かつて偶然は、時と夢のまにまに ふいに訪れるものだった。 またかつて運命は、人知では如何ともしがたく ひたすら甘んじるべき宿命をあらわしていた。 しかし19世紀、理性主義を脱した哲学は、 統計学と確率論とが登場した同時期に、 ついに偶然や運命を、 新たな生と存在の思索のうちに 深々と捉えるようになった。 たとえばシェリング、ショーペンハウアー、 ニーチェ、ジンメル、ハイデガー、ベルクソン。 けれども木田さんもぼくも、 九鬼周造こそが偶然を思索した 近代哲学最高の哲人だと思っている。 最近でこそ「たまたま」は、数学的な確率論や社会経済的なリスク論の舞台のなかの主人公のふりをしているし、そのふるまいもあたかもコントロールされているかのように見えているが、その正体が何かといえば、あいかわらずとんとわからない。 もともと「たまたま」は得体の知れないものだった。虫の知らせや気配のようでもあり、出会い