずえ》に仰向けた。 「——国元のわが家の梅は、まだ雪深い中だろうに。 ……右馬介、ここのはもうチラホラ咲いているの」 「お国元のご両親にも、今朝は旅のお子のために、 朝日へ向って、ご祈念でございましょうず」 又太郎に、返辞はなかった。 彼も若水の第一をささげて、 まず東方
🙇信連を信達と間違えておりました。申し訳ありませぬ🙇 ただちに御所内に乱入した役人は 血眼で高倉宮の姿を探しもとめたが、 もちろん、いるはずはない。 地団駄ふんだ彼らは、 隠れひそんでいた女房たちに悪態の限りをつくしたあと、 信連を縛りあげて、六波羅へ引き揚げたのであった。 報告を受けた宗盛は大床を踏み鳴らして現れると、 庭先に引き据えられた信連を見すえて、わめいた。 「おのれは、宣旨の使いと名乗る男を、 何が宣旨じゃと申して斬ったとな。 嘘とはいわせぬ。 そのうえ、検非違使庁の多くの下郎もあやめた。 断じて許さぬ。 よい、河原に引き出して、 その素っ首を打ち落してやる。 が、その前に宮の行方をかくさず申し立てい、 おのれは承知しているはずだ。 こやつをきびしく糺問《きゅうもん》してみよ」 信連は不敵な表情で坐り直すと、あざ笑った。 「近頃、御所の廻りを 妙な奴輩《やから》がうろつくの
🙇信連を信達と間違えております。信連合戦が正しいです🙇 五月十五夜の月に照らされた御所は明るかった。 敵も味方も戦いやすい条件ではあったが、 敵は不案内、 信連は近よるものを廻廊に誘い寄せては 一刀のもとに袈裟《けさ》がけに斬り、 壁に何時しか追いつめては胸を刺した。 「宣旨の使いだぞ、手向うのか」 と信連を持て余した役人どもがおめいた。 「宣旨とは何じゃ」 と嘲笑《あざわら》うそのひまにも、信連は太刀を振った。 入念の作りとはいえ、 彼の太刀は衛府作りの華奢なものである。 激しい打合いに刀身が曲れば、咄嗟に手で直し、 それでも及ばぬ時は足で刀身を正しながら、 縦横に白刃を躍らせた。 幾多の合戦で身につけた信連の太刀捌《さば》きは水際立ち、 彼の刃に伏した者は忽ち十四、五人を数えた。 倒された仲間の血が彼らを奮起させたのか、 新手は死物狂いで大長刀を打ち振りながら立ち向って来る。 ひと
五節の弟で若君にも丁寧に臣礼を取ってくる惟光の子に、 ある日逢った若君は平生以上に親しく話してやったあとで言った。 「五節はいつ御所へはいるの」 「今年のうちだということです」 「顔がよかったから私はあの人が好きになった。 君は姉さんだから毎日見られるだろうからうらやましいのだが、 私にももう一度見せてくれないか」 「そんなこと、私だってよく顔なんか見ることはできませんよ。 男の兄弟だからって、あまりそばへ寄せてくれませんのですもの、 それだのにあなたなどにお見せすることなど、だめですね」 と言う。 「じゃあ手紙でも持って行ってくれ」 と言って、若君は惟光《これみつ》の子に手紙を渡した。 これまでもこんな役をしては いつも家庭でしかられるのであったがと迷惑に思うのであるが、 ぜひ持ってやらせたそうである若君が気の毒で、 その子は家へ持って帰った。 五節は年よりもませていたのか、若君の手紙を
五節の舞い姫は皆とどまって 宮中の奉仕をするようとの仰せであったが、 いったんは皆退出させて、 近江守《おうみのかみ》のは唐崎《からさき》、 摂津守の子は浪速で祓いをさせたいと願って自宅へ帰った。 大納言も別の形式で宮仕えに差し上げることを奏上した。 左衛門督《さえもんのかみ》は娘でない者を 娘として五節に出したということで問題になったが、 それも女官に採用されることになった。 惟光《これみつ》は典侍《ないしのすけ》の職が 一つあいてある補充に娘を採用されたいと申し出た。 源氏もその希望どおりに 優遇をしてやってもよいという気になっていることを、 若君は聞いて残念に思った。 自分がこんな少年でなく、 六位級に置かれているのでなければ、 女官などにはさせないで、 父の大臣に乞《こ》うて同棲を黙認してもらうのであるが、 現在では不可能なことである。 恋しく思う心だけも知らせずに終わるのかと、
「ああ、よいここちだった。 右馬介、よほど長く眠ったのか、わしは」 又太郎は伸びをした。 その手が、ついでに、曲がっていた烏帽子を直した。 やっと現《うつつ》に返った眼でもある。 その眼もとには、人をひき込まずにいない何かがあった。 魔魅《まみ》の眸にもみえるし、 慈悲心の深い人ならではの物にもみえる。 どっちとも、ふと判別のつきかねる理由は、 ほかの部分の、 いかつい容貌《かおだち》のせいかもしれない。 骨太なわりには、痩肉《そうにく》の方である。 顎《あぎと》のつよい線や、 長すぎるほど長い眉毛だの、大きな鼻梁《びりょう》が、 どこか暢《のん》びり間のびしているところなど、 これは西の顔でもなし、京顔でもない。 坂東者《ばんどうもの》に多い特有な骨柄《こつがら》なのだ。 それに、幼いときの疱瘡《ほうそう》のあとが、 浅黒い地肌に妙な白ッぽさを沈めており、 これも女子には好かれそうもない
🙇信連を信達と間違えております。信連合戦が正しいです🙇 この日五月十五日、満月である。 三条の御所で高倉宮は、 雲間にかくれ移る皓々《こうこう》たる月を眺めていた。 遥か東国に下した密使の行方、 そして源氏勢の反応、 あるいは俄かに可能性をおびて 身に迫ってきた皇位のことに思いを廻らせていたのであろうか。 雲間をよぎる月の光を浴びた宮の姿は、 無心に月夜を楽しむとも見えた。 この時、 息せき切って宮の御所に現れたのは入道頼政の急使である。 宮の御乳母の子、 六条亮大夫宗信 《ろくじょうのすけのだいふむねのぶ》は 使いの手紙をあわただしく宮の御前にひらいた。 「宮のご謀叛のことすでに露顕、 宮を土佐の畑《はた》へお流し申さんと、 官人ども検非違使別当の命を受けてお迎えに向う。 急ぎ御所を出でさせ給い、三井寺へ入らせ給え。 この入道頼政も即刻御許に参じ奉らん」 意表を衝《つ》く知らせである
浅葱《あさぎ》の袍《ほう》を着て行くことがいやで、 若君は御所へ行くこともしなかったが、 五節を機会に、 好みの色の直衣《のうし》を着て宮中へ出入りすることを 若君は許されたので、その夜から御所へも行った。 まだ小柄な美少年は、 若公達《わかきんだち》らしく御所の中を遊びまわっていた。 帝をはじめとしてこの人をお愛しになる方が多く、 ほかには類もないような御 恩寵《おんちょう》を 若君は身に負っているのであった。 五節の舞い姫がそろって御所へはいる儀式には、 どの舞い姫も盛装を凝らしていたが、 美しい点では源氏のと、 大納言の舞い姫がすぐれていると若い役人たちはほめた。 実際二人ともきれいであったが、 ゆったりとした美しさはやはり源氏の舞い姫がすぐれていて、 大納言のほうのは及ばなかったようである。 きれいで、現代的で、 五節の舞い姫などというもののようでないつくりにした 感じよさがこうほ
このころ、熊野別当|湛増《たんぞう》は、 平家の重恩を受けていたが、 どこからこの令旨のことをもれ聞いたのか、 「新宮の十郎義盛は高倉宮の令旨を抱いて、 すでに謀叛を起さんとしている。 那智、新宮の者どもは、 定めし源氏の味方をするであろうが、 この湛増は平家のご恩を山より高く受けている身、 いかで謀叛にくみしえよう。 まず那智、新宮の者どもに矢一つ射かけて、 その後、都へことの詳細を報告することにしよう」 と、甲冑に身を固めた兵、 一千余人を引きつれて新宮の港へ向った。 新宮では、鳥居の法眼、高坊《たかぼう》の法眼、 武士には宇井、鈴木、水屋、亀甲《かめのこう》、 那智では執行法眼以下、 その勢合せて二千人余が陣を構えた。 来るべき嵐の前ぶれともいうべきこの戦は激しかった。 双方|鬨《とき》の声をあげ、矢を射合わせて、 合戦の幕は切られた。 源氏の陣にはかく射よ、平家の者にはこう射よと、
まだ除夜の鐘には、すこし間がある。 とまれ、ことしも大晦日《おおつごもり》まで無事に暮れた。 だが、あしたからの来る年は。 洛中の耳も、大極殿《だいごくでん》のたたずまいも、 やがての鐘を、偉大な予言者の声にでも触《ふ》れるように、 霜白々と、待ち冴えている。 洛内四十八ヵ所の篝屋《かがりや》の火も、 つねより明々と辻を照らし、淡い夜靄《よもや》をこめた巽《たつみ》の空には、 羅生門の甍《いらか》が、夢のように浮いて見えた。
「そらあんなことを言っている。 くれなゐの 涙に深き 袖の色を 浅緑とや いひしをるべき 恥ずかしくてならない」 と言うと、 いろいろに 身のうきほどの 知らるるは いかに染めける 中の衣ぞ と雲井の雁が言ったか言わぬに、 もう大臣が家の中にはいって来たので、 そのまま雲井の雁は立ち上がった。 取り残された見苦しさも恥ずかしくて、 悲しみに胸をふさがらせながら、 若君は自身の居間へはいって、 そこで寝つこうとしていた。 三台ほどの車に分乗して姫君の一行は 邸《やしき》をそっと出て行くらしい物音を聞くのも 若君にはつらく悲しかったから、 宮のお居間から、来るようにと、 女房を迎えにおよこしになった時にも、 眠ったふうをしてみじろぎもしなかった。 涙だけがまだ止まらずに一睡もしないで暁になった。 霜の白いころに若君は急いで出かけて行った。 泣きはらした目を人に見られることが恥ずかしいのに、 宮
「伯父《おじ》様の態度が恨めしいから、 恋しくても 私はあなたを忘れてしまおうと思うけれど、 逢わないでいてはどんなに苦しいだろうと 今から心配でならない。 なぜ逢えば逢うことのできたころに 私はたびたび来なかったろう」 と言う男の様子には、 若々しくてそして心を打つものがある。 「私も苦しいでしょう、きっと」 「恋しいだろうとお思いになる」 と男が言うと、雲井の雁が幼いふうにうなずく。 座敷には灯《ひ》がともされて、 門前からは大臣の前駆の者が 大仰《おおぎょう》に立てる人払いの声が聞こえてきた。 女房たちが、 「さあ、さあ」 と騒ぎ出すと、雲井の雁は恐ろしがってふるえ出す。 男はもうどうでもよいという気になって、 姫君を帰そうとしないのである。 姫君の乳母《めのと》が捜しに来て、 はじめて二人の会合を知った。 何といういまわしいことであろう、 やはり宮はお知りにならなかったのではなかっ
若君の乳母の宰相の君が出て来て、 「若様とごいっしょの御主人様だと ただ今まで思っておりましたのに行っておしまいになるなどとは 残念なことでございます。 殿様がほかの方と御結婚をおさせになろうとあそばしましても、 お従いにならぬようにあそばせ」 などと小声で言うと、 いよいよ恥ずかしく思って、 雲井《くもい》の雁《かり》はものも言えないのである。 「そんな面倒《めんどう》な話はしないほうがよい。 縁だけはだれも前生から決められているのだからわからない」 と宮がお言いになる。 「でも殿様は貧弱だと思召《おぼしめ》して 若様を軽蔑あそばすのでございましょうから。 まあお姫様見ておいであそばせ、 私のほうの若様が人におくれをおとりになる方かどうか」 口惜《くちお》しがっている乳母は こんなことも言うのである。 若君は几帳《きちょう》の後ろへはいって来て 恋人をながめていたが、 人目を恥じることな
大臣は、 「ちょっと御所へ参りまして、 夕方に迎えに来ようと思います」 と言って出て行った。 事実に潤色を加えて結婚をさせてもよいとは 大臣の心にも思われたのであるが、 やはり残念な気持ちが勝って、 ともかくも相当な官歴ができたころ、 娘への愛の深さ浅さをも見て、 許すにしても形式を整えた結婚をさせたい、 厳重に監督しても、 そこが男の家でもある所に置いては、 若いどうしは放縦なことをするに違いない。 宮もしいて制しようとは あそばさないであろうからとこう思って、 女御《にょご》のつれづれに託して、 自家のほうへも官邸へも軽いふうを装って 伴い去ろうと大臣はするのである。 宮は雲井の雁へ手紙をお書きになった。 大臣は私を恨んでいるかしりませんが、 あなたは、 私がどんなにあなたを愛しているかを知っているでしょう。 こちらへ逢いに来てください。 宮のお言葉に従って、 きれいに着かざった姫君が
ちょうどそこへ若君が来た。 少しの隙《すき》でもないかと このごろはよく出て来るのである。 内大臣の車が止まっているのを見て、 心の鬼にきまり悪さを感じた若君は、 そっとはいって来て自身の居間へ隠れた。 内大臣の息子たちである左少将《さしょうしょう》、 少納言《しょうなごん》、 兵衛佐《ひょうえのすけ》、侍従《じじゅう》、 大夫《だいふ》などという人らも このお邸《やしき》へ来るが、 御簾《みす》の中へはいることは許されていないのである。 左衛門督《さえもんのかみ》、 権中納言《ごんちゅうなごん》などという内大臣の兄弟は ほかの母君から生まれた人であったが、 故人の太政大臣が 宮へ親子の礼を取らせていた関係から、 今も敬意を表しに来て、 その子供たちも出入りするのであるが、 だれも源氏の若君ほど美しい顔をしたのはなかった。 宮のお愛しになることも比類のない御孫であったが、 そのほかには雲井
「本当だろうか、 本当にお前が来てくれたのだろうか、 毎日毎夜、都のことばかり思いつめて、 今では恋しい者の面影が、夢かうつつか、 わからなくなってしまったのだよ。 お前の来たのは夢ではないのか? 本当にお前が来たのか? 夢であったら覚めた後がどんなに辛い事か」 「僧都様、これは本当でございますよ。 決して夢ではありませぬ。 それにしても、 よくこうやって生き長らえておいでになりました」 「まったくそうなんだ、お前のいうとおりだが、 恥ずかしい話、わしは少将が島を去る時、 よしなに取計うから待てといった言葉が 忘れられなかったのじゃよ。 おろかなものでのう、 その一言に、もしやと頼みの綱をかけ、 一日一日を生き伸びていたのじゃ、 何せ、ここは食い物のないところで、 わしも丈夫な折は、 山にのぼって硫黄《いおう》とやらを取り、 商人船の来る度に食物と代えて貰っていたが、 体が弱ってからは、
たったひとり、鬼界ヶ島に取り残された俊寛が、 幼い頃から可愛がって使っていた有王という少年があった。 鬼界ヶ島の流人が 大赦になって都入りをするという話を伝え聞いた有王は、 喜び勇んで鳥羽まで出迎えにいった。 「どんなにおやつれになってお帰りだろう、 随分辛いことだったろうなあ」 あれこれ考えているうちに、 鬼界ヶ島の流人らしい一行が到着した。 見送り人のごった返す中で、 有王は、俊寛の姿を探し求めたが、 それらしい人の姿は見当らなかった。 有王は次第に不安と焦燥を覚えながらも、 「そんなはずはない、そんなバカなことはない」 と自分にいい聞かせながら、 一人一人の顔をのぞきこむようにして探した。 何度探しても結局は、無駄であった。 俊寛らしい人の影はみえないのである。 「もし、一寸お尋ねいたします」 思い切って有王は、人に尋ねてみようと決心した。 「今日ご大赦のあった鬼界ヶ島流人のうちの一
治承二年の正月がやってきた。 宮中の行事はすべて例年の如く行われ、 四日には、高倉帝が院の御所にお出でになり、 新年のお喜びを申し上げた。 こうして表面は、 いつもながらの目出度い正月の祝賀風景が繰りひろげられていたが、 後白河法皇の心中は、内心穏やかならぬものがあった。 成親はじめ側近の誰彼が、殺されたり流されたりしたのは、 つい去年の夏のことである。 その生々しい光景はまだ、昨日のできごとの様に、 まざまざと心に甦《よみが》えってくる‥ 少納言のホームページ 源氏物語&古典 少納言の部屋🪷も ぜひご覧ください🌟https://syounagon.jimdosite.com 【ふるさと納税】【喜界島特産】宜家の胡麻フロランタン(5個入り)×8 価格: 10000 円楽天で詳細を見る 【ふるさと納税】クラフトビール WAN50(ワンフィフティ) 4.5% 350ml×12本 価格: 3
大宮はこの不祥事を二人の孫のために 悲しんでおいでになったが、 その中でも若君のほうをお愛しになる心が強かったのか、 もうそんなに大人びた恋愛などのできるようになったかと かわいくお思われにならないでもなかった。 もってのほかのように言った内大臣の言葉を 肯定あそばすこともできない。 必ずしもそうであるまい、たいした愛情のなかった子供を、 自分がたいせつに育ててやるようになったため、 東宮の後宮というような志望も 父親が持つことになったのである。 それが実現できなくて、 普通の結婚をしなければならない運命になれば、 源氏の長男以上のすぐれた婿があるものではない。 容貌をはじめとして何から言っても 同等の公達《きんだち》のあるわけはない、 もっと価値の低い婿を持たねばならない気がすると、 やや公平でない御愛情から、 大臣を恨んでおいでになるのであったが、 宮のこのお心持ちを知ったならまして大
「で、このことはしばらく秘密にしておこう。 評判はどんなにしていても立つものだが、 せめてあなたたちは、 事実でないと否定をすることに骨を折るがいい。 そのうち私の邸《やしき》へつれて行くことにする。 宮様の御好意が足りないからなのだ。 あなたがたはいくら何だっても、 こうなれと望んだわけではないだろう」 と大臣が言うと、 乳母たちは、 大宮のそう取られておいでになることをお気の毒に思いながらも、 また自家のあかりが立ててもらえたようにうれしく思った。 「さようでございますとも、 大納言家への聞こえということも 私たちは思っているのでございますもの、 どんなに人柄がごりっぱでも、 ただの御縁におつきになることなどを 私たちは希望申し上げるわけはございません」 と言う。 姫君はまったく無邪気で、どう戒めても、 おしえてもわかりそうにないのを見て大臣は泣き出した。 「どういうふうに体裁を繕えば
姫君は何も知らずにいた。 のぞいた居間に 可憐な美しい顔をして姫君がすわっているのを見て、 大臣の心に父の愛が深く湧《わ》いた。 「いくら年が行かないからといって、 あまりに幼稚な心を持っているあなただとは知らないで、 われわれの娘としての人並みの未来を 私はいろいろに考えていたのだ。 あなたよりも私のほうが廃《すた》り物になった気がする」 と大臣は言って、 それから乳母《めのと》を責めるのであった。 乳母は大臣に対して何とも弁明ができない。 ただ、 「こんなことでは大事な内親王様がたにも あやまちのあることを昔の小説などで読みましたが、 それは御信頼を裏切るおそばの者があって、 男の方のお手引きをするとか、 また思いがけない隙《すき》ができたとかいうことで 起きるのですよ。 こちらのことは何年も 始終ごいっしょに遊んでおいでになった間なんですもの。 お小さくはいらっしゃるし宮様が寛大にお
「あなたがそうお言いになるのはもっともだけれど、 私はまったく二人の孫が何を思って、 何をしているかを知りませんでした。 私こそ残念でなりませんのに、 同じように罪を私が負わせられるとは恨めしいことです。 私は手もとへ来た時から、特別にかわいくて、 あなたがそれほどにしようとお思いにならないほど大事にして、 私はあの人に 女の最高の幸福を受けうる価値もつけようとしてました。 一方の孫を溺愛《できあい》して、 ああしたまだ少年の者に 結婚を許そうなどとは思いもよらぬことです。 それにしても、 だれがあなたにそんなことを言ったのでしょう。 人の中傷かもしれぬことで、 腹をお立てになったりなさることはよくないし、 ないことで娘の名に傷をつけてしまうことにもなりますよ」 「何のないことだものですか。 女房たちも批難して、 蔭《かげ》では笑っていることでしょうから、 私の心中は穏やかでありようがあり
「御信頼しているものですから、子供をお預けしまして、 親である私はかえって何の世話もいたしませんで、 手もとに置きました娘の後宮のはげしい競争に 敗惨《はいざん》の姿になって、 疲れてしまっております方のことばかりを心配して 世話をやいておりまして、 こちらに御 厄介《やっかい》になります以上は、 私がそんなふうに捨てて置きましても、 あなた様は彼を一人並みの女にしてくださいますことと 期待していたのですが、 意外なことになりましたから、私は残念なのです。 源氏の大臣は天下の第一人者といわれるりっぱな方ではありますが ほとんど家の中どうしのような者のいっしょになりますことは、 人に聞こえましても軽率に思われることです。 低い身分の人たちの中でも、 そんなことは世間へはばかってさせないものです。 それはあの人のためにもよいことでは決してありません。 全然離れた家へはなやかに婿として迎えられる
乳母には、平大納言時忠の奥方が選ばれた。 これは後に帥典侍《そつのすけ》と呼ばれた人である。 法皇はやがて、御所へ還御になったが、 清盛は余りの嬉しさに、お土産にと、砂金一千両、 富士綿二千両を進呈したのは、 今までに類のないことだけに、 人々に異様な感じを与えたようである。 今度の御産《ごさん》にあたっては、 変ったことがいろいろあった。 その第一は、何といっても、法皇が、自ら祈祷者として、 祈られたことだったろう。 その二には、后《きさき》御産の行事として、 御殿の棟から甑《こしき》を落す習慣があり、 皇子の時は南、皇女の時は北と決まっていたが、 この時には間違って北に落してしまい、 慌てて落し直すという珍事《ちんじ》があった。 悪い前兆でなければよいが、と思った人もいたらしい。 一番面白かったのは、 清盛の日頃に似合わぬあわて方であった。 重盛は、例によって、 少しも騒がないところは
鬼界ヶ島を立った丹波少将らの一行は、 肥前国 鹿瀬《かせ》の庄《しょう》に着いた。 宰相教盛は使いをやって、 「年内は波が荒く航海も困難であろうから、 年が明けてから、京に帰るがよい」 といわせたので一行はここで新年を迎えることにした。 十一月十二日未明、中宮が産気づかれた。 このうわさで京中はわき立ったが、 御産所の六波羅の池殿《いけどの》には、 法皇が行幸されたのをはじめとして、 関白殿以下、 太政大臣など官職をおびた文武百官一人ももれなく伺候した。 これまでに、女御《にょうご》、 后《きさき》の御産の時に大赦が行なわれたことがあったが、 今度の御産の時も大赦が先例に従って行なわれ、 多くの重罪の者も許された。こうしたなかで、 鬼界ヶ島の俊寛が、 ただ一人許されなかったのは気の毒なことであった。 中宮は、安産の願立《がんだて》を行なわれ、 皇子がお生れになったら、 八幡、平野、大原野な
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