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衆院選
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品川以南、いわゆる城南と呼ばれる辺りは埼玉出身の自分からすると何やら距離のある場所である“距離”ってのは実際のだけじゃなく、気分的なものも含めて。 まぁ、品川までが江戸の境界線である墨引(町奉行支配)内なんで、そこから外になると東京(江戸)の歴史案内本なんかでもすっ飛ばされている場合が多いんだよね。 そういった取っ掛かりの無さもあり、これまでちょこちょこと訪れて入るのだが、それはあくまで“点”であって、“面”として捉えてことはなかったし、正直そういった捉え方でどうしようっ気も起こらなかったんですな。 そういった気分がじんわりと変わったのはCUE氏から「アノ辺りは“東京”の人間が堕ちていく場所なんだ」という話を聞いてからである。 最近自分は東京住まいから出身地である埼玉に戻ったのだが、それは東京に住み続けること、東京という場所に身を置くことでの己のメンタリティの変化の無さをシッカリと確認して
神保町といえば、本の街。 なわけなんですが、何故かカレーの街でもあります。 はてさて、それは~という説にはいくつかあるようですが、その前段として ・戦前から学生の街でもあったため、彼らを相手にするカフェが多かった。 ・カフェが手軽(値段も含めて)に出せる料理としてカレーがあった。 ・買った本を読みながら、片手で食べられることから人気メニューだった。 というのがあったようなんですね。こういう土壌があったところに昭和40年代の終わり頃から始まった喫茶店(コーヒー専門店)ブームと時を同じく、といった感じで専門店がドシドシと増えていったようです。 喫茶店ブームの要因として、コーヒー豆が安価に輸入できるようになったってのもあるんですが、同じく香辛料の輸入が容易になった時期でもあるんですよね。 そして、喫茶店ブームってのが象徴的なんですが、エリートとしての学生の文化が大衆化していった時期でもあるんです
亀戸に移り住んで一年ちょっと過ぎたのだが、また引っ越すことになった。エライ早い話だが、ちょいと住んでみたかったといった感じで来ちゃったトコロだしな。 ということで、現在はこの亀戸、そして江東区、さらに広げて隅田川の東ってのはどのような土地なのか、といった辺りをちょぼちょぼとオノレの中でまとめつつ撤退作業をしている最中である。 で、夜の亀戸をちょっと彷徨いてみようという気分になったりなんかしちゃったりして。 梅雨ということもあり、どうもハッキリとしない天気ばかりなのだが、うまい具合に雨が上がった日の仕事帰りが空いていたので、カメラを持って駅周り辺りから眺めていくことにした。 降りるとイキナリ臭い。ドブ臭いのだ。これが亀戸である。 ドブ臭い中、駅ビルに入ったパチンコ屋(駅ビルにパチンコ屋って結構珍しいんじゃないか)の店員が客引きをしていて、前のベンチでは何故か老人グループがパック寿司をツマンで
ガキの頃からウロウロして、最近は旧花街周辺を調べたり、上野駅から実家に帰ったり、また以前は近所の湯島に住んでいたりと、上野周辺は定点観測しているような感じになってるんですが、ここ数年で一番変化した場所はどこかって問われたら、恐らくアメ横と答えるでしょうね。 今回はその変わりっぷりを紹介して行こうってわけです。以前、立ち飲み地帯になりつつある高架の東側を紹介したんですが、今回は西側。アメ横センタービルを中心に。かつての焼け跡闇市の中心地ですね。最近だと、NHK連続テレビ小説「あまちゃん」のロケ地になったりしてるんですが、実はそれで何かその“变化(へんげ)”の進行がどうなるのかなと思っていたんですが、全然変わらん。というか、便乗してホントにご当地アイドルの劇場が出来ちゃったりして、ますますカオスになってしまったというか。 んじゃあ、一度しっかり押えておきましょうかね、てなわけです。ということで
一時期のかたせ梨乃の“肉体の説得力”は凄まじいものがあった。 しかし、この“肉体の説得力”というものは賞味期間が非常に短いもので、それは武田鉄矢がカンフー役者として活動した期間が、まるで成虫になってからのセミ程度しかなかったことからも明らかなように、この“説得力”の根源たるフィクションをねじ伏せる“肉体”はトップアスリートが輝ける期間並に維持が難しいものなのだ。シュワルツェネッガーがその為にお薬方面を使用していたことは、周知の~なのでご存知だろう。 もちろん、これに男女差はある。三島由紀夫がボディビルで鍛え上げた肉体を「私のマイカー」と呼んでいたことから分かるように、男はそのままの肉体では“どこかへ行けない”。それに対して女は生まれ持ったものを何も変化させること無く“どこかへ行く”ことが出来るのだ。今回の『肉体の門』は、この事を扱っている映画であると、まずは極言しておきたい。かたせ梨乃が主
今年は4年ぶりの神田祭開催だったわけなんだけど、CUE氏および神田明神の氏子である親族様ご好意により、神田祭(神輿宮入の日)における当事者スタンスといった辺りを覗かせてもらえることになった。 先ずは、いつもの様にマクラっつーことでそこら辺りの歴史をサクッとと考えたんだけど、まぁそこらは公式なもんが幾らでもあるわな。ということで、神田祭が天下祭となるまでの流れを、やや斜めった角度から眺めていくことにしよう。 家康が秀吉に恭順の意を示そうと薦められるままに関東に入府したものの、江戸城周辺の余りの鄙っぷりに家来共と「だめだこりゃ」といかりや顔を見合わせたナンテ話が残っており、自分もガキの頃に読んだ児童向け歴史本にガッガリ家康の挿絵と共にそのように書かれていたのを記憶している。秀吉が地元である東海地方から引き剥がすという目論見で関東の田舎へ追いやったという見立てだね。しかし、どうも現在はそうではな
松川二郎著『全國花街めぐり』によれば、花街(花柳界)にはそこで遊ぶ料金(玉代)と芸妓への課税率によって大雑把なランク(等級)のようなものがあったようなんだけど、湯島天神は大体3級(の甲乙で甲)といった辺りだったようだ。ただ、同時期の他の本での自己申告では2級と答えてたりしてその辺はホント曖昧だったりする。書いた松川二郎も順番オカシクねと、あくまで「参考」としている。どうも大正成金時代を経て全体的に料金が上がってしまってゴチャゴチャになっちゃったってのもあるようなんだね。さらに料金体系もドンドンと複雑になって行ってと。その辺を料金が安く、ややこしくないカフェーやらバーに突っ込まれた後、恐慌からの浜口内閣の緊縮政策で値段をガンガン下げざるを得ないっていう状況になっていくわけだ。この料金やらの体系とその推移ってのは自分もまだ良く分かってなかったりするので、何れまとめんとイカンなぁって思ってるんだ
廃墟ブーム的なものとリンクしたカタチで花街・遊郭跡を紹介するような記事はインターネット上だけでも結構あるように思う。ただ、失礼ながらツマミ無しで酒のみといった感じの記事が多く、何かツマミが無いと酒が飲めない自分は物足りなさを感じるようなものが多いような気がするのだ。 しかし、当然ながらそこでツマミをよこせと騒いでも、みなモノズキでやっているんだがら他の店に行っとくれってなもんである。といっても、そういうお望みの店が山猫軒よろしくドロンと勝手に現れたりはしない。だったら自分で店始めちまおうというのが今回からのシリーズ「ニッポン花街・遊廓跡めぐり」である。 八代亜紀のように「肴は炙ったイカでいい」なんて言わず、途中で酒が飲みたく無くなるくらいツマミはたっぷりと。しかしまぁ、初回なのでモタれない程度に行きましょうかね。 というカタチでゆるゆると初めに取り上げるのは「湯島天神」。何故ここからってい
このカフェブックマークシリーズでは何故か終戦直後の闇市ばなしを枕に~というパターンが何故か多いんだけど、今回も上野となれば当然のように闇市ばなしからということになっちまうわけである。何しろ上野には闇市の頃から分かりやすく続いている商店街「アメヤ横丁」があるのだ。ここほど闇市ばなしをするに格好の場所はないっつーことで、その「アメヤ横丁」、通称“アメ横”の歴史をたどって行くことにしよう。 闇市が開かれるにはある程度のスペースが必要になるわけだけど、戦争中に新橋駅西口が空襲による延焼被害を防ぐために強制疎開が行われ空き地になっていたのと同様、上野も国鉄の変電所があった関係で強制疎開が行われ現在のアメ横センタービルの辺りがガランと空き地になっていたようだ。戦争は終わったものの、GDPは最貧国レベルに落ち込み全てのモノが足りない~物資の統制が行われ特に都市部が飢える中、東北線、高崎線、常磐線、京成本
Some people never go crazy. What truly horrible lives they must lead. 大量生産に向かない強力な突然変異を生み出そうとジタバタするウェブマガジン
今回紹介する「ストーン」はこのシリーズで最初に取り上げようと思っていた喫茶店でした。有楽町駅のほぼ真向かいで歩いてすぐの有楽町ビルディングの一階にあるこの「ストーン」。同ビル内にあるスバル座だけじゃなく日比谷、銀座で映画を見るときの時間合わせには丁度イイ店でちょこちょこと利用していたのですが、後で細かくふれて行く特徴的過ぎる内装だけでなく、調理場前の席に座っているシャンとして上品な女店主と思われる老婦人など個人的印象が非常に強い店だったんですね。 しかし、しばらく行かなかったところに“閉店”の噂を聞き訪ねてみたところ、営業時間であるのに入り口が固く閉じられていて特に張り紙のようなものも無く、その後何度か訪ねてみてもその状態なので、その突然の事態に戸惑いながらも、あぁまた好きだったお店が消えてしまったんだと何かポッカリとした気持ちで受け止めていたんですが、その後日比谷方面に用事がある時に前を
以前に新橋西口の歴史に関してはニュー新橋ビルの回で触れたわけだけど、じゃあ反対側の東口はどうだったんだって辺りは当然気になる辺りだと思う。 結構昔に焼け跡関連の本をまとめて読んだ時、西口に松田組が仕切る「新生マーケット」があった頃、東口にも「国際マーケット」ってのが在ったらしいということが何となく分かったんだけど、どういうわけだが「在った」以上の資料を見ることは無かった。と言っても、ただ好奇心のフォーカスがたまたま焼け跡に合ったというだけで、特にキッチリ資料調べ的に読んでいたわけではなかったので、「ふ~ん」と思っただけでフォーカスは毎度おなじみな感じであっちこっちは行ってしまい、そのことはスッカリ忘れてしまっていた。 で、数年前に七尾和晃『闇市の帝王 王長徳と封印された「戦後」』が出てその辺の事情が分かったわけ。関係者どころか、マーケットの主が存命だったのだ。そりゃ書くの避けるわな。資料が
「とんかつと(ポーク)カツレツの違いって何?」と問われて、パッと答えるのは結構難しいと思う。この質問の答えはとんかつ誕生の流れそのものの説明となるので、ちょっとこの辺ちょっとお付き合い願いたい。 明治5年(1872年)に政府が肉食解禁宣言をしてから、牛鍋を筆頭に肉が一般的に食べられるようになっていくわけだけど、当然のように、それと共に肉を使った西欧料理もいろいろと導入されていくことになる。どうもその中に骨付き背肉のカットレット(cutlet)というものがあったらしい。日本人に言いやすくすれば、そのまんまカツレツだね。といっても、このカットレットは今に見られるようなカツレツではなく、現在のソテー料理に近い感じで、小麦粉とパン粉をまぶした肉をフライパンで表面に焦げ目を付けた後にオーブンに入れて仕上げ、ドミグラスソースをかけるという結構本格的なフランス式のものだったようだ。 で、この料理だがイマ
今回紹介する「愛玉子(オーギョーチー)」の名はなんとなく子供の頃に家族から聞かされたような記憶があるが、はっきりと認識したのは多分こち亀だと思う。 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』第64巻。この巻は前半が特別編として下町散歩シリーズとなっており、両さんが下谷の派出所に“飛ばされる”話が続く。その第4話、[帰郷編]の最初のページに「愛玉子(オーギョーチー)」が登場するのだ。 「愛玉子3個おみやげにして!」というセリフの後に何か古い中華屋っぽい店舗と、その「愛玉子」とかいうものが浮かぶ、くずきり系の和菓子が入っているようなパックの絵がある。 当然だけど、この食い物はなんだと気になった。しかし、漫画ということでイマイチ現実感が薄いし、両さんが食うもんだからと何か怪しげなイメージを持ってしまったのか、食ってみたいなという気にはならなかったんだな。で、そのまま頭の隅へ。 それにしても、この頃のこち亀
「ここは埼玉県菖蒲町、関東平野のどまん中だ」と私は聞かされた。見渡す限り広く平坦な土地である。西の空には富士が、その右には妙義山が、北の空には日光の男体、赤城、榛名山。東の空には筑波山。これからは、遠くかすんで雲で見えない日も多い。広く、平坦な私の畑から見える田んぼや森は静かな風景ばかりである。 深沢七郎がこう書くように、菖蒲町を含む埼玉10地域区分で言うところの利根地域は起伏がほとんど無いのっぺりとした土地である。秀吉の北条攻めに従い忍城を攻略しにきた石田三成は、城の望めるちょっとした高台も無いので仕方なく古墳跡を本陣にしたくらいだ。忍城も水城として知られているが、流れてきた水が他にナカナカ出て行かない土地故に湿地だらけである。 そのくせ、上州おろしに晒されまくりなので空気は乾いて、日本で一、二を争うほど洗濯指数が高い。と言っても、冬場なんかはその乾きっぷりのせいで砂埃がひどくて洗濯どこ
20代前半の一時期、中島らもの本をやたらと読んでいたことがあった。おそらく、何かに耽溺して沈んでいくっていう内容が、当時の生活と気分的なものにガッシリとハマッたんだろうと思う。実際そんな感じだったしね。しかし、熱が冷めるのは早かった。何というか、読んでいるうちにいい子的な育ちから来ているのだろうナイーブさに嫌気が差してきちゃったんだね。中島らもが抱え込んでいたものに共感のようなものがあったからハマッたんだろうけど、自分の方が鈍感で(それゆえに)強いんじゃないかっていう妙な確信と、そのギャップから来る違和感がどうにもならなくなっちゃったのだ。 といっても、忌諱するってほどじゃなかったので、本屋で並んでいて気分的に余裕があれば買ったりするような距離感の作家という扱いで、その後もなんとなく読んだりしていた。それは、階段から落っこちて死んだっていうニュースを聞いても変わらず、ちょこちょこと耳に入っ
春日通りを本郷三丁目交差点に向かって、漱石の「三四郎」に登場する会堂(チャーチ)のモデルらしい本郷中央会堂、安政4年(1857年)創業の老舗出版社・吉川弘文館をもったいぶるように眺めつつ歩いて行くと、話的に特に起伏の無いままあっというまに最後の目的の店に到着。ここで店の紹介を始めてしまうのも、なんとなく盛り上がらないので、先に三丁目交差点を中心とした本郷の歴史を簡単に。 三丁目交差点を、そのまま春日方面へ渡りながら、北を望むかたちで本郷通りを眺めると、道は一旦下がっていって、菊坂辺りから上りになっています。太田道灌が江戸を支配していた頃、江戸を追放となった罪人は坂を下がったところにあったという別れの橋(小川があった)で放たれ、ここで親戚縁者に見送られたため、そこまでの下り坂を「見送り坂」。 罪人は橋を渡った後の登り坂から振り返りつつ北へ去って行ったため、そこを「見返り坂」と。明治に道を平坦
前回散々「湯島天神」って書きましたが、平成12年から正式名称は「湯島天満宮」だそうです。「湯島天神」も通称として残っているんで、まぁいいんですけど。 湯島天神はアマテラスを岩戸から引きずり出した天之手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祀って雄略天皇二年(458年)に創建。雄略天皇自体本当に存在したかよく分からない時代の天皇なので、この神社もよく分からないくらい昔からあったと。その後、正平10年(1355年)に湯島郷民が菅原道真公を慕って北野天満宮から勧請して合祀。つまり、この神社には力自慢と知恵自慢の両方の神様が祭神としているわけです。受験生の方はくれぐれも間違って力自慢の方に祈願しないように。 さて休憩もそこそこに、次の店である壺屋総本店へ。寛文7年(1667年)の刻印がある銅鳥居をくぐって境内から出て、切通しの坂が続く春日通りに戻ります。本郷方面へ歩いていくとすぐに見えてくるのは「す
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