サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ノーベル賞
toccobushi.exblog.jp
現代風俗研究会 ( http://genpoo.kir.jp/ ) というところが出している雑誌『現代風俗学研究』のvol.20 (2020年10月発行)に、「ユーロゲームの誕生と消失」という文章を書きました(pp.23-32)。この号はゲーム特集なので、それでお誘いいただいたという形です。 わたくしの書いた文章は、論文といってもそれほど厳密なものではなく、英語の学術界隈で使われる意味での「essay」くらいの感じです。だいたいどういう文章なのかという点については、この文章の冒頭「はじめに」の部分でまとめたので、そのまま抜粋します。 遊戯の歴史は人類の文化史と同じだけの長さを持つものである一方、個人あるいは集団の創作物としてのゲームが商業的に流通するようになったのは概ね近代以降のことであり、そのような商業的ゲームが芸術形式として必要な制度を獲得してからの歴史はさらに短い。 その短い芸術形式
今週末12月2~3日に開催されるゲームマーケットで、ニューゲームズオーダー社から、Sid Sackson "A Gamut of Games" の邦訳書「シド・サクソンのゲーム大全」(訳:竹田原裕介)が先行発売されます。一般販売は12月中旬ないし下旬になる予定です。本日はこの本の宣伝にあがりました。なんでこの本の宣伝をしたいのかと申しますと、ちょっとした成り行きにより、わたくし本書の編集というか企画というか、つまり雑用全般に関わっておるのでございます。 原著は1969年に初版が発売された、基本的にはゲームのルール集です。シド・サクソンとゆかいな仲間たちが寄ってたかって作り上げた38作が詰まっております。それだけと言ってしまえばそれだけなんですが、ただそれだけだとサイエンティフィック・アメリカン誌の書評で「ゲームと数学的娯楽、双方の分野の文献における真の画期的事件だ」とまで書かれた理由も(ち
《ディスクレーマー:本文書は素人が書いた文章であり、記載内容について何ら責任を負うものではありません。At your own riskでお読みください。いや言うまでもないとは思うんですけどね》 EUで玩具を売る際は、規制をクリアして、その証明としていろんな文書の作成と、加えて製品自体にCEマークを付与する必要がある。EUの定義ではAges 14+のマニア向けコレクターズアイテムは玩具に含まれないはずで、日本からEssenに百部限で持って行く怪しげなカードゲームなどは実態としてマニア向けコレクターズアイテム以外の何物でも無いはずなんだが、なぜか今年からドイツの官憲が点数稼ぎだかなんだか不明の理由によりこれは断固として玩具であると言い張るようになったらしく、まあ仕方ないのでCEマークを頑張ってつける必要があるのだが、百部限のものに一々検査機関なんか通してられるか自分でなんとかしたる。 という人
(追記: 20161223) このサイトは主としてドイツゲーム以降のファミリーストラテジーボードゲームを追いかけるサイトなのですが、このファミリーストラテジーには源流がいくつかあって、そのうちの一つとして、アバロンヒル社が始めたボード・ウォーゲームがあります。どのような意味で源流になっているかというと、商業的に次々と出版されるゲームを取っ替え引っ替え遊んではゲーム自体を鑑賞するホビー、としてのゲーム趣味、あるいはホビイストとしてのゲーマーというのは、ここに起源を求めることができるわけです。 そういえば、以前moon Gamerで「レイメイ期のウォーゲーム (http://moon.livedoor.biz/archives/52401074.html )」という記事がありました。大雑把に要約すると「1972年に、ホビージャパン誌界隈を中心として、プラモデル等を用いたミニチュア・ウォーゲーム
イェスパー・ユール「ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム」が、ニューゲームズオーダー社から9月末に発売されます(PDF版は先行で発売済)。わたくしはこの翻訳本の企画者として諸々の作業に関わっておりまして、なんでこの本の翻訳を企画したのか、ということについて少し書かせていただきたいと思います。 以前「捏造ドイツボードゲーム現代史」というプレゼンを行った時にも触れたのですが、そもそもわたくしには個人的に、ゲームについて喋りたいという願望があります。現にゲームというものは存在していて、更に言えば面白いゲームと詰まらないゲームが存在していて、面白いゲームには面白いゲームにおける、詰まらないゲームには詰まらないゲームにおける、なにがしかの傾向もある。そうであるのにもかかわらず、喋るための十分な言葉は用意されていません。日本語www界隈には「小学生並の感想」というスラングがありますが、ゲームにつ
「7つの習慣ボードゲーム 成功の鍵」というゲームを買ってきてルールを読みました。ふつうは遊んでいないゲームのプレビューはしないことにしているのですが、ちょっとこのゲームについては例外ということで、この段階で簡単なプレビューを急ぎ足でしたいと思います。 どういう意味で例外なのか、なんですが、まずこのゲームはウェブサイト等でルールが公開されていません。また、値段設定がかなり高め(二万円+税)なので、自分で買って読んでね、と言うのに無理があります。見た感じではルールの詳細に触れたレビューも少ないようです。まあこれらは本当はどうでもよくて、わたくしにとって重要なのは、このゲームがSid Sackson作「アイム・ザ・ボス (I'm the Boss! / Kohle, Kies & Knete)」の強い影響を受けている、悪意のある言い方をすれば所謂ぱくりがある、という話を耳にしたということです。そ
えー、唐突ですが、ちょっと軽く「魔法にかかったみたい(Wie verhext! by A.Pelikan / Alea 2008)」と「ブルームサービス (broom Service by A.Pelikan and A.Pfister / Alea 2015)」の比較をやってみたいと思います。周知のごとく(というのは「こんなサイトを見ている人にとっては」という意味で、何かの拍子で開いてみただけの人には当てはまりません)「ブルームサービス」は「魔法にかかったみたい」の後継作で、「魔法にかかったみたい」が採用していた独創的なシステムをほぼそのまま引き継いで別のゲームを作っているわけですが、その別のゲームの載せ方がどうにもよろしくないように思えるわけです。ということで、魔法にかかったみたいがどんなゲームだったか、ブルームサービスはどんなゲームか、何が引き継がれていて何が落ちているのか、何を付け
一年半くらいまえに「捏造ドイツボードゲーム20年史」というのをこのサイトで書いたのですが、これについて何か喋ることになりました。 「SF乱学講座」という公開講座にお呼ばれして、6月2日(日曜)、午後6時15分から東京の高井戸区民センターにてプレゼンテーションを行わせて頂く予定となっています。 SF乱学講座は、公式サイト(http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5302/about.html )によれば「科学を中心とする各方面の常識を勉強しようという目的で始まり、もう15、6年続いている公開講座」(※)なので、いかなる意味においても常識ではない(なにしろ捏造だし)捏造ドイツゲーム現代史の話が相応しいかというと私の口からはなんとも言えないのですが、それはそれとして。この講座のメインスタッフである草場純さん(ゲーム史家/ゲームマーケット創設者)から
◆(2/23追記) 印刷プロセスは終了し、現在、輸送プロセスに移っています。 ◆(1/24追記) 現在、印刷工程に入っています。印刷の完了は2月の下旬が予定されており、今のところスケジュール通りにお渡しできる形で進んでおります。 ◆寄付つきプレオーダーにご応募いただいた皆様へ、お支払いのご案内を12/16 12:28に一通送信しております。ご確認いただけますようよろしくお願いいたします。 ◆製作決定いたしました。12/17以降、順次ご連絡を行わせて頂きます。 ◆一般販売も実施しますが、当初ご案内しておりました「予価5800円」につきましては実現が困難な状況のため、希望小売価格は税別7429円(税込7800円)とさせて頂きます。大変申し訳ありませんが、ご了解いただけますようよろしくお願いいたします。 ◆17日0時をもちまして、プレオーダーを締め切らせていただきました。 ◆合計254個のプレオ
えっとどうもこんにちは、沢田といいます。そのへんで会社員やっております。あとプライベートでボードゲームの和訳とかもやってます。 今回、テンデイズゲームズとニューゲームズオーダーの二社に公募ゲームコンペの企画を持ち込みまして、両社の主催で「東京ドイツゲーム賞」という間抜けなタイトルのコンテストを実施することになりました。わたくしも副賞金出す人として審査員の末席に加えさせていただくことになっております。よろしくお願いいたします。 (なお「末席」というのは謙譲的な表現ではなく、最終選考での発言力でいうと最弱扱いなんじゃないかなーという予測によるものです) さて、お前のことはどうでもいいが副賞20万円ならもらってやらんこともないので傾向と対策を説明しなさい、という話ですね。テンデイズTV ( http://www.ustream.tv/recorded/24516660 )で基本的なコンセプトは説
破壊衝動というと無難なところでは窓ガラスを割って回ったりするわけですけど、その最もいじましい形態は何かという囁かな問いを立てるとですね、「カードを破く」というのはなかなか良い線をついた回答なのではないかと思うのです。 というわけでカードをいろいろ破いてみましょう、というのが今回のお題です。とはいえ、実際のわたくしがそういう卑小な破壊衝動を持っているかというと別にそれとは関係ありません。カードの紙というのはどうなっているのでしょう、というお話でございます。 トランプといいますかカードゲームといいますか、まあああいうアレですね、これを作る際には、普通の紙とは構造の異なる専用紙が用いられます。普通の紙と何が違うかといいますと、正面と背面の間に色つきの紙が挟まっていて、これがあるんで正面も背面も白っぽいデザインであったとしても、透けないんだと。もちろん他にもカードのコシがどうとか重さがどうとかあり
わたくしの休日を際限なく食い潰してきた迷惑極まるこのシリーズもやっと最終回でございます。最後はドミニオンと七不思議。最後どう見ても七不思議もう関係ないよねって話題に流れていますが、このシリーズを書くきっかけになった本『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』(岡田暁生/中公新書)もそういう構成なので、オマージュ的なものだと思ってください。 ドミニオン | 2008 ここまでプエルトリコからルイ十四世を挟んでケイラスと、終わる過程を振り返ってきたわけですが、最終的にドイツゲームに死を宣告したゲームは言うまでもなくこちら「ドミニオン」です。どの辺がそうなのかということで、このシリーズの原則通りに外側から見ていきますと、まず作者がニューヨーク在住のアメリカ人、企画出版社がアメリカ(Rio Grande Games. 御存知の通りRioは欧州系の翻訳を本業としているので純粋な米系とは言えない側面がありま
プエルト・リコ | 2002 プエルトリコがDSPを獲った瞬間はそのままイコール「特殊能力対戦物がドイツにおいてOKになった瞬間」であると言えます。プエルトリコが何で面白かったかという話であれば、独特かつ効果的なフェーズ選択システム(と積荷ルール)によって形作られる「遅延をめぐる攻防」にまず触れる必要があり、このゲームにおける特殊能力の面白さはそれが前提になっているわけで、特殊能力について触れるのは後回しでも別に構わないくらいなんですが、残念なことにそっちのほうはその後ぜんぜん流行らなかったのでして。ここで取り上げるべきは専らテキストのほうになります。 プエルトリコ以前と以降で大きく変わったのは何か。テキストが有りになった、ではありません。イベント的なテキストは90年代にも生き残っていましたし、特殊能力としてのテキストはこれ以後もメジャーになってはいません(特殊能力としてのテキストのメジャ
2回目でーす。今回も勝手な断定をエクスキューズなしでばんばん飛ばしてますが、「俺の中ではこれが真実」以上の保証は何も無いんで、「な、なんだってー」くらいの気分でよろしくどうぞ。逆に言うなら「俺の中ではこれが真実」ってところまででよければ確実に保証します。意味のある保証かどうかはともかく。 さて今回はクラマー&ウルリッヒ二連発。内容を一言でまとめると「クラマーはえらいひと」。 エル・グランデ | 1995 1995ニュルンベルグ発表のカタンがアメリカのゲーマーズゲームからゲーマー臭を取り除くことによって「ファミリーストラテジー」の再定義(っていうか「定義」ですね。ファミリーストラテジーはカタン以降のドイツゲーム・ムーブメントの中で使われだした言葉ですから)を行ったゲームであるとするならば、1995エッセン発表のエルグランデは、ドイツにおけるゲーマーズゲームのフォーマットをこれ一作で規定するこ
「歴史的重要性の観点からわたくしが勝手に選ぶこの20年の代表的ボードゲーム(欧州系システム限定)。モダンアート・カタン・エルグランデ・フィレンツェの匠・プエルトリコ・キャメロットを覆う影・ケイラス・ドミニオン・七不思議。みんなもやってみよう。みんなって誰だ?」 ボードゲームの歴史、特に現代史を考えることは重要なことだと思うのですが、重要なことだとは思っていても知らないものは知らないし教科書もでていない。のでおしまい、というのは少々後ろ向きすぎるようにも思えるので、とりあえず現代史を捏造してみるところから始めましょう、というお話でございます。「みんなもやってみよう」というのは、みんなもここに挙げたゲームをやってみよう、という意味ではなく(いや基本的にここに挙げたゲームについては未プレイならぜひ遊んでみるといいとは思いますけども)、みんなも勝手に歴史的重要性の観点から代表的ボードゲームを挙げて
長いので先にまとめ。本文にはこれ以上の情報はあんまりありません。 ・ゲームリンク10号付録ゲーム、根底にあるのは下記の文の実装です→「非ゼロサム http://toccobushi.exblog.jp/945024/ 」 ・あと「クレムリン」の性根の腐った感じと、プレーしたことないけど「タリスマン」への妄想でできてます ・二時間クラスなのに運ゲーなのは、趣味の問題と制作技術の問題と両方あります。そういうもんだと思ってください ・ルールの子細には「マチュピチュの王子」とワーカープレースメントを混ぜ入れてますが、結果妙な80年代テイストが現出 * * * ゲーム作るたびにデザイナーズノート書いていけばブログのねたになって素敵かと思いきやここの放置ぶりはそういうことを考える必要もない程に進行していたのです * * * ゲームリンク誌の10号には「いつか王子様が」というゲームがおまけで付いてて、こ
もとより競技性を旨とするようなゲームの場合「3人以上」というのはほぼ色物の同義語であって、またそれとは全く無関係の事情により、これまでどちらかといえばマルチプレイヤーズゲームを基本としてきたドイツ系ゲームにおいても2人ゲームの勢力が徐々に増してきているわけですが、どうもこの2人ゲームというものが苦手なのです。ということで今回は「3人以上であること」について。言わずもがなな内容という気はしますが、その割にはあまり文章として明示されているところを見たことがないので。 「2人」と「3人以上」の違いはただ一点に集約されます。「3人以上」においてはゲームの内部に非ゼロサム構造が内包されるのに対して、「2人」においてはそうではない、ということです。無論、ここでは(前に書いたような)ゲームが全体として非ゼロサム構造を持っているようなケースは想定していません。ゲームが全体としてゼロサムであるような(ごく普
あー。そだ。金賭けりゃ良いんだ。 表題と上記の一行目だけで一部の人には何を言ってるか分かってもらえるような気もするのですが、そういう無理やりな我侭を通すのもどうかと思うので、以下多少の補足を。 まず何について触れたいのかというと、多くのマルチプレイヤーゲームのルールと、それ以上に多くのマルチプレイヤーゲームのプレイヤーが、一位以外の順位を全く気にかけていないという話題なのです。このことが良いことか悪いことかというと、んーとどっちかというとやや良い感じ? くらいのポジションであって、何が良いのかというと、マルチプレイヤーであってかつ「良い位置」に付けることができるのが一人だけ、となると大半の人は「良くない位置」に付かざるを得ないわけで、それでもそのゲームをやろうというからには、その動機として「勝ちたい(又は強くなりたい)」以外のものをどうしても持たないと話にならない。それであってこそゲームの
他愛ない定番の話題ってのは普通は単に他愛ないだけなんですけど、その中で妙に鬱陶しいというか嫌な気分になるアレというのもあって、例えば血液型占いなんてのは典型だと思います。人の性格を勝手に四パターンで適当に分けてさ−、んで何が楽しいのか知らないけども当たってるの私は違うのきゃいきゃい言ってて、んで馬鹿らしいとか何とか少しでも否定的なことを言おうものならお前の性根は腐っていてその性根そのものがXX型的だとか更なる泥沼に引きずり込まれ、あーもういい加減なんとかならねえのかその集団オカルトヒステリー、って思いません? 一応我々は学校で科学とか数学とか論理的思考とか習った文明人の端くれなんだし。ねえ? そこで頷いた貴方。そうそう貴方ですよ貴方。ちょっとこっちに来て頂きたい。 ここにあるのが何か解ります? そうですね、サイコロです。ふつうの6面で1〜6の。じゃ私が何を言いたいか解りますか? 私はね、ボ
わたくし板張六畳一間に住んでいる都合上、所有ゲームの数を可能な限り少なく抑える必要がありまして。で、新作はどうせ欲望の赴くままに買うので、今あるほうのゲーム(プレイ済みのもの)を処分しないといけない。目標は大箱50個以内。さて問題は、何を残したいか? と。ということで自分用のメモとして、棚に残すゲームをリストアップしました。読者がどうとか基本的には気にしていませんが、一応エクスキューズとして一行ずつコメントを入れています。 歴史的重要性でもなく教育効果でも作品のレベルでもなく、あくまで「今、棚に残したいか」という基準です。Puerto RicoやCatanなど、なんか面倒なことになりそうなゲームはカット。Dominionは(それでも好きなゲームなので)今のところ残しましたが、今の感じだと2年後には棚から外さざるを得なくなりそう。逆にKremlなど、箱から出した時点でひとネタ取れて、それでい
モノポリーのボードなどを眺めておりまして、昔の人はなんでやたらとぐるぐる回るばかりのゲームばっか作ったり遊んだりしてたんだろうねえ、ゲームと言えば回さないといけないものとか法律できまってたのかな、頭が溶けてバターになっちゃったりしないのかしら、とか物思いにふけっておったのですが、ふと我に返って2008年、あたりを見回してみますとこれがまあ見事なまでのバター・プロダクツ。ゲームと言えば手持ちの人形駒をあっちゃこっちゃに派遣するものか、あるいは特殊能力で都市を育てるものか。それ以外の制作は律令により禁止、みたいな。 作った人にとってはね、どれにしたって偉大なる前進だったんだろうと思うのです。モノポリーは当然として、ヘクスマップもトレーディングもエリアマジョリティもアクションポイントも無論ワーカープレースメントも。俺(または俺等)は前に進めるのでございます、同じ所の周りをぐるぐる回っているだけの
* 1 * 「ドミニオンは最高ですよ。特殊能力満載のアメリカ的フェティシズムに全面的に乗っかりつつ、一回のゲームに実際に登場する能力は10種類しかないし全能力完全公開だからファーストプレーでも十分に全貌を把握できる。そもそもゲームの根幹にあるのは生産力を得点に変換する仕掛け所の見極めって感じで、むしろオールドスクールな欧州系のゲーム理論的相互作用を使ってドライブするゲームだから、どっち方面のうるさ型への対応も万全。そんでもってワンゲーム45分、ルールは極シンプル。8歳以上向けって書いてあるしね。研究はいくらでも効くだろうけどマルチプレーでお馴染みの漁夫の利風なアレとか何なら運の悪さに叩き潰されて負けることだって普通にあるから、そこに色んな鬱屈を押しつけることもできてとりあえず誰も傷つかない。さっきオールドスクールって言ったけど勿論このメカニズムをボードゲーム、まあカードゲームだけどね、に持
重力についていくつか評を頂いていて、まあゲームの内容自体については、既にルールとヴァリアントと(ヴァリアントがルールに入ってなかったのは、その、ごめんなさい)前口上で概ねこちらからご返答すべきこととしては充分足りてるかなと思うわけですが(※)、価格とルール公開について疑義のある方がいらっしゃるようで、この話は割といろんな方向に面白い内容を含んでいる気がするので、記事にしてみようと思います。 (※いまのところ見かけてませんが、もし「あんだけ『テーベの東』を腐しといて全く同じ乖離を起こしてるってのはどーゆーこと?」という感想をお持ちの方がいらしたら、苦笑とともに申し訳ないと謝っておきます。) まずは事実関係から。このゲームの原価率は 67% くらいで、つまるところ原価 3350 円前後となっています。 この 67% という原価率設定が高いか安いかという話になると、同人として見ればやや高く、営利
微温的な世界にはそれゆえの良さというものが当然あって、というかそれは基本的には概ね良いことであって、何よりも何となく楽しいような気分で居続けられる幸せというのを噛み締めるように味わうべきではあるのだが、しかしその温度に対する強制が発生して身動きが取れなくなるというデメリットも、残念ながら、存在する。 例えば批判を受けた時の態度の問題で、そこで単に萎縮してしまうと、それは個人の問題に留まらずコミュニティの萎縮に繋がることになるので、それに対する予防として「萎縮させるような批判を行うことに対する萎縮」という、しょうもない空気の形成が行われることになる。 従って、コミュニティに対して僅かであっても責任を受けようとするのであれば、批判という「行為」自体に対して単に萎縮してしまうという態度は捨てる必要がある。それがどれほど難しいことであっても。 行為ではなく内容を。その内容が的確なものであれば三日鬱
トップが取れなくなってしまったプレイヤーに対して、ある種の行動が強制されることがあります。概ね「勝敗に関係ある行動を行ってはならない」か「トップを妨害する行動を取らなくてはならない」のどっちかということになると思います。個人的にはこの種の強制をかけられることに対してはいくらかの不快を感じるのですが、その不快の原因というのは何なのでしょうね、というところを胸に手を当てて考えてみようと。 この話はいくつかのポイントに分かれておりまして、列挙すると 1. そもそもそんな状況が頻発するゲームはどーなのよ問題 2. 利他行為と見られる行為に対する態度の問題 3. 「1位以下順位なし」か「個々の順位に一定の価値を認めるか」の齟齬の問題 4. 自らの行動が自らに対して意味を持たなくなった場合の行動基準の問題 5. プレー中の行動規範一般の問題 ということになると思います。わたくしとしては、ファミリースト
えーと、ゲームマーケット 2008 (2008/4/27) において「重力の儀」というゲームを出展します。たぶん B2FGames LLC. に並んでるはず。 20 部しか作れなかったので(石が重いのですー。既に重力で箱が潰れてるのですー。これ以上は勘弁してくださいー)もしかすると「ちょっと欲しかったけど目の前で売り切れましたイェイ」みたいな方が出てくるかも。そうした方がいらっしゃったら、たぶんそのうちコンポーネントとかルールとか全公開するんで自作をお願いするという方向でひとつ。「同人ゲームに五千円も出せるか馬ぁ鹿」な人も自作すればいいんじゃないかしら。つうか正直自作の人はもっと胸を張るべきだと思います。何も我々まで書籍とか音楽の業界の轍を踏むこたないのですよ。折角まだ余計な泥が付いてない状態なんだし。 何の話でしたっけ。そうそう重力の儀。ここ数日で変な文章を三つほど載せましたが、これはフ
マルチゲーム好きの人々が時折使うスラングに「お仕事」というのがあります。大雑把に言うと、自分の得にはならないんだけどゲームを壊さないためには取らざるを得ない行動、といったところでしょうか。 この概念をモデル化するのはとりあえず簡単で、例えば四人ゲームでプレイヤー1からプレイヤー4まで順に手番が回ってくるものとすると、 ・プレイヤー1がお仕事を引き受ける:(-1,0,0,0) ・プレイヤー2がお仕事を引き受ける:(0,-1,0,0) ・プレイヤー3がお仕事を引き受ける:(0,0,-1,0) ・誰もお仕事を引き受けない:(-3,-3,-3,0) 【括弧内はそれぞれプレイヤー1〜プレイヤー4の利得】 というような形になり、そしてこの場合「お仕事」を担当させられるのはプレイヤー3ということになります。展開としてはプレイヤー1とプレイヤー2が自分のやりたいことをやって、面倒ごとを押しつけられたプレイ
今更テーベの東というゲームをやって微妙な気分になったりしたわけですが、あのー、偶にこういう、最後に乱数を持ってきて台無しにしてみました、というようなゲームってありますよね。思いつくのがDorraの「Linie 1」とか。Linie 1は相当露骨かつ唐突にそういうことをしていて、対してテーベではもう少しゲームに組み込んだ形になっていてテーマにも沿ったものになってるという違いはあるにしても、「結局乱数なんですか?」という意味では一緒。ただテーベの台無し感は、 Linie 1 とか Moon の Andromeda とかに比べても際だっていて、こういう台無し感というのは何なんだろうと。 不思議なのは、何でこういう構成にしたんだろうということで、というのは決して「台無しになっちゃいました」じゃなくて「台無しにしてみました」なんです。デザインの中でここだけ浮いているということはつまり、構成力の限界に
Moritz Eggertによれば、かつて、利益の機会こそがゲームを作る主な理由だという考えは、ドイツのゲーム会社の耳には奇妙なものに響いていたらしい。無論、現在は全くそうではない。消費者の興味を喚起するための演出は、あらゆるカテゴリーの商業ボードゲームにおいて必須のものとなっている。これは過去200年の商業ボードゲームの歴史という観点からは何ら珍しい事態でもないが、しかしユーロゲームという極めて屈折した商業ボードゲームのムーブメントは、そうでないごく短い時期を形作るものだったのであり、そしてその一瞬は、ゲームデザインの可能性を爆発的に広げた時間でもあったのだ。 実のところ、これは商業ボードゲームに限ったことでもない。印刷の性質上過大な部数を抱える傾向を持ちながら消費者とコンタクトするチャネルが極めて限られる、インディペンデントなゲーム生産者にとっては、消費者の興味を喚起する演出の必要性は
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『実録:食卓遊戯密着大本営発表廿四時』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く