奈良県高取町の薩摩遺跡で、奈良時代末~平安時代初め(8世紀末~9世紀初め)のため池跡から、渡来系氏族の檜前一族が池を造ったことを示す木簡が出土し、県立橿原考古学研究所が9日、発表した。古代のため池について、その施工者が分かる例は極めて珍しい。 ため池跡は東西約40メートル、南北約90メートル。北側が堤になっていたとみられ、角材の内部をくりぬいた木樋(もくひ)の一部(長さ1・15メートル、幅50センチ、厚さ25センチ)が見つかった。上面には取水穴を開けた蓋(ふた)があったと考えられ、丸太を抜き差しして水量を調節したとみられる。 また、樋の周囲から、木簡(長さ21・5センチ、幅4・1センチ、厚さ9ミリ)や、平安時代の銅銭が出土。木簡には「波多里長(はたりちょう)檜前主寸(すぐり)本なす」と墨書されており、波多という里の長である檜前一族が工事を始めたことを示している。 檜前氏は、渡来系氏族・東漢
薩摩遺跡(高取町)で見つかった8~9世紀ごろのため池。古代の池の発掘例は珍しく、木簡や取水口、祭祀(さいし)の痕跡も確認できるなど文字史料と遺構が一致する貴重な発見となった。開発主の名や築造過程を記した木簡は、まさに「完成記念の式次第」だった。木簡に書かれた「檜前主寸(ひのくますぐり)」とはどんな人物だったのか、池造営の背景となった開発ブームとは--。【林由紀子】 ため池が築かれた8~9世紀ごろ、律令国家は盛んに水田開発を推進した。新たに溝池を造って開墾した者には3代まで世襲を認める「三世一身法」(723年)や墾田の永年私有を認めた「墾田永年私財法」(743年)が出されると、続日本紀などには池を造る記事がたびたび登場。僧行基や空海も池を造ったという。 「為政者にとって水を支配することは重要な意味を持つ」と指摘するのは、工楽善通(よしゆき)・大阪府立狭山池博物館長(考古学)。「日本書紀に登場
古代出雲国の役所があった松江市大草町の出雲国府跡で、国司の住居跡「国司の館(たち)」の東側に溝が見つかり、館の敷地が東西八十メートル、南北七十メートルに及ぶことが分かったと、島根県埋蔵文化財調査センターが三日、発表した。また、溝付近の土から、役人がベルトに付ける装飾品「石製巡方(じゅんぽう)」一点も出土した。 発見された溝は南北に走り、長さ十三メートル、幅二・二―三メートルで、深さ三十五―四十五センチ。溝の北側に延びる四号溝とつながっていると考えられ、これにより館の東側の区画が確定し、館の敷地の大きさが分かった。他地域で見つかった館とほぼ同規模という。 館は、国司のうち二番目に位の高い「介(すけ)」が住んだとされ、同センターの神柱靖彦文化財保護主任は「当時の国司の力を示す大きさ」と述べた。 一方、巡方は奈良時代始めから平安時代の始めのものとみられ、長さ三・五センチ、幅三・七センチ、厚
最古の三間社流造か 平安前期の神社本殿跡、滋賀で出土2008年10月2日6時33分印刷ソーシャルブックマーク 三間社流造の神社本殿跡とみられる建物跡。奥が本殿、手前が庇部分の柱穴=滋賀県東近江市発見された三間社流造の神社本殿跡の想像図=大上直樹・大阪人間科学大准教授作製 滋賀県東近江市の金貝(かなかい)遺跡で、平安時代前期(9〜10世紀)に建てられた三間社(さんげんしゃ)流造(ながれづくり)の神社本殿とみられる建物跡が見つかった。滋賀県文化財保護協会が1日発表した。正面の庇(ひさし)部分が長い流造の本殿は全国で見られる一般的な神社建築の様式で、今回の本殿跡はこれまで確認された中で最古という。 直径約50〜95センチの柱穴が計16カ所見つかった。柱穴の出土状況から約3メートルの庇を持ち、正面に4本の柱が並ぶ三間社流造と判断した。幅約6メートル、奥行き約7メートルの掘っ立て柱の建物で、階段とみ
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