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政治家を選ぶ「選挙」というのは得票数が大事で、その後は支持率が大事になります。 テレビだと視聴率です。 この当たり前のように受け入れてる数字が問題なのではないかというお話です。 今挙げた数字たちはどれも本質ではなく、なんとなくの指標であるところが共通しています。 ぼくはテレビ(を中心とするメディア)が「報道」や「メディア」といった「物語/建前/モラル」を失ったことが現状の日本を用意したと考えているので先にご説明しますと、視聴率というのは「テレビを持っているひとのうち何人がその番組を見たか」というものです。 ご存知のように「よい番組をつくると視聴率が上がる」ものではありません。それが先ほど申し上げた「本質ではない」ということです。 にもかかわらず数字を追い求め続けるうちに番組の前提であった「物語/建前/モラル」が失われ、視聴率だけが指標となった結果が今であろうと思います。 具体的には、ニュー
憲法改正が話題になっています。 ぼくは以前から申し上げているように反対の立場です。 なぜかと申しますと日本の社会が「知能が低いほうが合理的な社会」だからです。 憲法改正といっても実際には第9条が目玉かと思うのですが、ここの変更で大きな影響があるのは政治家と官僚です。ところが両者とも典型的な「知能が低いほうが合理的」な職業で、それはどういうことかというと具体的には嘘をつこうが証拠を隠滅しようが「そのような意図はなかった」と答えるのが「正しい」職業ということです。 どちらもかつては「公正にふるまう」ことを目指していたのが、それは非常に困難なので「不正に気づいていないようにふるまう」ことで代替してきた結果なのだと思います。 気づくことができず「たまたまそうなったこと」は免責されるので(公正であるよりも安易な道だったため)この流れは強化されていくことになります。 今となっては証拠書類をシュレッダー
"The Three-Body Problem" "The Dark Forest" に続く待望のLiu Cixin(劉慈欣/刘慈欣)「地球往事三部作」完結篇『死神永生』が "Death's End" としてついに出版されました。 翻訳はもちろん『紙の動物園』で日本でも人気の作家ケン・リュウが "The Three-Body Problem" に引き続いて担当してます。今回もグッジョブです。 第1作 "The Three-Body Problem" がアジア初のヒューゴー長編部門受賞ということで話題となった際に1作目、2作目と連続して読んだのですが、そのときの感想は以下に。 劉慈欣『三体』(Cixin Liu"The Three-Body Problem")を読みました そして今回の "Death's End" はどうだったのかといいますと マジでヤベェ ふつう三部作って「風呂敷を広げて、
よく怒りっぽいかたっていらっしゃいますよね。 あれはなんなのかと思っていたのですけど、ふと気づきました。 「怒りっぽい」は単独で存在しているのではなくて、すべての感情が豊か(悪くいえば制御不能)なのですね。で、それはおそらく人間の本来の姿なのだ思いました(酔っぱらいのかたがたも拝見してると怒ってたり笑ってたり泣いてたりするので理性のタガがゆるむとそんなものなのだと思います)。 「感情」は自分の気持ちをあらわにすることで他者に影響力を行使する原初的な「伝達」です。 そして「支配」でもあります。 乳児はだいたい泣いて気持ちを伝達していると同時に、自己の欲求をかなえさせるよう周囲を支配します。少し成長して幼児になると泣くか怒るか泣きながら怒ることで周囲を支配するようになります。 どこかでほとんどのひとは自分が世界の中心ではないことに気づいて世間と折り合いをつけて、あんまり泣いたり怒ったりしなくな
またパワハラ、セクハラが話題になっています。 パワハラとかセクハラというのは、「権力の位置エネルギー」の差こそがその源泉です。 加害者と被害者の間にはなんらかの権力の傾斜が存在していて上から下へと一方的に流れています。 人間は被害を大きく加害を小さく見積もるようにできていますので、どうしても被害者だらけになってしまうのですが、里見ももういい年齢で、それなりにキャリアも積んでしまった以上、加害者としての立場で考えてしまいます。 権力的に高い側は位置エネルギーをつい活用してしまうというかどうやっても活用せざるを得ない立場であるため、加害性は本人に自覚しにくくなっています。 自覚がないのでなんら後ろめたさを感じずに他人のハラスメントを糾弾できますし、その糾弾したのと同じ口でハラスメントを遂行できてしまうという恐ろしい構造です。 それは坂道を転がる石ころのようなものです。上側からはそんな小さな石こ
なんかふだんアニメ業界は「大手広告代理店」か「著作権管理団体」か「漫画の神様」が矢面に立ってるんだかむりやり立たされてるんだかしてくださるおかげで(彼らはだいたい会社員か団体職員か神様なのであまり反論もされません)すっかり他人事気分だったんですけど、最近の流行りは「製作委員会」とのことです。 ぼくのようなフリーランスのプロデューサーは多くの場合製作委員会(を取りまとめる幹事会社)から依頼を受けて生計を立てています(ごくまれに委員会に加わったりもしてます)。 ためしに里見の Wikipedia を見たところそのようなご発注を今まで50タイトル以上いただいています。ありがたい限りです。今後ともよしなに。 とはいえ「一社出資」と「製作委員会」でなんか変わる? といわれるとお金の出所で映像のリスクの多寡が変わるわけでもないですから、あまり変わらないですという答えになります。 同じ映像なのですからあ
初代『ゴジラ』は敗戦後の日本で、核の漠然とした恐怖と特撮の表現能力があって成立したものです。 その「初代ゴジラ」以来はじめて、3.11と、今も続く核の不安と、CG技術が、(幸か不幸か)環境として整った日本で、庵野秀明監督に託されたことによって、ゴジラの「スクラップ&ビルド」のときはおとずれました。 「スクラップ&ビルド」には「荒野」と「人々」と「活力」が必要です。 「荒野」と「人々」とちがってこの「活力」は目に見えないものですので、現代日本に「活力」があると思うかないと思うかで、だいぶ評価が変わるのではないかなと思います。 ぼくは「棒読みの役者たちが早口で状況を説明していくシーンの連続で厳しいなあ」と感じてしまって、これは「ゴジラ」というファンタジーつまり「虚構」と対峙する「現実」という構造にもかかわらず、ぼくにとって「ゴジラ」よりも「日本の有能で活力に溢れた青年たち」のほうがよっぽどファ
この前めずらしく(個別の案件ではなく)産業としてのアニメについて話をする機会がありました。 これはアニメ産業に従事しているひとでも興味のありなしがはっきりしている話題です。 アニメに限らず農業でも漁業でも製造業でも……どんな産業でもそうだと思うのですが、目の前のプロジェクトやプロダクツと、業界全体の動向のあいだには、あまり関連がないですからね。 そして、外から見たときにアニメ産業はとてもわかりづらいのだといいます。 そのためかよくオリコンチャートやアマゾンランキングなんかが参照されているようですが、これはそれだけビジネスの状態が見えにくいということなのだと思います(どちらもビデオグラムのざっくりした動向は把握できますので、指標として優れたものではあります)。 そして中にいるわれわれも、アニメ産業の状況が全体的にどうなのか、というのは「最近景気悪いなあ」「最近仕事の依頼が多いなあ」といったよ
アメリカSFの優秀作品を投票で選出するヒューゴー賞というのがあるのですが、今年はいろいろあって中国SFが長編部門を獲得しました。 それが劉慈欣(Cixin Liu)の『三体』("The Three-Body Problem")です。せっかくなので第二部にあたる(「地球往事三部作」だそうです)『黒暗森林』("The Dark Forest")と合わせて読んでみました。 読んだのは英語訳で原語にあたっていないので固有名詞はけっこうちがってるかもしれませんが、お気になさらず(中国人の名前や地名は読んでてぼくも混乱してました)。 "The Three-Body Problem" がヒューゴー賞を受賞したのは「文化大革命を取り扱っていた」というのが理由のひとつだと思います。 「著しく歪んだ歴史」はある意味「虚構(としか思えないもの)が史実として定着させられている」がゆえに「上質なフィクション」として
今回はちょっと体感ベースに基づく与太話で、あまり厳密なものではありませんので話半分でお読みください。 さて。ぼくのぼんくらな予想では日本のアニメの今後は「タイトル数が増えて生産量が減る」つまり従来2クールでつくられたであろう作品の一部が1クールに、30分作品の一部が5分にスライドしてリスクヘッジをしつつタイトル数を維持しようとする動きになると思っていたのですが、どうも2006年をピークに減りつつあったはずなのに最近ほんとに増えているような気がします。しかもなぜかクオリティを上げながら。 これは複層的な要因があると思います。 まずお金を投資する側としては「不景気」が挙げられます(「不景気」だと言葉が強すぎですね、景気のよさが足りないぐらいです)。 これはいわゆる「倒産直前の出版社は出版点数が増える」現象です。お金がないなら出版点数を絞るほうがよい気もしますが、実際には大量に出荷して目先のキャ
かつて「知識」を得るには「経験」するしかなかったのでこのふたつを分かつことは不可能だったのですが、最近はネットのおかげでおおよその「知識」は手に入るようになりました。 そこで問題が起こります。「経験」とはすなわち「時間×密度」ですので、せいぜいガイドブックぐらいしか存在しなかったころは「先輩」のほうが常に「知識」を多く持っていて尊敬を集められたものですが、このシンプルな上下関係は Google さまの到来とともに崩れさりました。 最終的に「先輩」のよりどころは「知識」から「経験」にシフトせざるを得なくなります。これが「リアルタイム崇拝」です。知識量に差がなくなったら今度はリアルタイムで「あの瞬間/あの時代/あの場所」を「経験」してるほうがエラいわけです。 それはいいんですけどネットに無料で転がっているがゆえに「知識」の価値がつられて下落したことに今の「先輩」の不幸がある気がします。
日本の少子高齢化は「人工抑制政策がうまく機能している」のだと思います。 親世代の労働環境を厳しくする 今も「育児休暇」どころか「残業代ゼロ」が議論されてますが、子育ては長い時間をかけておこなうものですから暗い未来を予想させ続けることの抑制効果は大きいです。 親世代の収入を低く抑える 子育てをお金のかかる状態にしておくのに加えて、独身でも夫婦でも、扶養家族を持てないレベルに賃金を抑えておけば経済的に抑制できます。 出産できる環境を用意しない 現状では妊娠8週目までに産婦人科を決められないと都内での出産はむずかしいそうです。実家が地方のかたには里帰り出産という選択肢がありますが、都内在住のひとの意欲を減退させる効果は高いと思われます。 乳児を受け入れる施設を用意しない 待機児童問題は相変わらずで、「母親が育てろ」と経済的に困難な解決策を為政者のかたがたが発言することで萎縮効果は倍増です。 まあ
アニメの需要のしかたも映画やネット、ビデオグラムと多様ですが、常に最も重要であり続けたのは「テレビ番組」としてのアニメなのではないかと思います。 毎週1回30分放送という強固なフォーマットは大きな制約でありつつも、アニメの娯楽強度を高めるたしかな手法として確立しています。これはマンガが連載形式でならではのおもしろさを獲得したのと似ています。 アニメビジネスはその黎明より映画による興行と、テレビによるスポンサードの両輪でまわっていました。 テレビ番組としてのアニメの背後にどのような制作費捻出の仕組みがあるかというと大きくふたつありまして、「視聴率」によってまかなわれる場合と、「商品の売り上げ」でまかなわれる場合です。 前者はたくさんのひとが見てくれればそれだけ商品の認知度があがる/企業イメージがよくなると考えるスポンサーのかたがいらっしゃると成立します。 後者はおもちゃやゲームなどアニメによ
プロデューサーの重要な業務のひとつに「ひとと情報の配置」があります。 自分を情報のハブにして、「うまく配置されたひとたちにうまく情報がいきわたっている」状態が理想です。 これがうまくいってるかどうかを確認するのは口でいうのは簡単ですが、意外とできません。なぜなら「有る/在る」ものを評価するのは誰でもできるのですが、「無い」ものを評価するのは「気づけない」……つまりそもそも視界に入らないので理想と較べてどれぐらい離れているかを把握するのはなかなかむずかしいのです。 さらにここが問題なのですが、うまくいってないときほどプロデューサーの介入機会が増えるので、うまくいってないどころかむしろ仕事をたくさんこなして有能感すら覚えてしまったりします。でもこれは事前に情報をわたせていない部分を、その場その場で埋め合わせているということなので、本来はないはずの業務を怠慢ゆえに発生させてはこなしているだけだっ
KADOKAWAとドワンゴの経営統合が一面で報道されてる本日の日経新聞で、三菱ケミカルによる太陽日酸の買収が記事になってました。 この太陽日酸は今では北海道で悠々自適に暮らすぼくの父がかつて勤めてた会社なのですけど、勤務当時は日本酸素という社名でした。それが太陽酸素と東洋酸素が合併してできた太陽東洋酸素と合併して現在は太陽日酸になってまして、さらにさらに今回三菱ケミカルホールディングス傘下になるというザックリした流れです(社名の変わらない合併・吸収・分社・統合はもっとたくさんあります)。 サーモスブランドでおなじみの魔法瓶なんかも手がけてますがメインは産業用の窒素ガスの生産で、この手の産業インフラ的な会社って業種的な絶対なくならない安心感というか不変さと同時に、最後はスケール勝負になる(銀行の大合併時代なんかもそうですね)のだよなあとしみじみ思いました。 そのグローバル化の流れとは逆に、日
マイク・パーカーが逝去されたのをうけてBBCにヘルベチカについての短いコラムが掲載されてたので翻訳してみました。 ーー以下翻訳ーー ヘルベチカの普及に貢献したマイク・パーカーが今週亡くなりました。1957年に「ノイエ・ハース・グロテスク」という名前でリリースされたこの書体をグラフィックデザイナーならみんな熟知しているでしょう。そればかりではありません。ヘルベチカはデザイナーではないひとたちのあいだでも、とてもよく知られています。それはどうしてなのか、グラフィックデザイナーのデビッド・エイリーに尋ねてみました。 多くのひとたちがヘルベチカの人気はアップルのおかげ、つまりスティーブ・ジョブズがアップルのオペレーティングシステムにヘルベチカを組み込む決定をしてくれたおかげだと考えていますが、実はこの書体はコンピュータがこの世に登場するずっと前からデザインの古典として知られていました。 1950〜
と、よく訊かれます。たしかに説明しづらい職業だと思います。 説明しづらいだけで片付けてしまっては身も蓋もないので、ぼくが知っているのはアニメのプロデューサーだけですが、簡単にご説明していきます。 まずアニメのプロジェクトでは大きくふたつのプロデューサー業務があります。アニメのオープニング/エンディングで流れるクレジットをご覧になるとわかると思うのですが、たくさんのプロデューサー表記がちりばめられています。最近だと十数人が多いのではないてましょうか。これをふたつに分類しますと エグゼクティブプロデューサー(企画)/プロデューサー/アシスタントプロデューサー/アソシエイトプロデューサー…… と アニメーションプロデューサー/ラインプロデューサー/制作プロデューサー…… となります。 後者は制作現場(つまりアニメ制作)の統括をしている制作チームのトップです。 そして前者がいわゆる本来のプロデュー
一般的に「クオリティ」や「リアリティ」といったあいまいな言葉で何かの価値を判断したり指示を出したりされる批評家とかプロデューサーは控えめに申し上げて無能だと思うのですけど、なんかいいこといってる風の便利ワードなためなかなか業界から殲滅できません(「シズル感」とか「人間が描けてない」とかも早く滅ぼしたいですね)。 せめてポジティブな意味につかうならいいのですが、ネガティブな評価や指示出しにつかわれてるととてもしょんぼりしてしまいます。 里見はこの手の言葉をひっくるめて「ゼロカロリーワード」と呼んでおります。 言葉(は情報を伝えるもののはず)なのに何も伝えていない、満腹感はあるのにカロリーゼロの食品のような、そんな言葉です。 まあ「ゼロカロリーワード」は情報を伝える言葉ではないので鸚鵡でも九官鳥でも人間でもよいのですけど「クオリティをあげろ/リアリティが足りない」とくり返しくり返しおっしゃりな
アニメをつくってるとよくいわれるのが「なんで世界に出てかないの?」とか「ちゃんとしたプロデューサーがいないんじゃないの?」とか「ピクサーみたいな世界展開アニメつくればいいのになんでしないの?」といった質問/疑問です。 彼らには、アニメはせっかく商品力があるのに国内のシュリンクしつつあるマーケットに固執して、だんだんダメになっていってるように見えるのだと思います。ぼくが常に世界マーケットでは広く流せない美少女アニメや暴力的なアニメをつくっている、彼らとしては「落ちこぼれ」のプロデューサーだからかもしれません。 それにはいろいろな要因とか返答のしかたが考えられますが、まず前提として英語の問題があります(たぶんアニメに限らず言葉の壁の問題はあると思います)。 で、ふつうは「英語ができないから国内にとどまっている」と考えるのが主流だと思います。 ですが実情としては「言葉の壁に守られている」のが近い
古来より本邦で大人気の呪術に「蠱毒」というのがあります。人形に釘を打ったりする丑の刻参りでおなじみの「厭魅」と並んで人気なので「蠱毒厭魅」などと四字熟語っぽく呼ばれたりします。 で、その「蠱毒」とはどんなものかといいますと、強そうな虫をたくさん集めたバトルロイヤルの果てに最後に生き残った最強の虫で呪詛をおこなうというものです。 芸術/娯楽も同じようなところがありまして同時代で大量に産み出され「時間」によって淘汰されていきます。 たとえば17世紀には評価が拮抗していたシェイクスピアとベン・ジョンソンですが、現在の知名度の差はとてつもなく大きいです。なぜ劇聖シェイクスピア翁と対比して語られたかもわからないぐらいのレベル差です。 これが「時間」の淘汰圧です。 その後失意のベン・ジョンソンは陸上に転向してカール・ルイスとともに短距離走で一時代を築くもドーピングが発覚してしまい、またしても歴史からは
おもに90年代後半から2000年初頭のアニメのHD化が意外とむずかしいものが多い問題について。 ぶっちゃけマスターの扱いがぞんざいだったので散逸してるとかもありますし、デジタル初期のものはSDに合わせてギリギリの(原画サイズに対して)72dpiぐらいで制作されてたりするのですが、それはもうしかたないとして、ここでは原盤があるのに発売されないものの話です。 この頃のアニメはまだほとんどがセル画で制作されてるのでマスターはフィルム(16mm/35mm)がほとんどなのですが、それをテレシネしてデジタルβカム(通称デジべ)とかD2とかのテープに落として放送用やパッケージ用のマスターにしてます。4:3でしか収録できないのでスクイーズ(16:9をそのまま収録すると天地が黒くなるのですが、画像を縦長に収録することで上下の画素数が少し多く記録できます。再生時にはオートで横に引き延ばします)でちょっとでも画
先日も申し上げましたが「プロデューサー」といいますと、そのプロジェクトの頂点に君臨する責任者のような気がします(し実際そうなのです)が、その職能とはなんぞやという話になりますと突然内容がもやもやとして参ります。 アニメをよくご覧のかたでもプロデューサーって何をする仕事なの? と問われると言葉に詰まるのではないでしょうか。 ご安心ください。 ぼくも詰まります。 「人気原作を人気スタジオでつくる」 だと敏腕プロデューサーに聞こえますが、それが 「 Amazon ランキングのマンガ/ラノベ/ゲームの上から順に原作元に電話かけて許諾が取れたら、 Amazon ランキング の Blu-ray の上から順にスタジオに当たって制作してもらう」 だとアルバイトでもできる仕事に聞こえます。 弊社もアニメのプロデュース協力を生業としていますので、一応プロデューサーの端くれとして業界では認知されていますし、アニ
たまに『ドラえもん』の最終回という二次創作が「泣ける/感動した」というコメントともに流れてくるのですが、内容的にどうにももやもやします。この前もまた流れてきました。ほっとくとすぐもやもやごと忘れてしまうので、何がよろしくないのか書き留めておきます。 ちなみにぼくは「泣ける/感動した」といわれるとその内容に興味を失います。 あらすじはこちら→ ドラえもん最終話同人誌問題 「のび太ががんばって将来ドラえもんを修理する」話です。これが「二次創作らしいけどいい話だからいいじゃん」的に何度も流れてくるのです。 ぼくが思うに藤子・F・不二雄先生の世界と「努力で夢をかなえる」はそぐわないです。なぜなら『ドラえもん』は感動したい大人のためではなく、児童漫画として(未来の大人である)こどものために描かれているからです。 F先生のキャラクターたちのセリフは「平易」ではあるけれど「安易」ではないと思います。 「
ここ7〜8年ぐらいでしょうか。 アニメのいわゆる外野のかたからたまに「アニメの製作委員会方式は終わった」とか「アニメのビデオグラムビジネスは終わった」と直接/間接的にいわれます。「製作委員会方式のビデオグラムで投資を回収するアニメ」で生活しているぼくに対してそのようなことをおっしゃる意図は判じかねるのですが、どういうわけか何年経ってもいまだに終わっているはずの「製作委員会方式のビデオグラムで投資を回収するアニメ」をつくる日々を過ごしております。 これはどういうことなのかというとここでいう「終わっている」は、分析や思考の蓄積の結果として導き出される本当の意味での「終わっている」ではなくて なぜかといいますと、知識と興味の不足を認めたくないときに、知識/興味を埋め合わせる簡便な思考法だからです。 単に「知らない/興味がない」より「終わっている(から知らない/興味がない)」のほうがカッコいいです
先日業界の大先輩から 「親のいうこと聞いてブレーキ踏んでたら、ここにいないからねえ。考えなしにアクセル踏んで好きなことばっかりやっててよかったよ、中学生の俺エラい」 とおっしゃってました。 だいたい小説でもアニメでもマンガでもゲームでもなんでも度を越すと親から「もっと将来のことを考えて勉強しなさい」ストップがかかるのが世の常ですよね。たしかにぼくも親のいいつけに従ってたらこんな仕事してないわけで(かといって親の言ってることが間違ってるわけでもなくて)。 ぼくはサブカル/サブカルチャーと呼ばれるものの素養がまだ珍重され尊ばれ同時に蔑まれていた世代なのですが、残念なことに里見はアニメと小説にほぼ特化していたため、あまり音楽/ファッション/アニメ以外のテレビ番組/ゲーム/マンガなどなどにはあまりくわしくありません。 ここらへん実は「絵と音の連続」であるアニメ(特にプロデュース?)にとって知識があ
アニメーターの卵、国費で育成 文化庁、2億円投入へ ですって、おくさま。 てゆうか蓮舫さんはどこ? 推測ですが制作母体となるスタジオが決まっていて、そこにお金が落ちる仕組みだったりしたらやだなぁとか。 管理費が盛大にスタジオに入ったりしてね、とか。 すいません。 税金の使われ方をうがった視点で見てしまいがちで。 まったく信頼してないですからね。 なぜ30分3800万円なのか、 なぜ4本なのか、 なぜ2億円強の予算と制作費の差額が6000万円弱もあるのか というのがまったく理解ができないので、ひねくれた意見になってしまうのであります。 動画マンが低賃金なのはまぎれもない事実だったりします。 だからこそ、ほんとにアニメーターを育てたいなら生活費を補助するほうが効率がいいでしょ。 なのにアニメをつくるだなんて。 アニメの制作費に占める動画の割合なんて10%ぐらいです。 税金のうち1割しか届かない
株式会社08さまのご協力をいただきまして、iPhone用映像コンテンツを展開していきます。 その第1弾として、12月29日よりApp Storeにて『星に願いを Fantastic Cat』のダウンロード販売を開始いたします。 現在iPhone販売用の映像コンテンツはほぼ存在していないため、これまた 「世界初のiPhone進出同人アニメ」 となる予定です。 プレスリリースHP(工事中) http://www.zerohachi.jp/08M/ 今後は『星に願いを COLD BODY+WARM HEART』および両作の英語字幕版を順次販売していきますので、なにとぞよろしくお願いいたします。
Facebook にてきとうに書き連ねていたものから安倍首相にまつわるものをここ1年ほど抜き出してみました。下にいくほど古いです。ニュース等を拝見して思ったことを書いているので現時点とは状況が変わっていたりもするのですが時間が経つほど検索しにくくなるしそのうち忘れてしまうので備忘録的に。 過去をふりかえって語るとどうしても記憶を上書きして「あのころからおれはわかってた」になりがちなので「そんなことないよリアルタイムではこんなもんだよ」を残しておこうと思います。 1-1 評価はいろいろあるでしょうし辞任理由が病気なのでこのタイミングは本意ではないのでしょうが、安倍首相は最後の1年(消費増税からコロナ対策)以外はおおむねうまくやってたと思うので、前回の任期で退陣してたら偉人になれてたんじゃないかしら。 引き際って大事だなあと思います。 1-2 組織ぐるみで公文書の改竄・捏造・隠蔽に公金ぶちこん
北海道の父からひさしぶりのメールが届きました。 (前略)アニメに関する朝日新聞の記事。今に始まったことではないと思いますが、悪貨が駆逐されて、ある意味チャンス到来かもしれません。 http://www.asahi.com/showbiz/manga/TKY200905040063.html なんたる卓見(←身内びいき?)。 わが父はアニメ業界に関しては何も知らぬ素人なのですが、この視点から遺憾にも抜け落ちているのは「愚息が悪貨である」ということぐらいでしょうか。 たぶん父がこっそりアニメビジネスを学習していない限り、コモンセンスから導き出される帰結が上記のようになるのだと思います。 ぼくは業界最下層としてそこより内側に身を置いておりますので、もう少し踏み込んだことを申し上げると、今のアニメの業態はよくも悪くも「無理」に支えられて維持されています。つくり手の無理と受け取り手の無理、ほかにもお
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