国びとの 心(うら)さぶる世に値(あ)ひしより、 顔よき子らも、 頼まずなりぬ 大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここ(増上寺山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦(いったん)事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(あ)つて以来といふものは、此国(このくに)の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた。 (折口信夫による自歌自註。『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』) 折口信夫(おりくちしのぶ)の晩年の言葉である。 折口信夫は1887年生まれ。国文学、民俗学、詩歌や小説と、幅広い領域で活動した人である。歌人としては「釈迢空(しゃくちょうくう)」と名