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衆院選
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ライプニッツ 本書『モナドロジー』は、ドイツの哲学者ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646~1716)の主著だ。1714年、ライプニッツ哲学の信奉者であるフランス人ニコラ・レモンの依頼を受けて書かれた。 本書には初め題名が無く、1720年、フランス語からドイツ語に訳された際、訳者によって付けられたた。 ライプニッツはスピノザと並び、合理論を代表する哲学者だ。哲学だけでなく、数学や自然科学でも大きな功績を残した。数学の微積分法をニュートンとほぼ同時期に生み出したことはよく知られている(積分記号の「∫」はライプニッツが発明したものだ)。また、学者としてだけでなく、政治家としても活躍した。 ライプニッツはスピノザと同様、ヨーロッパにおける宗教戦争後の世代を代表する哲学者だ。いかに「善」を立て直し、社会に「調和」を取り戻すことができるか。ライプニッツはこの問題に対し、思想と実践の両方
『精神分析入門』Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyseは、オーストリア出身の心理学者フロイトによる著作だ。1916年から1917年にかけてウィーン大学医学部で行った講義をもとにしており、同年、全3巻で出版された。 本書は3部構成となっている。 錯誤行為 夢 神経症総論 なお、本書の続編として、『続精神分析入門』Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyseが1933年に出版されている。これは『精神分析入門』のように実際に大学の講義で使われたものではないが、同じ形式で著されている。以下では『続精神分析入門』もあわせて確認していくことにする。 『精神分析入門』では『夢判断』や『性理論三篇』、『続精神分析入門』では『快感原則の彼岸』や『自我とエス』などで論じた内容
目的 道徳の根拠を規定すること。 結論 習俗や文化ではなく、理性による定言命法が道徳の根拠。ローカルな根拠ではなく、誰でも納得できる(し、そうするほかない)普遍的な地点に根拠を置くことが必要。 カントの議論を図式的にまとめるとこう。 傾向性(欲求)→ 格率 → 仮言命法 仮言命法は「…を望むなら、こうしなければならない」 何を求めるかはひとそれぞれなので、仮言命法を道徳の根拠にすることはできない 理性 → 普遍的な道徳法則 → 定言命法 定言命法は「…を望むかどうかに関わらず、こうしなければならない」 理性で考えれば何が正しいかは誰でも分かるので、定言命法が道徳の根拠となる 以下、本文の流れに沿ってみていきます。 格率と普遍的立法 欲求に基づく行為の原則(格率)は道徳の根拠とならない 道徳の根拠を快や欲求に置くことはできない。なぜならそれらは結局のところ自分の幸福を求めているから。 自分の
可能な限り最新の情報を反映していますが、追いつけていないこともあります。本サイトに採用していても、記事に反映できていない設定もあります。ページのソースを読んでいただくと、参考になる箇所があるかもしれません。 ウェブページの高速化に関するテクニックは、ネットで検索すれば簡単に見つけることができます。優れた情報も数多くありますが、「CSSとJavaScriptはminify(ミニファイ)しておけばOK!」のような都市伝説も少なくありません。 そこで、ここでは本サイトのデザインリニューアル時に施した対策をもとに、一歩進んだウェブページの高速化の方法と、それを支える原理について、できる限り分かりやすく説明したいと思います。フロントエンジニアやデザイナーの方からすれば「んなもん知っとるわ!」な情報なのかもしれませんが、都市伝説を駆逐すべく、私なりの仕方で解説(≒加勢)したいと思います。 初めに結果を
キルケゴール 『死に至る病』は、デンマークの哲学者セーレン・キルケゴール(1813~1855)の主著だ。1849年に出版された。 キルケゴールは実存哲学の創始者として知られている。実存と言われてもピンと来ないかもしれないが、その意味は要するに、他の誰とも取り替えがたい「私」のことだ。 キルケゴールの場合は、当時のヨーロッパ哲学を席巻していたヘーゲルと対比するとイメージしやすい。 キルケゴールには、ヘーゲルの議論は現実を論理的(=弁証法的)に説明するものだという直観があった。現実は論理に従って、つつがなく進んでいく。そのプロセスを記述するなかで、いまこの現実を生きている「私」は、体系のうちへと回収され、類型化されてしまう。キルケゴールからすれば、ヘーゲルからは、具体的な状況において決断を行ったり、そこから逃避したりする「私」のありようが抜け落ちてしまっているのだ。 もっとも、キルケゴール的な
本書『ナルシシズム入門』Zur Einführung des Narzißmusは、オーストリア出身の心理学者フロイト(1856年~1939年)の著作だ。1924年に発表された。 ナルシシズムをどう位置づけられるか? ジークムント・フロイト 本書の目的は、「ナルシシズム」を私たちの性のあり方のうちに適切に位置づけることだ。 ナルシシズムの概念は今日でも使われている概念だ。「あのひとってナルシストだよね」と言うとき、これは「実際は大して格好良いわけではないのに、自分のことを特別美しいと判断している自意識過剰なひとだ」という意味で言われている。 ただ、自意識過剰(うぬぼれ)とナルシシズムには違いもある。それは性的な評価の有無だ。「あのひとは自意識過剰だ」は、自分自身を誇大評価しているというニュアンスが主だが、「あのひとはナルシストだ」は、誇大評価が恍惚や感覚がともないつつなされている、という意
フッサール 本書は、ドイツ出身の哲学者エトムント・フッサール(1859~1938)による著作だ。1907年、フッサールがゲッティンゲン大学にて行った講義の原稿をもとにしている。1950年に出版された。 フッサールは現象学の創始者として知られている。本書はその現象学の出発点に位置する著作だ。現象学の基本的なモチーフ、考え方は何か、また、何を私たちは現象学から受け取ることができるのかについて確認するには最適な著作のひとつだ。 とはいえ、本書は決して読みやすくはない。というより、一読しただけでは、哲学の天才でない限り、ほとんど何を言っているか理解できないはずだ。 哲学書を読んでいると、時おり超難解な著作に出会うことがある。プラトンやデカルトなど、集中して文章を追っていけば、前提知識がなくても、何を言わんとしているか受け取ることができることもあれば、表現自体が難解で、何が問題となっているかさえつか
前置き アーレントの著作はかなり読みづらいですが、ポイントさえ押さえてしまえば、比較的ストレートに理解できるはずです。 本書の構え 私たち人間の「活動力」を、「労働」と「仕事」と「活動」の3つに区分して、それぞれの本質について論じるとともに、近代社会が労働を重要視し、「仕事」と「活動」の占める領域を次第に狭めてきたとして近代社会を批判するという二本立てになっています。 後者の近代社会批判は、人間の「動物化」へと向けられています。ただ、アーレントは動物化にポジティブな面を全く認めていない点で、ポストモダン的な議論とは方向性が異なります。 では見ていきます。 労働、仕事、活動 労働 Labor 「必要(必需)」necessityに従属している 古代ギリシアで奴隷制があったのは、「必要」から解放されて、公的領域で自由となるため 仕事 Work 「作品」「工作」「制作」のこと(日本語でいう仕事は、
スピノザ 本書は、オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザ(1632~1677)の主著だ。1662年から1675年にかけて執筆され、スピノザの死後、1677年に出版された。 スピノザはデカルトやライプニッツと並び、合理論を代表する哲学者だ。近代哲学の初期における認識論の分野で活躍した。 合理論に対する立場に、ロックやヒュームによる経験論がある。合理論と経験論のポイントを対比的にまとめると、おおよそ次のようになる。 合理論 根本原理から推論を合理的に積み重ねていけば、世界は正しく認識できる。 経験論 世界は知覚経験の及ぶ限りで認識できる。知覚経験に先立つ根本原理は存在しない。 歴史的には、合理論が数学の発展とともに現れ、これを受けて経験論が合理論の独断的な性格を指摘するという仕方で展開してきた。 スピノザは本書で、根本原理を置き、そこから合理的な推論を積み重ねて、世界のあり方を描き出している
本書『無為の共同体』は、フランスの思想家ジャン=リュック・ナンシー(1940~)による著作だ。1983年、「アレア」という雑誌に投稿され、モーリス・ブランショが『明かしえぬ共同体』を書くきっかけになったことで知られている。 ナンシーはフーコー、ドゥルーズ、デリダの後の世代をリードするポストモダン思想家の一人であり、数多くの著作を残している。主著には以下で確認する『無為の共同体』のほか、『エゴ・スム』、『声の分割』などがある。ラクー=ラバルト(1940~2007)との共同研究でも知られている。 ポストモダン的世界像に回収されない思想の「核」があるかどうか ジャン=リュック・ナンシー 本書はとても読みにくい。ただ表現自体は決して難しくない。ドゥルーズのように、議論の中心軸をズラすことで読者を混乱させるような書き方はしておらず、その点に問題はない。ではなぜ読みにくいのかというと、ナンシーがハイデ
マキャヴェリの『君主論』をコンパクトにまとめました。メディチ家がイタリアを統治することへの期待をもって著された著作。 君主の力量と運が重要 世襲制では君主はそれまでの慣例に従えばいいので、国家統治は簡単。問題はこれから新たに国家を作り、君主として君臨する場合。 どうすればいいだろうか? 新しい君主国家には従うべき慣例がない。そこで重要となるのは、君主の力量virtùと運fortunaだ。この2つがあれば統治はいくらか簡単になるはず。 ちなみに教会国家の場合、国家がキリスト教によって強固に支えられているので、手に入れてしまえば後はラクだ。 君主国家の土台は法律と武力(軍隊) 国家の土台は2つ。 よい法律 よい武力(軍隊) すべての国にとって重要な土台となるのは、よい法律とよい武力とである。よい武力をもたぬところに、よい法律のありうるはずがなく、よい武力があって、はじめてよい法律がありうるもの
書き方の問題 ひとことで言うと、イメージ先行型。 最初に「こうであるはず」「そうに違いない」のイメージがあって、それを目がけて議論を組み立てる書き方になっています。巧みなレトリックに惑わされないように気をつける必要があります。これは本書に限らず、『創造的進化』といった別の著作についても言うことができます。 本書は原理論の前に具体的な事例から入ってるので、イキんで最初から読もうとするとつまずくかもしれません。なのでここでは、注意して読むべき箇所と、飛ばしてもいい箇所についても触れてみたいと思います。 構図 本書の構図は、以下のような感じ。 感覚は質的なもの(量の積み重ねではない) 持続=質的多様性、有機的な連関、純粋な異質性 そうに決まってる、そうでないはずがない 運動と時間は質的な持続 力学はこれを量的に扱ってしまっている(数式に落とし込むことで) 内的自我(真の自我)は純粋な持続 しかし
本書『性理論三篇』Drei Abhandlungen zur Sexualtheorieは、オーストリア出身の心理学者フロイト(1856年~1939年)の著作だ。1905年に発表された。 本書でフロイトは、精神分析の方法によって、私たちの性Sexualitätのあり方について論じている。私たちにとって性はどのような地位を占めているのか。これがメインテーマだ。 本書の全体像 本書全体の構えは、大体以下のような感じだ。 幼児期から思春期にかけて、性欲動(=性的な欲求)は、母親との原初的な関係(授乳)を出発点として、自愛的な段階、潜在期を経て、思春期になり再度外部に性対象(=魅力を与えてくる人間)を見出す。この過程を適切にこなせば、性を正常に形成することができるが、できなければ倒錯もしくは神経症になる傾向が高まる。 つまりこういうことだ。 私たちの身体性や感受性は、決して生まれながらに備わってい
『哲学探究』は、ヴィトゲンシュタイン(1889~1951)の著作だ。1936年から1945年にかけて書かれた手稿と、1947年から1949年に書かれた手稿をまとめて、彼の死後、1953年に出版された。 ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(以下『論考』)にて、言語と世界の対応関係について、要素命題と「事態」の同型性、つまり論理形式の共有という観点から論じていた。要素命題は事態と形式を共有しているので、世界の像を作ることができる。本書でヴィトゲンシュタインは、言語ゲームという概念に基づき、この前提を一から考えなおす。 ゲームと言われると、初めはピンとこないかもしれないが、そのポイントは、言語はルールに基づき行われる営みだという点にある。 語に対応すべき対象があらかじめ定まっているわけでも、初めからその対応関係を知っているわけでもない。言葉の意味はそういうものではなく、言葉を使っているうちに
『民主主義と教育』や『学校と社会』で知られるアメリカの教育哲学者、ジョン・デューイの『経験と教育』をできるだけコンパクトにまとめてみました。 教育を本質から考える 教育学はその歴史を通じて、「教育とは内面からの発達である」という見方と、「外部から知識を与えて形成するものだ」という見方の対立によって特徴づけられている。 この構図は、伝統的教育と進歩主義教育の対立にも現れている。伝統的教育は知識を教えることこそ、生徒の将来のために必要なことだと主張する。しかし進歩主義教育からすれば、それは詰め込みであり、個性の発達を押さえ込んでしまうことになる。 で、どちらが正しいのか? 私はどちらにも味方しない。なぜなら教育について考えるときは、主義ではなく本質から始める必要があるからだ。 教育と経験の関係 教育哲学は、教育と経験の間に何らかの関係があるという前提に基づいている。 では、それはどのような関係
まえおき ニーチェが本書を出版した当時でさえ本書は「非実証的」と評価されていました。ニーチェ自身も後年、本書を振り返って、「論証を飛び越えている」と評しています。 なので本書の議論をそのまま真に受けて「そうかギリシア悲劇はアポロンとディオニュソスの融合から生まれたのか」みたいな受け止め方はしないほうがいいでしょう。 本書のポイントをざっくりまとめると、 ギリシア悲劇は苦悩をも含む「生」それ自体を肯定していた ソフォクレス、アイスキュロス しかしエウリピデスから様子が変わる 「美的ソクラテス主義」 劇の最後に「主人公たちは~な未来を迎えるだろう」と神に言わせてしまう 不条理が苦悩させることはなくなる 近代文化はこの「美的ソクラテス主義」に侵されている でもワーグナーがディオニュソス的な精神を復活させようとしている バッハ、ベートーベン、ワーグナーの流れがスゴイ! では見ていきます。 アポロン
哲学書を読み通すにはかなりの根気と時間が必要です。いくら時間を掛けてもあまり分からなかったり、ほとんど読み進まなかったりすることはありませんか? 哲学者研究をするのであれば別ですが、趣味として、もしくは学問の基礎教養を身につけるために哲学書を読むのであれば、最も大事なのはその本のポイントをつかむことです。細かい概念を覚えるのはそれからで十分です。 このシリーズでは、「ざっくり解説で十分」「大学の課題レポートの締め切りが明日までなので何とかしたい」「細かい中身よりポイントを知りたい」という方向けに、古代から現代に至る重要な哲学者の著作をピックアップして、出来る限りシンプルに、ポイントだけを解説します。
中央公論社(現・中央公論新社)の「日本の名著」シリーズ全50巻のタイトル、目次を一覧にまとめました。 1969年から70年代半ばにかけて刊行されました。日本書紀に始まり柳田国男に至るラインナップです。柳田国男が最後に置かれているところに時代が感じられます。 日本の名著 日本の名著1~9 日本の名著1 日本書紀 日本書紀 神代―神武天皇(川副武胤訳) 崇神天皇―雄略天皇(佐伯有清訳) 推古天皇―天武天皇(笹山晴生訳) 日本の名著2 聖徳太子 勝鬘経義疏(早島鏡正訳) 維摩経義疏(抄)(中村元訳) 法華義疏(抄)(早島鏡正・滝藤尊教訳) 十七条憲法(中村元・滝藤尊教訳) 上宮聖徳法王帝説(田村晃祐訳) 唐大和上東征伝(田村晃祐訳) 婆羅門僧正碑文(中村元訳) 日本の名著3 最澄/空海 最澄(田村晃祐訳) 願文 山家学生式 顕戒論(抄) 法華秀句(抄) 空海(福永光司訳) 三教指帰 文鏡秘府論序
なんでこんなこと考えるのか 何が善いことかを認識し、理性を道徳的に使うため。「神が善の根拠に決まってるじゃん」は通俗的。認識の可能性と限界をハッキリさせることで、普遍的な(=誰にとっても納得できる)善のポイントを見て取ることが目的。本書はそのための前提作業。 認識が構成される仕組み 私たちの認識は以下の3つの能力を通じて構成されている。 感性:外部データを採取する能力 悟性:感性によって得られたデータを結合して、概念化する能力 理性:完全性(完全なもの)を構想する能力 もっと詳しく見ると、以下のような感じだ。 純粋直観が多様なものを与える 構想力がそれらを綜合する 純粋悟性概念(カテゴリー)がこうした純粋綜合を統一する → 対象を認識する という流れ。 統覚は「私は…について考える」という意識のこと。感性と違って自発的な作用。統覚があるので認識が成り立つ。 感性について 感性は空間と時間に
本書は『実践理性批判』を前提にしているので、まずは『実践理性批判』を読んでみてください。読んでいる時間がない方は解説をどうぞ。詳細版とコンパクト版の2バージョンを用意しておきました。 本書の目的 戦争が生じる可能性が存在しない状態について論じること。 結論 答えは平和条約ではなく、永遠平和状態にある。 現実世界では永遠平和状態を達成することはできない。しかし永遠平和状態という概念そのものは目指すべき目標として役に立つ。到達できないからといって最初からやらないのは、完全に道徳的になれないからといって道徳的な生き方を心がけないのと同じ。大事なのはそれを目指すこと。 カントの言いたいことは要するにこう。 次のように言える。「まずもって純粋実践理性の国とその正義を求めて努力せよ。そうすれば汝の目的(永遠平和という恵み)はおのずからかなえられるであろう」、と。 では見ていきます。 本論 国家を人格と
このコーナーでは、必ず押さえておきたい哲学者から、ちょっとマイナーな哲学者まで、比較的入手しやすく、よく読まれている作品をピックアップし、トコトン掘り下げて「解読」します。 もちろん解読とは言っても、ここで示すのはひとつの読み方でしかありませんが、引用も取り入れ、できるだけ本文に即して解説しています。記事によってはかなりボリュームがあるので、じっくりと、できればテキストを片手に読むと、より中身が理解できると思います。 なお、「長い!そんな読んでる時間ない!」という方向けに、本当にポイントだけを簡潔にまとめたコーナー「超コンパクトまとめシリーズ」もありますので、そちらも必要に応じて読んでみてください。
まえおき:「実証的でないから」と切り捨てるのはナンセンス 「負債から負い目が生まれてきた?そんなの実証されてないじゃんw」は、もう本当に何回も何回も飽きるほど繰り返されてきた典型的な批判です。 しかし率直に言って、そういう批判はナンセンスです。 原理レベルと事実レベルをきちんと分けて考えることが重要です。この例もよく使っていますが、そうした批判は地面に三角形の図を描いて内角の和が180度になることを示そうとしているひとに対して「この三角形ちょっとココ曲がってません?」とツッコむのと本質的に同じことです。暗黙のうちに原理の完全性を仮定しておき、事実の偶然性でもって原理を相対化しようとする手法です。 以下、本文に沿って見ていきます。 目的 善悪の判断が生まれてきた理由、善悪の判断そのものの価値を明らかにするために、道徳の価値をさかのぼって仮説的に(=系譜学的に)考察すること。 貴族道徳 自然な
目的 人間社会に不平等が生まれてくる構造についての仮説を置くこと。 結論 最終的に不平等は、絶対君主を頂点とするスーパーデカいピラミッドに行き着く。しかし君主が君主なのはただ強いから。もっと強い者に倒されても文句は言えない。なぜなら絶対君主の存在そのものが、人びとが国家を作る目的、すなわち自由を維持することに反しているから。 それでは以下、本文について見ていきます。 本文 ここで示すのは仮説 いくら不平等の起原について考察するといっても、動物的なヒトの段階から考えるわけではないし、神が人間を造ったとも考えない。代わりに、昔の人間が現在と同じような構造であって、2本の足で歩き、手を使い、自然に目をやり、空の広さを測っていたと想定する。 その意味で、以下で示すのは歴史的な真理ではなく、条件的な仮説にすぎない。キリスト教も、人間が自分たちだけで存在していたらどうなっていたかについて論じることまで
岩波書店の「日本思想大系」全67巻の収録作を一覧にまとめました。 1970年から82年にかけて刊行されました。古代から幕末期にかけての日本思想の著作からなっています。大半が著者別に構成されていますが、テーマごとにまとめた巻もあります。編集委員は家永三郎、石母田正、井上光貞、相良亨、中村幸彦、尾藤正英、丸山真男、吉川幸次郎の8人です。 なお、各巻の原文、補注、付録、参考などに関しては割愛しました。 日本思想大系 日本思想大系1~9 日本思想大系1 古事記(青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注) 日本思想大系2 聖徳太子集 憲法十七条(家永三郎・築島裕校注) 勝鬘経義疏(早島鏡正・築島裕校注) 上宮聖徳法王帝説(家永三郎・築島裕校注) 日本思想大系3 律令(井上光貞・関晃・土田直鎭・青木和夫校注) 巻第1~第10 日本思想大系4 最澄(安藤俊雄・薗田香融校注) 顕戒論 顕戒論を上るの表
哲学を専門的に勉強したいと少しでも思っているなら、できるだけ早く教養をつけておくのが大事です。そのためには自力で哲学書を読んで勉強を進めることになると思いますが、その際に並行して自分用のレジュメを作ると、勉強の効率の大幅アップが望めます。 なぜ作る? 理由は単純です。哲学書を読むのも他の勉強とまったく同じように、復習せず一度読んだきりにしておくと、すぐに忘れてしまうからです。よほど印象深い議論なら違うかもしれませんが、たいていの哲学書は内容が細かく、かつ普段聞かないようなテーマについて論じているので、なおさら忘れやすくなっています。 レジュメを作っておくと、気になった箇所を後から確認し直すことができます。自分の文章で書いてあるので、読み返したときに「あ、そうだったな」とすぐに思い返せます(中身を一切忘れてしまっているなら多少時間がかかるかもしれませんが)。もしレジュメがないと、場合によって
インド哲学は、古代インドに起源をもつ哲学の総称です。 様々な学派があり、その中でも特に、バラモン教の聖典ヴェーダに収録されているウパニシャッドを受け継いで発展した6つの学派が知られています。 サーンキヤ学派 ヨーガ学派 ヴェーダーンタ学派 ミーマンサー学派 ニヤーヤ学派 ヴァイシェーシカ学派 これらは一般的に、まとめて六派哲学と呼ばれています。 「梵我一如」をめぐって ウパニシャッドとは、サンスクリット語で「奥義」や「秘伝書」を意味する一連の書物のことを指しています(なので『ウパニシャッド』という名前の著作があるわけではありません)。全部で200以上の著作がウパニシャッドのなかに含まれています。 テーマは多岐にわたりますが、中心の概念はブラフマン(梵)とアートマン(我)の2つです。自分のうちに潜むアートマンを知ることによって宇宙の最高原理であるブラフマンと合一できるという、いわゆる「梵我一
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